interview

40代

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家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

髙山 毅さん

代々商売をしてきた壬生の地で、暮らしと営みを 左は米穀店だったころの法被、右は「壬生町史」。 「これを見てください」と髙山さんが開いてくれたのは、明治の頃、壬生の町内にあった商店の名が記録された「壬生町史」だ。そこには、鍛冶屋、薪炭商、桶屋、左官などがずらりと並ぶ中で、「銅鐡打物商」として髙山さんの曽祖父の名と屋号紋が記されている。当時の屋号紋は、「澤デザイン室」の上澤裕一さんによってリデザインされ、山十設計社のロゴ(下写真)として、今も受け継がれている。 現在、髙山さんのアトリエと住まいがあるこの場所は、壬生城址にほど近い中心市街地にあたり、髙山家では代々この地で商売を手がけてきた。 「曽祖父が金物商、祖父がお米屋、父が紙器と、生業はそれぞれ違うのですが、代々ここに暮らし、商売を営んできました。だから、私もこの地を受け継ぎ、ここで生活しながら仕事をするというのが、自然なこととして頭にあったんです」 髙山さんは一人っ子で、両親が年齢を重ねてから誕生した子どもだったため、親の介護をする時期もおのずと早いだろうと自覚していたことも、Uターンを選んだ理由の一つだった。 顔が見える関係を大切に、地域ならではのつながりを 山十設計社のホームページを開くと、次のようなメッセージが記されている。 「衣・食・住の縮図である“家”づくりを通じて、モノと人が循環する地域ならではの『地縁』を紡いでいきたい――」 こうした髙山さんの思いのルーツも、生まれ育った壬生町にある。 「例えば、昔は、先ほど見てもらった鍛冶屋や桶屋などの商店が並んでいて、近所のお店で買い物をしたり、馴染みの職人さんに仕事を頼んだりというのが、日常だったと思うんです。私は今でも、おいしいものを食べたいときは行きつけのお店で店主とおしゃべりしながら味わったり、車のメンテナンスは同じ整備士さんにずっとお願いしていたり、顔が見える関係を大切にしています。そんな地域の豊かな人のつながりを、家づくりを通じて再び育んでいけたらと考えているんです」 近くにあるイタリアン・レストランの「Fill kitchen」(フィルキッチン)にて。 その挑戦の一つが、この土地の風土や気候に適した、つくり手の顔が見える道具や素材を発信する「てびき」という取り組みだ。 髙山さんは、家は建物だけでは完成しないと考えている。丁寧な暮らしを楽しんでいきたいと思ったとき、家という器だけでなく、そこで使う道具や、ふだん食べるものなど、衣・食・住すべての要素が大切になってくる。 「かぬちあ」の中澤恒夫さんによるタオルハンガー。 だからこそ、様々なつくり手と山十設計社のプロダクト「てびき」では、那須塩原市の金工作家「かぬちあ」の中澤恒夫さんが手がける靴べらやタオルハンガー、フックをはじめ、益子町に2015年に創業した手仕事集団「星居社」がつくる今の暮らしに馴染む神棚などを、自社のホームページで発信。それだけでなく、佐野市で90年以上続く「日本プラスター」の漆喰などの素材も紹介している。 「ただ、これらはオンラインでは販売していなくて。家づくりなどを通じて、顔が見える関係になった方だけに提供しています。それは、やはり山十設計社で建てる家をきっかけに、豊かな『地縁』を広げていただきたいと考えているからです」 刺激を与え合う、異業種のつながりから生まれた「octopa」 「octopa」の4人。左から上澤さん、髙橋さん、髙山さん、荒井さん。 もう一つ、目指すベクトルが同じ異業種の人たちとのつながりを大切に始まった取り組みが、「octopa」(オクトパ)だ。宇都宮市で「古道具あらい」を営む荒井正則さんと、芳賀町で「mikumari」という名のカフェを開く髙橋尚邦さん、那須烏山市を拠点に活動するグラフィックデザイナー「澤デザイン室」の上澤裕一さん、そして髙山さんの4人がメンバー。古き良きものを、衣・食・住をテーマに今の暮らしに馴染むものとして再現し、“フルダクト”として提案している。 「例えば、アームライトやミシン椅子など、デザイン性に優れたアンティークをリプロダクトしたものだったり、昔ながらの保存食にヒントを得たソースや調味料の瓶詰めだったり、4人それぞれの得意分野を生かして、現代に合うものとしてつくり出しています」 また、octopaとして、これまでに日本最大級のアンティーク・マーケット「東京蚤の市」に出店するほか、黒磯の「1988 CAFE SHOZO」や益子町の「スターネット」などのカフェでも、食とクラフト、アンティークをテーマにしたイベントを開催してきた。現在では、古道具あらいに併設された建物で、「オクトパ食堂」をオープンし、瓶詰めのソースや調味料を生かした料理を提供している。 地域に根ざす喜びを実感する日々 一方、暮らしの面では、髙山さんは奥さんと二人のお子さん、そして父親の5人で、アトリエに併設された住まいで暮らしている。奥さんも建築士として勤めているため、髙山さんも掃除や洗濯などの家事を分担したり、子どもたちの宿題や、父親の様子を見たりと、1日のなかにこうした仕事以外のやるべきことも組み込みながら行っている。 「今年92歳の父は、だんだんと介護が必要になっていますが、やはり一緒に暮らしている安心感は大きいですね。ふだんの様子がわかるからこそ、どんな介護サービスが必要か、どこの業者に頼もうかなどを、しっかりと検討できます」 2016年に、実家の土地にアトリエと住まいを建築したとき、髙山さんはバリアフリーはもちろん、1階にある父親の部屋の近くにトイレや洗面、浴室などの水回りも配置した。これにより、自宅で父親を介助するときの負担を軽くすることができた。 「実は、この家に暮らし始めて6年ほどの間に、父が倒れて救急車を呼んだことが何度かありました。そのときも一緒に暮らしていたからこそ、倒れたことに気づくことができ、すぐに搬送することができました。その後の通院をサポートできたのも、同居しているからだと感じています」 また、髙山さんは、父親から受け継いだ寺の役員や自治会の班長のほか、子ども会の育成会長など、地域の活動にも積極的に参加している。 「父は直接口には出しませんが、そろそろ私に町内の仕事を任せても大丈夫だと思ってくれたのかなと。というのも、デイサービスのヘルパーさんには、『うちの息子は一級建築士の仕事も、地域のことも頑張っている』と話しているそうなんです。きっと、この家のことも喜んでくれているんじゃないかな」 地域のお祭りなどにも携わる髙山さんは、「子どもの頃、楽しかった夏祭りに、今度は親として子どもたちと参加するなど、地域に根ざすのもいいものだなあと実感しています」と微笑む。 空き家を再生し、現代版の地縁でつながった街をつくりたい 最後に、そんな生まれ育った壬生町で、髙山さんが今後手がけていきたいことについて話を伺った。 「実は、このアトリエの2階はオープンスペースになっていて、ここでいろんな人が得意なことを教え合う、“寺子屋”のようなワークショップを開催できたらと考えているんです」 「ひび学舎」と名付けたこの取り組みのコンセプトは、次のとおりだ。 「使い、壊れ、捨てる」は「使い続け、傷んだら、繕う」に。「買っていたもの」は「育て、つくるもの」に。「古びたもの」は「活かし生きるもの」に。子どもから大人、つくり手も、暮らしに近い事柄を一緒に体験し、暮らしに持ち帰る。そんなきっかけを生み出す場に。 「例えば、『古道具あらい』の荒井さんがアンティークの磨き方をレクチャーしてくれたり、設計を担当させてもらった栃木市の『珈琲音 atelier』のオーナーにコーヒーの淹れ方を教えてもらったり、そんな様々なワークショップが開催できる場所になればと思っています」 レクチャーを行う人は壬生町に限らず、いろいろな地域から招きたいという。 「壬生町は、宇都宮市や栃木市、鹿沼市、下野市などの大きな街に隣接し、どこへでも行きやすく、どこからも来やすい。そんな特性を生かして、例えば、栃木市のコーヒーショップと宇都宮からワークショップに参加した人をつなぐなど、ここを地域と地域、人と人をつなぐ“ハブ的”な場所にしていきたいんです」 様々な地域の人が集うようになれば、いずれ壬生に住んでみたい、壬生でお店を開いてみたいという人も現れるのではないか。現在、壬生の中心市街地では、多くの商店街と同じように、空き家や空き店舗が増えつつある。一朝一夕にはいかないが、そんな空き家を一つひとつ人が暮らし生業を営む場所に変え、明治期の商店一覧で見たような多彩な生業の人が暮らし仕事を頼み合う、現代版の「地縁」でつながった街にしていきたい。それが髙山さんの大きな夢だ。 「街並みとして線にならなくてもいい。点と点が徐々につながっていくような、そんな空き家を生かした新たな試みに、私も自分の生業である建築の分野で携わることができたら最高ですね!」

