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夫婦で移住

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暮らしも学びもつながりも。</br>すべてが詰まったジャム作り

暮らしも学びもつながりも。すべてが詰まったジャム作り

五十嵐 洋子(いがらし ようこ)さん

まるでヨーロッパのような、 ゆったりとした暮らし 義理のご両親の健康をサポートするため、野木町に移住した五十嵐さん。父親の仕事の関係で、子どもの頃から国内外さまざまな土地で生活してきたため、野木町は実に11ヶ所目の住まいだった。アメリカやスイスで暮らした経験もあるという五十嵐さんにとって、野木町はどのようなまちなのだろうか。 「東京からほんの1時間ちょっとですが、ストレスフリーでのびのびと暮らせています。まるでヨーロッパのようなゆったりとした暮らしが送れるので、移住した当初はとても驚きましたね」 自然に囲まれ、交通量も多くないので、空気が美味しい。20時には静かな世界が広がり、睡眠がよく取れる。 春はキジ、夏はカエルの鳴き声が心地よく、冬は窓を空けると目の前にオリオン座がきらめく。自然から直接四季を感じられるようになった。 「最初はキジの鳴き声が何の鳴き声か分からなくて。でも、ある日散歩していたら林から出てきて鳴いているキジに出会ったんです...!この辺りは野生のキジがよくいるんだよ、と地元の方が教えてくれました」 自然豊かなまちではあるが、利便性にも優れている。野木町は栃木県最南端に位置するため、東京へのアクセスがいい。交通網が整備され、渋滞もないため、県内各地へも気軽に遊びに行ける。 「日光へも車で1時間半ほどの距離ですよ。栃木県はエリアごとに多彩な地域性があるので、週末にいろいろな場所に出かけるのが楽しみになっています。野木町は県内外問わずアクセスしやすいので、田舎のよさと利便性のバランスが取れたまちだと思います」 野木町での暮らしに導かれ、 30代半ばで美大へ アートに興味があった五十嵐さんは、野木町への移住前に住んでいた東京で、アートマネジメント(芸術と社会をつなぐための取り組み)に携わっていた。移住後も、アートに関わりを持ちたい、と東京の豊島区にあるNPOで非常勤スタッフとして働き始めた。 「東京にアクセスしやすい野木町だからこそ、選択肢があり、通い続けることができました」 NPOで働くうちに、自分でも創作活動を始めたいという想いが強くなっていった。 野木町には豊かな自然がある。それを吸収して発信できる人になれたら、どんなに面白いことか―。 「NPOではアーティストと社会をつなぐコーディネーターの仕事をしていたのですが、自分自身が野木町で創作活動をするためには、コーディネーターだけでは知識やスキルが足りないと感じました」 そこで五十嵐さんは、働きながら学ぶことのできる通信教育部のある美術大学に進学することを決意する。30代半ばでの大きな決断だった。 「年齢的にまだ体力もあるし、40歳までに卒業できるように頑張ろうと思って入学を決意しました。熱意のある方と友だちになれたり、自分の得意分野に気づけたり、進学して本当によかったです」 大学では空間演出デザインを学んだ。空間と一口にいっても、建物やショーウインドーだけではない。「地域」も空間のひとつである。五十嵐さんは「地域という空間」のデザインに特に興味を持ち、学びを深めていった。 「地域の方にとっては当たり前のことや見過ごしていることを、デザインを通じて見せ方を変えることで、その魅力に気づかせる。そんな活動をしていきたいと考えるようになりました」 大学で学びを得た五十嵐さんは、いよいよ野木町での創作活動を始めることになる。 地元食材を活かした スープ作りとジャム作り 美大を卒業して、まず始めたのが野菜を育ててスープを作る「スープ活動」だ。野木町は野菜が新鮮で美味しい。さらに、五十嵐さんは食べることが好きで、自分の料理を人に楽しんでもらうことも好きだった。野木町のとびきり美味しい野菜と自ら栽培したハーブや西洋野菜を活かして、家庭ではなかなか作れないような世界各国のスープを作り、ゆったりとランチタイムを楽しんでもらう。そうして野木町の魅力を発信し、伝えられたらと考えた。 「スープ作りのこだわりは、野菜そのものの美味しさを引き立てるように調理することです。野木町の野菜は素材自体が美味しいので、調味料をたくさん加える必要がないのです。スープ活動では、幼少期を過ごしたヨーロッパで食べたような『自分がときめく料理』を作りたい、提供したい、と考えています」 本格的な洋食や多国籍料理など、野木町では普段食べられない絶品スープ。「美味しい!」「ほかでは食べられないものが楽しめる!」と、知り合いからその知り合いへと口コミが着実に広がっていった。 旬には野菜がたくさん収穫できる。ただし、長期保存ができないことが多い。それは果物も同様だ。少しキズが付いていたり、形がいびつだったりするだけで市場に出回らなかったり、廃棄されてしまうこともある。 保存食を始めたい、五十嵐さんがそう思ったのは自然な流れだった。当時はコロナ禍で、何かワクワクできることを始めたいという想いもあった。玉ねぎや赤ねぎのスープペースト(スープの素)にはじまり、ジャム作りへ。五十嵐さんの活動がさらなる広がりを見せるきっかけとなる、ジャム作りが本格的に始まるのであった。 ジャム作りを通して 想いがつながる、広がる 自宅のキッチンをリフォームし、いざジャムの試作へ。だが、一人でジャム作りをすることの難しさ、限界を痛感した。そんな時、ジャム作りが得意なご近所さんに手伝っていただけることに。さらに、その方からイチゴやプラム、梨などさまざまな果物を栽培する農家さんを紹介していただいた。 「美味しい果物を作るために、農家さんは毎日たくさん摘果するんですね。味は本当に美味しいのですが、もらい手がいないと廃棄されることもあるそうです。あまりにもったいないので分けていただけるようにお願いしたところ、安く譲っていただけることになりました。『無駄になるものがなくなってよかった』と、農家さんにも喜んでいただけたので嬉しかったです」 イチゴ、キウイ、プラム、ブルーベリー、梨……。多くの方とのご縁がつながって、一年を通じて野木町の旬を味わえるジャムを作れるようになった。つながりは、農家さんだけでなく、販売する方へも広がり始めた。 「こだわりの食材を扱う栃木市のお店の方が、ジャムをお店に置きたいと言ってくださって。そのお店で入荷するレモンを栽培している農家さんからも、『うちのレモンでジャムを作ってほしい』とオファーをいただきました。野木町の魅力を発信したいという想いに賛同してくださった皆さんのご協力を得て、私は活動できています。スープ活動とジャム作りが、今、本当に楽しいです」 手作りのジャムは、「61+(スワソンテアン)」の名義で販売している。スワソンテアン(Soixante et un)は、フランス語で「61」。五十嵐さんの名前に含まれる「50」に、これまで住んだ土地の数「11」を足したものだ。そこからさらに何かが生まれることを願って、「61」に「+」をつけている。 このジャムは、2022年に野木町ならではの魅力が詰まった「野木ブランド」に認定され、同時期に野木町のふるさと納税の返礼品にも選ばれた。 「地元の方にも『すごいね』とたくさん声をかけていただき、嬉しかったです。認めていただくことが、いいものをきちんと作り続けようという励みになっています」 野木町の人の親切で温かい応援に支えられ、五十嵐さんの活動はじんわりと、着実に広がっている。 野木町の魅力を よりたくさんの方へ届けたい ジャム作りを始めて3年が経過した。嬉しいことに、ジャムを楽しみに待ってくれているリピーターの方もできた。 「より多くの方に知っていただいて、私のジャムが野木町のブランド力の一端を担えるようになっていけたらいいなと思っています。スープ活動も続けていきますよ。野菜を育てて美味しい料理にすることの楽しさ、そして、野木町の魅力を最大限に伝えていきたいです」 最後に、五十嵐さんが考える野木町の魅力とは。 「野木町には、本当に穏やかで親切な方が多いです。皆さんのおかげで、活動を続けてこられました。温かい方々に囲まれて、ゆったりとした暮らしを送っています。移住して本当によかったです」 野木町で過ごす時間は、近場で小旅行気分が味わえる、と東京の友人にも大好評だそうだ。友人やそのご家族にも、野木町のファンが増えてきている。 「これまで東京で暮らす期間が長かったのですが、思い返せば今のような暮らしに前から憧れがあったのだと思います。東京で暮らしていた時、田舎で素敵な暮らしを送る方の本を時々読んでいたことを、ふと思い出しました。野木町で、自分がかつて憧れていたライフスタイルを実現できています」 東京のような都会的な娯楽は、野木町にはない。ただ、豊かな自然がある野木町では、暮らしを彩る楽しみを創り出すことはできる。五十嵐さんがそうだったように、一歩踏み出せば、支えてくれる人たちもいる。 さまざまな土地での暮らし、みずから得てきた学び、温かい人とのつながり―。これまでに積み重ねたものすべてを力に、自分にしかできないカタチで、五十嵐さんはこれからも野木町での暮らしを紡いでいく。

