interview

40代

装飾 装飾
持続可能な里山暮らしを目指して

持続可能な里山暮らしを目指して

後藤 芳枝(ごとう よしえ)さん

田舎での丁寧な暮らしに憧れて 群馬県出身の後藤さん。高校卒業を機に上京し、服飾専門学校へ。20代は東京での暮らしを満喫し、音楽活動や古本屋での仕事、キッチンカーでの弁当販売など、さまざまな仕事を経験した。 欲しいものや必要なものは全て買えば手に入るが、30代半ば頃から「東京での暮らしって、消費するだけだなぁ」と考えるようになったという。 「丁寧な暮らしを紹介する雑誌をよく読んでいて、ナチュラルな暮らしに憧れていました。東京での生活は、日々の生活音をとても気にしてしまい、そういったことを気にせずに暮らせるような田舎に移住したいな、と思うようになったんです」 田舎暮らし、移住。日々そんなワードを検索する中で、地域おこし協力隊のことを知った。 「でも、全国の活動事例を見ても目にするのは若い人たちが活躍する記事ばかり。若者しかなれないものだと思い込んでいたので、自分が協力隊になるなんて想像もしていませんでした」 実家がある北関東を候補に移住先を探していた際に、足利市での農業体験情報を見つけ、市に興味を持った。そこから行き着いたのが、市主催のコミュニティイベント『足カフェ』だ。 イベントへの参加をきっかけに、市職員や足利市地域おこし協力隊との繋がりができ、翌月には足利を訪れることになった。 「“田舎でこんな暮らしがしたい、という理想はあるけれど、その土地に必要なことで、生業にできることって何だろう?”と考えていて、足利市の職員の方に悩みを打ち明けたところ、“地域に必要とされていることを知るためにも、協力隊に応募してみたら?”と言われたんです。自分の歳で協力隊に応募できると思っていなかったので驚きましたが、それなら!と思いました」 足利市への訪問を機に、協力隊への応募を決意。それから3ヶ月後、後藤さんの足利暮らしがはじまった。 地域の“つなぎ役”として 協力隊のミッションは、“自らの足利暮らしを通じた移住・定住の促進に関する活動”とのことで、後藤さんは興味がある“農業・里山暮らし”に焦点をあてた取り組みをしたいと考えた。 「農業体験に力を入れて取り組んでいる名草地区を拠点に活動したい、と市役所に提案しました。市としても名草地区を盛り上げていきたいとのことで、割とスムーズに名草での活動をスタートすることができました」 とはいえ、農業の知識や経験は全くなかった後藤さん。 まずは自分の存在を知ってもらおうと、名草で地域活性をしている団体の方々に挨拶周りをし、皆さんの手伝いをすることからはじめた。 畑での農作業、草刈り、ハイキングコースの整備・・・さまざまな体験を通し、農作業に必要な準備や片付け、季節ごとの作業、農機具の使い方、農業における先人の知恵、暮らしのアイデアなど、里山での農ある暮らしを身につけていった。 「協力隊1年目は、各地域で活動している皆さんのお手伝いをしながら、里山での暮らしについて学ばせてもらいました。2年目には自分で畑を借りて、農業体験をやってみよう!と動き始めました」 借りた畑は『名草ちっとファーム』と名付けた。「畑をちっとんべー(“少しばかり”の意)やってます」という意味で、これが親しみがあってわかりやすい、と地元の人から好評を得た。 「自分で畑を借りて農作業を始めたことで、地域の方との関係性が良い意味で変わったなと感じました。それまでは手伝いだけで受け身だったのが、まだまだ同じ立場とまでは言えませんが、会話の内容も一段階上がったというか。人との繋がりも広がりましたし、やはり自分でやってみるって大切だなと実感しましたね」 少しずつ里山暮らしに手応えを感じていく中で、活動を形にしていこうと立ち上げたのが『名草craft』だ。 人と人を丁寧に繫ぐという思いと、自身も天然素材でものづくりをするような手仕事をしていきたい思いから、クラフトという言葉を選んだ。 「竹や麦などの素材を使って、かごやオーナメントを作っています。名草のような里山でも、かごを作れる人は少ないんですよ。そうした日本の昔ながらの手仕事を残していきたくて」 昔ながらの伝統でいえば、『名草生姜』も忘れてはいけない。 「協力隊3年目の時に、宇都宮大学の学生たちと地域課題を解決するための研究プロジェクトが始まりました。その中で、名草産の生姜に着目し、PRのためのワークショップや、商品開発、市内の飲食店の皆さんにも協力いただきレシピブックを作成しました」 協力隊の3年間を通じて後藤さんが感じた自身の役割は、“つなぎ役”になるということ。 「人と人を繋ぎ、ものづくりをしたり、誰かのやりたいことを形にしたり、困りごとを解決したり。つなぎ役がいることで実現することってたくさんある、ということを実感しています。その役割を担っていければと思っています」 里山で広がる人とのつながり 協力隊としてP Rに力を入れた『名草生姜』。後藤さん自身も名草生姜を守るべく、栽培をはじめた。 以前は名草地区でも複数の農家で生姜が作られていた。しかし、現在大規模に生姜を作っているのは、生姜農家の遠藤さんだけだという。 「生姜の栽培から、収穫、貯蔵、種作りまで、遠藤さんに教えてもらっています。わからないことがあれば、何でも丁寧に教えてくれるんですよ」 生姜に限らず、後藤さんは農業のイロハについて、遠藤さんをはじめ集落営農組合のおじいちゃん達にお世話になっている。 「米作りのこともアドバイスしてもらったり、農機具を貸してもらったり、とても助かっています。そのかわりに、農作業の後片付けや雑務などは私たち若い世代がやっているんですよ。持ちつ持たれつの関係ですね」 また、後藤さんがプライベートでも仲良くしているのが、同世代の奥村さんだ。 「とにかく話が合うんですよね。今欲しいものは・・・(二人が声を揃えて)耕運機!とかね。こんな暮らしがしたいとか、こういうことをやりたいとか、その感覚がとても近くて。話をしていて落ち着くんですよ」 ふらっと奥村さんの家を訪れては、お茶を飲んで何気ない会話を楽しんでいるという。 そんな奥村さんも、滋賀県から群馬県を経て、名草地区に魅せられてやってきた移住者仲間。養鶏を生業としており、「自分たちで作れるものは作る」という考えも後藤さんと通ずるところだ。 「狭い地域ではありますが、名草には魅力的な人が本当にたくさんいるんです。こうした人たちの存在が、私が名草にいる理由でもあります」 夢に描いていた暮らしができつつある 2022年3月に地域おこし協力隊の3年間の任期を終え、現在、後藤さんは足利市集落支援員として引き続き名草地区で活動している。 基本的には、協力隊時代に取り組んできたことを継続して行っているが、変化したところもある。 「協力隊の時は、自分のやりたいことで地域を盛り上げる活動をしていました。そのため、関わる人も既に地域で活動している人が多く、それ以外の方々と繋がるきっかけが少なかったと感じていました。集落支援員としては、もっと幅広く地域に貢献していきたいと思い、自分たちの活動を知ってもらうために新聞を作ったり、朝の太極拳をはじめました」 長年太極拳をやられている方がおり、朝のラジオ体操の感覚で太極拳の体験会をしてみたという。すると、これまで交流のなかったおばさま(お姉さま)世代がたくさん参加するようになり、また新たな人との繋がりができるようになった。 新たな人との繋がりは、新たな里山暮らしの知恵をもたらしてくれる。そうして、後藤さんは、ますます“名草の人”として地域に馴染んでいくのだ。 「そうして徐々にできることを増やしていって、いずれは自分の生業で地域に貢献しながら暮らしていけるようになりたいです」 「協力隊としては何もかも未知からのスタートでしたが、新しいことにチャレンジして周りに助けてもらいながら、色んな経験ができました。この歳になっても自分が成長できることってこんなにもあるんだ、と実感しています。時間はかかりましたが、今やっと30代の頃に描いていた理想の暮らしができつつあります。特別なスキルがなくたっていい。思い切って、ローカルでチャレンジしてくれる人が増えたらいいですね」