ほっと、リセットできる場所に

ほっと、リセットできる場所に

関 恒介さん

〝自分勝手〟に生きることが大事なんだ   「みんな、人のために生きすぎなんじゃないかな」 店主の関さんは、コーヒーを淹れながら、そう話す。 「カウンターのこっちに立つようになって思うのは、まずは自分自身が楽しく、家族が幸せに暮らしていないと、お客さんを笑顔にできないということ。間違っているかもしれないけど、今は〝自分勝手〟に生きることが大事なんだと思っています」 例えば、小学4年生の娘さんに、「仕事が終わったら、すぐに帰ってきてね!」と言われたとしても、お店の片付けが終わったあと、30分好きな音楽を聴いてから帰宅する。そうやって少しだけ自分を大切にすることで、いつも穏やかに笑顔で過ごすことができる。 「このお店が、お客さんにとって、そんな息抜きの場所になっていたら嬉しいですね。Waffle Coffeeに寄ってから帰ったことで、家でもニコニコ過ごせたと言われるような場所に」 コーヒー屋で働く人たちが、みんないい顔をしていたんです 関さんは、千葉県柏市の出身。20代前半の2年間を、学生としてロサンゼルスで過ごした。音楽に熱中し、レコードを買いあさる日々。そして帰国後は、ミュージシャンとしてCDを出す傍ら、会社員としてのわらじも履き、仕事を続けてきた。そんな関さんが移住を考え始めたのは、2011年ころのことだ。きっかけは大きく二つある。 「そのころ、ワーゲンに乗って日本を一周したいと言っていた祖父や、アメリカを横断したいと話していた母などの身内が、立て続けに亡くなってしまって。やりたいことは後回しにせずに、今を大切に楽しく生きなくては、と強く思ったんです」 もう一つは、会社員の仕事で、壁にぶつかっていたことがある。 「僕は、自分で言うのもなんですが、会社員としては本当に仕事ができなくて。自分では頑張っているつもりでも、いつも年下の上司に怒られていました」 当時も、しょっちゅうアメリカを訪れていた関さんは、滞在中、よくコーヒーショップに立ち寄っていた。 「コーヒー屋で、働いている人たちの顔を見ると、チェーン店で働く人たちよりも、個人でお店をやっている人たちのほうが、みんないい顔をしていたんです。やらされているのではない。ニコニコ楽しそうに仕事をしている。そんな姿を目にして、自分も好きなこと、得意なことで勝負しようと決意しました」 コーヒーは、もともと好きで、自分で工夫しながら淹れていた。焼き菓子やケーキは、日本ではなかなかアメリカで食べた味に出会えず、ないなら自分でつくろうと家で焼いていた。器やアンティークも好きで集めていて、自宅はDIYで改装していた。 「そうやって、自分が情熱を注げるものを集めていったら、自然と今のコーヒーと焼き菓子のお店にたどり着きました」 NYのブルックリンのような、ポテンシャルを感じて お店を開く場所を探して足利市なども見て回ったが、佐野市を選んだ理由は、「適度に街で、適度に田舎で、交通の便もいい」ところ。奥さんの実家の群馬県館林市に隣接しているところ。「佐野の人は穏やかで、やさしい」ところなどが決め手に。 「うまく言えませんが、なんか好きだなぁって感じて。ここが、自分たちの暮らしにフィットしたんです」 さらに、佐野の街にポテンシャルを感じたのも、大きな理由だ。 「ポートランドやニューヨークのブルックリン、ロサンゼルスのダウンタウンなど、僕がアメリカにいたころには、今のように注目を集める街になるとは、想像もつかなかった。それが、物価や家賃が安いからと、アーティストやクリエイターたちが集まってきて、コーヒーショップや古着屋、レコード屋など、感度の高いお店がどんどん誕生していった。佐野にも、そんなポテンシャルを感じたんです」 このコンビニだった物件は、よく足を運んでいた「自家焙煎 福伝珈琲店」(Waffle Coffeeの2軒隣で、コーヒー豆は福伝珈琲店から仕入れている)の店主が紹介してくれた。それを、約1年かけてDIYでリノベーション。1900年代初頭の古き良きアメリカの空気に満たされた、Waffle Coffeeが誕生したのは、2016年4月のことだ。 佐野の居心地が良すぎて、家も買っちゃいました 「こないだ気づいたら、『きな粉のマフィン』をつくっていて。これはそろそろアメリカに行かなくちゃダメだなと思って(笑)」 そう話すように、関さんは今でも定期的にアメリカを訪れ、ベーカリーやコーヒーショップを巡り、実際に食べておいしいと感じた焼き菓子やケーキを、甘さやスパイスを少し抑えるなど、日本人の口に合うようにアレンジして提供している。素材は、娘さんにも安心して食べさせられるものを基準にセレクト。フルーツなどの盛り付けは、あえて綺麗に行わず、アメリカのラフな雰囲気を再現している。 「そうやってつくった焼き菓子を、おいしいと言ってもらえたとき、喜んでもらえたときが、何よりも嬉しいですね。また、お客さんから『福伝さんとうちと、今日はどっちに行こうかと迷えるのがありがたい』と言ってもらえたときも嬉しかった。そうやって訪れるお店の選択肢が、もっともっと佐野に増えていったらいいですね」 お店を訪れる若い人たちから、「自分もお店を開きたい」と相談をされることもある。 「そんなときは、『佐野は東京などの都市部に比べて家賃が安く、クリエイティブなことにも挑戦しやすいんだから、どんどんやるべきだよ!』って、もう何人もの背中を押しています」 さらに週末には、若い人たちがお店に来やすいよう、同世代の若いスタッフに、なるべくお店に立ってもらうようにしている。 「そうやって微力ながらも応援していくことで、若い人たちが新たなお店を立ち上げ、また次の世代の子たちの背中を押して……と、佐野に魅力的なお店が、どんどん増えていったら楽しいだろうなって」 実は、関さんは、佐野市内に1960年代に建てられたプール付きのもと別荘を格安で購入し、現在、自宅へとリノベーション中だ。 「これこそが、まさに佐野の住みやすさの証! この街が気に入らなければ、家は買わないですから(笑)」

