interview

単身で移住

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人生に立ち止まってみたら、</br>自分らしい暮らしに出会えた

人生に立ち止まってみたら、自分らしい暮らしに出会えた

檜澤 しのぶ(ひざわ しのぶ)さん

コロナ禍をきっかけに、<SPBR>新たな人生へ 前職は大手ホテルのセールス担当。新潟にあるホテルの東京営業所に所属し、都内の企業や旅行会社に向けて宿泊や宴会、レストランなどのサービスを案内していた。 「当時は忙しすぎて、立ち止まる余裕なんてなかったですね。売上の数字を常に背負い、お客様の期待値を超える演出をする日々は、やりがいはありましたが、仕事に追われる生活でした。」 そう語る檜澤さん。 立ち止まるきっかけは新型コロナの感染拡大だった。大打撃を受けたホテル業界の例に漏れず、檜澤さんが働く東京営業所も閉鎖されることに。 「良くも悪くも、これが移住を考え始めるきっかけになりました。初めて立ち止まってみて思ったのは、私の人生このままでいいのかなって。じゃあ、思い切って一回全部リセットしてみようと!」 その後、1年間休職。休職中に、以前から興味のあった地方創生や観光について学んだ。 そんな時、縁があり、日本全国の移住支援を行う「ふるさと回帰支援センター」の栃木県窓口の相談員を務める生田さんから、真岡市移住定住コーディネーター募集の案内を受ける。 東京に進学・就職し、地元である真岡市を離れて数十年。新しい人生を送る地は真岡市でいいのか……すぐには決められなかった。 背中を押してくれたのは、地元の友人の言葉だったという。 「今、真岡市の未来のために、行政と大人、学生たちが公民連携で動いているよ。これから真岡市が面白くなる。一緒にやろうよ!」 移住はご縁とタイミング。ふるさとに戻ることに決めた。 ゆるやかな時間、<SPBR>おだやかな暮らし 東京と真岡市では、時間の流れ方が明らかに違う。 競争社会である東京では、自分より他人を優先し、時間に追われる生活だったが、今はワークライフバランスを取りながら自分らしい生活を送れている。 散歩中に見る田んぼや満開の桜並木、緑生い茂る樹木、カエルや鈴虫の鳴き声、キンモクセイの香り―。 何気ない日常の風景から季節が感じられ、自然とともに生きているんだとしみじみ思う。なんとも心地のよい生活である。 東京に住む友人からは「表情がすっきりして顔色がよくなった」と言われた。<SPBR>人は暮らす環境によってメンタルが大きく左右されるのだと身をもって体感した。 「今は、子どもの頃にやってみたかったことにも、どんどんチャレンジしてみたいと思っていて。そんなことを思えるようになった自分にびっくりです。東京ではそんな余裕がありませんでしたから。今は自分の可能性が広がっていくようで、ワクワク感がありますね!」 車の運転も、真岡市に戻ってからするようになった。 確かに、地方は東京ほど便利ではない。ただ、不安に思う必要はないという。 「東京だと車を運転する必要がなかったので、真岡市に戻っても自転車で移動すればいいやと思っていたんですが……自転車で動ける範囲なんて限られていますもんね(笑)父に教えてもらったり、ペーパードライバー向けの講習を受けたりして、運転スキルを上げていきました。今はマイカーも購入して、高速道路も運転できるまでに上達しています。」 都会と比較した際の生活利便性は、多くの移住検討者にとって不安要素のひとつかもしれない。ただ、本当に地方に移住すれば利便性は下がるのだろうか。 「運転できるようになって、私はむしろ移動の自由度が高まりましたね。休みの日はあそこに行ってみようとか、あの人に会いに行ってみようとか、アクティブになりました!確かに新しい一歩を踏み出すのは怖いかもしれませんが、慣れれば問題ありません。今年の冬は、マイカーでスキーに初挑戦する予定です!」 真岡市には十分な数のスーパーがあり、学校があり、総合病院もある。自然も豊かで、子育て世代にも人気のまちとなっている。 地方移住に対する漠然とした不安は、あなたの小さな一歩によって意外と簡単に解決できるのかもしれない。 数十年ぶりの実家暮らしで<SPBR>得た気づき 今は両親・姉家族と9人でにぎやかに暮らす檜澤さん。東京での2人暮らしから、実家での9人暮らしへ。抵抗はなかったのだろうか。 「もちろん、ありました!いまさら両親と暮らすなんて、なんか恥ずかしいと思っていましたから。一人暮らしをしようとアパートを探していたんですが、空いている物件がなかったりで、家族全員に住まわせてください、とお願いしました(笑)」 家業は米農家。