「好き」に全力に、</br>暮らしを愉しむ

「好き」に全力に、暮らしを愉しむ

齋藤 剛(さいとう ごう)さん

自由を求めて宇都宮へ、そして芳賀町へ 青森県出身の齋藤さん。東京の大学に進学して建築を専攻し、卒業後は大手ハウスメーカーに就職した。 転機が訪れたのは、社会人4、5年目になった頃だった。一級建築士の資格を取得した大学の同期から「一緒に会社をやらないか」と誘われたのだ。 「似たような建物ばかりを建て続けている」 ハウスメーカーでの仕事におもしろみを見出せなくなっていた齋藤さんは、思い切って話に乗ることに決めた。 「『一緒にやらないか』って言われたとき、自由になれる!ってワクワクしたんですよ。 でも、当時の上司からは『自由が一番不自由なんだぞ』って言われて……。 余計辞めたくなりましたね(笑)その言葉が間違っていることを証明してやるんだ!という気持ちが湧きあがりました」 自由を得るため、事業の立ち上げへ。このとき、新たな舞台として宇都宮市へ移住した。 ただ、事業を始めたはいいものの、同期とはいえ、考え方が違う。数年後には立ち上げた会社から抜けることに決め、同時に新居探しを始めた。 当時はバブルの真っただ中。宇都宮市の中心部は高すぎる。予算にあった土地を探すなかで、利便性のよさに魅力を感じ、芳賀町の土地を購入することに決めた。 東京へのアクセスがよいこと、約30年前としては珍しく中学生までの医療費が無料だったことも、芳賀町を選ぶポイントになったそうだ。 確かに、東京へのアクセスがよいと、お子さんの進学先の選択肢が多く、お子さんが東京で一人暮らしをするとなっても顔が見える距離感で安心だ。 「私が青森県出身で、妻は山口県出身。帰省するために新幹線を使うので、できるだけ新幹線駅に近い環境で、という考えはありました。 今住んでいる土地は、芳賀町のなかでも宇都宮市との境に位置する場所で、便利なんですよ。 2023年にはLRT(次世代型路面電車システム)の駅も近くにできて。今の住まいの立地をとても気に入っています」 芳賀町に新居を構えた齋藤さん。 同期との事業を抜けた後は苦難の連続だったが、9社ほどを経て、現在、代表を務めるケーエムハウスの立ち上げに至った。 芳賀町を拠点に愉しむ、趣味中心の暮らし 齋藤さんの趣味はアウトドア。芳賀町を選んだポイントに、実はアウトドアも深く関わっていた。 趣味である釣り、自転車、キャンプ、これらを楽しめる土地を前提に、土地を探していたのだ。 一つ目の趣味は、釣り。青森県にいるときから続く趣味だ。 木片を削って塗装して……釣ることはもちろん、自分でルアーをつくることにものめり込んだ。 二つ目は自転車。インタビュー中にも、齋藤さんの後ろには、いかにも本格的な自転車が。 「これ、自分でつくったんですよ。部品をそれぞれ買って、組み立ててね」 背後に見える自転車に話が及ぶと、齋藤さんが笑顔で教えてくれた。 実は栃木県は、サイクリングに適した土地なのだ。 北部から西部にかけては那須連山・日光連山、東部には八溝山地が並び、中央部から南部にかけては関東平野に開けているため、変化に富んだ魅力的なサイクリングルートが各地に存在する。 小さいお子さんと家族で楽しめる安全なコースから、プロ級の本格ライドに挑戦できる大会コースまで、多様な楽しみ方ができるのだ。 「自宅から小山市まで、鬼怒川のサイクリングロードを通って、一筆書きで100kmくらい。 4、5時間くらいはかかるんですが、毎週走りに行っている時期がありましたね。 『自転車を買ってくれたら一緒に行くよ』と妻が言ってくれたので、妻と一緒に行くこともありました」 夫婦で共通の趣味を楽しめるなんて素敵だ。 三つ目はキャンプ。 「60歳を超えていますが、キャンプにも行きますよ。 昨年のゴールデンウィークは、30歳になる息子と2人でキャンプに行きました。スパイスから、2時間かけてカレーをつくってくれて。美味しかったですよ」 焚火を前に、お酒を酌み交わしながら、親子でゆったりと語り合う……。お話から、理想的な親子関係がうかがい知れた。 自然豊かな栃木県には、キャンプ場も多い。 温泉でゆったり疲れを癒せるキャンプ場(栃木県は関東有数の温泉大国!)、森の緑と木漏れ日が心地いいキャンプ場、川のせせらぎが聞こえるキャンプ場、予約不要で気軽に遊びに行けるキャンプ場など……多彩なキャンプ場が揃っている。 一年を通じて営業しているキャンプ場もあるので、雪上キャンプなど、冬ならではの楽しみ方もおすすめだ。 「私たちは趣味を中心に考えて家を建てました。趣味を満喫できる今の環境、家は最高ですよ」 暮らしにおいて、自分にとって大切なものをしっかりと軸としてもてているかどうか。 暮らしの満足度は、これによって大きく変わってくるのだろうと痛感させられた。 飛び込んだ消防団で仲間づくり 暮らしの中心にある、趣味。家族以外と愉しむことはあるのだろうか? 「釣りは、お世話になっている動物病院の先生とよく一緒に行きます。釣りを通して、知り合いが増えましたね」 移住当時、芳賀町に知り合いはいなかった。 そんな齋藤さんが顔見知りをつくるために取った手段は、「消防団に入団すること」だった。 「私は芳賀町で仕事以外の付き合いがまったくなかったので、消防団に入れば友だちができるかなと。 消防団なんかやりたくないっていう人もいますけど、部長まで任せてもらえて、私はいい経験になったと思っています。一緒に釣りに行く友だちもできましたよ」 「消防団には農家の方も多いんですよ。親しくなると、お米買うと野菜をたくさんいただいたり、年末にはお餅を持ってきてくださったりもします。 普段の生活では、農家の方と一緒になる機会はないので、いろいろと学びがあります。外からくると、やっぱり相手の方も最初は警戒しているので、自分からいかないといけないですよね」 動物病院の先生と釣りに行ったり、消防団の仲間に野菜をおすそ分けしてもらったり……。 移住先で顔見知りがいないからといって、自宅と職場の往復になってしまってはもったいない。 自分から積極的に新しいつながりをつくりにいけば、その分豊かな暮らしを送れそうだ。 芳賀町で、「暮らしを愉しむ」 宇都宮市の工務店・ケーエムハウスの代表取締役を務める齋藤さん。ケーエムハウスのコンセプトは「暮らしが愉しくなる家」。 まさに齋藤さん自身が体現している暮らしだ。 「会社のサイトでも、趣味の写真ばかり載せていますよ(笑)工務店のサイトだと、施工事例を紹介するのが一般的なのかもしれませんが、あくまで他人の家なので、興味のない人も多いのかなと。だったら、思い切って全部趣味に振り切っちゃえって思って(笑)」 なるほど、会社のSNSやブログには、釣りやキャンプ、自転車にグルメなど、趣味の写真が並ぶ。 「趣味をおもちのお客様は、そういった発信を結構見てくれているんですよね。 趣味のことで話が弾むのはもちろんですが、『この趣味のための、こんな部屋が欲しいんです』という依頼につながることもあります」 「趣味を愉しむ家づくりが得意な齋藤さんのところなら、できるのではないか」そんな思いから、おもしろい依頼も来る。 「最近は、鉄道模型のための家をつくりました。鉄道模型のためだけの家で、人は住みません。 お風呂をつくると自宅に帰らないから、お風呂はつくらないって仰っていて(笑)うちには、そんなおもしろい依頼が来ますよ」 やりたいことや好きなこと、お客様にまずは全部言ってもらって、そこからプランニングを考える。 全力で暮らしを愉しむ齋藤さんだからこそ、お客様の気持ちを理解できているのだ ろう。 「暮らしを愉しむ」齋藤さんの生き方は、会社の経営方針にも反映され、その先のお客様にも波及し始めている。 「趣味を満喫できている今、芳賀町に移住して大満足です。宇都宮市や東京へのアクセスはいいし、LRTができて、さらに利便性がよくなりました。 教育環境のことを考えてもいいまちです。周りの方にも、とても親切にしていただいています」 「あと何年かで退職するので、スローライフを送りたいなと考えています。日本全国を周って、釣りをしたり、キャンプをしたり……。考えるだけでワクワクしますね!」 自分にとって大切なものを軸に、まっすぐに、かつ、自由に。 そんな齋藤さんの生き方をやさしく包み込んでくれたのが、芳賀町だった。