点と点がつながって、大きな輪に

点と点がつながって、大きな輪に

渡辺直美さん

1年かけて商品化した「日光彫の御朱印帳」 開け放たれたその窓からは、借景の美しい緑が眺められる。ここは、日光東照宮の門前。表参道からは1本離れているが、それでも国内外から訪れた多くの旅行者が、お店の前を行き交う。 「すみません。“神橋”は、こっちですか?」 そう旅行者に聞かれて、「TEN to MARU」の店主・渡辺さんは丁寧に道を案内する。 「いつも扉をオープンにしているから、みなさん気軽に立ち寄ってくれて。よく道も尋ねられます。それをきっかけに、会話が弾むことも。そんな何気ない触れ合いが楽しいですね。このお店が、街の案内所のようになっているのがうれしい!」 店内に所狭しと並ぶ商品のなかでも、人気は御朱印帳。伝統工芸である〝日光彫〟の老舗「村上豊八商店」とコラボして、女性職人と約1年かけて一緒に商品化したのが「日光彫の御朱印帳」だ。表紙には、「榀(シナ)」の木の合板などを使い、そこに日光ならではの〝眠り猫〟や〝神橋〟などの図柄をあしらっている。 「日光彫は、ヒッカキ刀という独特の刃物を使い、細く繊細な線から力強い線まで自在に表現できるのが魅力です。従来の日光彫では、おぼんや手鏡、花瓶など、家のなかで楽しむものが中心でしたが、御朱印帳ならいつも一緒に持ち歩くことができる。もっと身近に日光彫を楽しんでほしいという思いを込めて、『一緒に旅する日光彫』と名付けて発信しています」 その隣に置かれているのは、御朱印帳ケース。御朱印帳は、寺院と神社を分けて使っている人も多く、「2冊を一緒に持ち運べるケースがあったら」という渡辺さんのアイデアをもとに、宇都宮で帆布を使ったバッグや小物を手がける「1note(ワンノート)」と一緒に形にしていった。好きなカラーを選んで、オーダーすることができる。 さらに、本サイトでも紹介させてもらった「mother tool」のモビールや「秋元珈琲焙煎所」のコーヒー豆のほか、日光で続く「小野糀」の塩糀や味噌、同じく日光の「だいもん苺園」のジャム、「李舎(すももしゃ)」のどうぶつ組み木など、日光や栃木県でつくられた品々が並べられている。といっても、扱う商品を〝県内のもの〟と限定しているわけではない。 「ここから広がっていった人との出会いやつながりを大切に、多くの人に紹介したいと感じたモノを全国からセレクトするようにしています」 その言葉どおり、棚には鹿児島県の「ONE KILN(ワンキルン)」のドリッパーやシーリングランプ、お皿なども並んでいる。 人と出会い、つながっていくのが楽しい! 実は、渡辺さんは鹿児島県の出身で、2006年に結婚を機に、ご主人の地元である栃木県に移り住んだ。最初の3年ほどは宇都宮で、その後、日光に暮らしてもうすぐ10年になる。転機となったのは、日光にある木工房「Ki-raku」が、2013年にオープンしたギャラリーを手伝い始めたことだった。 「やっぱり人と出会って、つながっていくのが楽しくて。実は、宇都宮では東武百貨店の婦人服売り場で働いていて、鹿児島でも販売の仕事をしていたんです。今思えば、もともと好きだったんですよね、接客の仕事が」 だんだんと「自分のお店を開きたい」という思いが強くなり、実際に物件を探し始めたのが2015年初めのこと。もちろん不動産屋も訪れたが、もっと地域の生の情報が知りたいと、渡辺さんは日光にある飲食店や居酒屋などに足を運んだ。そのなかで知り合ったのが、日光で食事処「山楽」を営む、古田秀夫さん(上写真)。古田さんは、「二社一寺だけではない日光の魅力をゆっくり体感してほしい」と、自転車によるアウトドア体験型ツアーやレンタサイクルショップ「Fulltime」も運営している。 「古田さんが、『ここでやりなよ!』と言ってくれたが、この場所。もともとレンタサイクル『Fulltime』の店舗で、いまも自転車の貸し出しをしています。ちなみに、古田さんのお店『山楽』さんは斜め向かいなんです」 古田さん:「最初は、お店の前にずらりと自転車が並んでいたんですが、だんだん奥に追いやられてしまって(笑)。でも、それでいいんです。これまでになかった新しいジャンルのお店を渡辺さんがここでやってくれて、商店街全体が元気になっていくことが大切だから」 「TEN to MARU」がオープンしたのは、2015年9月のこと。店内の改装は、「Ki-raku」が手がけてくれた。 大切なのは、勇気を持って一歩を踏み出すこと 自分のお店を開いたことで、人とのつながりはさらに広がっていった。東京から日光を訪れ、たまたまお店に立ち寄ってくれた建築ライターの紹介で、運営に参加するようになったのが「ペチャクチャナイト」だ。これは、2003年に東京でスタートしたトークと交流のイベントで、20枚のスライドそれぞれに20秒ずつコメントしていくというコンパクトなプレゼンスタイルが特徴。現在、1020都市以上で開催されており、渡辺さんは「ペチャクチャナイト日光」の実行委員長を務めている。 「TEN to MARUで知り合った魅力的な方に登壇してもらったり、ペチャクチャナイトでつながった方にお店でイベントを開催してもらったり、『日光には魅力的な活動をしている人が、こんなにもたくさんいるんだ』と改めて実感しています。同時に、ペチャクチャナイトでは、外からも面白いアイデアを持った人たちが、日光を訪れてくれます。それが刺激となって、例えば、他の地域の人と日光の人がコラボした新たな商品が誕生したりと、さまざまな化学反応も生まれています」 これまでに日光では、ペチャクチャナイトを3回開催。今後は、毎回よりテーマを絞って開催していけたらと考えている。一方、お店については、これまでと変わることなく、人との出会いやつながりを大切にしていきたいという。 「日光へは、日本中、世界中からたくさんの人が訪れてくれます。そのなかから、『面白そうだから、日光に住んでみたい!』と、移住してくれる人が増えていったらうれしいですね。私もそんな相談を受けたときに、人を紹介したり、情報を提供したりと少しでも〝架け橋〟になれるよう、これからもネットワークを広げていきたいです」 鹿児島から知り合いのほとんどいない栃木へ移り住み、「お店を開くために自ら一歩を踏み出したことで、どんどんと人とのつながりが広がっていった」と振り返る渡辺さんは、次は誰かが一歩を踏み出す応援ができたらと考えている。 「私がお店に挑戦できたのも、それを理解し、応援してくれた主人や3人の子どもたちのおかげです。だから、これまでと変わらず、普段の暮らしも大切にしていきたいです」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

多くの人の日々に、寄り添うパンを

多くの人の日々に、寄り添うパンを

池田絵美さん

おいしいだけでなく、体がよろこぶパンを 毎年、春と秋に開催されている「益子陶器市」の会場となる城内坂通りを抜け、共販センターの先を右へ。坂道を少し登った森のなかに、小さな山小屋のような建物が見えてきたら、そこが「日々舎」だ。 緑色のかわいい扉を開けると、焼きたてのパンのおいしい香りに包まれる。日々舎を訪れたのは、オープン前の朝10時ころ。奥の工房では店主の池田絵美さんが、前日の夕方に仕込みを行い、ひと晩じっくりと発酵させた生地を成形し、年代物のガスオーブンで次々とパンを焼き上げていく。お店が開店する11時には、カンパーニュやライ麦40などのハード系のパンをはじめ、ベーグルやマフィン、クッキーなどが店頭にずらりと並んだ。 池田さんが目指してるのは、「おいしいのはもちろん、体がよろこぶパン」をつくること。それは、「自分たちが毎日食べたいパン」でもある。 そこで、パンづくりの素となる酵母は、レーズンや酒粕などの身近にある素材からおこし、ずっと掛け継いできた自家製酵母を使用(下写真は、オープン前から掛け継いできたレーズン酵母)。その自家製酵母と国産小麦をベースに、もっちりしっとりとした食感で、噛みしめるほどに旨みや風味を感じられるパンに仕上げている。また、野菜や果物はなるべく地元産のもの、有機栽培のものをセレクト。サンドイッチにはさむキャロットラペをはじめ、あんこや柚子ピールなどの具材も、すべて手づくりしている。 「おいしく体にも優しいパンを毎日丁寧にコツコツつくることで、みなさん日々に寄り添うようなパンになったらいいなと思っています。『日々舎』という名前には、そんな思いを込めました」 健康的な暮らしを目指し、東京から益子へ 子どもの頃から料理が好きで、大学に進んでからは、「健康的な食事」にどんどんと興味がわいてきたという池田さん。卒業後は、オーガニック系雑誌の編集部に就職。それから2年が過ぎたころ、「自分が届けたものへの反応を、もっと直接知りたい」と思うようになり、渋谷でオーガニックカフェの立ち上げからかかわり、料理や天然酵母のパンづくりを担当してきた。 「仕事は充実していたのですが、毎日がとても忙しくて。自分自身の暮らしから健康的なものにしたいと考え、自然が身近なところでの暮らしに興味を持つようになったんです」 ちょうどその頃、編集者として働いていたときから気になっていた益子のオーガニックカフェで募集が。池田さんは思い切って応募し、2006年に益子へ移り住んだ。そのオーガニックカフェでは、主にスイーツを担当。2年半にわたり経験を積んだ。その後、結婚、出産を経て、日々舎をオープンしたのは2014年10月のことだ。(下写真の男性は、カフェ&ギャラリー、宿泊施設である「益古時計」を営む神田さん。池田さんがパン屋を開くための物件を探していた際に、益古時計の敷地内にある建物を紹介してくれた) 「益子には陶芸をはじめ、さまざまなものづくりに打ち込む魅力的な人が多くて、いい刺激をいただいています。お店を開くなら、やっぱり益子がいいなと思っていました。また、これまでオーガニックの料理やパン、スイーツなどを経験してきたなかで『パン』を選んだのは、夫婦ともに自家製酵母のパンが好きで自宅でも焼いていて、一番興味があったからなんです」 常に同じ仕上がりになるよう、生地と対話しながら 自家製酵母によるパンづくりの面白いところであり、難しいところでもあるのは、日々の気温や湿度、水温などによって、味も仕上がりも変化する点だという。 「気温が高い夏はどんどん発酵が進むのに対し、冬は発酵に時間がかかります。そこで、例えば夏場は生地を冷蔵庫にしまい、ゆっくりと発酵が進むように調整します。逆に冬場は冷蔵庫には入れず、室温で発酵させます。特に難しいのが季節の変わり目。常に同じ仕上がりになるよう、気温や水温の管理や調整にはすごく気を使いますね」 このように手間ひまをかけさまざまな工夫を凝らし、じっくりと生地を発酵させるからこそ、味わい深く口どけのいいパンに仕上がる。今ではその味に惚れこみ、宇都宮や水戸、東京などの遠方から訪れるリピーターや、オンラインショップで繰り返し注文してくれる人が増えている。 「そんなリピーターの方から『あのパンが美味しかったよ』と言っていただいたり、ネットでの注文の際にメッセージをいただいたり、お客様一人ひとりの声が励みになっています」 益子に暮らす魅力的な人たちをお手本に オープンから3年目を迎え、だんだん新たに挑戦したことが見えてきた。将来的には、イートインスペースがあるカフェのようなパン屋を、ここ益子でつくりたいと池田さんは考えている。 「実は、うちの自家製酵母パンや全粒粉ベーグルは、しっかり中までふんわりと焼くことで、よりおいしく味わうことができるんです。今でも口頭やホームページでおいしい食べ方をお伝えしていますが、さらに、実際にお店で提案していけたらと考えています」 そんな次の一歩を踏み出すためには、まずはここ益子で自分たちの仕事や暮らしを確立していくことが大切だと感じている。 「益子には、自分で仕事を生み出しながら、暮らしも楽しんでいる人が多くて。そんなみなさんをお手本に、私もパンづくりに打ち込みながら、季節ごとに梅干しを漬けたり、味噌を仕込んだり、暮らしも丁寧につくっていきたいと思っています」