現役の父。小顔に映りたい母。 住む場所はもちろん、仕事や周囲の人もすべて変わり、移住して間もなく体調を崩したことがあった。 そんな時、改めて自分を見つめ直すきっかけをくれたのが両親だった。 「体調を崩した時に、両親に相談したんです。そしたら、母からは『しのぶは小さい頃から、ないものねだりだ。今あるものを大事にすればいいの。』父からは『しのぶには信念がない。信念があれば、人に何言われても揺らぐことはない。諦めるな。』と言われて…。被っていた鎧を捨てられた気がします。自分の弱いところも見えたし、かっこつけていたところもわかりました。」 一番近い距離にいる両親からの言葉に、自分らしさを気づかせてもらったという。 真岡市にUターンをして、両親と暮らせてよかった、と笑顔で語るようすが印象的だった。 真岡市の魅力を日本中へ! 真岡市では移住定住コーディネーターとして、移住のお手伝いをする日々。 「移住って大変じゃないですか。仕事も住む場所も、交通手段も気候も友人も……自分の人生全部が一気に変わるので。私自身、体調崩したり、不安があったので、移住定住コーディネーターとして接する時は親身になって相談に乗れるように心がけていますね。移住は覚悟が必要で、人生における大きな決断でもあるので、「希望する生き方」「本音」を聞き出しながら、なるべく真岡市の正確な情報を伝えるようにしています。踏み込んだ話もしっかりと伝えてもらえているのは、話しやすい空気を作れている結果かなと思いますね。」 檜澤さん自身が移住者であるということが、相談する人にとって安心できるポイントになっているのだろう。そして、底抜けに明るく人懐っこい人柄がひと役買っていることは言うまでもない。 真岡市といえば、55年連続いちご生産量1位を誇る「いちご王国・栃木」において、一番の生産量を誇るとともに、いちごの品質や栽培技術を競う「いちご王国グランプリ」においても、最高賞の大賞(農林水産大臣賞)を最多受賞する、まさに「質」・「量」ともに「日本一のいちごのまち」。 真岡市移住定住コーディネーターを務める檜澤さんの目標は、「もおかDEのうか いちご就農するなら真岡市」を全国に広め、いちご就農する後継者を移住者で増やすことだという。 「地方移住して農業を始めたいっていう方のご相談は結構あります。ただ、専門の就農窓口はハードルが高いみたいですね。そんな時に、私がいちごの被り物なんかして移住相談窓口にいると、話しかけやすいみたいです(笑)」 いちご就農した先輩移住者と移住検討者を引き合わせる機会などもあり、人と人をつなぐ仕事なんだと実感することも多い。 「真岡市のいちご農家さんって、『日本一のいちご産地』として誇りと情熱をもっていらっしゃる方が多いんです。後継者や「もおかっ子」の未来を真剣に考えられている方も多くて。そんな方々とお話していたら、私自身も未来の真岡市の担い手になりたいっていう熱い気持ちが湧き上がってくるようになりましたね。」 移住者、つまりは新しい風として、今の仕事を通じて未来の真岡市を盛り上げていきたいという。 「真岡愛溢れる市民がたくさんいるので、一緒に活動ができて本当に楽しいです。」 もおかDEのうか <SPBR>いちご就農するなら真岡市 FMもおかとのコラボで制作したPR音源。 真岡市を象徴する、真岡鐵道のSLの汽笛が懐かしい。地元を離れて暮らす真岡市民や栃木県民に聞いてもらい、ぜひふるさとを思い出すきっかけにしてほしい。 何かを始めるのに、<SPBR>遅いことはない 移住して一番よかったと感じるポイントは? 「生きていくなかで大切なものに気づけたことでしょうか。自分らしさに気づかせてくれた家族や、いつも支えてくれる仲間たち。時間に追われる生活では、見えていなかったものが見えるようになりました。」 仕事の経験やスキル、人間関係など、年齢を重ねるほど積み重ねたものも多く、新たな人生を始めるには勇気も労力もいる。 「今ある暮らしをリセットして、新しい人生をスタートさせるのって大変です。でも、それ以上に得るものも大きいかもしれません。私の場合は、移住によって自分らしい豊かな暮らしを実現できました。経験者として言いたいのは、40代からでも全然遅くないよ!ということ。人生、まだまだこれからです。」 子育て支援センターや図書館、地域交流センター、カフェなどが入る複合交流施設の整備が進み、新たなまちづくりが進む真岡市。気になった方は、ぜひ真岡市の移住相談窓口へ。檜澤さんが真岡市の魅力をたっぷりと紹介してくれることだろう。