創造力育む、</br>「余白ある」暮らし

創造力育む、「余白ある」暮らし

天谷 浩彰(あまや ひろあき)さん
渡部 幸恵(わたべ ゆきえ)さん

「ゆっくりできる」その本当の意味を理解した 移住前、職場の関係で、塩谷町が持続可能なまち「オーガニックビレッジ」を目指していくという話を聞き、約30名とともに塩谷町に足を運んだ。 訪れたのは冬。どうしてもいきいきとした印象は受けない。 「正直、第一印象としてはピンと来ませんでしたね」と浩彰さん。 同じく視察に来ていた元同僚で友人のともちゃんが塩谷町に移住したのは、視察からわずか2、3ヶ月後のことだった。ともちゃんが移住したことで、浩彰さんと幸恵さんのお二人は月に1回ほど塩谷町に遊びに行くようになり、まちへの印象も徐々に変わっていった。 人の数や時の流れ。体がついていけないほどに、塩谷町と首都圏ではまったく異なっていた。 「ゆっくりできるとは、こういうことか」塩谷町での滞在中、その意味を感覚的に味わった時、塩谷町への移住は着実に近づいていた。 そもそもお二人には「家族と動物たちがゆったりと豊かに暮らせる"楽園"をつくる」という構想があった。周りが木々に囲まれた野球場ひとつ分ほどの土地。畑や田んぼもあって、動物たちが自由に走り回れるような……。そんな舞台を求めていた。 長野県の安曇野市や伊那市、南箕輪村なども訪ねたが、まちの雰囲気、そして人のおもしろさに惹かれたのが塩谷町だった。 「都内の大学に在学中にバックパッカーとして旅をして、タイで働く予定だったんですが、コロナの影響で塩谷町にUターンしたけいちゃんという若者がいて。彼からまちづくりへの想いを聞いて、『こういうことを考えている若者が住む塩谷町はおもしろくなるな』そんな直感がありましたね」と浩彰さん。 まちづくりに取り組む若者との出会いもあり、塩谷町への移住を決めた。 懐に飛び込めば、あっという間に心が通う まちづくりについて熱く語ってくれたけいちゃん、「竹細工をやってみたいな」という幸恵さんの一言で竹を切り、竹細工を教えてくれた友人宅の大家さん。 「気持ちの通い方が早いっていうんですかね……。みんなあったかいし、人懐っこい。スピーディにコトが進むというか」 新しい土地、特に田舎での移住生活。人付き合いがうまくいくのかと心配する方も多いだろう。 「最初は不安もありましたよ。でも、自分たちがよそ者である以上、自分から距離を詰めていかないと、というのは思っていて。自分から声を掛けずに仲良くしてもらおうなんて、そんな美味しい話はないですからね。自分から行動して関係性を築いていく。あとは、『自分がやるべきことを、ちゃんとやる』。結構、見てくれているので」 浩彰さんは続ける。 「移住者として見られるし、自分から行動しないといけないし、移住するにあたって自分なりの軸がしっかりしていないと、苦労するかもしれないです。暮らしが全然違うので、当たり前ではありますよね」 浩彰さんの言葉は、田舎暮らしを検討している方にぜひ知ってほしい、リアルな声だ。 自ら行動を起こしたお二人は、友人に驚かれるほど、あっという間に地元の方とのつながりができたという。地元の方と、年代に関係なく、一緒にお酒を飲むこともある。“はじめまして”の時には、知り合いを通して、相手とつながるようにしているそうだ。 「人との直接的なコミュニケーションが、都会よりも頻度・重要度ともに高いのかもしれないですね」と幸恵さんが教えてくれた。 「栃木県の中でも、塩谷町の知名度は低いかもしれないですが、だからこそいいと思います。刺さる人にだけ刺さる、隠れた魅力に溢れるまちです」 口を揃えて言ったお二人の言葉がとても印象的だった。 手づくりの結婚式を自宅で 2023年5月、自宅で結婚式を挙げた。 「この集落に根を下して暮らしていこう」移住後に二人でそう再確認したことが決め手だった。 「集う」をコンセプトに、円を描くように形作られた畑に、大好きな家族や仲間が集う。近い未来に実現させたい「馬のいる暮らし」をちょっぴり先にお披露目するように、幸恵さんが馬に乗って登場する。手づくりの草冠を互いに授けあう……。 自分たちでアイデアを出しあいながら計画を立て、仲間の協力も得ながら、一つずつ準備を進めた。「馬のいる暮らし」を見せてくれたサラブレットのグランデくんは、地元牧場・UMAyaカントリーファームのゆうきさんとみおさんのご厚意もあり、馬運車で運ばれてきた。 結婚式をやると決めてからの50日間は、怒涛で濃密で豊かな時間だった。 結婚式の中で、お二人独自のアイディアのパートがあったそうだ。題して、祝婚の宴。 参列された方について、お二人との関係性を赤裸々に語り、紹介された方からも言葉をもらう。これを、参列者全員に対して行った。 笑いあり、涙あり。当初2時間の予定が4時間に延びるほど、想いに満ち溢れていた。あっという間に陽は傾き、あたたかい西日がみんなの笑顔を照らし出す。 18時を知らせる音楽がまちに鳴り響くと同時に、祝宴の宴も幕を閉じた。 結婚式に参列した浩彰さんのご両親は、祝婚の宴でのやり取りを見て聞いて、友人との関係性やあり方など、普段目にしない浩彰さんの姿に、見え方が180度変わったのだとか。 浩彰さんのご実家がある藤沢市から塩谷町に移住したことも、関係性が変わる一つのきっかけとなった。 「近くにいてほしい、という気持ちはあったでしょうが、今も隔週くらいで藤沢に帰っているので喜んでくれていますよ。幸恵と会えることも楽しみにしてくれています」と浩彰さん。 「浩彰のご両親には、実の両親と同じように言いたいことを言おうと決めていて。ぶつかったりできるのも生きているからこそだよねって感じられるようになった出来事もあり、どんどん関係性が濃くなっていると感じます」と幸恵さんも振り返った。 離れているからこそ分かることや見えるもの、伝えられることはあるのかもしれない。お二人の実体験がそう教えてくれた。 思いを形にできる場所で、チャレンジの連続 結婚式を自宅で。これはお二人のその後の考え方にも大きな影響を与えた。 すべてを自分たち、仲間内、友人たちとで準備したからこそ、「自分たちで、自宅で、何でもできる」という考え方を得られたのだという。 そんな経験を糧に、結婚式ができるなら、と自宅で“えんがわらいぶ”と題する初ライブを開催した。ライブ後、参加者全員との語らいの時間には、地元のカフェ“風だより”のケーキや、“稲と珈琲”のコーヒーが振舞われた。 お二人の行動力とそれによって紡がれてきたつながりが、ライブというひとつのカタチになったのだった。 それ以外にも、塩谷町に移住後、たくさんのチャレンジを重ねている。……というより「チャレンジしかしていない」んだとか。 たとえば、米づくり。都会であれば、何をどうやって始めればいいのか見当もつかない。 お二人が米づくりを始めたきっかけが、「近所の農家さんに挨拶した時に『うちの田んぼを2枚使っていいよ』と言われた」ことだというから驚きだ。都会では決してありえないシチュエーションである。 田んぼ2枚、二人ではとうてい作業しきれないからと友人に声をかけ、友人から友人へと広がり、イベントという形で稲刈りを行った。昔ながらの手植え、手刈り。曲げた腰の痛みをはるかに上回る、ワクワクとドキドキがあったに違いない。 自ら働きかけるお二人。ここでもつながりが広がっていく。 古民家の古材や廃材をいただき、移住後に飼い始めたヤギの“はなちゃん”の小屋も自作した。 「やればできる。それは移住前も頭では理解していましたが、塩谷町ではすべてが揃っていて、本当にチャレンジできる環境があるなと感じます。『あ、本当にできるんだな』と感じることがどんどんと出てきていますよ」と浩彰さん。 都会に行けば確かに何でもモノが揃っているが、ここには環境や素材、そして余白がたっぷりとある。 思いを形にできる、創造力を育んでくれる土地なのだ。 お二人のこれからと、塩谷町のこれから 移住前、浩彰さんは川崎市へ、幸恵さんは都内に通勤しており、帰宅は19時、20時頃になるというのが当たり前だった。今はリモートワークや畑仕事を中心に、自然のサイクルに合わせたリズムで生活を送る。 食卓には自分たちで種を蒔き、成長を見守ってきた、採れたての食材が並ぶ。スーパーで買うものよりも、味が濃く、野菜の個性を感じられる。ほうれん草が実は甘かったり、包丁で切ったきゅうりの断面から水分がにじみ出るのを目の当たりにしたり。さつまいもの収穫時期には、暖を取るストーブでつくったふかし芋が、朝食やリモートワーク中のおやつにもなった。 「日々のご飯が一番美味しい」 幸恵さんのその言葉には、毎日の暮らしへの満足感があふれていた。 2024年4月には、一日一組限定のプライベートキャンプ場もオープン予定だ。 お二人の自給農園“にゃす”で育った採れたて野菜を味わったり、ヤギのはなちゃんと触れ合ったり、焚火を囲んで語り合ったり……。 塩谷町で暮らすように泊まり、静けさと動物の息吹を味わえるキャンプ場だ。 「演出ではなく、私たちの暮らしのリアルを一緒に体験していただく、そんな場所です。『あっ、こんな暮らしもありだな』と、キャンプ場で過ごした時間によって人生の新しい選択肢が生まれたらうれしいです。」 お二人がこれから望むこととは―。 「私たちのように家族で土地を耕し、環境も生き方もデザインされる方が増えてほしいと思っています。その舞台として塩谷町を選んでいただけると一番うれしいですが、栃木県のほかの市町でも構いません。仕事も大切ですが、それ以上に家族が豊かであること、何気ない日常の幸せを感じられることの方が重要で大切なことだと考えています」 移住を機にお二人の生活は大きく変化したが、お二人の存在は周囲に、そして塩谷町にも影響を与えていそうだ。 お二人が移住した時期は、塩谷町がまちづくりに、より力を入れ始めたタイミングでもあった。移住・定住支援サイト「塩谷ぴーす」を開設し、近々移住コーディネーターも設置される予定である。 「まちも、自分たちも、まさに変化の中にいると感じます。変わり始めた今だからこそ、塩谷町はこの先5年、10年が一番おもしろい時期でしょうね」 お二人の楽園づくりは、着実に根を張りめぐらし、苗木から若木へとバージョンアップしているようだ。 創造力が沸き立つこの土地で、まちをも巻き込みながら、楽園づくりを進めていく。