地域に開かれた工房を目指して

地域に開かれた工房を目指して

大山 隆さん

生活の中にものづくりの現場がある風景を 「はじめて溶けた状態のガラスに触れたとき、衝撃を受けたんです。普段の涼やかな印象とは真逆で、熱くエネルギッシュで刻々と姿を変えていく。一気にその魅力の虜になりました」 それは大山隆さんが美大進学を目指し、予備校に通っていた頃のこと。それから20年近く経った今も感動は色あせることなく、ますますガラスの魅力にひきつけられている。 和菓子職人の家に育った大山さんは、小さな頃から絵を描いたりすることが好きだった。予備校に通っていた頃、講師の工芸家に陶芸や金工、ガラスなどの制作現場を案内してもらう。そのなかで“吹きガラス”に強くひかれ、富山ガラス造形研究所に進学した。 「当時、10代だった自分にとって、工芸家の先生との出会いも衝撃的でした。その方は、金属で野外に展示するような巨大な作品を制作している工芸家で、生活のすべてが制作や表現を中心に回っている。一つの素材を一生かけて探求していくような生き方に憧れを感じていたとき、出会ったのがガラスだったんです」 富山ガラス造形研究所で2年間、基礎となる技術を学び、静岡のガラス工房で4年間、さらに富山の工房で5年間働き経験を積んだ。どちらの工房も仕事の空いた時間で自分の作品を制作でき、「とても恵まれた環境だった」と振り返る。その後、大山さんは栃木県内で物件を探し、2011年に鹿沼市で「808 GLASS」を設立。「808」という屋号は、実家が営む和菓子屋の「山屋」から名付けた。 工房があるのは、観光地やガラスの産地でも、山のなかでもない、“街なか”だ。 「例えば、子どもたちが毎朝、工房をのぞきながら学校へと向かう。そんな生活の中にものづくりの現場がある風景を、制作の様子を感じてもらえるような環境をつくりたかったんです」 シンプルで使いやすく、美しい光をまとう作品を 取材当日、工房で制作の様子を見学させてもらった。まず驚いたのは、ガラスを溶かす窯や作業台などは、すべて大山さんの自作だということ。独立直前の2年間、富山の工房で窯のメンテナンスなどを担当していた経験が生かされている。 大山さんは、1200度にもなる窯から溶けたガラスを手際よく竿に巻き付け、空気を吹き込んでいく。さらにガラスを巻き付け、空気を吹き込むという工程を何度か繰り返し、目指す大きさになったら型吹きを行い、模様をつけていく。わずか15分ほどで、きれいに輝くガラスの器ができあがった。 この作品(下写真)は、当初からつくり続けている「flower」というシリーズ。制作で大切にしているのは、 “透明度”だ。 「ガラスを再利用するときに不純物が混ざっていると、色がついてしまうんです。だから、徹底的に取り除くようにしています」 もう一つ、大切にしているのは、“使い心地”。作品は一度形にしたうえで、自分たちで使いながら改良を重ねていく。 「吹きガラスは技術職の面が大きく、技術や素材に対する表現の探求は欠かせません。でも、そればかりを追い求めてしまうと、自己満足に陥ってしまう。だからこそ、実際に使っていただいている方の反応や声を取り入れながら、自分たちでも使って、妻からも厳しい意見をもらいながら(笑)、一つひとつ丁寧にものづくりをしています。目指すのは、長く生活の中で使えるもの。デザインはなるべくシンプルに、かつ技術の追求は続けながら、美しい光をまとう作品を届けたいと思っています」 ガラスと人、人と人が出会う場所に 工房の横には、大山さんの作品がそろうショップがあり、予約制で体験教室も開催。大山さんに教えてもらいながら、オリジナルデザインの作品をつくることができる。 鹿沼に移住してから、大山さんはこの地で長年続く「鹿沼秋祭り」に参加。すると、だんだんと地域の人たちも工房に立ち寄ってくれるようになった。「鹿沼で制作を行う魅力は?」とたずねると、次のように話してくれた。 「鹿沼には、普段からお世話になっている『アカリチョコレート』さん(下写真)をはじめ、個人が営むお店が多く、料理人や焙煎士、木工職人など、真摯にものづくりに打ち込む方がたくさんいます。ジャンルは違えど、その姿勢や思いなどから多くの刺激をいただいています」 工房に訪れる人たちの声から、新たな作品も生まれている。例えば、カラフルなグラスは、当初は5色のみを用意していたが、お客さんの声をとり入れるうちにどんどんと色数が増え、現在では24色のシリーズに。 「自分の作品に、お客さんの声という別の要素が加わり作品が進化していく。それはとても新鮮で、刺激になっています。街に開かれた工房を目指したことで、ここが『素材と人』、『人と人』が出会う場所になりつつあるのが嬉しいですね。これからも体験教室などに力を入れ、ガラスの魅力を発信していきたい」 これから独立を目指す、若手作家の受け皿に 大山さんには、これから力を入れていきたいことが二つある。一つは、制作過程でどうしても出てしまう廃棄されるガラスの再利用だ。 「美しいものをつくろうとする半面、廃棄しなければならないものが出てしまうという矛盾を、当初からなんとかしたいと考えていました。まだ実験段階なのですが、新たな設備をプラスし、魅力ある作品を生み出すことで、素材を循環させる仕組みをつくっていきたい」 もう一つ力を入れていきたいのは、ガラス作家を志す若手が働ける場をつくること。今年から一人、スタッフを入れる予定だ。 「自分がそうさせてもらったように、仕事が終わった後に自分の作品もつくれるような環境を届けていきたい。それによって、少しでもこの業界に貢献できたらと思っています」

目指すのは、地域に役立つレストラン

目指すのは、地域に役立つレストラン

照井康嗣さん

高根沢の野菜をふんだんに使った本格イタリアン 高根沢町にある「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」を訪れたのは、平日の午後1時半頃。それにもかわらず、店内は多くの人で賑わっていた。お客さんのお目当ては、栃木県産小麦「ゆめかおり」で打った自家製の生パスタランチ。高根沢産の新鮮な野菜が10種類以上味わえる、サラダビュッフェが付いているのも人気の秘密だ。 「高根沢では農業が盛んで、玉ねぎやカブ、ニンジンなど、馴染みのある野菜が抜群においしいんです」 そう話すのは、店主の照井康嗣さん。大学の頃から海外で働くことに憧れていた照井さんは、「イタリア研修旅行あり」という募集を目にし、地元・埼玉県熊谷市にあるイタリアンレストランで働き始めた。そこで5年間働きながら資金を貯め、語学を学び、2003年にイタリアへ。 国立のホテル学校で基礎を学んだ後、イタリア各地の郷土料理を学ぶために、まずは最高品質のワインの生産地として知られるピエモンテ地方へ。その後、アドリア海に面したマルケ地方で海の幸を生かした料理を、山岳地帯のアルト・アディジェ地方で山の料理を経験。星付きレストランを中心に、計5年間修業した。 帰国後は、南青山や六本木などのイタリアンレストランで8年間、シェフを務めてきた。そんな照井さが高根沢町への移住を決心したのは、どんな理由からだろう? 「実は、東京のレストランで働いていた頃から高根沢産の野菜を料理に使っていて、移住前からそのおいしさを実感していました。修業したイタリアの田舎町ような、豊かな食材が身近にある環境で店を持ちたいと考えていた私にとって、高根沢は最適な場所だったんです。また、実は下の子に障がいがあって、自然に囲まれた環境で子育てをしたいと思ったのも大きな理由の一つです。妻の育児の負担を考え、妻の実家がある高根沢を選びました」 野菜をつくる人と、食べる人をつなぐ場所に 2016年1月に高根沢町に移住した照井さんは、事業計画書をまとめたり、物件を探したりと、開店準備を急ピッチで進めた。そんななか高根沢町の職員と出会い、「創業支援事業計画」のことを知る。これは、町と商工会、農協、金融機関などが連携して創業を後押しする制度。照井さんは経営や財務などの講座を受講したほか融資の支援も受け、この制度の第一号として、2016年9月に「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」をオープンした。 店名は、イタリアに渡り初めて働いたレストランの名前からいただいた(上は、店内に飾られたイタリア修業時代の写真)。「ヴェッキオ・トラム」とは、イタリア語で「古い路面電車」という意味。田園風景のなかを烏山線が走る、高根沢の環境にぴったりだと感じたという。また、「食堂」と名付けたのにも理由がある。 「東京では各レストランが、イタリア料理なかでも『この州の郷土料理』といった特色を出しながら競い合っています。食材も現地から仕入れることが多いので、高額になってしまう。その料理をそのまま高根沢で提供しても、単なる独りよがりで、受け入れられないと思ったんです。高根沢には、身近においしい野菜がたくさんある。それを生かした親しみやすいイタリア料理を届けたいと考え、あえて『食堂』と名付けました」 たとえば、サラダビュッフェ(上写真)では、高根沢産の野菜を、茹でる、蒸す、焼くなどシンプルな調理法で提供。店内では、高根沢の野菜とともに、パスタやオリーブオイル、塩などを販売するコーナー(下写真)を設けている。 「高根沢の野菜は素材が本当にいいので、あえて余計な手は加えないようにしています。塩とオリーブオイルで野菜そのもののおいしさを味わう、イタリアの食文化も楽しんでいただけたらと思っています。また、ここで食べておいしいと感じていただいた料理を、自宅でも気軽につくれるように食材も販売。このお店から地域の野菜の魅力を発信していくことで、高根沢の農家と人をつなぐ役割も果たしていけたらと考えています」 地域とともに成長していく店でありたい 高根沢に移住して何よりもよかったのは、食材をつくる農家と直接話ができることだ。 「高根沢には、農業に取り組む若い人たちが数多くいます。そんな彼らとともに、食材の魅力を生かした加工品を開発していきたい。味の追求はもちろん、パッケージもおしゃれに仕上げることで、一緒に高根沢ブランドを築いていけたらと思っています」 そんな6次産業化の成功モデルをつくり、農業のイメージアップを図っていくことで、農業をやってみたいという担い手が増えるのではないか。また、新たな産業や雇用を生み出すことで、地域の魅力が高まっていけばと、照井さんは考えている。その第一歩として、今年の春に、若手農家とともにイタリアを訪れ、向こうの農業や食文化などを体験する研修旅行を実施した。 「高根沢に来て一番変わったのは、『地域のために』という視点が生まれたこと。このお店は、いろんな方にサポートしていただいたおかげでオープンすることができました。だからこそ、このお店を通じて高根沢を元気にしていきたい。これからヴェッキオ・トラムが、地域とともに成長していくのが楽しみです」