持続可能な里山暮らしを目指して

持続可能な里山暮らしを目指して

後藤 芳枝(ごとう よしえ)さん

田舎での丁寧な暮らしに憧れて 群馬県出身の後藤さん。高校卒業を機に上京し、服飾専門学校へ。20代は東京での暮らしを満喫し、音楽活動や古本屋での仕事、キッチンカーでの弁当販売など、さまざまな仕事を経験した。 欲しいものや必要なものは全て買えば手に入るが、30代半ば頃から「東京での暮らしって、消費するだけだなぁ」と考えるようになったという。 「丁寧な暮らしを紹介する雑誌をよく読んでいて、ナチュラルな暮らしに憧れていました。東京での生活は、日々の生活音をとても気にしてしまい、そういったことを気にせずに暮らせるような田舎に移住したいな、と思うようになったんです」 田舎暮らし、移住。日々そんなワードを検索する中で、地域おこし協力隊のことを知った。 「でも、全国の活動事例を見ても目にするのは若い人たちが活躍する記事ばかり。若者しかなれないものだと思い込んでいたので、自分が協力隊になるなんて想像もしていませんでした」 実家がある北関東を候補に移住先を探していた際に、足利市での農業体験情報を見つけ、市に興味を持った。そこから行き着いたのが、市主催のコミュニティイベント『足カフェ』だ。 イベントへの参加をきっかけに、市職員や足利市地域おこし協力隊との繋がりができ、翌月には足利を訪れることになった。 「“田舎でこんな暮らしがしたい、という理想はあるけれど、その土地に必要なことで、生業にできることって何だろう?”と考えていて、足利市の職員の方に悩みを打ち明けたところ、“地域に必要とされていることを知るためにも、協力隊に応募してみたら?”と言われたんです。自分の歳で協力隊に応募できると思っていなかったので驚きましたが、それなら!と思いました」 足利市への訪問を機に、協力隊への応募を決意。それから3ヶ月後、後藤さんの足利暮らしがはじまった。 地域の“つなぎ役”として 協力隊のミッションは、“自らの足利暮らしを通じた移住・定住の促進に関する活動”とのことで、後藤さんは興味がある“農業・里山暮らし”に焦点をあてた取り組みをしたいと考えた。 「農業体験に力を入れて取り組んでいる名草地区を拠点に活動したい、と市役所に提案しました。市としても名草地区を盛り上げていきたいとのことで、割とスムーズに名草での活動をスタートすることができました」 とはいえ、農業の知識や経験は全くなかった後藤さん。 まずは自分の存在を知ってもらおうと、名草で地域活性をしている団体の方々に挨拶周りをし、皆さんの手伝いをすることからはじめた。 畑での農作業、草刈り、ハイキングコースの整備・・・さまざまな体験を通し、農作業に必要な準備や片付け、季節ごとの作業、農機具の使い方、農業における先人の知恵、暮らしのアイデアなど、里山での農ある暮らしを身につけていった。 「協力隊1年目は、各地域で活動している皆さんのお手伝いをしながら、里山での暮らしについて学ばせてもらいました。2年目には自分で畑を借りて、農業体験をやってみよう!と動き始めました」 借りた畑は『名草ちっとファーム』と名付けた。「畑をちっとんべー(“少しばかり”の意)やってます」という意味で、これが親しみがあってわかりやすい、と地元の人から好評を得た。 「自分で畑を借りて農作業を始めたことで、地域の方との関係性が良い意味で変わったなと感じました。それまでは手伝いだけで受け身だったのが、まだまだ同じ立場とまでは言えませんが、会話の内容も一段階上がったというか。人との繋がりも広がりましたし、やはり自分でやってみるって大切だなと実感しましたね」 少しずつ里山暮らしに手応えを感じていく中で、活動を形にしていこうと立ち上げたのが『名草craft』だ。 人と人を丁寧に繫ぐという思いと、自身も天然素材でものづくりをするような手仕事をしていきたい思いから、クラフトという言葉を選んだ。 「竹や麦などの素材を使って、かごやオーナメントを作っています。名草のような里山でも、かごを作れる人は少ないんですよ。