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

東京と栃木の人がつながるハブのような場所を

大倉 礼生さん

栃木にも素晴らしいものがたくさんある 取材当日の朝、大倉礼生さん、結衣さん夫妻と待ち合わせたのは、宇都宮市の中心部から車で10分ほどの距離にある「BROWN SUGAR ESPRESSO COFFEE」(下写真)。 「ここのコーヒーが本当においしくて、休日にはブラウンシュガーさんか、こちらに豆を卸しているムーンドッグさん(MOON DOGG ESPRESSO ROASTERS)に立ち寄るのが、ルーティーンになっています」(礼生さん)。 休日には出かけることが多いという二人は、おいしいお店があると聞けば、県内外問わずどこへでも足を運ぶ。栃木市でパンを買って、佐野市でコーヒーを飲んで、宇都宮市でランチを食べて……と、1日に5、6軒のお店を巡ることもあるという。 「おいしいものを食べたり、素敵な空間で過ごしたりするのが好きで、楽しいのはもちろんですが、やっぱりいいものに触れると仕事のインプットにもなります。味やサービス、お店づくりなど、『自分はこれができていなかったんだ』とハッと気づかされることも多く、いろんな場所へ出向くのは大切だと実感しています」 そう話す礼生さんは、若いころは「栃木になんて何もない」と思っていたとのこと。けれど、東京で15年以上過ごし、いいものに多く触れた後、栃木県に戻ってみると、地元にも素晴らしいお店や魅力的な人がたくさんいることに気づいた。 「東京だと行列に並んで買うようなおいしいコーヒーが、こっちでは並ばずに買えて、店主との会話を楽しみながらゆっくり味わえる。こんなふうに魅力的な人とつながりやすく、深い付き合いができるのも、戻ってきて感じた栃木の魅力ですね」 まだ世にあまり出ていない燻製料理店を宇都宮に 東京で美容師を経て、駒沢のカフェで働き始めた礼生さんは、料理もサービスも担当し、瞬く間に店長となり、そこで10年にわたり経験を積んだ。 「オーナーが異業種の方だったこともあり、お店のことは任せてくれたのですが、僕は飲食店で修業したわけでもなく、とにかく自分で調べてやるしかなかった。ご飯を食べに行っておいしいと思ったら、『これはどうやってつくるんですか?』と聞いたり、『この音楽は誰のですか?』『この椅子はどこで買ったんですか?』と尋ねたり、そうやって自分がいいなと思ったもの、やりたいことを調べて形にしていくのが楽しくて。20代後半には、もっと自由にできる自分のお店を開きたいと考えるようになったんです」 なかでも惹かれたのが、好きでよく食べに行っていた燻製料理だ。カフェはコーヒーがあったり、食事も出していたりとオールジャンルなところが魅力だが、逆に何か一つに特化した、他にはないようなお店をやってみたいと思うようになった。 スモークマンの人気メニューの一つ「燻製の前菜盛り合わせ」(1680円)。魚介や生ハム、ナッツ、野菜と一度にいろいろな種類の燻製が味わえる。 「その点、燻製料理は、ソーセージやベーコンなどの一般的な燻製以外は、多くの方がまだ味わったことがなく、未知の領域だと思うんです。燻製なら、まだ世に出ていないような、自分のお店でしか味わえない料理が提供できるのではないか。そう考え、友人の燻製料理店で修業をさせてもらうことにしたんです」 こうして燻製料理を学んだ礼生さんは、2015年に地元の栃木県へUターン。宇都宮市の中心部にあるこの物件と出会い、2016年2月に念願だった「燻製レストラン&バー SMOKEMAN(スモークマン)」をオープンした。 宿泊施設を営む夢に向けて一歩ずつ お店を開く場所として、東京ではなく宇都宮を選んだのは、なぜですか? そんな疑問を礼生さんに投げかけると、「僕は、いつかホテルやペンションのような宿泊施設を開くのが夢なんです」と話してくれた。 「その宿泊施設にはカフェやサウナなどもあって1日ゆったりと過ごすことができる、そんな旅の目的地になるような場所をつくりたい。食事を提供して、サウナを楽しんでもらい、心地よい部屋を用意して、翌朝お見送りする。サービス業のなかで、お客さんの1日により深く携われるホテル業がとても面白そうで、独立を考え始めたころからいつかやってみたいと思っているんです」 宿泊施設を開くことを考えたとき、家賃などのコストが多くかかる東京は現実的ではなく、地方で開きたいと考えるように。なかでも、地元の栃木県は東京からのアクセスもよく、宿泊施設を開くにはうってつけの場所だと感じた。こうして礼生さんは、夢への第一歩である燻製料理店を、宇都宮にオープンした。 燻製のメニュー開発は、まるで実験のよう この日は、特別に厨房の中を見せてもらった。厨房の一角には、特注の大きな燻製器が鎮座。このほか、小型の燻製器や鍋を食材ごとに使い分け、礼生さんは燻製をつくっている。新しいメニューを考案するためには、トライアンドエラーが欠かせない。 お店には結衣さんも立ち、調理やサービスを手がけている。 例えば、ランチの燻製ハンバーガーは、パティの牛挽肉を燻製しているのだが、温度は何度で、どのくらいの時間、どの木でいぶすかによって、仕上がりが大きく変わってくる。また、パティを燻製するのか、ソースを燻製するのかなど、決められた答えはない。 「だから、試作はまるで実験のようです。失敗することもめちゃくちゃ多いのですが、そのぶん、『これだ!』という味を実現できたときの喜びは大きいですね」 目指すのは、食材そのものの良さを生かしつつ、燻製の香りも楽しめる料理。スモークマンでは、すべてのメニューが燻製料理のため、香りが強くなりすぎないよう絶妙な燻製加減を何度も試作して追求している。 最近では、遠方に住んでいるなどの理由でなかなか来店できない人にも、気軽にスモークマンの燻製料理を楽しんでもらいたいと、オンライン販売にも力を入れている。30度以下で燻製する「冷燻法」という手法で、16時間もかけて燻製したチーズをはじめ、燻製ナッツや燻製オリーブ、燻製牛タンジャーキー、燻製調味料などを販売中。これからは道の駅や百貨店などにも置いてもらえるよう働きかけていこうとしている。 ランチの定番「SMOKEMAN BURGER」(1250円)。パティは牛肉100%に、和牛の牛脂を加えてうま味をプラス。ブリオッシュパンのバンズの甘みが燻製されたパティとよく合う。 オンラインでの販売をスタートした「燻製ナッツ」(1100円)。 東京での経験を活かし、栃木を盛り上げていきたい 休日にはおいしいお店を巡るだけでなく、ゴルフも楽しむ礼生さん。東京にいたころからゴルフはやったことがあったが、本格的にハマったのはUターンしてからだ。 「栃木県内にはゴルフ場が多く、近くて料金も比較的安いので、本当に気軽に楽しめます。僕は、土日に店があるので、友人たちとはなかなか休みが合わないのですが、ゴルフだとみんな日程を合わせて平日に有給を取ってくれて、一緒に遊べる機会が増えました。また、ゴルフを通じて、普段は出会わないような人とのつながりが広がるのもいいですね」 もう一つ、礼生さん、結衣さんが共にハマっているのがサウナだ。栃木県内をはじめ、新潟や東京などのサウナまで出かける“サウナ旅”も楽しんでいる。 「サウナに入ると疲れがすっと取れて、気持ちがリセットできるところが気に入っています」と話す礼生さんは、将来の夢である宿泊施設を手がけるための足がかりとして、現在、地元の塩谷町に貸し切りサウナを開こうと動きはじめている。 「栃木県をはじめとした地方なら、東京と同じ家賃で何倍もの広さの物件が借りられ、やれることの幅も大きく広がります。お金を稼ぐことももちろん大切ですが、僕はそれよりも、やりたいことを我慢せずにできることが何よりも幸せだと思うんです。地方でもレベルの高いものを提供していれば、全国からお客さんが来てくれたり、オンラインで各地へ販売できたりと、大きく広がっていく可能性もあります」 宇都宮に今年の夏オープンした大谷石蔵の貸し切りサウナ「KURA:SAUNA UTSUNOMIYA」を訪れたときの一枚。 サウナが実現できたら、次はいよいよ念願の宿泊施設の開業にチャレンジしたいと考えている礼生さん。 「東京で15年以上過ごしてきた経験やつながりを活かして、東京と栃木をつなぐハブ的な役割が果たせるような、ホテルとカフェやサウナが一体となった場所をつくり上げたい」 そこには、地域の特産品を販売するコーナーがあって、地元の生産者と東京などの都心部から訪れた人が気軽にコミュニケーションをとることができる。コーヒー店をはじめ、栃木で素晴らしいお店や活動を展開する人たちとコラボしたイベントも定期的に開催されている。そんなワクワクするような場所を形にし、地元・栃木を盛り上げていきたいと礼生さんは考えている。 栃木、東京の大切な人たちを招き開催した結婚式の思い出の一枚。