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

高橋 潔(たかはし きよし)さん

起業と農業、東京と矢板 栃木県内の高校を卒業後、大学は群馬県へ。社会人としてのスタートは、人材派遣会社の営業職だった。全国に拠点があり、東北や関東エリアを中心に経験を積んだ。20代後半で転職した会社では、人事や経営企画、秘書業務など経営層に近い部分に携わった。 「全国を拠点に、特に製造業への人材派遣をメインとしていたのですが、ここ十数年で多くの企業が工場の閉鎖や廃業するのを目の当たりにし、地方の危うさというか、将来への危機感を募らせていました。2011年の震災も経験し、何か地方を盛り上げることや地域に還元できることをしていきたい、と考えるようになったんです」 そして2014年、思い切って会社を辞め起業した。 「とにかく地方を盛り上げたい想いだけはあって、会社を作りました。以前、オンラインで全国会議をしたことがあり、この仕組みを使えば何かおもしろいことができるのでは?と考えたんです。今では当たり前のオンラインですが、10年以上も前だとまだそこまで一般的ではなかったですよね」 そうして立ち上げた事業のひとつが、オンライン配信サービスであった。当時はビジネスとしてはまだ競合も少なかったが、ニーズはあったため、順調に軌道に乗った。 「ただ、私自身はITまわりにそこまで強い訳ではなくて。社員に“配信はやらなくていいです”と言われるくらいでした(笑)そのため、配信の実務は当初から信頼できる社員に任せています」 会社を経営する一方、高橋さんがずっと気にかけていたのが、矢板市で叔父が経営するぶどう園だった。 「りんごの生産が有名な矢板市ですが、叔父は市内唯一のぶどう園を経営しています。ただ跡継ぎがおらず、今後どうするんだ、という話を以前からずっとしていました。先代の頃からワイン作りやワイナリーの夢もあり、叔父も自分も諦めたくない、という想いが強く、2015年の正月に話し合いをしました。起業して1年も経っていませんでしたが、自分が畑を手伝うことにしたんです」 こうして東京と矢板、オンライン配信サービスと農業という全く異なる分野での2拠点生活が始まった。 ぶどう園での手伝いから協力隊へ 2015年6月からぶどう畑で作業するようになった高橋さん。 日々の作業の中で、市役所の農業や広報の担当者と接点を持つ機会が増えた。当初は農業に関する話が多かったが、徐々に今後の矢板市について語り合うことも増え、「矢板市は、地域おこし協力隊の募集はしないのですか?」と尋ねたことがあった。 以前から全国の地域活動に目を向けていたため、地域おこし協力隊のことは知っていたという。ちょうど矢板市でも、募集に向けて動いているタイミングだった。 矢板で過ごす時間が増え、叔父のぶどう園だけでなく、周辺地域のこと、農業のこと、市の未来について考えることが多くなったという。 「自分が育った矢板を、どうにか盛り上げていきたい」という想いは、日々強くなっていった。 そんな中、矢板市での地域おこし協力隊募集が始まり、手をあげた高橋さん。 地域への想いや活動の実績が評価され、“中山間地域の活性化”をミッションに2017年4月から活動を始めることとなった。 「活動地域が泉地区という、ぶどう園とは異なる地域だったので、協力隊としては泉地区にコミットし、休みの日にぶどう園の作業、夜に自社の仕事をオンラインで、という生活スタイルでした。全く違う頭を使わなければならなかったので、切り替えは大変でしたね」 泉地区では、まず地域を周り、現状を知ることからスタート。矢板市の中でも過疎化が著しいこの地域では、住民たちも危機感を募らせていた。 そこで都内の大学生を呼び、地域課題に取り組むプログラムをコーディネートしたり、全国の地域課題に取り組む団体の方を講師に呼んで勉強会を開いたりと、様々な取り組みに着手。 2年目には、既に地域で活動している人たちのサポートに入り、一緒に事業の収益化を考えるなど、コンサルタントのような立場でまちづくりに取り組むようになった。 そんな中、矢板市で人口減少などの地域課題に取り組むための拠点(後の『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』)を作る構想が立ち上がる。協力隊卒業後は市内で団体を立ち上げ、矢板に人を呼び込むような仕組みを作りたいと考えていた高橋さんは、市からの依頼もあり、協力隊2年目の途中から拠点の構築に取り組むこととなった。 「泉地区の皆さんには、3年間携われず申し訳ない気持ちも大きかったですが、関わった期間の中での取り組みにはとても感謝してもらえて。今でも飲みに誘ってもらえる関係を築けています」 TAKIBIの立ち上げ 新たなミッションとなった『矢板ふるさと支援センター』の構築については、拠点の場所探し、運営の構想、スタッフの採用、その全てを担った。 「人々が自然と集まってくるような場所。その時々でカタチを変えるような空間。薪を集めて火を灯すことがスタートアップのイメージにもつながることから“TAKIBI(焚き火)”という名称になりました」 スタッフとして新たに3名の地域おこし協力隊を採用。市内の空き家を借り、採用した協力隊と共に地元の高校生なども巻き込みながら自分たちで改修作業を行なった。 そして2019年6月『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』として、地域内外の人々が気軽に集えるシェアスペースがオープン。 「自分の力を出し切り、やっと形になった時は嬉しかったですね」 その後、移住相談窓口やテレワーカーの仕事場、地元学生の勉強の場、イベントスペースなど幅広く活用された『TAKIBI』だったが、2022年8月に矢板駅東口からほど近い場所へ移転。現在、高橋さん自身もより広くなった新生『TAKIBI』を利用している。 「商業施設などとも隣接しているので、多くの方の目に触れやすく利用しやすい環境だと思います。シェアスペースやシェアキッチンを多くの方に利用いただきたいですね」 『TAKIBI』のスタッフの皆さん、顔馴染みの利用者さんと 地域での商売を、うまく循環させたい 今も変わらず、矢板と東京の2拠点生活を続けている高橋さん。協力隊卒業のタイミングが2020年3月だったこともあり、卒業と同時に会社のオンライン配信サービスの仕事が急激に忙しくなってしまったが、それぞれで仕事がある時に行き来しているという。 「協力隊卒業を見越して、矢板でNPO法人を立ち上げたんです。コロナのタイミングと重なりほとんど活動できていなかったのですが、少しずつ準備を整えていて、2023年はやっと動き出せそうです」 市内の空き物件を借り、整備を進めている。 「この空間を整備して、地域住民のための情報発信拠点を作ります!」 地元の商店主たちと話をする中で、「何かをやるにもPR手段がない」との声を多く聞いた。 広報物では情報発信までのタイムラグが生じ、SNSでは一部の人にしか届かない。誰でも聴けるラジオを通じて、リアルタイムの情報を地域の人に届けるサービスを展開したいと考えている。 「配信ツールは、会社の機材があるので整っています。例えば、飲食店の店主にスタジオに来てもらって“今夜のテーブル席、まだ空いてます!”といった情報を発信してもらえたらと。事前に日にちを決めて、数万円の広告費を払ってもらうのではなくて、発信したいときに来てもらって、ワンコインでもいいから気持ちを収めてもらう。その方が、お互いに気持ちよくサービスを続けられると思うんです」 目指すところは、この仕組みがうまく循環し、店主たちにとって“商売しやすいまち”となることだ。そのためにも、できるだけ気軽に立ち寄れるよう、普段から誰でも自由に出入りできるフリースペースも設ける。偶然ではあるが、情報発信拠点は地域の方が立ち寄りやすい場所にあるという。 「『くじら亭』という焼鳥屋があるんですけど、地元のみんなのたまり場みたいな場所なんです。縁があり、お店のすぐ隣の物件を借りられることになって。大将とは20年来の付き合いで、常連さんたちとも顔馴染み。これから地元の皆さんとの縁をより大切にしていきたいですね」 矢板への想い 「当面は2拠点生活を続けることになりそうですが、いずれは矢板を軸にという思いはあります。その時に、もっと矢板を生活しやすいまちにしたいと思っていて。そのために今種撒きをしている感じですね」 まずは情報発信拠点を稼働し、多くの人に利用してもらえるようにする。地元で商売をしている人だけでなく、移住者やテレワーカーなど、さまざまな人が交流し情報交換できる場になれば、と考えているという。 またぶどう園についても、まだまだやりたいことはたくさんある。現在、ぶどうジュースは道の駅や直売所で取り扱いをしているが、ワイン作り、ひいてはワイナリーへの夢は膨らむ一方だ。 「ワインで儲けたい。という訳ではなく、矢板市産のワインを作ることで地域を盛り上げるツールにしたいんです。ワイナリーを作ることができたら、雇用を生むことだってできる。この地域に人を呼び、ここに暮らして一緒に矢板を盛り上げる人たちを増やしていきたいです」