そうした日本の昔ながらの手仕事を残していきたくて」 昔ながらの伝統でいえば、『名草生姜』も忘れてはいけない。 「協力隊3年目の時に、宇都宮大学の学生たちと地域課題を解決するための研究プロジェクトが始まりました。その中で、名草産の生姜に着目し、PRのためのワークショップや、商品開発、市内の飲食店の皆さんにも協力いただきレシピブックを作成しました」 協力隊の3年間を通じて後藤さんが感じた自身の役割は、“つなぎ役”になるということ。 「人と人を繋ぎ、ものづくりをしたり、誰かのやりたいことを形にしたり、困りごとを解決したり。つなぎ役がいることで実現することってたくさんある、ということを実感しています。その役割を担っていければと思っています」 里山で広がる人とのつながり 協力隊としてP Rに力を入れた『名草生姜』。後藤さん自身も名草生姜を守るべく、栽培をはじめた。 以前は名草地区でも複数の農家で生姜が作られていた。しかし、現在大規模に生姜を作っているのは、生姜農家の遠藤さんだけだという。 「生姜の栽培から、収穫、貯蔵、種作りまで、遠藤さんに教えてもらっています。わからないことがあれば、何でも丁寧に教えてくれるんですよ」 生姜に限らず、後藤さんは農業のイロハについて、遠藤さんをはじめ集落営農組合のおじいちゃん達にお世話になっている。 「米作りのこともアドバイスしてもらったり、農機具を貸してもらったり、とても助かっています。そのかわりに、農作業の後片付けや雑務などは私たち若い世代がやっているんですよ。持ちつ持たれつの関係ですね」 また、後藤さんがプライベートでも仲良くしているのが、同世代の奥村さんだ。 「とにかく話が合うんですよね。今欲しいものは・・・(二人が声を揃えて)耕運機!とかね。こんな暮らしがしたいとか、こういうことをやりたいとか、その感覚がとても近くて。話をしていて落ち着くんですよ」 ふらっと奥村さんの家を訪れては、お茶を飲んで何気ない会話を楽しんでいるという。 そんな奥村さんも、滋賀県から群馬県を経て、名草地区に魅せられてやってきた移住者仲間。養鶏を生業としており、「自分たちで作れるものは作る」という考えも後藤さんと通ずるところだ。 「狭い地域ではありますが、名草には魅力的な人が本当にたくさんいるんです。こうした人たちの存在が、私が名草にいる理由でもあります」 夢に描いていた暮らしができつつある 2022年3月に地域おこし協力隊の3年間の任期を終え、現在、後藤さんは足利市集落支援員として引き続き名草地区で活動している。 基本的には、協力隊時代に取り組んできたことを継続して行っているが、変化したところもある。 「協力隊の時は、自分のやりたいことで地域を盛り上げる活動をしていました。そのため、関わる人も既に地域で活動している人が多く、それ以外の方々と繋がるきっかけが少なかったと感じていました。集落支援員としては、もっと幅広く地域に貢献していきたいと思い、自分たちの活動を知ってもらうために新聞を作ったり、朝の太極拳をはじめました」 長年太極拳をやられている方がおり、朝のラジオ体操の感覚で太極拳の体験会をしてみたという。すると、これまで交流のなかったおばさま(お姉さま)世代がたくさん参加するようになり、また新たな人との繋がりができるようになった。 新たな人との繋がりは、新たな里山暮らしの知恵をもたらしてくれる。そうして、後藤さんは、ますます“名草の人”として地域に馴染んでいくのだ。 「そうして徐々にできることを増やしていって、いずれは自分の生業で地域に貢献しながら暮らしていけるようになりたいです」 「協力隊としては何もかも未知からのスタートでしたが、新しいことにチャレンジして周りに助けてもらいながら、色んな経験ができました。この歳になっても自分が成長できることってこんなにもあるんだ、と実感しています。時間はかかりましたが、今やっと30代の頃に描いていた理想の暮らしができつつあります。特別なスキルがなくたっていい。思い切って、ローカルでチャレンジしてくれる人が増えたらいいですね」