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

テレワーク移住で、暮らしとビジネスのクオリティUP

岡田陽介さん

東京近郊でやっと見つけたベストな移住先 2020年12月に那須塩原市へ移住した岡田さん。以前から旅行で那須エリアに訪れていたのかと思いきや、初めて訪れたのは僅か2ヶ月前、10月のことだという。 新型コロナウィルスの感染拡大により世界の状況が変わり始め、2020年3月には早々にオフィスを移転。全社員テレワークに切り替えた。住まいを地方に移したり、働き方を変えるなど、テレワークを前向きに捉え、より自分に合った働き方を選択してくれる社員が増えたという。岡田さん自身も「今後、日本の経済モデルは、東京一極集中ではなく地方に向いて行かないと立ち行かなくなる」。そう感じて、早々に地方への移住を考え始めていた。 移住先に求めたのは主に3点。程々の広さ、インターネット環境、東京へのアクセス。週に1、2回は東京へ行くことを想定し、1時間圏内を中心に探した。当初は神奈川県の逗子や葉山周辺などを具体的に調べていたが、東京と比較してそこまでのメリットを感じられなかった。東京近郊で様々な地域を検討するも、なかなか思うような場所が見つからない中、2020年10月、たまたま夫婦旅行で那須塩原市を訪れた。 訪れる前は「東京から新幹線で70分だし、この辺りもいいかもね」くらいの軽い気持ちではあったが、実際に訪れてみると、新幹線駅がありながらもまだ開発途中で、他地域と比べ格安で新築一軒家を購入できることに驚き、直感で「ここだ!」と思い立ったという。そして翌月には家を購入、翌々月には移住という急展開を迎えることとなった。 周りにも勧めたい、那須塩原市での暮らし 実は那須塩原市に移住したことを、これまで周辺にはあまり話をしていなかったという岡田さん。移住して3ヶ月が過ぎ、デメリットよりもメリットの方がはるかに多い今の暮らしを通じて、この選択は間違いではなかったと確信を得ている。 「この働き方が日本の基準になっていくと思うんです。東京のヒト・モノ・カネを地方に循環させるというのは、モデルとして正しいと思うので」。 現在の暮らしについて聞いてみると、夫婦揃って「何を食べても、素材がとても良くて美味しい」というのが一番感じていることだそう。新鮮で美味しい野菜は近所の直売所で、乳製品や精肉も高品質のものが気軽に手に入る。ドラッグストアやスーパーマーケットなど、生活に必要なものも数分圏内にあるので、何ひとつ不自由はしていない。自宅から15分ほどで行ける温泉も複数あり、その日の気分で使い分けている。そんな那須塩原市での暮らしに「クオリティオブライフは確実に上がりました」と断言。 「庭もあるので、暖かくなったら友人を呼んで、バーベキューをしたいですね」。 那須塩原市での暮らしは、都内に住む友人や会社の同僚にも勧めたい、と笑顔で話してくれた。 経営者自らも実感しているテレワークの良さ 東京に住んでいた頃は、朝6時30分に起きて身支度し、ほぼ終日取引先まわりの日々。現在はおおよそ8時から仕事を始めるが「テレワークは朝起きて、すぐ仕事に取りかかれるので本当にいいですよね」と、身支度や通勤時間がカットできたのは大きいと喜ぶ。日中はほぼテレカン(WEB会議)で、19時頃まで仕事が続く。夕飯・風呂を済ませ、少し寛ぐ時間を設けた後、自身のデスクワークに2時間ほど時間を費やす。 仕事に欠かせないアイテムは、パソコン、モニター、Airpods(Apple社のワイヤレスイヤホン)、主にこの3点だ。自宅が職場になったため、デスクや椅子にもこだわりがあるかと思いきや、そこは意外にも無いという。その理由のひとつはAirpodsを活用しているためだ。 日中はほぼオンライン会議になったが、必ずしもパソコンを前に行うものばかりではないため、Airpodsをつけてリビングであったり、家の中を動きながら参加することもあるという。場所を変えること自体が気分転換にもなる。 また、ウォーターサーバーやコーヒーメーカーも大活躍しているという。外に出ない分、飲み物を充実させることは多くのテレワーカーにとって大切なポイントだ。 テレワークになって一番大きな変化について聞くと「会食がなくなったこと」という意外な回答であった。以前は、ほぼ毎日会食続きで、深夜まで続くこともしばしば。今は平日の夜にこなしているデスクワークだが、当時はその時間が取れなかったため、週末に回すことになり、休日はない状況であった。そういった意味で「テレワークによって本質的な仕事ができるようになりました」と語る言葉に重みが感じられた。 メリットは多く聞けたので、栃木でテレワークすることのデメリットを伺ってみたが「特に無いんですよ」と一言。何かあれば東京に行くこともあるが、新幹線に乗れば1時間で到着するため、デメリットと言うほどではないという。 社員からも好評だという岡田さん流テレワークのすすめ 現在、岡田さんの会社では全社員がテレワークだ。IT企業のため、従来から週1でのテレワークを認めていた。また、東京オリンピック前後は交通機関が麻痺することを見越して、週2、3でテレワークができるよう環境整備はしていた。そのため、いざ完全にテレワークになっても特に問題はなかったという。 「テレワーク、テレカンを取り入れる必要性は絶対に出てくると思っていましたし、もともと海外オフィスとのやり取りもあったので、皆オンラインでの対応に慣れていました」。 2020年3月時点で以前のオフィスは解約し、本社機能はフレキシブルオフィスのWeWork内に移転。 都内在住者は自宅に仕事部屋がある人は少ないため「仕事をする場がない」という声もあるが、そのような場合はWeWorkのオフィスを使えるため、総じて好評だという。 テレワークのためのサポートも充実させた。例えば、元々のオフィスに備え付けていた椅子やモニターを、希望者が買い取れるようにした。また、自宅の環境整備のため月額の支援金も支給した。 テレワークは生産性が上がる、という声がある一方「一日中誰とも話さなかった」など、コミュニケーションの面ではネガティブな声も聞く。コミュニケーション不足を解消するために、社員同士がslack上でカフェテリアのようなスレッドを作り、雑談ルームで息抜きをしたり、昼休みにみんなで一緒にzoomランチ会をするなど工夫を凝らしている。「経営者として、テレワークは社員の業務状況のチェックだけでなく、メンタルケアもしっかり行うことが大切です」。 那須塩原で考える今後の展望 那須塩原市に住み始めてまだ3ヶ月ほどではあるが、移住の際に市の移住促進センターを利用したことで行政関係者との繋がりも生まれ、広がっているという。 「地方にはまだまだデジタル化していない部分は多いですが、暮らしの各部分にデジタルを導入することで、価値が生まれることがたくさんあると思います。それにより税金が効率的に使われるようになれば市民サービスも向上し、自分たちにもメリットとして返ってくるので、そういう流れが作れたらいいな、と感じています」。 また新たな取り組みとして動画配信を取り入れたいとも語る。 「動画を活用することで、より業務を効率化できる部分もあるので、自室を活用して撮影にもチャレンジしたいです」。 経営者にとってもメリットが数多くあるというテレワーク。 縁もゆかりもない土地への移住でも「クオリティオブライフは確実に上がった」と話す岡田さんの言葉に、背中を押される方も多いのではないでしょうか。 みなさんも栃木でテレワーク、はじめてみませんか。

日常にワクワクを!

日常にワクワクを!