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

大倉 礼生さん

栃木にも素晴らしいものがたくさんある 取材当日の朝、大倉礼生さん、結衣さん夫妻と待ち合わせたのは、宇都宮市の中心部から車で10分ほどの距離にある「BROWN SUGAR ESPRESSO COFFEE」(下写真)。 「ここのコーヒーが本当においしくて、休日にはブラウンシュガーさんか、こちらに豆を卸しているムーンドッグさん(MOON DOGG ESPRESSO ROASTERS)に立ち寄るのが、ルーティーンになっています」(礼生さん)。 休日には出かけることが多いという二人は、おいしいお店があると聞けば、県内外問わずどこへでも足を運ぶ。栃木市でパンを買って、佐野市でコーヒーを飲んで、宇都宮市でランチを食べて……と、1日に5、6軒のお店を巡ることもあるという。 「おいしいものを食べたり、素敵な空間で過ごしたりするのが好きで、楽しいのはもちろんですが、やっぱりいいものに触れると仕事のインプットにもなります。味やサービス、お店づくりなど、『自分はこれができていなかったんだ』とハッと気づかされることも多く、いろんな場所へ出向くのは大切だと実感しています」 そう話す礼生さんは、若いころは「栃木になんて何もない」と思っていたとのこと。けれど、東京で15年以上過ごし、いいものに多く触れた後、栃木県に戻ってみると、地元にも素晴らしいお店や魅力的な人がたくさんいることに気づいた。 「東京だと行列に並んで買うようなおいしいコーヒーが、こっちでは並ばずに買えて、店主との会話を楽しみながらゆっくり味わえる。こんなふうに魅力的な人とつながりやすく、深い付き合いができるのも、戻ってきて感じた栃木の魅力ですね」 まだ世にあまり出ていない燻製料理店を宇都宮に 東京で美容師を経て、駒沢のカフェで働き始めた礼生さんは、料理もサービスも担当し、瞬く間に店長となり、そこで10年にわたり経験を積んだ。 「オーナーが異業種の方だったこともあり、お店のことは任せてくれたのですが、僕は飲食店で修業したわけでもなく、とにかく自分で調べてやるしかなかった。ご飯を食べに行っておいしいと思ったら、『これはどうやってつくるんですか?』と聞いたり、『この音楽は誰のですか?』『この椅子はどこで買ったんですか?』と尋ねたり、そうやって自分がいいなと思ったもの、やりたいことを調べて形にしていくのが楽しくて。20代後半には、もっと自由にできる自分のお店を開きたいと考えるようになったんです」 なかでも惹かれたのが、好きでよく食べに行っていた燻製料理だ。カフェはコーヒーがあったり、食事も出していたりとオールジャンルなところが魅力だが、逆に何か一つに特化した、他にはないようなお店をやってみたいと思うようになった。 スモークマンの人気メニューの一つ「燻製の前菜盛り合わせ」(1680円)。魚介や生ハム、ナッツ、野菜と一度にいろいろな種類の燻製が味わえる。 「その点、燻製料理は、ソーセージやベーコンなどの一般的な燻製以外は、多くの方がまだ味わったことがなく、未知の領域だと思うんです。燻製なら、まだ世に出ていないような、自分のお店でしか味わえない料理が提供できるのではないか。そう考え、友人の燻製料理店で修業をさせてもらうことにしたんです」 こうして燻製料理を学んだ礼生さんは、2015年に地元の栃木県へUターン。宇都宮市の中心部にあるこの物件と出会い、2016年2月に念願だった「燻製レストラン&バー SMOKEMAN(スモークマン)」をオープンした。 宿泊施設を営む夢に向けて一歩ずつ お店を開く場所として、東京ではなく宇都宮を選んだのは、なぜですか? そんな疑問を礼生さんに投げかけると、「僕は、いつかホテルやペンションのような宿泊施設を開くのが夢なんです」と話してくれた。 「その宿泊施設にはカフェやサウナなどもあって1日ゆったりと過ごすことができる、そんな旅の目的地になるような場所をつくりたい。食事を提供して、サウナを楽しんでもらい、心地よい部屋を用意して、翌朝お見送りする。サービス業のなかで、お客さんの1日により深く携われるホテル業がとても面白そうで、独立を考え始めたころからいつかやってみたいと思っているんです」 宿泊施設を開くことを考えたとき、家賃などのコストが多くかかる東京は現実的ではなく、地方で開きたいと考えるように。なかでも、地元の栃木県は東京からのアクセスもよく、宿泊施設を開くにはうってつけの場所だと感じた。こうして礼生さんは、夢への第一歩である燻製料理店を、宇都宮にオープンした。 燻製のメニュー開発は、まるで実験のよう この日は、特別に厨房の中を見せてもらった。厨房の一角には、特注の大きな燻製器が鎮座。このほか、小型の燻製器や鍋を食材ごとに使い分け、礼生さんは燻製をつくっている。新しいメニューを考案するためには、トライアンドエラーが欠かせない。 お店には結衣さんも立ち、調理やサービスを手がけている。 例えば、ランチの燻製ハンバーガーは、パティの牛挽肉を燻製しているのだが、温度は何度で、どのくらいの時間、どの木でいぶすかによって、仕上がりが大きく変わってくる。また、パティを燻製するのか、ソースを燻製するのかなど、決められた答えはない。 「だから、試作はまるで実験のようです。失敗することもめちゃくちゃ多いのですが、そのぶん、『これだ!』という味を実現できたときの喜びは大きいですね」 目指すのは、食材そのものの良さを生かしつつ、燻製の香りも楽しめる料理。スモークマンでは、すべてのメニューが燻製料理のため、香りが強くなりすぎないよう絶妙な燻製加減を何度も試作して追求している。 最近では、遠方に住んでいるなどの理由でなかなか来店できない人にも、気軽にスモークマンの燻製料理を楽しんでもらいたいと、オンライン販売にも力を入れている。30度以下で燻製する「冷燻法」という手法で、16時間もかけて燻製したチーズをはじめ、燻製ナッツや燻製オリーブ、燻製牛タンジャーキー、燻製調味料などを販売中。これからは道の駅や百貨店などにも置いてもらえるよう働きかけていこうとしている。 ランチの定番「SMOKEMAN BURGER」(1250円)。パティは牛肉100%に、和牛の牛脂を加えてうま味をプラス。ブリオッシュパンのバンズの甘みが燻製されたパティとよく合う。 オンラインでの販売をスタートした「燻製ナッツ」(1100円)。 東京での経験を活かし、栃木を盛り上げていきたい 休日にはおいしいお店を巡るだけでなく、ゴルフも楽しむ礼生さん。東京にいたころからゴルフはやったことがあったが、本格的にハマったのはUターンしてからだ。 「栃木県内にはゴルフ場が多く、近くて料金も比較的安いので、本当に気軽に楽しめます。僕は、土日に店があるので、友人たちとはなかなか休みが合わないのですが、ゴルフだとみんな日程を合わせて平日に有給を取ってくれて、一緒に遊べる機会が増えました。また、ゴルフを通じて、普段は出会わないような人とのつながりが広がるのもいいですね」 もう一つ、礼生さん、結衣さんが共にハマっているのがサウナだ。栃木県内をはじめ、新潟や東京などのサウナまで出かける“サウナ旅”も楽しんでいる。 「サウナに入ると疲れがすっと取れて、気持ちがリセットできるところが気に入っています」と話す礼生さんは、将来の夢である宿泊施設を手がけるための足がかりとして、現在、地元の塩谷町に貸し切りサウナを開こうと動きはじめている。 「栃木県をはじめとした地方なら、東京と同じ家賃で何倍もの広さの物件が借りられ、やれることの幅も大きく広がります。お金を稼ぐことももちろん大切ですが、僕はそれよりも、やりたいことを我慢せずにできることが何よりも幸せだと思うんです。地方でもレベルの高いものを提供していれば、全国からお客さんが来てくれたり、オンラインで各地へ販売できたりと、大きく広がっていく可能性もあります」 宇都宮に今年の夏オープンした大谷石蔵の貸し切りサウナ「KURA:SAUNA UTSUNOMIYA」を訪れたときの一枚。 サウナが実現できたら、次はいよいよ念願の宿泊施設の開業にチャレンジしたいと考えている礼生さん。 「東京で15年以上過ごしてきた経験やつながりを活かして、東京と栃木をつなぐハブ的な役割が果たせるような、ホテルとカフェやサウナが一体となった場所をつくり上げたい」 そこには、地域の特産品を販売するコーナーがあって、地元の生産者と東京などの都心部から訪れた人が気軽にコミュニケーションをとることができる。コーヒー店をはじめ、栃木で素晴らしいお店や活動を展開する人たちとコラボしたイベントも定期的に開催されている。そんなワクワクするような場所を形にし、地元・栃木を盛り上げていきたいと礼生さんは考えている。 栃木、東京の大切な人たちを招き開催した結婚式の思い出の一枚。

変化を受け入れ、新たな試みも

変化を受け入れ、新たな試みも

児珠大輔さん

移住の決め手は通勤のしやすさだった 下野市へ移住するまでは、埼玉県狭山市から東京都品川区のオフィスまで約2時間かけて通勤する日々。 こまめな乗り換えが多く通勤ストレスを抱えていたことと、IT企業で働いているため「いずれはテレワークになるだろう」という思惑もあり、「家を建てるときは地方でも良いかもしれない」との想いは長年あった。 自身は埼玉県の生まれだが、両親の転勤で中学から大学卒業までは宇都宮市で過ごした。また、奥様の出身は栃木県。土地勘のある栃木県は、必然的に移住候補地のひとつだった。 移住先を決める上でのポイントは、「通える範囲であることと、通勤のしやすさ」。埼玉県内のターミナル駅や宇都宮線、高崎線沿線などを候補に挙げたが、最終的に選んだのは下野市。始点・終点にもなる「小金井駅」があることが最大の魅力であった。 「宇都宮線は“小金井止まり”という電車も多く、都内からでも下野市までであれば本数は結構多いです。」 移住により通勤ストレスが軽減されたものの、埼玉県から栃木県に移住したことで、同僚は「通勤、大変じゃないのか」と気にかけてくれるようになった。 「通勤時間で言えばそれほど大きな変化はないのですが、埼玉県から通勤していた時は乗り換えが多くて、まとまった時間が取れなかったんです。座れないことも多く、とにかく通勤が苦痛でした。下野市からは乗り換え無しで通勤できるので、読書したり、映画を観たり、睡眠が取れたり。時間を有効活用できるのが嬉しいですね」 テレワークで変化した、仕事環境とライフスタイル 下野市からの通勤は苦ではなかったと話す児珠さん。2020年3月末までは毎日オフィスへ出社する日々が続いていた。 しかし、東京都で緊急事態宣言が発令される直前に、状況は一変。完全にテレワーク生活となった。 「栃木から通勤していた自分に限った話ではなく、全社員がテレワークになりました。幸い、我が家には自室があったので、そのまま仕事部屋になりましたが、都内に住む同僚たちは部屋数が限られる人も多いので、家族との折り合いは大変そうですね」 そんな児珠さんにも、テレワークを機に買い足したアイテムが2つある。 情報漏洩を防ぐためのヘッドホン、そして背景用のグリーンバックだ。テレワーク当初は、毎朝グリーンバックをセットするところから仕事の準備が始まったという。 また、作業環境を整えるために、長年取り付けたいと思いつつ後回しになっていたキーボードスライダーをDIYで設置した。これにより、作業効率がアップ。 「もっと早く設置すればよかったのですが、毎日使うデスクではないのでなかなか重い腰が上がらなかったんですよね」と苦笑い。デスク周りの環境を整えられたことも、テレワークを機とした変化のひとつである。 そして、テレワークによってもたらされた生活面での変化も。 また市役所の上司も「1年目は、まず地域のことをしっかり知ることが目標。くらいの気持ちで活動してみて。」と優しく見守ってくれた。 そのような環境だったからこそ、疋野さんも安心して、地域に入っていくことができたという。 そうした中で、力を入れて取り組んだのは女子旅ツアー。旅行会社での経験を活かし、栗山地域に人を呼ぶ企画を考えた。また、都内の大学生に来てもらい、地域を巡って名所や暮らす人たちを紹介する冊子『あがらっしぇ栗山』を製作。(※「あがらっしぇ」とは「あがっていきな、寄っていきな」というニュアンスの栗山地域の方言)いずれも好評を得て、成果を感じられたという。 これまで1時間40~50分ほどかかっていた通勤時間を、そのままウォーキングの時間に充てたことだ。 下野市に移住して2年ほど経った頃から、生活習慣の改善としてウォーキングをはじめたが、当初はそれほど長い距離ではなかった。しかし、テレワークをきっかけに距離を伸ばし、今では毎朝8kmほど歩いているそう。 「毎日歩いていると、季節の変化を感じられるんですよ。夏は田んぼの稲が少し伸びたな、とか。秋だと葉が色づきはじめたな、とか。純粋に自然を楽しんでリフレッシュすることが多いですが、今日仕事でこなしたいタスクなど、始業前に頭の中を整理する時間でもあります」 歩くことは週末も欠かさない。お子さんも一緒に歩いてくれることは、週末だけのウォーキングの楽しみだからだ。 テレワークで大切なのは同僚との信頼関係 朝6時に起床。ウォーキングと朝食を済ませ、8時50分には自室のデスクへ。正午に1時間の休憩をはさみ、18時~19時に仕事を終えるというのが現在のワークスタイル。 オフィスへ出勤していた頃と比較して一番大きな変化は、終業時間が2~3時間早まったことだ。 「自宅だと、自分でやらなければいけない作業に集中できるので、とても捗ります。会社だと、誰かに声をかけられると作業が中断してしまうので。一人で取り組む仕事が多い場合、テレワークは本当に良いなと感じています」 逆に、デメリットについては、「他の人と連携して取り組まねばならない仕事はスムーズにいかなくなった、と感じています。隣の席にいればちょっとしたことでもすぐ聞けたことが、できなくなった。あとで聞こうと思って、そのまま忘れてしまうことも。長期的プロジェクトだと、些細なことがあとで大きなトラブルにもなりかねないので、その点は気をつけなければと思っています」 完全にテレワークが始まった2020年3月末以降、同僚のサポートもあり2回しか出社していないという児珠さんだが、出社をした際に、やはり同僚と直接顔を合わせてコミュニケーションが取れる時間もいいな、と感じたという。 「贅沢なわがままかもしれませんが、本音を言うと、月に2~3回くらいは出社するスタイルが、自分には一番合っているかもしれません」とはにかむ。それも下野市からの通勤に苦痛がないからこそ思えるのだ、とも。 テレワークをうまく実践するための、児珠さん流のコツを聞くと、 「見られていない分、しっかり仕事して結果は出さないといけない。わからないことは誰かに聞いて、すぐに解決する。結局テレワークは”信頼関係”によって成立するものだと思うんです。一度でも相手を疑ってしまうと、関係がギクシャクしてしまう。そうなると、仕事もうまくいかなくなってしまいますから」 テレワークを通じて見つけた、 自分の住むまちでやりたいこと 下野市で過ごす時間が増え「自分も何か地域に貢献できないか」と意識するようになったという。 まずは地域のイベントに参加してみようと、情報を探していた時に見つけたのが、下野市が開催していた「しもつけクエスト」だ。 関係人口の創出や、まちづくりに関わる人材の育成を目的としたもので、児珠さんはそこで市役所の職員、市内で活動する若手プレイヤーなど、多くの出会いを得た。 「やりたいことは、どんどん発信しないとできないよ!」。イベントのプレゼンターが発したこの言葉が、児珠さんの背中を押した。 「自分には、仕事を活かしたパソコンのスキルがある。例えば子どもたちにスマホの使い方を教えたり、おじいちゃん・おばあちゃんが遠方に住む孫とテレビ電話ができるようにサポートしたり、地域の為にできることはあるんじゃないかと思っています。今後は、そういった自分のスキルを発信し、まちに貢献できる人になりたいですね」と力強く語った。 テレワークを通じて、またこのまちに新たなプレイヤーが現れようとしている。そう感じた瞬間であった。

