interview

継業(事業承継)

装飾 装飾
体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

多里(たり)まりなさん

実感したことを、自分の言葉で紡ぐことを大切に 中心市街地の活性化と、新聞社のさまざまな情報を発信する新たな拠点として、宇都宮まちなか支局が誕生したのは、2012年4月のこと。実は、1階にあるカフェ「NEWS CAFE」も、下野新聞社が運営。2階にはイベントスペースも設けられている。 京都府出身の多里さんは、最初の1年間は栃木支局で経験を積み、2年目からまちなか支局へ。ここでは、毎週日曜日に掲載される「みやもっと」面(2ページ)を、主に担当。紙面では、記者が自ら体験したことを、紹介することをコンセプトにしている。 例えば、本サイトでも紹介した宇都宮の「きものHAUS」が企画した、オリオン通りを約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」に、多里さんも花魁の一人として参加したり、ジャズの街としても知られる宇都宮で活動しているアマチュアのビッグバンドに、ピアノとして加わり演奏したり、1カ月で百人一首をすべて覚えて大会に出場してみたり、まさに体当たりで、街なかで起こる新たな取り組みに飛び込み、そこで実感したことを言葉にしている。 「通常の紙面とは逆に、『みやもっと』では、自分で体験したからこその感想や、そこから見えてきた街や人の姿、魅力を、自分自身の言葉で書くことを心がけています」 最初は顔には出さないけど、みんな歓迎してくれている 多里さんは、原稿を書くとき以外は、街へ出かける。移動は、徒歩が基本だ。 「暖かくなったら自転車にも乗りますが、街なかでは歩きが便利! 車のように駐車場を探さなくていいから、気になった場所へ身軽に立ち寄れるんです」 商店街を歩いていると、いろいろな人が声をかけてくれる。立ち止まって世間話をするなかで、意外な人から思わぬ情報を得られることもある。 「だからこそ〝枠〟をつくらず、できる限り幅広く、たくさんの人と会うように心がけています。もう一つ大切にしているのは、自分のことをオープンにすること。こちらから壁をつくらず、何でも話すようにしていると、相手も心を開いてくれる。これは、記者としての変わらぬ目標でもあります」 取材の途中に立ち寄った、「村山カバン店」の店主夫妻(上写真)も、家族のように接してくれる。コーヒーを出してくれたり、「おなか減ってない?」と、ときには一緒にお店のカウンターでお昼を食べさせてくれたりすることもある。 手作りパンを使ったサンドイッチ専門店「小時飯屋(こじはんや)」の店主も、いつも多里さんのことを気にかけてくれる(下写真:小時飯屋の店内の様子)。 「実は、就活で下野新聞社を受けるために、初めて宇都宮を訪れた帰りに、偶然立ち寄ったのが、小時飯屋さんだったんです。そのときお父さんが、『どこから来たの?就職活動? 栃木の人は表情には出さないけど、すごく温かいし、みんな外から人が来てくれるのをうれしく思っているから、大丈夫だよ!』と言ってくださって。もし受かったら、栃木に来よう!と前向きに思ったのを、今も覚えています」 世代間をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これからもっと このように地域と密接に関わる多里さんに、普段感じる「宇都宮の街なかの魅力」をうかがった。 「宇都宮は、東京や大阪ほど街の規模が大きくないぶん、初対面の人でも話してみると共通の知り合いがいたりして、コミュニティを築きやすいのが魅力だと思います。だからか、皆さん、職場や家庭以外にも、自分の趣味や好きなものに関する〝居場所〟を持っている人が多い。私も、よく近所のミュージックバーに行くのですが、2、3週間ほど間があいただけで、店主の方が『大丈夫?』と声をかけてくれる。そういう人の温かさに、日々支えられていますね」 もう一つ実感しているのは、幅広い年代の人たちが、地域をよくしようと活動していることだ。 「私も参加させてもらった『宮魁道中』をはじめ、若い人たちの新たな動きが、街なかで活発に生まれています。一方で、長年、商店街でお店を営んでいる上の世代の方たちも、地域の文化を受け継ぎながら、商店街を元気にしたいと考えている」 例えば、街の中心部にある二荒山神社の門前には、昭和30年代ころまで浅草のような仲見世があったという。 「初めてこのことを知った若い世代の人たちは、『復活させられたら、きっと面白いだろうな』とワクワクすると思うんです。そんな世代と世代をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これから果たしていきたい」 実は、春の人事異動により、3月から多里さんはまちなか支局を離れ、宇都宮総局へ異動することが決まった。けれど、まちなか支局で大切にしてきた、仕事や地域に対する思いに変わりはない。 「この2年の間に多くの人と接するなかで、実は日常のなかに〝いいもの〟がたくさんあることを気づかせてもらいました。これからも、外から来た人間だからこその視点で、何気ない宇都宮や栃木のいいものをたくさん再発見し、発信していきたいと思います」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