王生雄貴さん

その瞬間にしか味わえない、生きたライブを その日、即興ライブを行うという「Cafeくりの実」(栃木県下野市)を訪ねると、王生さんは他のお客さんと同じようにカウンターに座って、野菜が鮮やかに盛られたカレーを食べているところだった。 「流しでライブをやるときは、事前にお店の雰囲気を感じておかないと、なかなかうまく演奏できないんです。臆病なので(笑)」 そう謙遜する王生さんだが、お客さんの様子を目にしたり、会話を耳にしたりすることで、その場所に合った、その瞬間だけの生きたライブになる。実際のゲリラライブを見させてもらい、そう強く実感した。 以前、「ベリーマッチとちぎ」でも紹介した布作家の倉林真知子さんが手掛けた衣装を身にまとい、バイオリンを奏でながら王生さんが登場すると、店内には笑顔があふれた。 「リクエストのある方はいらっしゃいますか? ぼくの頭のなかで曲が流れれば、そのまま弾くことができます!」と王生さんは、リクエストされた曲を即興で演奏。お客さんも楽しそうにバイオリンを奏でる王生さんにつられて、手拍子がどんどん大きくなっていく。 そしてライブを終えると、お客さんのなかには目に涙を浮かべる女性が。聞けば、リクエストした曲が、1年前に若くして亡くなられた息子さんをイメージした曲で、息子さんのことを思い出したとのこと。「今日、偶然訪れたカフェで素敵な演奏を聴くことができて、本当にうれしかったです」と、その女性は話してくれた。 2年にわたり全国を旅して栃木県へ 現在、王生さんは「Philharmony Wedding(フィルハーモニーウエディング)」というエンターテインメントな空間演出に特化した楽団を運営し、カフェやバー、式場、イベント会場など、あらゆる場所でライブを開催。バイオリンの演奏だけでなく、ジャグリングやタップダンス、バルーンなどのパフォーマーとコラボした演出も手掛け、栃木県を拠点に全国各地でワクワクを届けている。 そんな王生さんが姉とともにバイオリンを習い始めたのは3歳のころ。それからもさまざまな習い事に挑戦したが、高校卒業まで続いたのはバイオリンだけだった。歌うことも好きで、ポップシンガーを目指して19歳で上京後、縁あってレゲエの道へ。バイオリンを奏でながらボーカルも務めるという、独自のポジションを確立。有名ミュージシャンのレコーディングに参加したり、ライブで共演したりと活動の幅を広げていった。 「けれど、憧れていた人たちと一緒に演奏ができるようになると、『失敗したらどうしよう』『嫌われたらどうしよう』と余計なことばかり考えるようになって。純粋に音楽が楽しめなくなってしまったんです」 そこで、24歳で「日本一周流しの旅」へと出かけたのは、最初に述べたとおりだ。王生さんは全国を駆け足で回るのではなく、訪れた街に一定期間暮らすように滞在し、近隣のバーなどで流しのライブをして旅の資金を得て、またヒッチハイクで次の街へ移動するという日々を過ごしていた。 「各地を巡るなかで、全国に一生付き合える友達をつくることが目的でした。そういったつながりが、今後の人生や音楽活動の財産になると思ったんです」 こうして訪れた栃木で、王生さんは奥さんのめぐみさんと出会い、結婚を決意。「流しの旅」を、ここで終えたのだった。 豊かな暮らしと、音楽に没頭できる環境を栃木で実現 「とっておきの場所があるんです」 そう言って王生さんは、近所にある森に囲まれたツリーハウスのような場所へ案内してくれた。高台にあって田んぼが見渡せ、木々の間を抜ける風が心地いい。 「誰がつくったのかわからないのですが、時々おじゃまさせてもらって、ここでバイオリンを弾くと、とてもリラックスできるんです。全国を巡って、それぞれの街にはそれぞれの良さがあることを感じました。そのなかで、栃木ならではの良さといえば、こんなにも自然が豊かなのに、東京へも気軽に行けるところだと思うんです」 さまざまな刺激が得られる東京も魅力的だが、生活するのはゆったりとした田舎がいいと、以前から考えていた王生さんにとって、栃木県はうってつけの場所だった。 自宅に戻ると、めぐみさんが料理に取りかかっていた。この日は、夕方から友達家族を招いてバーベキューを開催。土間のある開放的なリビングにつながる庭で、大勢でバーベキューができるのも、ゆったりとした敷地が確保できる田舎だからこそ。肉と一緒に焼く野菜は、自分たちで育てたものだ。 この家は断熱性や気密性が高く、隣の家ともある程度離れているので、リビングでバイオリンやギターを演奏しても、近所まではほとんど聞こえないという。そのうえ、家の一角には、王生さん専用の「音楽室」も設けられている。 「どんなに大きな音を出しても、外には聞こえません。こうやって作曲や練習に没頭できる環境があるのは、本当にありがたいこと。東京などの都会では、なかなかこういった空間は、確保できないと思うんです」 路上ライブが日常的に行われる、文化を根付かせたい 全国を巡る旅を終えて、変わったこともあるが、変わらなかったこともある。 「それは、自分でいうのもなんですが、ポップな性格です。旅に出る前は、音楽好きの玄人が集う世界のなかで、ポップな自分の性格はコンプレックスでした。けれど、2年間の旅を経てもこのキャラクターは変わらなかった。ならば、それを生かせることを仕事にしようとたどり着いたのが、日常にワクワクを届ける『フィルハーモニーウエディング』の活動だったんです」 現在、王生さんは音楽活動に加えて、別の仕事にも就いている。めぐみさんと結婚して長男が誕生し、就職したばかりのころは、その仕事にやりがいを見いだせず、腐りかけたこともあった。 「ライブで、『日常にワクワクを』と言っているのに、自分がワクワクしていないな……と思って。もう一度、街角やカフェ、バーなどでバイオリンを即興で演奏する“弾き流し”を、県内をメインに毎週のように行っているんです」 そうやって弾き流しの活動を続けることで、ミュージシャンが路上で演奏することを、当たり前と感じてもらえるような文化を根付かせていきたい。多くの人の日常に音楽が調和し、ワクワクがあふれるような世の中にしていきたい。そう願いながら、王生さんは今日もどこかでバイオリンを奏でる。

地域に開かれた工房を目指して

地域に開かれた工房を目指して

大山 隆さん

生活の中にものづくりの現場がある風景を 「はじめて溶けた状態のガラスに触れたとき、衝撃を受けたんです。普段の涼やかな印象とは真逆で、熱くエネルギッシュで刻々と姿を変えていく。一気にその魅力の虜になりました」 それは大山隆さんが美大進学を目指し、予備校に通っていた頃のこと。それから20年近く経った今も感動は色あせることなく、ますますガラスの魅力にひきつけられている。 和菓子職人の家に育った大山さんは、小さな頃から絵を描いたりすることが好きだった。予備校に通っていた頃、講師の工芸家に陶芸や金工、ガラスなどの制作現場を案内してもらう。そのなかで“吹きガラス”に強くひかれ、富山ガラス造形研究所に進学した。 「当時、10代だった自分にとって、工芸家の先生との出会いも衝撃的でした。その方は、金属で野外に展示するような巨大な作品を制作している工芸家で、生活のすべてが制作や表現を中心に回っている。一つの素材を一生かけて探求していくような生き方に憧れを感じていたとき、出会ったのがガラスだったんです」 富山ガラス造形研究所で2年間、基礎となる技術を学び、静岡のガラス工房で4年間、さらに富山の工房で5年間働き経験を積んだ。どちらの工房も仕事の空いた時間で自分の作品を制作でき、「とても恵まれた環境だった」と振り返る。その後、大山さんは栃木県内で物件を探し、2011年に鹿沼市で「808 GLASS」を設立。「808」という屋号は、実家が営む和菓子屋の「山屋」から名付けた。 工房があるのは、観光地やガラスの産地でも、山のなかでもない、“街なか”だ。 「例えば、子どもたちが毎朝、工房をのぞきながら学校へと向かう。そんな生活の中にものづくりの現場がある風景を、制作の様子を感じてもらえるような環境をつくりたかったんです」 シンプルで使いやすく、美しい光をまとう作品を 取材当日、工房で制作の様子を見学させてもらった。まず驚いたのは、ガラスを溶かす窯や作業台などは、すべて大山さんの自作だということ。独立直前の2年間、富山の工房で窯のメンテナンスなどを担当していた経験が生かされている。 大山さんは、1200度にもなる窯から溶けたガラスを手際よく竿に巻き付け、空気を吹き込んでいく。さらにガラスを巻き付け、空気を吹き込むという工程を何度か繰り返し、目指す大きさになったら型吹きを行い、模様をつけていく。わずか15分ほどで、きれいに輝くガラスの器ができあがった。 この作品(下写真)は、当初からつくり続けている「flower」というシリーズ。制作で大切にしているのは、 “透明度”だ。 「ガラスを再利用するときに不純物が混ざっていると、色がついてしまうんです。だから、徹底的に取り除くようにしています」 もう一つ、大切にしているのは、“使い心地”。作品は一度形にしたうえで、自分たちで使いながら改良を重ねていく。 「吹きガラスは技術職の面が大きく、技術や素材に対する表現の探求は欠かせません。でも、そればかりを追い求めてしまうと、自己満足に陥ってしまう。だからこそ、実際に使っていただいている方の反応や声を取り入れながら、自分たちでも使って、妻からも厳しい意見をもらいながら(笑)、一つひとつ丁寧にものづくりをしています。目指すのは、長く生活の中で使えるもの。デザインはなるべくシンプルに、かつ技術の追求は続けながら、美しい光をまとう作品を届けたいと思っています」 ガラスと人、人と人が出会う場所に 工房の横には、大山さんの作品がそろうショップがあり、予約制で体験教室も開催。大山さんに教えてもらいながら、オリジナルデザインの作品をつくることができる。 鹿沼に移住してから、大山さんはこの地で長年続く「鹿沼秋祭り」に参加。すると、だんだんと地域の人たちも工房に立ち寄ってくれるようになった。「鹿沼で制作を行う魅力は?」とたずねると、次のように話してくれた。 「鹿沼には、普段からお世話になっている『アカリチョコレート』さん(下写真)をはじめ、個人が営むお店が多く、料理人や焙煎士、木工職人など、真摯にものづくりに打ち込む方がたくさんいます。ジャンルは違えど、その姿勢や思いなどから多くの刺激をいただいています」 工房に訪れる人たちの声から、新たな作品も生まれている。例えば、カラフルなグラスは、当初は5色のみを用意していたが、お客さんの声をとり入れるうちにどんどんと色数が増え、現在では24色のシリーズに。 「自分の作品に、お客さんの声という別の要素が加わり作品が進化していく。それはとても新鮮で、刺激になっています。街に開かれた工房を目指したことで、ここが『素材と人』、『人と人』が出会う場所になりつつあるのが嬉しいですね。これからも体験教室などに力を入れ、ガラスの魅力を発信していきたい」 これから独立を目指す、若手作家の受け皿に 大山さんには、これから力を入れていきたいことが二つある。一つは、制作過程でどうしても出てしまう廃棄されるガラスの再利用だ。 「美しいものをつくろうとする半面、廃棄しなければならないものが出てしまうという矛盾を、当初からなんとかしたいと考えていました。まだ実験段階なのですが、新たな設備をプラスし、魅力ある作品を生み出すことで、素材を循環させる仕組みをつくっていきたい」 もう一つ力を入れていきたいのは、ガラス作家を志す若手が働ける場をつくること。今年から一人、スタッフを入れる予定だ。 「自分がそうさせてもらったように、仕事が終わった後に自分の作品もつくれるような環境を届けていきたい。それによって、少しでもこの業界に貢献できたらと思っています」