テレワークにより実現した、理想のライフスタイル

テレワークにより実現した、理想のライフスタイル

石毛葉子さん

Uターンによって始まったテレワーク 石毛さんのテレワーク生活は、2019年11月、神奈川県鎌倉市から壬生町へUターンしたタイミングでスタートした。 鎌倉に住んでいた時は自宅から15分ほどの職場に通い、同じ職種の仲間たちとリペア作業に取り組む日々。7年ほど働いたタイミングで、次へのステップアップを意識し始め、考えたのが地方への移住だった。 鎌倉での暮らしは、周囲にアーティストや作家なども多く、刺激を受ける日々ではあったものの「東京よりも田舎に住むのであれば、別に鎌倉ではなく地元でもいいのでは」と思うようになったという。四国、九州など、友人が住む場所を軸にさまざまな地域も検討したが、最終的には土と水が合う地元・壬生町へのUターンを決意。 職場にはこれまでテレワークの前例がなかったため、転職も考えたが、「テレワークしながら続けてみたら」と会社からの勧めもあり、拠点を壬生町へ。実家の一室を作業場として、石毛さんのテレワークが始まった。 「今がちょうどいい」仕事とプライベートのバランス 移住して一年が過ぎた石毛さん。 一番大きく感じる変化について、「仕事と並行して自身のブランド『YOGE』の活動もしているので、鎌倉に住んでいた時は何とかして自分の活動を発信しないと!見つけてもらわないと!という思いで、常に背伸びして頑張っていました」と語る。仕事と『YOGE』の活動のバランスがうまく取れず、悩むこともあった。 「あれだけ肩肘張って踏ん張っていたのに、栃木に戻ってきたら、そういったことが全く無くなって。背伸びしなくても、自然と誰かが手招いてくれて、人と人との繋がりがどんどん広がっていくんです」。 隣町の栃木市では定期的に個展を開催する場所も見つけた。栃木市でのご縁はプライベートでも広がり、今や遊びに行く場所は栃木市になりつつある。そこでの友人を通じた出会いで茨城県在住の作家とも仲良くなり、茨城で開催するイベントでも作品を販売できるようになった。2020年12月には茨城の作家仲間と共に個展を開催し、更に輪が広がったという。 「無理せず、常に等身大でいられるようになったのは、栃木に戻ってきてからです。今は理想と現実のバランスがちょうど保たれていて、本当に戻ってきてよかったなぁと思います」。 テレワークを機に変化したワークスタイル 今だからこそ当たり前のテレワークだが、石毛さんがテレワークを始めたのは2019年11月。職場でのテレワーク第一号だったこともあり、色々なことが手探りだったという。 しかし2020年春の自粛期間を経て少しずつ職場のテレワーク化が進む中で、実践者として同僚にアドバイスすることもあるそうだ。 アドバイスとして必ず話題に上がるのが、テレワークに必要なアイテム。石毛さんはテレワークを始め、2つのアイテムを購入した。 1つは手元を明るく照らすデスクライト。細かい作業の多いリペアには必須アイテムだという。そしてもう1つはオンラインミーティングや友人との会話用に購入したリングライトだ。 「リングライトを購入したのは最近ですが、使用すると顔色が全く違います。画面映りが良いと、ミーティングも前向きに参加できる気がするのでおすすめですよ!」 テレワークは、自分のペースで仕事に取り組むことができ、仕事に集中できるため、自分には合っていると話す石毛さん。 勤務時間は9時間(途中で休憩1時間)だが、始業のタイミングは調整できるので、朝、家の周りをウォーキングして、外の空気を吸ってから仕事に取り組むことが日課になったそうだ。 また、気分を上げるために部屋にお気に入りの花を飾ることも、テレワークをきっかけに始めた。 「部屋にこもっての作業になるので、自分の好きなものや気分転換できるものを部屋に取り入れることは大切だと思います」とアドバイスしてくれた。 テレワークを実践する上で意識していることは「自己管理がとても大切です。テレワークって自由と責任で、自分の思うように動けますが、その分結果も残さなければいけません。個人事業主のように作業効率を意識して取り組んでいます。また、積極的に自分で情報を取りに行くことも大切です。入ってこない情報もどうしてもあるので、抜け落ちがないよう、職場の仲間とはこまめに連絡を取り合っています」。 何かあれば職場のメンバーとすぐやり取りできる環境は整っているが、やはり実際に会ってやり取りしたいと思うこともあるという。仕事の進め方や効率という点ではテレワークはとても合っているが、オフラインに比べてコミュニケーション不足になりがちなのは「テレワークあるあるだね」と仲間とも話している。テレワークにおいても円滑なコミュニケーションをとる方法を模索中だ。 テレワークを通じて、叶った夢 石毛さんには、テレワークが始まったことで叶った夢が2つあるという。 1つは念願の畑仕事ができたこと。鎌倉に住んでいた頃から、ずっとやってみたいと思いつつ、近所で畑を見つけることができず諦めていたという。 栃木へUーン後も、週末は東京や鎌倉に行って過ごすことが多かったが、移住して4ヶ月ほどで新型コロナウィルスが流行し始め、しばらく県外に行けなくなった。週末も基本的に栃木に居られるようになったため、自粛期間にいよいよ畑仕事に取り組むことにしたという。 「父が持っていた土地があり、試しに畑にしてみたらとても良い土だったんです。初年度にも関わらず夏にはたくさんの野菜が収穫できました。今では父の方が野菜作りに熱心になってしまって、一緒に本を読んで研究しながら、いろんな野菜を育てています」。 最近では近所に住む友人も、石毛家の畑で野菜を育てるようになり、お互いに収穫できた野菜を物々交換することも。「畑仕事をきっかけにいろんな人と、いろんな楽しみが広がっていますね」。 もう1つの夢は、子どもたちにリペアの魅力を教えることだ。縫製というと、服を作る方に光が当たりがちだが、自身が誇りを持って取り組むリペアはカッコいい仕事だということを、若い世代に伝えたいという。 「つい先日、小学生向けに洋服のお直し会を開きました。ほつれたり、穴があいてしまった洋服を持ってきてもらい、自分で可愛くリメイクしてもらうイベントです。みんな、すごく楽しんでくれました」。 後日、イベントを開催した話を、以前お世話になった上司に報告した。すると、「夢が叶ったんだね、おめでとう!」と言われたそう。 「私もすっかり忘れていたのですが、何年も前に『いつか学生にリペアを教えたいんです!』って目をキラキラさせながら語っていたそうで(笑)。何年か越しに、地元で夢を叶えられて嬉しいなって、その時すごく思いました」。 テレワークを通じ、ワークスタイルとライフスタイルの変化によって実現した2つの夢。 いずれも栃木というフィールドで、石毛さん自身に心の余裕ができたタイミングだからこそ、自然であり必然と叶った夢なのかもしれない。 そんな石毛さんには、次の夢がある。 「場所づくりがしたいです。自分がここにいるよ、と言える場所。作業場でもあり、友人たちが気軽に訪ねて来られるような場所がほしいなと思っています。そこで、モノづくりの楽しさや、リペアの魅力を伝えていけたらいいですね」。 いつか叶えたい夢、皆さんはありますか。 もしかすると、テレワークを機に、栃木で叶えられる夢があるかもしれません。 栃木でテレワーク、はじめてみませんか。