つくることの楽しさを、子どもたちに

つくることの楽しさを、子どもたちに

倉林真知子さん

一つとして同じものがない、作品との出会いを楽しんでほしい 布作家・倉林真知子さんのアトリエに一歩足を進めると、たくさんの色が目に飛び込んでくる。赤や青、黄緑など、ポップな色使いが、倉林さんの作品の魅力。さらに、問屋街を巡り探し出したデッドストックの布や革、古いボタン、さまざまな手芸店で入手した毛糸や刺繍糸など、素材の多くは一点もの。それによってつくられる作品は、どれもが世界に一つだけものとなる。 「例えば、ニット帽にアクセントとしてつけるタグやボタンの組み合わせ、つける位置なども、あえて少しずつ変えています。最近では木製の棒をカットして、ボタンも手作りしているんですよ。既製品のボタンのように均一な仕上がりではありませんが、逆に雑な感じが“味”になるんです」 さらに、アトリエではオーダーも受け付けている。例えば、バッグのデザインはそのままに、使う布の種類を変えてほしい、ここにポケットをプラスしてほしい、このボタンをアクセントにつけてほしいなど、自分だけの作品をつくってもらえるのだ。 「私の代表的な作品のひとつ『ループアクセサリー』(写真下)は、好きな糸の色や形をうかがって、その場で制作してお渡しすることもできます。アトリエに並んでいる作品は、あくまでも一つの提案。それをベースに、お客さん自身の遊び心も加えて、その方らしい作品を一緒につくれたらと思っています」 自分が楽しめてさえいれば、場所は関係ない 現在は布作家として活動する倉林さんだが、実は子どもの頃は手芸が苦手だった。 「それよりも、日曜大工が得意な父親の影響もあり、クギやトンカチが好きで、中学の頃から自分で机をつくったりしていました。手芸は苦手でしたが、色と色を組み合わせるのが大好きで、自然と洋服のコーディネートに興味を持つようになったんです」 東京の専門学校を卒業後、地元の下野市に戻り一旦は医療事務の仕事に就いたが、「やっぱり自分の好きなことを仕事にしたい」と、アパレル店に転職。販売の仕事を担当するも、強く興味をひかれたのはショーウィンドウのディスプレイや、店内全体をプロデュースする仕事だった。 もっとディスプレイや空間のコーディネートについて学びたいと、23歳で再び上京。最初に門をたたいたのは、知人が働いていた建築事務所。その後、横浜の帽子店で小物のディスプレイや見せ方の経験を積み、下北沢のシルバーアクセサリー店では、目標だった店内全体のコーディネートや、百貨店の催事に出店する際の企画、ディスプレイを担当。忙しくも、充実した時間を過ごした。 写真家と絵描きの友人と3人で、「ANT」の活動を始めたのもこの頃。倉林さんは、写真を撮影する際の洋服のコーディネートなどを担当。さらに布小物も制作し、イベントなどで販売していた。その当時からつくり続けているのが「鈴のアクセサリー」(写真上)。この作品が、栃木へ戻るきっかけを生み出してくれた。 「たまたま、宇都宮のイベントに出店していたとき、鈴のネックレスを宇都宮にある雑貨店『ムジカリズモ』のオーナーが目にしてくれて、『うちで作品を販売させてほしい』というお話しをいただいたんです」 当時は、ものづくりが自分の仕事になるとは、夢にも思っていなかった。 「でも、ムジカリズモさんに声をかけていただいたとき、これまで商品のディスプレイを考え、イベントの展示を企画し、宣伝なども手がけてきた経験は、そのまま自分のブランドを立ち上げても生かせるのではないかと思ったんです。また、『どこにいても、自分が楽しめてさえいれば場所は関係ない』と思えたことも大きかったですね」 こうして倉林さんはANTとして本格的に活動するために、栃木に戻る決意をした。 前に進むためには、つくりたいものをつくること 2004年に、下野市の実家にUターンした倉林さんは、両親に「1年でなんとかする」と宣言。その言葉どおり、1年後にはものづくりの仕事だけで暮らしていけるようになった。 「当時は、朝起きてから夜寝るまで1日中、制作していました。でも、全然苦ではなくて。自分の好きなことを仕事にするために、全力をかけて頑張りたかったんです」 作品をつくるうえで大切にしているのは、とにかく自分が楽しむこと。 「制作が義務になってしまうと、きっと何も生まれなくなってしまう。だから、自分がつくりたいもの、身に付けたいものをつくることが根本にあります。もちろん、個展の前や毎年参加している益子の陶器市の直前には、制作に追われて楽しいアイデアが出てこなくなることもある。そうならないためにも、あえて『自由に制作する日』を設けるようにしているんです」 作品のインスピレーションはどこから? とたずねると、「最近は、絵本や写真集からが多いですね」という意外な答えが返ってきた。 「絵本のなかで配色が美しいページだったり、写真集で外国のカラフルな街並みだったりを見ると、その色使いを作品で表現したくなるんです。色の組み合わせが大好きなのは、子どもの頃から変わらないですね。作品をつくるうえで、これまでのディスプレイや空間のコーディネートなど、すべての経験が役立っています」 この場所だからこそ始まった、ものづくりイベント 結婚後は、宇都宮の街中にあるご主人の実家でしばらく暮らしていたが、子育てを考え、より自然が身近なさくら市へ。ご主人の親戚の生家で、10年ほど空き家になっていた古民家の味わいある雰囲気が気に入り、自宅兼アトリエに選んだ。ここへ移り住んでよかったのは、周囲に自然が多いのどかな環境でありながら、幼稚園や小中学校、塾をはじめ、スーパーや病院など、生活に必要なお店や施設が近くにそろっていること。移動に時間を取られることがないため、その分を作品づくりに充てることができる。 さらに嬉しいのは、やはり自然が身近にあることだ。 「私たち家族は外遊びが好きで、週末には公園にシートと編み物セットを持っていって、息子を遊ばせながら、私はシートのうえで編み物をしたり、本を読んだりしています。地域のみなさんは温かく、子どもを見守ってくださるので、安心して外で遊ばせることができます」 自宅の前には大きな庭があり、息子さんは泥んこになりながら、虫を捕まえたり、葉っぱを拾い集めたり、外遊びを満喫している。その姿を見て生まれたのが、「にわのひ」というイベントだ。「家に閉じこもってゲームなどをするのではなく、子どもたちに自然の中でものづくりを楽しんでほしい」との思いから、自宅の庭に信頼する作り手を招き、ワークショップを中心としたイベントを毎月開催。今ではさくら市の後援を受け、氏家駅前広場などで実施している。さらに、2015年からは毎年夏に、さくら市ミュージアム勝山公園で「もりのひ」というイベントも行っている。 「『もりのひ』では作家さんたちが出店するブースやゲート、看板なども、身近な素材である段ボールを使って、みんなで手作りしています。そのコンセプトは、『にわのひ』と変わりません。これからもANTの活動と並行して、子どもたちにものづくりの楽しさを届けていけたらと思っています」 (↑ 2016年11月に開催された「にわのひ」のDM写真。男の子は、いつも倉林さんのアトリエの庭や、「にわのひ」などのイベントに出店している、「WANI Coffee」の店主の息子さん)