サシバが舞う里山で、遊びながら学ぶ

サシバが舞う里山で、遊びながら学ぶ

遠藤 隼さん

レクリエーションではなく“エデュケーション”を 「今日はこの昔ながらの農機具を使って、みんなで収穫した稲からお米だけを取り分ける“脱穀”をしたいと思います」(遠藤さん) 秋晴れに恵まれた10月初旬、栃木県市貝町にある「サシバの里自然学校」では、春の田植えから始まり、夏の草取り、秋の稲刈りと続けてきた「谷津田の米作り講座」の最終回が開催されていた。千歯扱きや足踏み式脱穀機をつかって、子どもたちが楽しそうに脱穀に挑戦していると、「みんなちょっとこれを見て!じつは、今のコンバインの中にも足踏み脱穀機と同じ歯があるんだよ」と遠藤さん。それを見て、子どもたちは目を輝かせていた。 「じゃあ、次は生き物観察に出かけよう!」 “どんぐり山”を抜けると、山に挟まれた谷津田が見えてくる。その横をながれるきれいな用水に入って生き物探し。するとあっという間に、ドジョウやトウキョウダルマガエル、ザリガニなどたくさん生き物が見つかった。 「こんなふうに市貝にはたくさんの生き物がいるからこそ、サシバは春になるとここへ渡って来て子育てをすることができるんだよ」(※サシバは、猛禽類のなかでも珍しく渡りをする) 子どもたちが帰ったあと、遠藤さんは自然学校を運営する思いについて教えてくれた。 「僕はここで、レクリエーションではなく“エデュケーション”を提供していきたい。『楽しかったね』で終わるのではなく、遊びを通して学ぶことができる、そんな体験を届けるのが目標です。そのために、サシバのことをイラストで紹介したパネルなど、楽しみながら学べるような工夫をメニューのなかに散りばめています。また、この自然学校は『NPO法人 オオタカ保護基金』が母体。だから、すべての活動の根源に“自然保護”があります。遊びを通じて、自然を守ることについても関心を持ってもらえたらと思っています」 さらにもう一つ、大切にしていることがある。 「子どもたちと接するときは自分をつくろわず、“素”でいるようにしています。自分をさらけ出すことで、こんな大人になりたい、なりたくないも含めて、とにかく世の中にはいろんな大人がいることを、いろんな仕事や生き方があることを知ってほしいんです。両親でも、学校の先生でもない、“新しい大人像の発見”って僕は呼んでいるんですけど(笑)。狭い視野ではなく、もっと視野を広げてほしい。いま悩んでいる子も、視野の外に未来の自分がいるのかもしれないから」 老舗の自然学校で経験を積んだのち、世界をめぐる旅へ 宇都宮市出身の遠藤さんは小さい頃から、オオタカなど猛禽類の研究者である父親の孝一さんに連れられて、よくバードウォッチングに出かけていた。小学生の頃には釣りにはまり、毎週のように友達と自転車で1時間以上かけて自然のなかへ。釣りや探検を楽しんだ。 「中高時代に熱中したのは、ものづくり。竹や木など自然にあるものを工夫して道具や楽器などいろいろなものをつくって楽しんでいました。実は、自然学校にある机や椅子、デッキ、ヤギ小屋なども僕がつくったものなんですよ」 その後、神奈川県にある大学の農学部に進学し、子どもたちと米づくりや森歩き、川遊びなどを行うサークルに参加。子どもたちと自然のなかで遊ぶ楽しさに目覚め、これを仕事にしたいと静岡県にある自然学校の老舗「ホールアース自然学校」に就職。4年間で子どもキャンプだけでなく、樹海洞窟探検や富士登山、食育体験など、多くの経験を積んだ。 自分のフィールドを持ちたいと考え始めたのは、ホールアース自然学校に入ったころから。30歳になったら独立に向けて動き出すことが目標だったため、そこから逆算して28歳で、自転車によるユーラシア大陸横断、南米大陸縦断の旅へ。この2年間で出会った人や目にした景色、触れた自然などが、いまの遠藤さんの血となり肉となっている。 帰国後、いよいよ自然学校を開校する場所を探して動きはじめる。ホールアース自然学校のある静岡や、同僚だった奥さんの里絵子さんの地元である神奈川などでも物件を探したが、最終的にここ市貝町を選んだ。 「一つの理由は、市貝町はこれまでに開発があまりされておらず、生物相がとても豊かだったこと。もう一つは、父親(上写真)がサシバの研究で長年通っていた市貝町の自然や人にひかれ、ここの土地を借り受け先に移住していたからです。実は、父も自然学校を開きたいと考えていて、現在は“生き物担当”として運営にかかわってくれています。父は、『息子だから一緒にやっているのではなく、たまたま考え方が合うやつが息子だっただけだ』って話しています(笑)」 自然学校を、学習塾のようなポジションに 2016年4月に開校して以降、サシバの里自然学校では今回参加させてもらった「農業体験」をはじめ、キャンプや火おこし、里山探検などの「アウトドア体験」や、里山の間伐材や木の実などを使ってフォトフレームやカスタネットをつくる「クラフト体験」などのメニューを毎週のように開催。里山整備などを一緒に行うボランティアも受け入れている。 一方で、遠藤さんは宇都宮にある作新学院大学女子短期大学部の保育士を育成する幼児教育科で、非常勤講師も務めている。 「現在、自然学校では小学生向けのメニューが中心ですが、今後は保育園・幼稚園児向けのプログラムも提供していきたい。最近、全国各地に『森のようちえん』が誕生していますが、自然体験や野外活動を子どもたちに経験させたいというニーズは確実に増えています。僕は、自然学校を学習塾や英会話教室などと同じポジションに持っていきたいんです。受験に直接役立つものではないかもしれないけど、自然体験を通じて“生きる力”を身に付けることは、子どもたちの将来に必ずプラスになるはずです。自然学校ではもちろん、各地の保育園や幼稚園に出向いて行うプログラムも開発していけたらと思っています」 宇都宮をはじめ、県内では小中高の同級生たちがさまざまな職業で活躍している。また、市貝町に遠藤さんが移り住んで以降、ホールアース自然学校の仲間たちもこの地に移住し、観光協会で街づくりにかかわったり、機織りを手がけたりと活動している。「そういった人のつながりも積極的に生かしながら、さらにプログラムを充実させていきたい」。 遠藤さんの挑戦は、まだ始まったばかり。日々進化を続けるサシバの里自然学校のこれからが、楽しみで仕方がない。

農業は“最高に楽しい接客業”

農業は“最高に楽しい接客業”

金子洋次さん・公乃さん

野菜の花など、新たな価値を畑から提案 「じつは、この黄色いゴーヤの花も食べられるんですよ」 そう金子洋次さんにすすめられて口に運ぶと、シャキシャキとした食感とともにゴーヤのほのかな苦みが口じゅうに広がった。 東京から那須町に移り住み、新規就農を果たした洋次さん・公乃さん夫妻は、アーティチョークやビーツなどの西洋野菜と、一般的な季節の野菜を無農薬・無化学肥料で栽培。季節の野菜は車で5分ほどにある「道の駅 東山道 伊王野」やマルシェなどで販売。一方、西洋野菜は、主に那須高原のレストランに出荷している。それだけではない。キュウリやインゲンの花をはじめ、あえて小さいサイズで収穫したピーマンやニンジン、オクラなどもレストランに届けている。 洋次さん:「例えば、キュウリやインゲンの花はこんなに小さいのに、食べると確かにその野菜の味がする。このギャップが、食べる人の感動につながります。そんなレストランのシェフが求めるものを、畑からどんどん提案していきたい。農地を拡大し生産量を増やすのではなく、今ある畑のなかで新たな価値を数多く創造することで、経営を成り立たせていくことを目ざしています。何よりもこのやり方のほうが楽しいんです!自分たちが種をまき育てたものを、その喜びのまま提案できる。僕は農業のことを、“最高に楽しい接客業”だと思っています」 最近では、那須高原のレストランのシェフたちが、畑を訪れる機会も増えている。 洋次さん:「実際に畑を見てもらいながら、『ゴーヤの花はこんな料理に使えそう』『小さいキュウリは、このサイズのものがほしい』などシェフと情報交換を行い、僕たちも勉強を重ねていくことで、最終的にレストランで出される料理の質を高めることができます。こんなふうにシェフと連携できるのも、市場には並ばない小さな野菜や花を届けられるのも、物理的な距離が近いからこそ。那須地域には、単に地元産の野菜を使うだけにはとどまらない、“新たな地産地消のカタチ”を生み出せる可能性があふれているんです」 移住者の仲間や、地域の人たちに支えられて 東京にいた頃、洋次さんはアパレルの販売を、公乃さんはスタイリストの仕事を手がけていた。二人のうち最初に移住に興味を持ったのは、公乃さんだった。 公乃さん:「彼の実家が、埼玉県の山に囲まれたところにあって、帰省する度にまわりの自然や生き物たちに癒やされていて。だんだんと自然が身近にあるところで暮らしたいなって思うようになったんです」 洋次さん:「僕は、大量に生産して大量に販売するというアパレル業界の仕組みに違和感を覚えるようになり、自分の手で一から育てたものを販売する農業に、漠然と関心を持つようになりました。二人で話し合い、妻の父親が建てた家が那須町にあったこともあり、この地への移住を決意したんです」 2010年2月に移住後、洋次さんは「道の駅 伊王野」(下写真)で、公乃さんは那須高原にある「那須高原HERB's」というハーブとアロマのお店で働き始める。 洋次さん:「最初に道の駅に飛び込んだのは、直売所で販売を担当させてもらうことで野菜について学びたいと考えたからです。農業について全く知識のない自分をひろっていただき、道の駅のみなさんには本当に感謝しています。ここで働かせてもらえたことで、地域のみなさんに僕たちのことを知ってもらうこともできました」 少しずつ地域に馴染み始めたころ、東日本大震災が発生する。原発事故による影響もあり、農業を諦め那須を離れる人たちがいる中で、二人がここに残る決意をしたのは、移住者の先輩や仲間たち、そして地域の人たちの支えがあったからだ。 洋次さん:「『アースデイ那須』の実行委員を通じて知り合った、隣の芦野地区で地域のハブとなるようなゲストハウス『DOORz』を営む田中麻美さん、佐藤達夫さん夫妻をはじめ(下写真)、アースデイ那須を立ち上げた『非電化工房』の藤村靖之さんや、妻が勤めていた那須高原HERB'sさんを中心に、『那須いろ野菜』というブランドを立ち上げたメンバーたち、震災後、農産物が売れなくなる中で、放射性物質の検査を行ったうえでオーガニック野菜を販売する『大日向マルシェ』を立ち上げた仲間たちなどなど。震災後の困難な状況を乗り越えようと活動する先輩や仲間たちの姿を目にし、みなさんと一緒にこの那須で頑張っていきたいと強く思ったんです」 公乃さん:「伊王野地区のみなさんの支えも本当に心強かったです。例えば震災直後、ガスが使えずに困っていると、地域の方が火鉢に火を起こしてくれたり、発電機を使って井戸の水をくみ上げてくれたり、感謝してもしきれないほど助けていただきました」 就農を目ざす人たちの“モデル”となるために 2011年4月から1年間、洋次さんは栃木県農業大学校が手がける、UIターン者などを対象とした「とちぎ農業未来塾」で研修を受けたあと、有機農家を見学して回り技術を学んだ。さらに、伊王野の地域の人たちからも多くのことを教わった。 洋次さん:「例えば、一般的な種まきの時期は調べることができますが、この地区での適期は教科書にもインターネットにも載っていないんです。だから、道の駅に野菜を出荷しにくる農家の先輩方や、隣のおばあちゃんなどに何度も聞いて、失敗を繰り返しながら年間の栽培スケジュールを組み立てていきました。地域のみなさんは種をくださったり、『この苗はあるけ?』と聞いてくれたり、とても親切に教えてくれて。みなさんから学んだことも、大切に受け継いでいけたらと思っています」 2012年4月に新規就農してからは、道の駅の直売所で野菜を販売。大日向マルシェやアースデイ那須などに出店するうちに、そこに野菜を買い付けに来ていたレストランのシェフと出会い、だんだんと今のスタイルが形づくられていった。また、オーガニック野菜を求める一般の人とのつながりも広がり、直接「野菜セット」の販売も行っている。このように自分たちならではの農業を追求している二人だが、もちろん壁にぶつかり悩むこともある。 公乃さん:「本当は初夏には梅を漬けたり、冬には大根を漬けたりと、季節に寄り添った暮らしをしたいのですが、畑仕事に追われてなかなか手が回りません。今はまだ『こうなりたい』という暮らしからはかけ離れてしまっているけど、目標を忘れずに現実の問題を一つ一つ解決していきたいです」 洋次さん:「二人で相談して、この夏、はじめて週1日アルバイトの方に来てもらいました。悩んでいても何も始まりません。この那須地域だからこそできる理想の農業と暮らしの両方を実現するために、新たなチャレンジを続けていきたい。そしていつか、自分たちを見て『ここで農業をやってみたい』と思ってくれる仲間が増えていったらいいなと思っています」 那須に移住してもうすぐ6年、二人は今、必死に悩みながら前に進もうとしている。これから那須地域で就農を目ざす人たちのモデルとなるために。