小さな幸せが日常の中に

小さな幸せが日常の中に

春山良子さん

農業研修や移住体験施設を活用して候補地探し 「どこかに移住しようか……」 そう切り出したのは充さん。2021年1月、東京に2回目の緊急事態宣言が出されたときのことだ。当時のことを、良子さんはこう振り返る。 「私たちは二人とも東京出身なのですが、私は小さいころから田舎暮らしに興味があって。夫もキャンプなどのアウトドアが趣味で、だんだん自然豊かなところで暮らしたいと考え始めたようです。これまでは東京を離れる理由がなかったのですが、コロナ禍でお店を思うように開けられないのを機に夫婦で話し合い、東京で居酒屋を経営しながら、もう一つの拠点を地方に持とうと動き出したのです」 最初に参加したのは、「農家のおしごとナビ」というサイトで見つけた、県北エリアで行われた国主催の農業研修。4泊5日の研修中に出会った農園のオーナーやスタッフのみなさんは裏表がなく、とてもやさしく接してくれた。県北エリアでは多くの移住者を受け入れているからか、オープンな人が多いところにも惹かれた。 「ただ、雪が降ったときの車の運転が、ちょっと心配でした。そんなとき、研修で知り合ったある年配の方が、『大田原市だったら、雪はそれほど降らないよ』と教えてくれて、移住先の候補に加えたんです」 次に利用したのは、東京・有楽町の「ふるさと回帰支援センター」内にある「とちぎ暮らし・しごと支援センター」だ。そこで、主に県北エリアを候補として考えていると伝えたところ、それぞれの担当窓口を紹介してくれた。なかでも、最初に連絡がついた大田原市に、まずは見学に訪れることに。 このとき滞在したのは、市の南部にある「ゆーゆーキャビン」というログハウスの移住体験施設。ここを拠点に移住コーディネーターに案内してもらいながら、農家や移住者のもとを訪ねて話を聞いたり、空き物件を見学したりして回った。そのなかで訪れた、裏にきれいな川が流れる小さな一軒家がとても素敵で、「こんなところに住んでみたい」と感じたという。その帰りに、近くの小学校に立ち寄ると、校長先生が「どうぞ見学していってください」と案内してくれた。 「児童数40人ぐらいの学校だったのですが、板張りの校舎は明るくきれいで、一人一台パソコンが支給されていました。校長先生は、『うちには不登校の子も発達障害の子もいますが、みんなで支え合いながらやっています』と話されていて、ここならうちの子たちもやっていけそうだと思ったんです」 さらに、2カ月のお試し移住を経て大田原に 4泊5日の滞在を終えて、東京に戻った良子さんは充さんと相談し、大田原市への移住を具体的に考え始めた。見学の際に気に入った小さな一軒家は築年数が古かったこともあり、近くで別の物件を探し、現在のこの一軒家(下写真)と巡り合った。 「ただ、賃貸ではなく売買物件だったので躊躇していたところ、大家さんが『試しに2カ月住んでみて、それで決めてくれたらいいよ』とおっしゃってくれて。2021年7月に私(良子さん)と子どもたち二人で、とりあえず引っ越してきたんです」 この2カ月間が、地域を知るために大いに役立った。 「近所のみんなさんはフレンドリーで、地域のことを教えてくれたり、虫取りが大好きな息子に捕ってきたクワガタをくれたり、本当に親切にしてくれました。そのうえ、家の周りの山々は緑が濃くとてもきれいで、夜には満天の星空が眺められるんです。夫は東京の居酒屋を経営しながらだったので、滞在は1週間ほどでしたが、もう早い段階で『ここに決めよう』と話していました(笑)」 近所の皆さんは地域のことや野菜づくりのことなど、親切に教えてくれる。 子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなる! こうして新たな暮らしのスタートを切った春山さん家族。良子さんと子どもたち二人は大田原に移り住み、充さんは東京で居酒屋を経営しながら、月に10日間ほど大田原に滞在するという二拠点生活を続けている。 大田原に移り住んで一番うれしい変化は、子どもたちが学校に楽しく通うようになったことだ。 「二人とも、見学に訪れたときに校長先生とお会いした小学校に通っているのですが、学校に楽しく通えるようになりました。学校の行事にもちゃんと参加しているので、いろんな思い出ができて良かったなと思っています。何よりもすごく明るくなりましたね!子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなります」 先生たちの顔が見えることもポイントで、安心して子どもを預けられるという。 「児童数が多すぎるというのもあると思いますが、東京にいた頃は担任の先生以外はほとんど顔も知らない方ばかりでした。それがこっちでは校長先生まで出てきてくれますからね。学校全体でちゃんと子どもを受け入れてくれていると感じます」 良子さん自身も、移住後すぐに家の前にある畑で野菜づくりを始め、最近は中古の耕運機も手に入れた。 「ジャガイモや玉ねぎ、ニンニク、スナップエンドウなど、いっぱい収穫できました。とれたての野菜は本当においしく、東京のスーパーに並んでいる野菜との違いに驚いています。子どもたちも、喜んで食べていますよ」 さらに、良子さんは近所にあるガソリンスタンドで、1日4時間ほどだがアルバイトもしている。 畑で野菜が多く収穫できたときは、自分で袋詰めをして、ガソリンスタンド内の商店で販売している。 「おばあちゃん、おじいちゃんをはじめ、地域の人が買い物に来てくれて、良く世間話をしています。バイトを始めたことで、地域について詳しくなりました」 一方、ご主人の充さんの楽しみは、庭に張ったテントで過ごすこと。ハンモックでくつろいだり、家族みんなでカレーを食べたり、「キャンプ場に行く必要がなくなった」と喜んでいるそうだ。 ハーブの栽培や道の駅での販売にもチャレンジしたい 春山さん家族は、大田原市西部の、周囲に山々が広がる地区に暮らしている。 「大田原市の中心部も見ましたが、街中では東京の暮らしと大きく変わらないのではないかと思い、あえて自然が豊かな地区を選びました。私たちはお店を始めるためでも、おしゃれな田舎ライフを楽しむためでもなく、家族で生活をするために移住先を探していました。それには自然が豊かで、地域の人もあたたかい今の場所が、ぴったりだと感じたんです」 他の移住者のように、「移住先でお店を開いた」、「新たな事業を始めた」というような“大きな変化”はないが、子どもたちが外を元気に走り回っていたり、充さんは庭でキャンプができてうれしそうだったり、毎日食べる野菜がおいしかったり、そんな“小さな幸せ”をたくさん感じるようになった。 それだけではない。東京ではどこへ出かけても人が多く、スーパーなどで騒ぐ子どもたちをつい怒ってしまうことや、些細なことでイライラすることがあったが、そんな小さなストレスも移住してからはなくなった。物理的な広さやゆとりがあると、気持ちにも余裕が生まれるのではないかと話す春山さん。 「子どもをやたらと怒らなくなった」 これも移住して良かったと感じることの一つだという。 「当面は、東京で居酒屋の経営を続けながら、徐々に大田原での生活も築いていきたい。これからは畑でハーブを育てたり、市内の道の駅で野菜を販売したりと、新たなことにもチャレンジしていきたいです」

日常にワクワクを!

日常にワクワクを!

王生雄貴さん

その瞬間にしか味わえない、生きたライブを その日、即興ライブを行うという「Cafeくりの実」(栃木県下野市)を訪ねると、王生さんは他のお客さんと同じようにカウンターに座って、野菜が鮮やかに盛られたカレーを食べているところだった。 「流しでライブをやるときは、事前にお店の雰囲気を感じておかないと、なかなかうまく演奏できないんです。臆病なので(笑)」 そう謙遜する王生さんだが、お客さんの様子を目にしたり、会話を耳にしたりすることで、その場所に合った、その瞬間だけの生きたライブになる。実際のゲリラライブを見させてもらい、そう強く実感した。 以前、「ベリーマッチとちぎ」でも紹介した布作家の倉林真知子さんが手掛けた衣装を身にまとい、バイオリンを奏でながら王生さんが登場すると、店内には笑顔があふれた。 「リクエストのある方はいらっしゃいますか? ぼくの頭のなかで曲が流れれば、そのまま弾くことができます!」と王生さんは、リクエストされた曲を即興で演奏。お客さんも楽しそうにバイオリンを奏でる王生さんにつられて、手拍子がどんどん大きくなっていく。 そしてライブを終えると、お客さんのなかには目に涙を浮かべる女性が。聞けば、リクエストした曲が、1年前に若くして亡くなられた息子さんをイメージした曲で、息子さんのことを思い出したとのこと。「今日、偶然訪れたカフェで素敵な演奏を聴くことができて、本当にうれしかったです」と、その女性は話してくれた。 2年にわたり全国を旅して栃木県へ 現在、王生さんは「Philharmony Wedding(フィルハーモニーウエディング)」というエンターテインメントな空間演出に特化した楽団を運営し、カフェやバー、式場、イベント会場など、あらゆる場所でライブを開催。バイオリンの演奏だけでなく、ジャグリングやタップダンス、バルーンなどのパフォーマーとコラボした演出も手掛け、栃木県を拠点に全国各地でワクワクを届けている。 そんな王生さんが姉とともにバイオリンを習い始めたのは3歳のころ。それからもさまざまな習い事に挑戦したが、高校卒業まで続いたのはバイオリンだけだった。歌うことも好きで、ポップシンガーを目指して19歳で上京後、縁あってレゲエの道へ。バイオリンを奏でながらボーカルも務めるという、独自のポジションを確立。有名ミュージシャンのレコーディングに参加したり、ライブで共演したりと活動の幅を広げていった。 「けれど、憧れていた人たちと一緒に演奏ができるようになると、『失敗したらどうしよう』『嫌われたらどうしよう』と余計なことばかり考えるようになって。純粋に音楽が楽しめなくなってしまったんです」 そこで、24歳で「日本一周流しの旅」へと出かけたのは、最初に述べたとおりだ。王生さんは全国を駆け足で回るのではなく、訪れた街に一定期間暮らすように滞在し、近隣のバーなどで流しのライブをして旅の資金を得て、またヒッチハイクで次の街へ移動するという日々を過ごしていた。 「各地を巡るなかで、全国に一生付き合える友達をつくることが目的でした。そういったつながりが、今後の人生や音楽活動の財産になると思ったんです」 こうして訪れた栃木で、王生さんは奥さんのめぐみさんと出会い、結婚を決意。「流しの旅」を、ここで終えたのだった。 豊かな暮らしと、音楽に没頭できる環境を栃木で実現 「とっておきの場所があるんです」 そう言って王生さんは、近所にある森に囲まれたツリーハウスのような場所へ案内してくれた。高台にあって田んぼが見渡せ、木々の間を抜ける風が心地いい。 「誰がつくったのかわからないのですが、時々おじゃまさせてもらって、ここでバイオリンを弾くと、とてもリラックスできるんです。全国を巡って、それぞれの街にはそれぞれの良さがあることを感じました。そのなかで、栃木ならではの良さといえば、こんなにも自然が豊かなのに、東京へも気軽に行けるところだと思うんです」 さまざまな刺激が得られる東京も魅力的だが、生活するのはゆったりとした田舎がいいと、以前から考えていた王生さんにとって、栃木県はうってつけの場所だった。 自宅に戻ると、めぐみさんが料理に取りかかっていた。この日は、夕方から友達家族を招いてバーベキューを開催。土間のある開放的なリビングにつながる庭で、大勢でバーベキューができるのも、ゆったりとした敷地が確保できる田舎だからこそ。肉と一緒に焼く野菜は、自分たちで育てたものだ。 この家は断熱性や気密性が高く、隣の家ともある程度離れているので、リビングでバイオリンやギターを演奏しても、近所まではほとんど聞こえないという。そのうえ、家の一角には、王生さん専用の「音楽室」も設けられている。 「どんなに大きな音を出しても、外には聞こえません。こうやって作曲や練習に没頭できる環境があるのは、本当にありがたいこと。東京などの都会では、なかなかこういった空間は、確保できないと思うんです」 路上ライブが日常的に行われる、文化を根付かせたい 全国を巡る旅を終えて、変わったこともあるが、変わらなかったこともある。 「それは、自分でいうのもなんですが、ポップな性格です。旅に出る前は、音楽好きの玄人が集う世界のなかで、ポップな自分の性格はコンプレックスでした。けれど、2年間の旅を経てもこのキャラクターは変わらなかった。ならば、それを生かせることを仕事にしようとたどり着いたのが、日常にワクワクを届ける『フィルハーモニーウエディング』の活動だったんです」 現在、王生さんは音楽活動に加えて、別の仕事にも就いている。めぐみさんと結婚して長男が誕生し、就職したばかりのころは、その仕事にやりがいを見いだせず、腐りかけたこともあった。 「ライブで、『日常にワクワクを』と言っているのに、自分がワクワクしていないな……と思って。もう一度、街角やカフェ、バーなどでバイオリンを即興で演奏する“弾き流し”を、県内をメインに毎週のように行っているんです」 そうやって弾き流しの活動を続けることで、ミュージシャンが路上で演奏することを、当たり前と感じてもらえるような文化を根付かせていきたい。多くの人の日常に音楽が調和し、ワクワクがあふれるような世の中にしていきたい。そう願いながら、王生さんは今日もどこかでバイオリンを奏でる。