サシバが舞う里山で、遊びながら学ぶ

サシバが舞う里山で、遊びながら学ぶ

遠藤 隼さん

レクリエーションではなく“エデュケーション”を 「今日はこの昔ながらの農機具を使って、みんなで収穫した稲からお米だけを取り分ける“脱穀”をしたいと思います」(遠藤さん) 秋晴れに恵まれた10月初旬、栃木県市貝町にある「サシバの里自然学校」では、春の田植えから始まり、夏の草取り、秋の稲刈りと続けてきた「谷津田の米作り講座」の最終回が開催されていた。千歯扱きや足踏み式脱穀機をつかって、子どもたちが楽しそうに脱穀に挑戦していると、「みんなちょっとこれを見て!じつは、今のコンバインの中にも足踏み脱穀機と同じ歯があるんだよ」と遠藤さん。それを見て、子どもたちは目を輝かせていた。 「じゃあ、次は生き物観察に出かけよう!」 “どんぐり山”を抜けると、山に挟まれた谷津田が見えてくる。その横をながれるきれいな用水に入って生き物探し。するとあっという間に、ドジョウやトウキョウダルマガエル、ザリガニなどたくさん生き物が見つかった。 「こんなふうに市貝にはたくさんの生き物がいるからこそ、サシバは春になるとここへ渡って来て子育てをすることができるんだよ」(※サシバは、猛禽類のなかでも珍しく渡りをする) 子どもたちが帰ったあと、遠藤さんは自然学校を運営する思いについて教えてくれた。 「僕はここで、レクリエーションではなく“エデュケーション”を提供していきたい。『楽しかったね』で終わるのではなく、遊びを通して学ぶことができる、そんな体験を届けるのが目標です。そのために、サシバのことをイラストで紹介したパネルなど、楽しみながら学べるような工夫をメニューのなかに散りばめています。また、この自然学校は『NPO法人 オオタカ保護基金』が母体。だから、すべての活動の根源に“自然保護”があります。遊びを通じて、自然を守ることについても関心を持ってもらえたらと思っています」 さらにもう一つ、大切にしていることがある。 「子どもたちと接するときは自分をつくろわず、“素”でいるようにしています。自分をさらけ出すことで、こんな大人になりたい、なりたくないも含めて、とにかく世の中にはいろんな大人がいることを、いろんな仕事や生き方があることを知ってほしいんです。両親でも、学校の先生でもない、“新しい大人像の発見”って僕は呼んでいるんですけど(笑)。狭い視野ではなく、もっと視野を広げてほしい。いま悩んでいる子も、視野の外に未来の自分がいるのかもしれないから」 老舗の自然学校で経験を積んだのち、世界をめぐる旅へ 宇都宮市出身の遠藤さんは小さい頃から、オオタカなど猛禽類の研究者である父親の孝一さんに連れられて、よくバードウォッチングに出かけていた。小学生の頃には釣りにはまり、毎週のように友達と自転車で1時間以上かけて自然のなかへ。釣りや探検を楽しんだ。 「中高時代に熱中したのは、ものづくり。竹や木など自然にあるものを工夫して道具や楽器などいろいろなものをつくって楽しんでいました。実は、自然学校にある机や椅子、デッキ、ヤギ小屋なども僕がつくったものなんですよ」 その後、神奈川県にある大学の農学部に進学し、子どもたちと米づくりや森歩き、川遊びなどを行うサークルに参加。子どもたちと自然のなかで遊ぶ楽しさに目覚め、これを仕事にしたいと静岡県にある自然学校の老舗「ホールアース自然学校」に就職。4年間で子どもキャンプだけでなく、樹海洞窟探検や富士登山、食育体験など、多くの経験を積んだ。 自分のフィールドを持ちたいと考え始めたのは、ホールアース自然学校に入ったころから。30歳になったら独立に向けて動き出すことが目標だったため、そこから逆算して28歳で、自転車によるユーラシア大陸横断、南米大陸縦断の旅へ。この2年間で出会った人や目にした景色、触れた自然などが、いまの遠藤さんの血となり肉となっている。 帰国後、いよいよ自然学校を開校する場所を探して動きはじめる。ホールアース自然学校のある静岡や、同僚だった奥さんの里絵子さんの地元である神奈川などでも物件を探したが、最終的にここ市貝町を選んだ。 「一つの理由は、市貝町はこれまでに開発があまりされておらず、生物相がとても豊かだったこと。もう一つは、父親(上写真)がサシバの研究で長年通っていた市貝町の自然や人にひかれ、ここの土地を借り受け先に移住していたからです。実は、父も自然学校を開きたいと考えていて、現在は“生き物担当”として運営にかかわってくれています。父は、『息子だから一緒にやっているのではなく、たまたま考え方が合うやつが息子だっただけだ』って話しています(笑)」 自然学校を、学習塾のようなポジションに 2016年4月に開校して以降、サシバの里自然学校では今回参加させてもらった「農業体験」をはじめ、キャンプや火おこし、里山探検などの「アウトドア体験」や、里山の間伐材や木の実などを使ってフォトフレームやカスタネットをつくる「クラフト体験」などのメニューを毎週のように開催。里山整備などを一緒に行うボランティアも受け入れている。 一方で、遠藤さんは宇都宮にある作新学院大学女子短期大学部の保育士を育成する幼児教育科で、非常勤講師も務めている。 「現在、自然学校では小学生向けのメニューが中心ですが、今後は保育園・幼稚園児向けのプログラムも提供していきたい。最近、全国各地に『森のようちえん』が誕生していますが、自然体験や野外活動を子どもたちに経験させたいというニーズは確実に増えています。僕は、自然学校を学習塾や英会話教室などと同じポジションに持っていきたいんです。受験に直接役立つものではないかもしれないけど、自然体験を通じて“生きる力”を身に付けることは、子どもたちの将来に必ずプラスになるはずです。自然学校ではもちろん、各地の保育園や幼稚園に出向いて行うプログラムも開発していけたらと思っています」 宇都宮をはじめ、県内では小中高の同級生たちがさまざまな職業で活躍している。また、市貝町に遠藤さんが移り住んで以降、ホールアース自然学校の仲間たちもこの地に移住し、観光協会で街づくりにかかわったり、機織りを手がけたりと活動している。「そういった人のつながりも積極的に生かしながら、さらにプログラムを充実させていきたい」。 遠藤さんの挑戦は、まだ始まったばかり。日々進化を続けるサシバの里自然学校のこれからが、楽しみで仕方がない。

農業は“最高に楽しい接客業”

農業は“最高に楽しい接客業”