人と人、技術と技術をつないでいきたい

人と人、技術と技術をつないでいきたい

中村 実穂さん・俊也さん

人や技術をつなぐ。新たな関係から生まれるものを 見る角度や動きによって表情を変える木枠や、まるで星座のようにつながる糸とスチール、円を描きながらやわらかに連なる真鍮など、さまざまな形や素材、技術を組み合わせて、美しいモビールをつくり上げるのは、栃木県足利市にある「mother tool」。さらにステーショナリーや暮らしの道具など、全国各地の工場やデザイナーたちと連携しながら、数多くのオリジナルプロダクトを手がけている。 代表の中村実穂さんは、足利市の隣町、群馬県邑楽町(おうらまち)の出身。都内の短大を卒業し、インテリア・家具デザインの専門学校に進んだあと、両親が営んでいた組み立て工場を継ぐために地元へ戻ってきた。 実穂さん:「じつは親戚中に説得されて、しぶしぶ工場を継ぐ決心をしたんです。当時、主に手がけていたのはパチンコ台を組み立てる仕事。深夜までかかって何千台と組み立てる日もあれば、ぽっかりと数日空くこともある。納期が厳しく仕事に波があるうえ、依頼先からは『代わりの工場はいくらでもある』といわれることもあったりして、この仕事を続けていく意味が、なかなか見いだせなかったんです」 そんな状況のなか、実穂さんと俊也さんの心の中では「自らの手でものづくりをしたい」という思いが膨らんでいった。実穂さんはとにかく一歩を踏み出そうと、専門学校時代の先生である家具デザイナーの村澤一晃さんのもとへ相談に。そのとき村澤さんがかけた「組み立ては、パーツとパーツをつなぐのが仕事。その“つなぐこと”を意識してものづくりに取り組んでいったらいいのでは」という言葉によって、これからやるべきことが見えてきたという。それから実穂さんは、足利をはじめ、岐阜や徳島、福井、東京などの工場を見学したり、気になるデザイナーに会いに行ったり、全国各地を巡った。 実穂さん:「いろいろな方にお会いするなかで、それぞれの工場、デザイナーさんが得意とする分野や技術が分かってきました。その良さをより引き出す形で、人と人、技術と技術をつないでいきたい。それこそが、組み立て屋である私たちの役目だと思ったんです」 モビールは“組み立て屋”の腕の見せどころ 2006年2月にmother toolを設立し、最初に手がけたのが「木とアルミ」のシリーズだ。足利では戦前の飛行機から現在の自動車部品まで、アルミなどの金属加工が盛ん。その技術を代表するのが、ロクロのように回転する板状のアルミに、ヘラを押し当てながら形をつくる“ヘラ絞り”という職人技だ。 実穂さん:「熟練の職人さんが手仕事で生み出すパーツの誤差はほんのわずか。丁寧につくられた強固なアルミに、木目や色味など樹種のよさを引き出すことに長けた徳島の『テーブル工房 kiki』さんの木のパーツを組み合わせることで、やさしさもあわせ持ったステーショナリーをつくることができました」 その後、2011年にモビールづくりを始めたのは、村澤さんの「モビールをつくってみない?」という、何気ない一言がきっかけだった。モビールが大好きだったという実穂さんは「ぜひつくってみたい!」と、モビールをはじめプロダクトデザインを手がけるユニット「DRILL DESGIN」に相談。すると、「せっかくならオリジナルのモビールブランドを立ち上げよう」とDRILL DESGINが快くディレクションを担当してくれた。こうしてモビールブランド「tempo」が誕生。5人のデザイナーによる9種類のモビールに、いまではmother toolのオリジナルをくわえ10種類を展開。海外でも取り扱われるほど注目を集めている。 工場では俊也さんが、デザイナーが手がけた図面や模型をもとに試作を行い、どのスタッフが組み立てても均一なモビールになるよう、工程ごとのマニュアルや、パーツ・工具の作業位置を示す器具づくりなどを行っている。 「モビールは、各パーツをテグスなどでつないで組み立てていきます。そのとき、パーツとパーツの距離や角度が少しずれるだけで、せっかく職人さんがいいパーツをつくってくれても、表情や雰囲気が台無しになってしまう。モビールづくりは、まさに“組み立て屋”の腕の見せどころなんです」 さらに、実穂さんが続ける。 実穂さん:「モビールには金属や木、樹脂、ガラスなどさまざまな素材が使われます。そのため、いつか一緒にものづくりができたらと思っていた多くの工場と、新たに仕事ができるようになりました。モビールの展開を始めたことで、よりmother toolらしいものづくりができるようになったと感じています」 足利の地で育まれた技術や人を活かして 足利学校のほど近く、石畳の通りに面した建物に、2009年mother toolのお店がオープンした。「ものをつくるだけではなく、使う人に直接届けたい」「つくり手の思いや背景を伝えることで、つくる人と使う人をつなぐ役割も果たしていきたい」との思いから、店内にはmother toolの道具だけではなく、つながりのあるデザイナーや工場のプロダクトも数多く並べられている。さらに2014年には、工場も足利市内に移転。その理由は、足利にはさまざまな技術を持った工場が集まっているからだという。 俊也さん:「足利では金属加工だけでなく、古くから繊維業も盛ん。フットワークの軽い小規模な工場が多く、ありがたいことに、私たちと一緒に楽しみながらものづくりに取り組んでくださる工場も増えています。何か相談ごとがあれば、すぐに会いに行ける距離。雑談のなかから新たなアイデアが生まれることもあるんです」 実穂さん:「歴史ある建物が点在している足利の石畳エリアは、散歩をしていてとても気持ちがいい。のびやかな雰囲気が気に入っています。屋台をはじめ、おいしいコーヒー屋さんや個性あふれる飲食店など、個人が営む小さなお店が多いのも魅力ですね」 そんな足利の魅力を多くの人に知ってもらいたいと、実穂さんは地域づくりの団体「いしだたみの会」のメンバーとして、石畳エリアの魅力を伝える冊子「TALIRU」の制作にも携わっている。 「今後は足利に息づく技術をさらに掘り起し、新たなプロダクトとしてその魅力を発信していきたい」と考える二人。 地域で育まれた技術や人の強みを活かし、ほかの産地の素材や技術と組み合わせることで、新しい価値をつくり出す。mother toolのプロダクトは、東京などの大都市でなくとも面白いものづくりができること、地域に根ざしているからこそ生み出せるものがあることを気づかせてくれる。

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