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

冨永美和さん

Iターンで、小山市にマイホームを 山形生まれの山形育ち、就職も地元企業。同じく山形県出身のご主人と結婚したが、ご主人の勤め先が栃木県内の企業だったこともあり、結婚を機に山形を離れ、栃木県下野市へ。冨永さんが勤めていた会社は都内にもオフィスがあったため、そちらに転勤し、下野市から都内のオフィスへ通勤していた。 ご主人の転職に伴い、一度は茨城県古河市へ。その後、子どもが生まれたことで「家を建てたい」という想いが強くなった。 「山形に戻ることも考えましたが、今後のライフプランを考えた時に、関東にとどまることにしました。栃木県、茨城県、埼玉県で土地を探す中で、自分たちの理想にぴったりの場所を小山市に見つけ、念願のマイホームを建てることにしました。」 第二子出産とほぼ同じタイミングに家が完成し、家族4人での小山市暮らしがスタート。 「駅からそれほど離れていませんが、静かな土地で、周りには子どもの同級生も多いので、安心して子育てできます。日常生活に必要なものは15分圏内で全て揃うので、暮らしの利便性はとても良いですよ。」 また、一戸建てに住んで良かった、と今になって強く思うことがある。それは、子どもたちがとても元気なこと。 「息子たちの今のブームは“戦いごっこ”。喧嘩ではないのですが、何をしていてもすぐに戦いごっこが始まり、毎日大騒ぎです。アパートやマンションに住んでいたら、常にご近所さんのことを気にしていたでしょうね・・・(苦笑)」 子どもに色々なことを経験させてあげられる環境 住まいには庭もあるので、2021年春からは家庭菜園をはじめた。 「ナス、トマト、とうもろこし、ブロッコリーを植えました。子どもたちも野菜が育つ過程や収穫を楽しんでいます。ただ、とうもろこしだけは収穫直前に鳥に食べられてしまいました。植えれば採れるというものではないこと、どうすれば無事に収穫できるか、など、失敗から学べることもありました。」 そして今年の夏は初めてカブトムシを飼うという経験もした。 「子どもたちは昆虫が大好き。毎日餌やりなど世話をしていました。生き物なので、お別れもありますが、生き物を育てることの難しさや楽しさを学んでくれたと思います。」 そして、これからは「アウトドア」にも挑戦してみたいという。 少し前からご主人の趣味が登山やキャンプになり、休日はアウトドアを楽しんでいる。 「せっかく身近にこれだけの自然環境があるのだから、そろそろ子どもたちもアウトドアデビューさせたいと話しています。」 県内には小さなお子さん連れでも登りやすい低い山から、本格的に登山を楽しめる山まである。川遊びやキャンプなども各地で楽しめるので、アウトドア好きにとって行き先に困ることはない。 「毎日外を走りまわって、笑って過ごしていることだけで十分ですが、身近でいろんな経験ができるので、その都度成長を感じられます。」 親が選んだこの地で、子どもたちも楽しく過ごせていることもシンプルに嬉しいという。 遊びに行ける場所の選択肢が多い 子どもが小さい頃は、市内で開催されるマルシェや近所の公園に行くことが多かったが、成長に伴い遊ぶ場所も変化してきた。 ご主人もいる週末は、一日は近場で、一日は遠出するというのが最近の過ごし方。 「近場では、市内のショッピングモールや、近隣市町の公園に行きます。遊具が充実した公園は子どもたちのお気に入りで、毎回行き先を変えることで飽きずに楽しんでくれます。」 遠出の場合は、那須エリアにあるファミリー向けテーマパークや、茨城県、群馬県に足を伸ばすことも。高速を使えばどこへ行くにも1時間程度なので、行き先に困ることはないという。 「調べてみると、宇都宮市や佐野市の商業施設にも、キッズスペースが充実しているところがあるみたいで。子どもを遊びに行かせるだけでなく、大人も買い物を楽しみながら、子どもも楽しめるというのは良いですよね。」 情報通の冨永さん。普段の情報収集については、「イベントなどは、市内のお気に入りのお店のS N Sをフォローして、出店情報をチェックして把握しています。子どもの遊び場は、友人が調べたものを教えてくれるんです。」 友人というのも、小山市に移住して来られた移住者仲間。 冨永さんが移住してきた当初、市が主催している移住者交流会『welcome! Oyama beginner』に参加したことをきっかけに、地元のキーパーソンや移住者同士とつながることができた。その時に知り合ったママ友とは、普段から情報交換をしたり、子どもと一緒に遊びに行くこともあるという。 「小山市はイベントが多いですが、最近はイベントで地元の方と交流するより、家族と公園や遠出して過ごすことが多かったなと気づきました。気になるお店もどんどん増えていますし、原点回帰でまたイベントに参加したいですね。」 子育てしながら在宅でできる仕事を 2022年春まで、都内の会社に在籍していた冨永さん。 会社がテレワークを導入していた際は、子どもと触れ合う時間が十分確保でき、仕事と子育てのバランスが非常に理想的だったという。しかし春にコロナが落ち着いたタイミングでテレワークが終了。会社との話し合いも重ねたが、子どもの幼稚園入園のタイミングとも重なり、一度子育てを優先する決断をし、退職した。 「仕事はしたいと思っているので、情報収集はしています。私も驚きましたが、在宅で働くことを望む主婦向けの求人情報って、栃木には意外とたくさんあるんです。」 働き方の変化に伴い、求人情報も世の中のニーズに合わせたものに変化している。 「在宅のみの仕事であれば、通勤アクセスを気にせずに、仕事内容で選ぶことができます。これからは、より一層栃木での暮らしを満喫しながら、仕事も子育ても充実させていきたいですね。」