穏やかな余白時間と首都圏への通勤、どちらも叶えられる暮らし

穏やかな余白時間と首都圏への通勤、どちらも叶えられる暮らし

尾花 理恵子(おばな りえこ)さん

穏やかな時間と、首都圏への通勤が叶う暮らし 2021年まで、東京都内の会社で勤務していた尾花さん。地方移住をしようと思ったきっかけは、自分の人生を一度見つめ直したかったことだという。 「会社員時代は、忙しくて空を見上げる暇もないくらい余裕がなかったんです。大きなプロジェクトをやり遂げて一区切りがついたとき、会社を辞めて、好きで続けていたヨガのインストラクターとして独立しようと思い至りました。仕事だけでなく、暮らす環境や人間関係などもがらりと変えたかった。候補はいくつかありましたが、全く知らない土地でスタートするよりも、生まれ育った佐野に移り住むことが精神的な安定にも繋がると思い、Uターンを決めました。実家から徒歩20分ほどのところで一人暮らしをしています。」 栃木県南西部に位置する佐野市は、東京から70キロ圏内というアクセス良好な立地。利便性と豊かな自然を両立しているので、首都圏での仕事が継続できることが大きなメリットだ。 尾花さんによると「東京に比べると広くて家賃も安いので、独立して起業をしたい人にとっても良いエリア」とのこと。 尾花さん自身、様々な縁があり、居住地である栃木県佐野市、東京都の武蔵小山エリア、神奈川県川崎市の3拠点でヨガクラスを持ち、週に3〜4日は高速バスで通勤。 会社員時代と同じく多忙な毎日のように見えるが、尾花さんの心持ちはまるで異なるという。 「高速バスだと新宿まで1時間半。東京や神奈川での仕事日も、必ず佐野の自宅に戻っています。東京で生活していた頃、自宅に帰っても仕事のことで頭がいっぱいだった私には、むしろバスの通勤時間がオン・オフの気持ちの切り替えになっていい。佐野に着いてバスを降りると、空が広く、空気がおいしくて…毎日ホッとしています。」 オン・オフの境目がなかった、東京での一人暮らし。 移住して余白の時間が生まれたことで、「目の前の景色の移り変わりを感じられるようになった」という尾花さんの声は明るく穏やかで、今の生活の充実度を物語っているかのようだった。 東京からのアクセス良好な佐野市エリア 四季を通して多くの自然に恵まれている佐野市。南北に長い土壌で、北に連なる山々からの“豊富で良質な水”は、古くより佐野の食文化を育んでいる。 「近所のスーパーでは、地場産コーナーがあったりするので、今朝採れたみずみずしい新鮮な野菜が、日常的に安く手に入るのがうれしい。また、移り住むことになって再確認したのが、佐野市独自の食の豊富さ。全国的に有名な佐野らーめんをはじめ、いもフライや黒から揚げなどのご当地グルメ、他にも喫茶店文化があり、店主さんのこだわりコーヒーが飲めたり…と、移住してからの小さな発見が楽しいんです。」 店を直接見てまわる楽しみ、地域の人とのやりとりの心地よさのおかげか、ネットショッピングをほとんど利用しなくなったほど。 そんな風に暮らしの変化を楽しんでいる尾花さんが、今回提案してくれたのは、2泊3日の短期滞在で「1日ごとにテーマを決めて行動する」というアイデア。 「例えば、1日目は自分をいたわるリトリートDAY、2日目は滞在先で働いてみる日…のような感じで、ここに“暮らす”生活を想像しながら動いてみてはいかがでしょうか。佐野市の生活では車移動がマストなので、着いたらまずはレンタカーをピックアップ。車があれば行動範囲も広がり、気分転換にもなると思いますよ。」 ショートステイのすすめ1「ひとり時間の息抜きになる、リフレッシュスポットを見つける」 「仕事や人間関係などに疲れ、忙しい生活から離れたくなったら、ふらっと気軽に佐野市に訪れてほしい」という尾花さんの思いが反映された1日目のプランは、心身をリセットできるスポット巡りがテーマ。 「一人暮らしでもファミリーでも、リフレッシュできる場所は生活圏内に欲しいですよね。私が深呼吸をしに訪れる出流原弁天池は、最高の癒しスポット。佐野は水がきれいなことでも有名なのですが、ここの湧き水の透明度の高さは日本名水百選に選ばれるほど! そして、唐澤山神社もぜひ参拝して欲しい場所。