金子洋次さん・公乃さん

野菜の花など、新たな価値を畑から提案 「じつは、この黄色いゴーヤの花も食べられるんですよ」 そう金子洋次さんにすすめられて口に運ぶと、シャキシャキとした食感とともにゴーヤのほのかな苦みが口じゅうに広がった。 東京から那須町に移り住み、新規就農を果たした洋次さん・公乃さん夫妻は、アーティチョークやビーツなどの西洋野菜と、一般的な季節の野菜を無農薬・無化学肥料で栽培。季節の野菜は車で5分ほどにある「道の駅 東山道 伊王野」やマルシェなどで販売。一方、西洋野菜は、主に那須高原のレストランに出荷している。それだけではない。キュウリやインゲンの花をはじめ、あえて小さいサイズで収穫したピーマンやニンジン、オクラなどもレストランに届けている。 洋次さん:「例えば、キュウリやインゲンの花はこんなに小さいのに、食べると確かにその野菜の味がする。このギャップが、食べる人の感動につながります。そんなレストランのシェフが求めるものを、畑からどんどん提案していきたい。農地を拡大し生産量を増やすのではなく、今ある畑のなかで新たな価値を数多く創造することで、経営を成り立たせていくことを目ざしています。何よりもこのやり方のほうが楽しいんです!自分たちが種をまき育てたものを、その喜びのまま提案できる。僕は農業のことを、“最高に楽しい接客業”だと思っています」 最近では、那須高原のレストランのシェフたちが、畑を訪れる機会も増えている。 洋次さん:「実際に畑を見てもらいながら、『ゴーヤの花はこんな料理に使えそう』『小さいキュウリは、このサイズのものがほしい』などシェフと情報交換を行い、僕たちも勉強を重ねていくことで、最終的にレストランで出される料理の質を高めることができます。こんなふうにシェフと連携できるのも、市場には並ばない小さな野菜や花を届けられるのも、物理的な距離が近いからこそ。那須地域には、単に地元産の野菜を使うだけにはとどまらない、“新たな地産地消のカタチ”を生み出せる可能性があふれているんです」 移住者の仲間や、地域の人たちに支えられて 東京にいた頃、洋次さんはアパレルの販売を、公乃さんはスタイリストの仕事を手がけていた。二人のうち最初に移住に興味を持ったのは、公乃さんだった。 公乃さん:「彼の実家が、埼玉県の山に囲まれたところにあって、帰省する度にまわりの自然や生き物たちに癒やされていて。だんだんと自然が身近にあるところで暮らしたいなって思うようになったんです」 洋次さん:「僕は、大量に生産して大量に販売するというアパレル業界の仕組みに違和感を覚えるようになり、自分の手で一から育てたものを販売する農業に、漠然と関心を持つようになりました。二人で話し合い、妻の父親が建てた家が那須町にあったこともあり、この地への移住を決意したんです」 2010年2月に移住後、洋次さんは「道の駅 伊王野」(下写真)で、公乃さんは那須高原にある「那須高原HERB's」というハーブとアロマのお店で働き始める。 洋次さん:「最初に道の駅に飛び込んだのは、直売所で販売を担当させてもらうことで野菜について学びたいと考えたからです。農業について全く知識のない自分をひろっていただき、道の駅のみなさんには本当に感謝しています。ここで働かせてもらえたことで、地域のみなさんに僕たちのことを知ってもらうこともできました」 少しずつ地域に馴染み始めたころ、東日本大震災が発生する。原発事故による影響もあり、農業を諦め那須を離れる人たちがいる中で、二人がここに残る決意をしたのは、移住者の先輩や仲間たち、そして地域の人たちの支えがあったからだ。 洋次さん:「『アースデイ那須』の実行委員を通じて知り合った、隣の芦野地区で地域のハブとなるようなゲストハウス『DOORz』を営む田中麻美さん、佐藤達夫さん夫妻をはじめ(下写真)、アースデイ那須を立ち上げた『非電化工房』の藤村靖之さんや、妻が勤めていた那須高原HERB'sさんを中心に、『那須いろ野菜』というブランドを立ち上げたメンバーたち、震災後、農産物が売れなくなる中で、放射性物質の検査を行ったうえでオーガニック野菜を販売する『大日向マルシェ』を立ち上げた仲間たちなどなど。震災後の困難な状況を乗り越えようと活動する先輩や仲間たちの姿を目にし、みなさんと一緒にこの那須で頑張っていきたいと強く思ったんです」 公乃さん:「伊王野地区のみなさんの支えも本当に心強かったです。例えば震災直後、ガスが使えずに困っていると、地域の方が火鉢に火を起こしてくれたり、発電機を使って井戸の水をくみ上げてくれたり、感謝してもしきれないほど助けていただきました」 就農を目ざす人たちの“モデル”となるために 2011年4月から1年間、洋次さんは栃木県農業大学校が手がける、UIターン者などを対象とした「とちぎ農業未来塾」で研修を受けたあと、有機農家を見学して回り技術を学んだ。さらに、伊王野の地域の人たちからも多くのことを教わった。 洋次さん:「例えば、一般的な種まきの時期は調べることができますが、この地区での適期は教科書にもインターネットにも載っていないんです。だから、道の駅に野菜を出荷しにくる農家の先輩方や、隣のおばあちゃんなどに何度も聞いて、失敗を繰り返しながら年間の栽培スケジュールを組み立てていきました。地域のみなさんは種をくださったり、『この苗はあるけ?』と聞いてくれたり、とても親切に教えてくれて。みなさんから学んだことも、大切に受け継いでいけたらと思っています」 2012年4月に新規就農してからは、道の駅の直売所で野菜を販売。大日向マルシェやアースデイ那須などに出店するうちに、そこに野菜を買い付けに来ていたレストランのシェフと出会い、だんだんと今のスタイルが形づくられていった。また、オーガニック野菜を求める一般の人とのつながりも広がり、直接「野菜セット」の販売も行っている。このように自分たちならではの農業を追求している二人だが、もちろん壁にぶつかり悩むこともある。 公乃さん:「本当は初夏には梅を漬けたり、冬には大根を漬けたりと、季節に寄り添った暮らしをしたいのですが、畑仕事に追われてなかなか手が回りません。今はまだ『こうなりたい』という暮らしからはかけ離れてしまっているけど、目標を忘れずに現実の問題を一つ一つ解決していきたいです」 洋次さん:「二人で相談して、この夏、はじめて週1日アルバイトの方に来てもらいました。悩んでいても何も始まりません。この那須地域だからこそできる理想の農業と暮らしの両方を実現するために、新たなチャレンジを続けていきたい。そしていつか、自分たちを見て『ここで農業をやってみたい』と思ってくれる仲間が増えていったらいいなと思っています」 那須に移住してもうすぐ6年、二人は今、必死に悩みながら前に進もうとしている。これから那須地域で就農を目ざす人たちのモデルとなるために。

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

中村純さん・後藤洋平さん

地域づくりを、自分の仕事にするために 東京農業大学で林業を学んでいた中村純さんは、その頃から地元・栃木市で、地域づくりのボランティアなどに参加。地域や林業にかかわる仕事に就きたいと考えたが、なかなか生計を立てていく道が見つからず、都内の大手ハウスメーカーに就職した。 中村さん:「営業の仕事を通じて、民間ではこうやって泥臭く必至に取り組んでいるから、利益を生むことができるんだと実感しました。やりたかった地域の仕事も、ボランティアでは続けられない。好きなことを続けるためには、その道でお金を稼ぐことが重要だと学んだんです」 27歳でハウスメーカーを退職し、東日本大震災の被災地でボランティアとして活動。そこで知り合った人にすすめられて、鎌倉のゲストハウスで働き始めた。 中村さん:「そこで、ゲストハウスのオーナーはもちろん、ウェブデザイナーやカメラマンなど、やりたいことを仕事にして面白く生きている人たちと出会い、こんな生き方もあるんだと視野が広がりました。自分もやっぱり地域に携わりながら生きていきたいと、地元に戻る決意をしたんです」 栃木市にUターンしてから、中村さんはまちづくりのワークショップなどに参加。そこで出会った人たちに、空き家バンクなどの企画書を見てもらったことをきっかけに、ビルススタジオのことを教えてもらった。ホームページを見ると、ちょうど人材募集の告知が! すぐに応募し、2011年の冬から不動産担当として働くことになった。 地域のことを考えながら建築をつくる 高校3年の大学受験が近づいたとき、後藤洋平さんは進路について迷っていた。後藤さんの父親は設計事務所を運営。しかし父と同じ道に進むのがなんとなく嫌で、一度は違う分野の学部を受験した。 後藤さん:「けれど、後期試験までの間に、父の建築の本を読んだり、設計した家を見に行ったりして、『人が生活する場所をつくる』という設計の仕事の面白さに強くひかれました。無理をいって浪人させてもらい、翌年、新潟大学の建築学科に進学したんです」 大学では、県内の豪雪地帯にある街で、古くから雪よけの通路としてつくられてきた大きな軒のような「雁木(がんぎ)」を、設計・制作する活動にも携わってきた。 後藤さん:「雁木は地域にとってのアイデンティティなんです。軒を連ねる家の一軒でも雁木を壊してしまうと、通路が途切れてしまうだけでなく、まちの誇りが失われてしまう。地域住民や自治体と協働して雁木通りを再生するプロジェクトに参加し、地域のことを考えながら建築をつくることの面白さを体感したんです」 卒業後は、都内の大手ゼネコンに就職。当時から、いずれ地元で設計事務所を開きたいと考えていたため、休日などに栃木市に帰省し、地域づくりの活動にも携わっていた。 後藤さん:「そんな頃、すでにビルススタジオで働いていた中村から『設計スタッフを募集しているぞ!』って電話があって。後日、もみじ通りの店主の方たちが集う忘年会に参加させてもらいました。そこで『単に建物を設計するだけではなく、場のコンセプトから不動産も含めて総合的に場所をつくっていく』というビルススタジオの取り組みを知ったとき、自分のやりたかったことはこれだ!と思ったんです」 新たな場から、広がっていく化学反応 築年数が経った物件や大谷石の蔵、倉庫など、一般的な不動産会社では扱われにくい、「ひとクセあるが、他にはない魅力を持った物件」を街から掘り起し、そこで営まれるライフスタイルまでを含めて提案するのが、中村さんの仕事。 一方、後藤さんは、入居や購入する人が決まった段階から、その人の思いや建物・土地が持つ魅力を大切に、コンセプトづくりから図面作成、見積もり、現場監理、引き渡しまで、すべてに携わっている。 ときには、二人のそれぞれの視点から、建物を活用していくための事業プランを考え、オーナーや入居希望者に提案することもあるという。 中村さん:「例えば、宇都宮市内にある大谷石でできた倉庫群のオーナーさんから、『個人か借りるには建物が広すぎて、入居者が見つからず困っている』と相談を受けました。大谷石の壁や鉄骨のトラス梁は無骨なつくりで、とても魅力的に感じたので、複数の店舗が集まる場所にリノベーションすることを提案。現在では、美容室や飲食店などの個性的な5店舗が入居する『porus(ポーラス)』というエリアに生まれ変わりました」 また、「宇都宮のまちなかで、面白い暮らし方をしたい」と希望していた方に、眺望に優れた6階建てのビルの最上階を提案。併せて、1~5階はシェアハウスとして活用する事業プランを提示したことをきっかけに、宇都宮市内初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」が誕生した。 中村さん:「シェアハウスの住人たちが、近隣のお店が開催しているイベントに参加したり、地域の人たちと一緒に雪かきをしたり、新たな場ができたことで化学反応が起こり、交流や活動が広がっていくは、やっぱり嬉しいですね」 後藤さん:「僕たちが見つけ出した物件や、リノベーションした空間に共感してくれる人たちが集まってきてくれることもあり、自然と交流や新たな活動が生まれやすいのだと思います」 街の人とつながる“入り口”を、栃木市に 中村さんと後藤さんは、もう一人の同級生である大波龍郷さんと「マチナカプロジェクト」を立ち上げ、栃木市の地域づくりにも携わっている。 後藤さん:「マチナカプロジェクトをきっかけに、栃木市の中心部に誕生したシェアスペース『ぽたり』のコンセプトづくりや内装デザインなどをサポートさせてもらいました。ここではさまざまなイベントやワークショップが開催され、新たな出会いや人のつながりが生まれつつあります」 さらに、現在マチナカプロジェクトでは、栃木市の中心部にある空き建物を改装し、カフェやゲストハウスなどが入居する場をつくろうと計画している。 後藤さん:「いちばんの目標は、この場所を栃木市で新しい何かを始めたい人たちが、街の人とつながる“入り口”にすること。『もみじ通り』のように、この場所をきっかけに新たなお店が次々と誕生していく拠点にしていきたいです」 中村さん:「もう一つの目標は、ここの運営を通じてマチナカプロジェクトとして利益を上げていくこと。それこそが継続的にまちづくりに携わり、地域の魅力を高めていくためには大切だと思うんです」