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

髙山 毅さん

代々商売をしてきた壬生の地で、暮らしと営みを 左は米穀店だったころの法被、右は「壬生町史」。 「これを見てください」と髙山さんが開いてくれたのは、明治の頃、壬生の町内にあった商店の名が記録された「壬生町史」だ。そこには、鍛冶屋、薪炭商、桶屋、左官などがずらりと並ぶ中で、「銅鐡打物商」として髙山さんの曽祖父の名と屋号紋が記されている。当時の屋号紋は、「澤デザイン室」の上澤裕一さんによってリデザインされ、山十設計社のロゴ(下写真)として、今も受け継がれている。 現在、髙山さんのアトリエと住まいがあるこの場所は、壬生城址にほど近い中心市街地にあたり、髙山家では代々この地で商売を手がけてきた。 「曽祖父が金物商、祖父がお米屋、父が紙器と、生業はそれぞれ違うのですが、代々ここに暮らし、商売を営んできました。だから、私もこの地を受け継ぎ、ここで生活しながら仕事をするというのが、自然なこととして頭にあったんです」 髙山さんは一人っ子で、両親が年齢を重ねてから誕生した子どもだったため、親の介護をする時期もおのずと早いだろうと自覚していたことも、Uターンを選んだ理由の一つだった。 顔が見える関係を大切に、地域ならではのつながりを 山十設計社のホームページを開くと、次のようなメッセージが記されている。 「衣・食・住の縮図である“家”づくりを通じて、モノと人が循環する地域ならではの『地縁』を紡いでいきたい――」 こうした髙山さんの思いのルーツも、生まれ育った壬生町にある。 「例えば、昔は、先ほど見てもらった鍛冶屋や桶屋などの商店が並んでいて、近所のお店で買い物をしたり、馴染みの職人さんに仕事を頼んだりというのが、日常だったと思うんです。私は今でも、おいしいものを食べたいときは行きつけのお店で店主とおしゃべりしながら味わったり、車のメンテナンスは同じ整備士さんにずっとお願いしていたり、顔が見える関係を大切にしています。そんな地域の豊かな人のつながりを、家づくりを通じて再び育んでいけたらと考えているんです」 近くにあるイタリアン・レストランの「Fill kitchen」(フィルキッチン)にて。 その挑戦の一つが、この土地の風土や気候に適した、つくり手の顔が見える道具や素材を発信する「てびき」という取り組みだ。 髙山さんは、家は建物だけでは完成しないと考えている。丁寧な暮らしを楽しんでいきたいと思ったとき、家という器だけでなく、そこで使う道具や、ふだん食べるものなど、衣・食・住すべての要素が大切になってくる。 「かぬちあ」の中澤恒夫さんによるタオルハンガー。 だからこそ、様々なつくり手と山十設計社のプロダクト「てびき」では、那須塩原市の金工作家「かぬちあ」の中澤恒夫さんが手がける靴べらやタオルハンガー、フックをはじめ、益子町に2015年に創業した手仕事集団「星居社」がつくる今の暮らしに馴染む神棚などを、自社のホームページで発信。それだけでなく、佐野市で90年以上続く「日本プラスター」の漆喰などの素材も紹介している。 「ただ、これらはオンラインでは販売していなくて。家づくりなどを通じて、顔が見える関係になった方だけに提供しています。それは、やはり山十設計社で建てる家をきっかけに、豊かな『地縁』を広げていただきたいと考えているからです」 刺激を与え合う、異業種のつながりから生まれた「octopa」 「octopa」の4人。左から上澤さん、髙橋さん、髙山さん、荒井さん。 もう一つ、目指すベクトルが同じ異業種の人たちとのつながりを大切に始まった取り組みが、「octopa」(オクトパ)だ。宇都宮市で「古道具あらい」を営む荒井正則さんと、芳賀町で「mikumari」という名のカフェを開く髙橋尚邦さん、那須烏山市を拠点に活動するグラフィックデザイナー「澤デザイン室」の上澤裕一さん、そして髙山さんの4人がメンバー。古き良きものを、衣・食・住をテーマに今の暮らしに馴染むものとして再現し、“フルダクト”として提案している。 「例えば、アームライトやミシン椅子など、デザイン性に優れたアンティークをリプロダクトしたものだったり、昔ながらの保存食にヒントを得たソースや調味料の瓶詰めだったり、4人それぞれの得意分野を生かして、現代に合うものとしてつくり出しています」 また、octopaとして、これまでに日本最大級のアンティーク・マーケット「東京蚤の市」に出店するほか、黒磯の「1988 CAFE SHOZO」や益子町の「スターネット」などのカフェでも、食とクラフト、アンティークをテーマにしたイベントを開催してきた。現在では、古道具あらいに併設された建物で、「オクトパ食堂」をオープンし、瓶詰めのソースや調味料を生かした料理を提供している。 地域に根ざす喜びを実感する日々 一方、暮らしの面では、髙山さんは奥さんと二人のお子さん、そして父親の5人で、アトリエに併設された住まいで暮らしている。奥さんも建築士として勤めているため、髙山さんも掃除や洗濯などの家事を分担したり、子どもたちの宿題や、父親の様子を見たりと、1日のなかにこうした仕事以外のやるべきことも組み込みながら行っている。 「今年92歳の父は、だんだんと介護が必要になっていますが、やはり一緒に暮らしている安心感は大きいですね。ふだんの様子がわかるからこそ、どんな介護サービスが必要か、どこの業者に頼もうかなどを、しっかりと検討できます」 2016年に、実家の土地にアトリエと住まいを建築したとき、髙山さんはバリアフリーはもちろん、1階にある父親の部屋の近くにトイレや洗面、浴室などの水回りも配置した。これにより、自宅で父親を介助するときの負担を軽くすることができた。 「実は、この家に暮らし始めて6年ほどの間に、父が倒れて救急車を呼んだことが何度かありました。そのときも一緒に暮らしていたからこそ、倒れたことに気づくことができ、すぐに搬送することができました。その後の通院をサポートできたのも、同居しているからだと感じています」 また、髙山さんは、父親から受け継いだ寺の役員や自治会の班長のほか、子ども会の育成会長など、地域の活動にも積極的に参加している。 「父は直接口には出しませんが、そろそろ私に町内の仕事を任せても大丈夫だと思ってくれたのかなと。というのも、デイサービスのヘルパーさんには、『うちの息子は一級建築士の仕事も、地域のことも頑張っている』と話しているそうなんです。きっと、この家のことも喜んでくれているんじゃないかな」 地域のお祭りなどにも携わる髙山さんは、「子どもの頃、楽しかった夏祭りに、今度は親として子どもたちと参加するなど、地域に根ざすのもいいものだなあと実感しています」と微笑む。 空き家を再生し、現代版の地縁でつながった街をつくりたい 最後に、そんな生まれ育った壬生町で、髙山さんが今後手がけていきたいことについて話を伺った。 「実は、このアトリエの2階はオープンスペースになっていて、ここでいろんな人が得意なことを教え合う、“寺子屋”のようなワークショップを開催できたらと考えているんです」 「ひび学舎」と名付けたこの取り組みのコンセプトは、次のとおりだ。 「使い、壊れ、捨てる」は「使い続け、傷んだら、繕う」に。「買っていたもの」は「育て、つくるもの」に。「古びたもの」は「活かし生きるもの」に。子どもから大人、つくり手も、暮らしに近い事柄を一緒に体験し、暮らしに持ち帰る。そんなきっかけを生み出す場に。 「例えば、『古道具あらい』の荒井さんがアンティークの磨き方をレクチャーしてくれたり、設計を担当させてもらった栃木市の『珈琲音 atelier』のオーナーにコーヒーの淹れ方を教えてもらったり、そんな様々なワークショップが開催できる場所になればと思っています」 レクチャーを行う人は壬生町に限らず、いろいろな地域から招きたいという。 「壬生町は、宇都宮市や栃木市、鹿沼市、下野市などの大きな街に隣接し、どこへでも行きやすく、どこからも来やすい。そんな特性を生かして、例えば、栃木市のコーヒーショップと宇都宮からワークショップに参加した人をつなぐなど、ここを地域と地域、人と人をつなぐ“ハブ的”な場所にしていきたいんです」 様々な地域の人が集うようになれば、いずれ壬生に住んでみたい、壬生でお店を開いてみたいという人も現れるのではないか。現在、壬生の中心市街地では、多くの商店街と同じように、空き家や空き店舗が増えつつある。一朝一夕にはいかないが、そんな空き家を一つひとつ人が暮らし生業を営む場所に変え、明治期の商店一覧で見たような多彩な生業の人が暮らし仕事を頼み合う、現代版の「地縁」でつながった街にしていきたい。それが髙山さんの大きな夢だ。 「街並みとして線にならなくてもいい。点と点が徐々につながっていくような、そんな空き家を生かした新たな試みに、私も自分の生業である建築の分野で携わることができたら最高ですね!」