境内にいるさくらねこを愛で、軽く汗をかくくらいのハイキングができます。リフレッシュできたら、おいしい食事で体の内からも癒されて。栄養士の女性が創業されたキャトルクワトンは、新鮮な野菜たっぷりのランチが食べられるのが魅力。店主マキさんの優しい人柄にも癒されます。」 他にも、尾花さんが散歩におすすめする朝日森天満宮など、自然のエネルギーや、神聖な気が宿る場所が数多く存在する佐野。 ショートステイ中に日頃の疲れを癒して、パワーチャージができるお気に入りスポットを見つけて帰るのもいいかもしれない。 ショートステイのすすめ2「暮らすように働いてみる」 移住後のリモートワークを想定して、2日目は市内のコワーキングスペースへ。 「女性専用コワーキングスペースVALO、佐野駅近くのコミヤビルニカイの他、佐野市内には多くのサテライトオフィスやコワーキングスペースがあるそうです。パソコンを持ち込んで午前中はリモートワークをしたら、神谷カフェでランチ休憩を。ここは、スパイスカレーやパンケーキが人気のお店。ランチだけでなく、カフェ前にあるコンテナでスイーツのテイクアウトもおすすめです。仕事の続きをする際のおやつにぜひ!」 夕食にはテイクアウトを利用して、自宅でのリモートワーク気分を味わった2日目。あえて予定や目的を詰め込まないことが、“暮らす”気分で過ごせる秘訣なのかも。 ショートステイのすすめ3「食べ歩きを楽しみながら、その土地の空気感を味わう」 3日目のスタートは、尾花さんが講師を務めるsano yoga ruitoで開催される早朝ヨガクラスに参加。 地元の方が集まって交流するような場所に飛び込むことで、違った角度からその土地のことが知れるはずだ。 「気持ちよく体を動かすことからスタートした最終日のプランは、食べ歩きがメイン。佐野を代表するB級グルメや、私も大好きなコーヒーショップを巡りながら、町の空気感を肌で感じて欲しいです。」 福伝珈琲店をはじめ、WAFFLE COFFEE、蔵和紙カフェカクニ、COFFEE&DONUTS FIVEなど、佐野駅周辺におしゃれなコーヒーショップが点在しているのでカフェのはしごも可能。 佐野らーめん晴れる屋の佐野らーめん、佐野の新名物でもあるからあげ家なるねこの黒から揚げ。たくさんのおすすめを挙げてくれた中でも尾花さんいちおしなのが、佐野の農作物を使ったジェラート屋さん。 「佐野は年間を通して様々なフルーツが採れるので、地元産の季節の果物を使ったジェラートが絶品なんです。佐野観光農園アグリタウンにあるGelateria Auguriをはじめ、市内に数店舗あるので、実家の母と弟を誘って食べに行くのにハマっています。今や趣味のひとつですね!」 プランに余裕があれば、佐野厄除大師や佐野プレミアムアウトレットなど、佐野を代表する観光スポットにも足を運んで、たっぷりと佐野の魅力を味わう2泊3日。 様々な側面を知れたことで、移住に繋がっても繋がらなかったとしても、この町とつながりを持ちたくなる…このショートステイの経験が、未来の自分への想像を膨らましてくれそうだ。 今の環境に疲れてしまったら、深呼吸ができる場所へ 自然が身近にある佐野での穏やかな時間と、首都圏への通勤による活気のあるワークスタイル。 その両方を叶え、新たな暮らしを手に入れた尾花さん。 「今後の自分自身のあり方に、疑問や不安を抱えているなら、まずは気軽な気持ちで佐野へぜひリフレッシュに来てください。私自身、人生やキャリアに行き詰まった30代前半に、仕事・拠点・人間関係を少しずつ変化させながら現在の生活スタイルになりました。一度きりしかない人生、自分が幸せな気持ちで過ごせる選択ができますように…!」 「この豊かな自然に囲まれながらヨガやアーユルヴェーダのワークショップをやりたい」と、近い将来の展望を語る尾花さんのように、移り住むことで見えてくるものもきっとあるはず。 豊かな自然、利便性、食文化…人によって新たな価値が見つけられそうな佐野市。 まずは深く考えず、美味しいものを食べ、心穏やかな呼吸を感じるためだけに。そのくらいの軽やかさで足を伸ばしてみるのはどうだろうか。 ※この記事は、NEXTWEEKENDと栃木県とのコラボレーションで制作しています。