水品沙紀さん

初めてのアルバイトも、卒論のテーマも「温泉」 「私が温泉に興味を持ったのは、旅行好きな母親の影響が大きくて。休日には、家族で温泉をはじめさまざまな場所へ出かけていたんです」 そう話すのは、2年間閉館となっていた日光市中三依にある「中三依温泉 男鹿の湯」を、25歳の若さで復活させた水品沙紀さん。千葉県出身の水品さんは子どものころから温泉が大好きで、高校2年生のときには、近所の温泉施設に「働かせてください」とメールするほどだったという。実際には受験が終わり大学へ進学してから、その温泉施設でアルバイトをスタート。このころから日本の名湯百選を巡り始め、現在までに国内外1000カ所以上の温泉へ足を運んだ。さらに、卒論のテーマも温泉。まさに筋金入りの温泉好きだ。 「私は、大衆演劇も好きで。健康ランドで公演することが多い大衆演劇の役者になれば、いろいろな温泉施設を知ることができ一石二鳥だと思い、ある劇団に体験入団して、岡山や福島の温泉施設を巡ったこともあるんです」 大学を卒業後は、埼玉県内を中心に温泉施設を運営する会社に就職。温泉施設で働きながら、運営や経営についても学んだ。そこで2年半働くなかで、「自分の目線で温泉施設を運営したい」「泉質のいい場所で施設を持ちたい」という思いが大きくなっていった。そんなとき、SNSで「男鹿の湯 オーナー募集」の記事を目にする。水品さんはすぐに連絡を取り、男鹿の湯へ向かった。 地元の人の温かさと、のどかな環境にひかれ中三依へ 2015年9月、初めて中三依を訪れた水品さんは、ひと目でここの雰囲気が気に入った。 「男鹿の湯から歩いて3分ほどにある無人駅をはじめ、チェーン店がなく個人商店がぽつぽつと続く様子など、のどかな町の雰囲気に一目ぼれしました。温泉の裏にある男鹿川(下写真)の水も本当にきれいで。ここは観光地ではないですが、古き良き里山の風景がそのまま残っている。きっと都会に暮らす人の中には、こうしたのどかな環境でゆったりと過ごしたいという人も多いのでは、と思ったんです」 こうして「男鹿の湯 オーナー募集」に応募した水品さんだったが、一番不安だったのは、ボイラーなどの機械がちゃんと動くのか、修理にどのくらいのお金がかかるのかということだった。それを業者に調べてもらうとしていたちょうどその頃、豪雨が発生し、風呂場と機械室が泥水に浸かってしまった。 「大変な状況の中、地元の方々が集まり、泥の撤去作業を手伝ってくださいました。みなさんの温かさ、この温泉を大切にしたいという思いに触れて、なんとしても復活させたいと思ったんです」 そこで水品さんは、クラウドファンディングを活用して資金を集め、機械や内装を修復。そんな開店準備を、家族や友人をはじめ、地元の人たちも手伝ってくれた。営業許可申請も無事にクリアし、2016年4月、ついに「男鹿の湯」を復活させた。 この地域ならではの魅力を生かした、新たなプランを 「男鹿の湯」には温泉施設のほかに、コテージやバーベキュー場、キャンプ場が併設されており、水品さんはすべての運営を手がけている。オープンした当初は、日帰り温泉の利用者が大半だったが、ホームページなどで、中三依の魅力を発信するうちに、週末にはコテージが予約で埋まるように。 「できれば、ゆっくりと3泊ぐらい滞在していただきながら、美しい男鹿川や里山を散歩したりと、のんびり過ごしていただけたらと思っています」 温泉の1階には「おじか食堂」があり、水品さんの中学高校の同級生で、運営をともに手がける豊島さんが打った「十割そば」などが味わえる。そばは、100%地粉を使用。添えられた温泉を煮詰めた温泉塩をつけて食べると、よりそばの味と香りが引き立つ。また、「おじか食堂」ではお酒も提供していて、地元の人が集まる憩いの場となっている。 「自治会や消防団など、地域の集まりがあるたびにここを使っていただいて。地元のみなさんにも受け入れてもらえているのが、本当にありがたいなと思っています。今後は、渓流釣りやキノコ狩りなど、この地域ならではの遊びを学んだり、周囲の魅力的なお店と連携したりして、中三依をより楽しんでもらえる新たなプランを提供していきたいです」 さらに、将来的には温泉で病気を癒やしたり、仕事のパフォーマンスを上げたりと、日常的に“温泉の力”を活用するライフスタイルを広めていくことが目標だ。 「日本には都市部から離れているために、あまり利用されていない、いい温泉がたくさんあるんです。そんな極上の温泉を、より多くの人に楽しんでもらいたい。そのために、温泉情報の発信も手がけていけたらと思っています」

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