ほっと、リセットできる場所に

ほっと、リセットできる場所に

関 恒介さん

〝自分勝手〟に生きることが大事なんだ   「みんな、人のために生きすぎなんじゃないかな」 店主の関さんは、コーヒーを淹れながら、そう話す。 「カウンターのこっちに立つようになって思うのは、まずは自分自身が楽しく、家族が幸せに暮らしていないと、お客さんを笑顔にできないということ。間違っているかもしれないけど、今は〝自分勝手〟に生きることが大事なんだと思っています」 例えば、小学4年生の娘さんに、「仕事が終わったら、すぐに帰ってきてね!」と言われたとしても、お店の片付けが終わったあと、30分好きな音楽を聴いてから帰宅する。そうやって少しだけ自分を大切にすることで、いつも穏やかに笑顔で過ごすことができる。 「このお店が、お客さんにとって、そんな息抜きの場所になっていたら嬉しいですね。Waffle Coffeeに寄ってから帰ったことで、家でもニコニコ過ごせたと言われるような場所に」 コーヒー屋で働く人たちが、みんないい顔をしていたんです 関さんは、千葉県柏市の出身。20代前半の2年間を、学生としてロサンゼルスで過ごした。音楽に熱中し、レコードを買いあさる日々。そして帰国後は、ミュージシャンとしてCDを出す傍ら、会社員としてのわらじも履き、仕事を続けてきた。そんな関さんが移住を考え始めたのは、2011年ころのことだ。きっかけは大きく二つある。 「そのころ、ワーゲンに乗って日本を一周したいと言っていた祖父や、アメリカを横断したいと話していた母などの身内が、立て続けに亡くなってしまって。やりたいことは後回しにせずに、今を大切に楽しく生きなくては、と強く思ったんです」 もう一つは、会社員の仕事で、壁にぶつかっていたことがある。 「僕は、自分で言うのもなんですが、会社員としては本当に仕事ができなくて。自分では頑張っているつもりでも、いつも年下の上司に怒られていました」 当時も、しょっちゅうアメリカを訪れていた関さんは、滞在中、よくコーヒーショップに立ち寄っていた。 「コーヒー屋で、働いている人たちの顔を見ると、チェーン店で働く人たちよりも、個人でお店をやっている人たちのほうが、みんないい顔をしていたんです。やらされているのではない。ニコニコ楽しそうに仕事をしている。そんな姿を目にして、自分も好きなこと、得意なことで勝負しようと決意しました」 コーヒーは、もともと好きで、自分で工夫しながら淹れていた。焼き菓子やケーキは、日本ではなかなかアメリカで食べた味に出会えず、ないなら自分でつくろうと家で焼いていた。器やアンティークも好きで集めていて、自宅はDIYで改装していた。 「そうやって、自分が情熱を注げるものを集めていったら、自然と今のコーヒーと焼き菓子のお店にたどり着きました」 NYのブルックリンのような、ポテンシャルを感じて お店を開く場所を探して足利市なども見て回ったが、佐野市を選んだ理由は、「適度に街で、適度に田舎で、交通の便もいい」ところ。奥さんの実家の群馬県館林市に隣接しているところ。「佐野の人は穏やかで、やさしい」ところなどが決め手に。 「うまく言えませんが、なんか好きだなぁって感じて。ここが、自分たちの暮らしにフィットしたんです」 さらに、佐野の街にポテンシャルを感じたのも、大きな理由だ。 「ポートランドやニューヨークのブルックリン、ロサンゼルスのダウンタウンなど、僕がアメリカにいたころには、今のように注目を集める街になるとは、想像もつかなかった。それが、物価や家賃が安いからと、アーティストやクリエイターたちが集まってきて、コーヒーショップや古着屋、レコード屋など、感度の高いお店がどんどん誕生していった。佐野にも、そんなポテンシャルを感じたんです」 このコンビニだった物件は、よく足を運んでいた「自家焙煎 福伝珈琲店」(Waffle Coffeeの2軒隣で、コーヒー豆は福伝珈琲店から仕入れている)の店主が紹介してくれた。それを、約1年かけてDIYでリノベーション。1900年代初頭の古き良きアメリカの空気に満たされた、Waffle Coffeeが誕生したのは、2016年4月のことだ。 佐野の居心地が良すぎて、家も買っちゃいました 「こないだ気づいたら、『きな粉のマフィン』をつくっていて。これはそろそろアメリカに行かなくちゃダメだなと思って(笑)」 そう話すように、関さんは今でも定期的にアメリカを訪れ、ベーカリーやコーヒーショップを巡り、実際に食べておいしいと感じた焼き菓子やケーキを、甘さやスパイスを少し抑えるなど、日本人の口に合うようにアレンジして提供している。素材は、娘さんにも安心して食べさせられるものを基準にセレクト。フルーツなどの盛り付けは、あえて綺麗に行わず、アメリカのラフな雰囲気を再現している。 「そうやってつくった焼き菓子を、おいしいと言ってもらえたとき、喜んでもらえたときが、何よりも嬉しいですね。また、お客さんから『福伝さんとうちと、今日はどっちに行こうかと迷えるのがありがたい』と言ってもらえたときも嬉しかった。そうやって訪れるお店の選択肢が、もっともっと佐野に増えていったらいいですね」 お店を訪れる若い人たちから、「自分もお店を開きたい」と相談をされることもある。 「そんなときは、『佐野は東京などの都市部に比べて家賃が安く、クリエイティブなことにも挑戦しやすいんだから、どんどんやるべきだよ!』って、もう何人もの背中を押しています」 さらに週末には、若い人たちがお店に来やすいよう、同世代の若いスタッフに、なるべくお店に立ってもらうようにしている。 「そうやって微力ながらも応援していくことで、若い人たちが新たなお店を立ち上げ、また次の世代の子たちの背中を押して……と、佐野に魅力的なお店が、どんどん増えていったら楽しいだろうなって」 実は、関さんは、佐野市内に1960年代に建てられたプール付きのもと別荘を格安で購入し、現在、自宅へとリノベーション中だ。 「これこそが、まさに佐野の住みやすさの証! この街が気に入らなければ、家は買わないですから(笑)」

点と点がつながって、大きな輪に

点と点がつながって、大きな輪に

渡辺直美さん

1年かけて商品化した「日光彫の御朱印帳」 開け放たれたその窓からは、借景の美しい緑が眺められる。ここは、日光東照宮の門前。表参道からは1本離れているが、それでも国内外から訪れた多くの旅行者が、お店の前を行き交う。 「すみません。“神橋”は、こっちですか?」 そう旅行者に聞かれて、「TEN to MARU」の店主・渡辺さんは丁寧に道を案内する。 「いつも扉をオープンにしているから、みなさん気軽に立ち寄ってくれて。よく道も尋ねられます。それをきっかけに、会話が弾むことも。そんな何気ない触れ合いが楽しいですね。このお店が、街の案内所のようになっているのがうれしい!」 店内に所狭しと並ぶ商品のなかでも、人気は御朱印帳。伝統工芸である〝日光彫〟の老舗「村上豊八商店」とコラボして、女性職人と約1年かけて一緒に商品化したのが「日光彫の御朱印帳」だ。表紙には、「榀(シナ)」の木の合板などを使い、そこに日光ならではの〝眠り猫〟や〝神橋〟などの図柄をあしらっている。 「日光彫は、ヒッカキ刀という独特の刃物を使い、細く繊細な線から力強い線まで自在に表現できるのが魅力です。従来の日光彫では、おぼんや手鏡、花瓶など、家のなかで楽しむものが中心でしたが、御朱印帳ならいつも一緒に持ち歩くことができる。もっと身近に日光彫を楽しんでほしいという思いを込めて、『一緒に旅する日光彫』と名付けて発信しています」 その隣に置かれているのは、御朱印帳ケース。御朱印帳は、寺院と神社を分けて使っている人も多く、「2冊を一緒に持ち運べるケースがあったら」という渡辺さんのアイデアをもとに、宇都宮で帆布を使ったバッグや小物を手がける「1note(ワンノート)」と一緒に形にしていった。好きなカラーを選んで、オーダーすることができる。 さらに、本サイトでも紹介させてもらった「mother tool」のモビールや「秋元珈琲焙煎所」のコーヒー豆のほか、日光で続く「小野糀」の塩糀や味噌、同じく日光の「だいもん苺園」のジャム、「李舎(すももしゃ)」のどうぶつ組み木など、日光や栃木県でつくられた品々が並べられている。といっても、扱う商品を〝県内のもの〟と限定しているわけではない。 「ここから広がっていった人との出会いやつながりを大切に、多くの人に紹介したいと感じたモノを全国からセレクトするようにしています」 その言葉どおり、棚には鹿児島県の「ONE KILN(ワンキルン)」のドリッパーやシーリングランプ、お皿なども並んでいる。 人と出会い、つながっていくのが楽しい! 実は、渡辺さんは鹿児島県の出身で、2006年に結婚を機に、ご主人の地元である栃木県に移り住んだ。最初の3年ほどは宇都宮で、その後、日光に暮らしてもうすぐ10年になる。転機となったのは、日光にある木工房「Ki-raku」が、2013年にオープンしたギャラリーを手伝い始めたことだった。 「やっぱり人と出会って、つながっていくのが楽しくて。実は、宇都宮では東武百貨店の婦人服売り場で働いていて、鹿児島でも販売の仕事をしていたんです。今思えば、もともと好きだったんですよね、接客の仕事が」 だんだんと「自分のお店を開きたい」という思いが強くなり、実際に物件を探し始めたのが2015年初めのこと。もちろん不動産屋も訪れたが、もっと地域の生の情報が知りたいと、渡辺さんは日光にある飲食店や居酒屋などに足を運んだ。そのなかで知り合ったのが、日光で食事処「山楽」を営む、古田秀夫さん(上写真)。古田さんは、「二社一寺だけではない日光の魅力をゆっくり体感してほしい」と、自転車によるアウトドア体験型ツアーやレンタサイクルショップ「Fulltime」も運営している。 「古田さんが、『ここでやりなよ!』と言ってくれたが、この場所。もともとレンタサイクル『Fulltime』の店舗で、いまも自転車の貸し出しをしています。ちなみに、古田さんのお店『山楽』さんは斜め向かいなんです」 古田さん:「最初は、お店の前にずらりと自転車が並んでいたんですが、だんだん奥に追いやられてしまって(笑)。でも、それでいいんです。これまでになかった新しいジャンルのお店を渡辺さんがここでやってくれて、商店街全体が元気になっていくことが大切だから」 「TEN to MARU」がオープンしたのは、2015年9月のこと。店内の改装は、「Ki-raku」が手がけてくれた。 大切なのは、勇気を持って一歩を踏み出すこと 自分のお店を開いたことで、人とのつながりはさらに広がっていった。東京から日光を訪れ、たまたまお店に立ち寄ってくれた建築ライターの紹介で、運営に参加するようになったのが「ペチャクチャナイト」だ。これは、2003年に東京でスタートしたトークと交流のイベントで、20枚のスライドそれぞれに20秒ずつコメントしていくというコンパクトなプレゼンスタイルが特徴。現在、1020都市以上で開催されており、渡辺さんは「ペチャクチャナイト日光」の実行委員長を務めている。 「TEN to MARUで知り合った魅力的な方に登壇してもらったり、ペチャクチャナイトでつながった方にお店でイベントを開催してもらったり、『日光には魅力的な活動をしている人が、こんなにもたくさんいるんだ』と改めて実感しています。同時に、ペチャクチャナイトでは、外からも面白いアイデアを持った人たちが、日光を訪れてくれます。それが刺激となって、例えば、他の地域の人と日光の人がコラボした新たな商品が誕生したりと、さまざまな化学反応も生まれています」 これまでに日光では、ペチャクチャナイトを3回開催。今後は、毎回よりテーマを絞って開催していけたらと考えている。一方、お店については、これまでと変わることなく、人との出会いやつながりを大切にしていきたいという。 「日光へは、日本中、世界中からたくさんの人が訪れてくれます。そのなかから、『面白そうだから、日光に住んでみたい!』と、移住してくれる人が増えていったらうれしいですね。私もそんな相談を受けたときに、人を紹介したり、情報を提供したりと少しでも〝架け橋〟になれるよう、これからもネットワークを広げていきたいです」 鹿児島から知り合いのほとんどいない栃木へ移り住み、「お店を開くために自ら一歩を踏み出したことで、どんどんと人とのつながりが広がっていった」と振り返る渡辺さんは、次は誰かが一歩を踏み出す応援ができたらと考えている。 「私がお店に挑戦できたのも、それを理解し、応援してくれた主人や3人の子どもたちのおかげです。だから、これまでと変わらず、普段の暮らしも大切にしていきたいです」

SUPPORT移住支援を知る

最大100万円+αの移住支援金をはじめ、さまざまな支援制度・補助金をご用意しています。
スムーズにとちぎ暮らしをスタートできるよう、また、移住後に後悔しないよう、
最新の情報をこまめにチェックするようにしましょう!

CONTACT移住について相談する

ちょっと話を聞いてみたいだけの人も、
本格的に移住を相談したい人も、どんな相談でもOKです!
お気軽にご相談ください!