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

小坂憲正さん・朋子さん

目ざすのは、土地に根ざした家 「シルバーパインを切り出してくれる山主が見つかったぞ!」 フィンランドからの電話の主は、材木の輸入を手がける知人だった。シルバーパインとは、厳しい自然のなかで立ち枯れたまま、数百年の年月を重ねた木。収縮がほとんどなく、ログビルダーの間では「幻の木」と呼ばれている。 「いつかシルバーパインで家を建てたい」と周囲に話していた小坂憲正さんは、先立つものはなかったが購入を決意した。その後、融資してくれる銀行を見つけ、美しい自然に魅了された霧降高原の土地を購入。3年の歳月をかけて、2004年に「幾何楽堂」を完成させた。 樹齢400年から600年のシルバーパインを重ねたログハウスの構造と、昔ながらの日本建築のよさを融合することで、約40畳のメインルームが実現できた。その大きな窓からは、霧降の美しい森が一望できる。憲正さんが家づくりで何よりも大切にしているのは、周囲の空間を生かした建物をつくること。それを象徴するのが、幾何楽堂の大きな玄関扉の横に掲げられた“渦”のマークだ。 「宇宙がそうであるように、渦と空間は物を生み出す原点であり、同じように家の周りの周辺から生まれてくるイメージが自分の中にはあるんだ。住む人が大切に選んだ土地の力をもらいながら、空間にとけこみ、地に根をはったような家をつくっていきたい」 つくることが自信になり、前に進んでいける 北海道で生まれ育った憲正さんは、神奈川の大学で建築を学んだあと、手に職をつけたいと鳶の道へ。厚木や横須賀で働き30歳を迎え、これからの人生について考えたとき、もともと興味のあったログハウスへの思いがよみがえってきた。日光の小来川(おころがわ)に、ログハウスの神様といわれるB・アラン・マッキーさんがいることを知り、彼のもとを訪ねログビルディングを学んだ。 「木という自然の恵みを、頂いて家をつくる。自分でつくり上げることは、生きていく上で大きな自信に繋がる。細かいことは気にせず、まずはつくることが大切だというマッキーさんの考えにすごくひかれました。マッキーさんは『斧で家をつくるのが一番好きだ』と聞いて、自分も最初に建てる家は斧でつくろうと思ったんだ」 神奈川に戻り、斧と手道具のみでログハウスを建てたのは1998年のこと。自らの手で家をつくるうちに、どんどん木の仕事に魅了されていった。日光に移住したのは、何のしがらみのない土地で、ゼロからスタートを切りたいと思ったからだ。 「“日の光”って書く、地名にもひかれてね。それ以外、本当に特別な理由はないんだ」 扉も建物も、体にいい自然素材で 日光に移り住んでから、便利屋、石屋を経て、ログハウスや日本の在来建築を手がける地元の工務店へ。そこで7年間働きながら、木の家づくりを学んだ。 「夜、仕事が終わってからも、余った材料を使わせてもらって、犬小屋や棚などをひたすらつくっていました。木と木を抜けないように組むにはどうしたらいいかなど悩みに悩んで、自分の頭で考えたからこそ、基本が身についたと思うんだ」 そんなとき、霧降高原の観光施設から扉づくりを頼まれる。 「初めて木を使って扉をつくらせてもらったとき、扉によって建物の印象が大きく変わることを実感しました。当時はもう、集成材やビニールクロスでつくる家が主流になっていたけど、木の扉をつくったことで、その先の空間も木や漆喰などの自然素材でつくりたいという思いが大きくなっていったんだ」 住む人が、参加できる家づくりを 現在、ログハウスの聖地として知られるようになった小来川。この地で育った杉を使い、ログハウスと在来工法を組み合わせることで開放的な空間を実現したそば屋「山帰来」をはじめ、憲正さんは数多くの住まいや店舗を手がけてきた。 南三陸町歌津地区の集会場に携わったのは、震災後、継続的にボランティアに訪れたことで、地元の人たちとの深い縁が生まれたことがきっかけだった。 「あの震災で、自然の力の大きさを痛感してね。地元の人たちと話し合って、今だからこそ“原点”に立ち返ろうと、竪穴式住居を建てることにしたんだ」 大切にしたのは、自分たちの手でつくること。地元の人や日光の仲間たち、ボランティアに訪れた人たちとともに丸太の皮をむくところからはじまり、手堀りで直径9m、深さ1mの大きな穴を掘った。憲正さん以外は皆、素人であったが、はじめて持つノミやのこぎりを手にして木を組み上げていった。こうして、限りなく円に近い24角形の竪穴式住居が完成した。 「大地にかえる素材を用い、自分たちの力で建てた自然に調和するこの建物は、原点でありながら、これから進むべき建物の形でもあると思うんだ。じつは、竪穴式住居はエアコンがなくても、夏涼しくて冬暖かい。これからも体にいい素材を使って環境に寄り添う建物を、そこに住む人たちと一緒につくっていきたいね」 厳しくも豊かな自然が、たくさんのヒントをくれる 霧降高原に暮らして13年。この地の魅力は、自然の厳しさだと憲正さんはいう。 「険しい山道をのぼるからこそ、頂上にたどり着いたとき大きな感動があるように、厳しい自然のなかに暮らすからこそ、本当の喜びが見えてくる。標高差の大きい、厳しくも豊かな霧降の自然は、たくさんのヒントを与えてくれる。ここに身を置くことで、一歩先に進んだものづくりができるのではないかって思っているんだ」 2015年6月、憲正さんと朋子さんは仲間の作り手たちとともに「キリフリ谷の藝術祭」を開催した。今後は幾何楽堂の前に広がる谷に自らの手で舞台をつくり、劇団四季などの出身俳優が活躍する「心魂プロジェクト」とともに、芸術祭で演劇を開催するのが二人の夢だ。 憲正さん:「障がいを持った子どもたちや両親に、ひとすじの喜びを届ける心魂プロジェクトの舞台を観たとき胸が熱くなって、この人たちと一緒に何かをつくりたいと思ったんだ。誰かと一緒に笑ったり泣いたり、感動を共有できる舞台を核に、いろんな人の力が集う“渦”をここから巻き起こしていきたい」 朋子さん:「仲間と一つのことに一生懸命に立ち向かうとき、自分が想像もしなかった力が生まれてきます。そのとき感動は、生きる力になる。そう被災地で実感しました。多くの人と一緒に芸術祭をつくり上げていくことで、感動が生み出す力の輪を、霧降の谷から広げていけたら嬉しいですね」

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