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

高橋 潔(たかはし きよし)さん

起業と農業、東京と矢板 栃木県内の高校を卒業後、大学は群馬県へ。社会人としてのスタートは、人材派遣会社の営業職だった。全国に拠点があり、東北や関東エリアを中心に経験を積んだ。20代後半で転職した会社では、人事や経営企画、秘書業務など経営層に近い部分に携わった。 「全国を拠点に、特に製造業への人材派遣をメインとしていたのですが、ここ十数年で多くの企業が工場の閉鎖や廃業するのを目の当たりにし、地方の危うさというか、将来への危機感を募らせていました。2011年の震災も経験し、何か地方を盛り上げることや地域に還元できることをしていきたい、と考えるようになったんです」 そして2014年、思い切って会社を辞め起業した。 「とにかく地方を盛り上げたい想いだけはあって、会社を作りました。以前、オンラインで全国会議をしたことがあり、この仕組みを使えば何かおもしろいことができるのでは?と考えたんです。今では当たり前のオンラインですが、10年以上も前だとまだそこまで一般的ではなかったですよね」 そうして立ち上げた事業のひとつが、オンライン配信サービスであった。当時はビジネスとしてはまだ競合も少なかったが、ニーズはあったため、順調に軌道に乗った。 「ただ、私自身はITまわりにそこまで強い訳ではなくて。社員に“配信はやらなくていいです”と言われるくらいでした(笑)そのため、配信の実務は当初から信頼できる社員に任せています」 会社を経営する一方、高橋さんがずっと気にかけていたのが、矢板市で叔父が経営するぶどう園だった。 「りんごの生産が有名な矢板市ですが、叔父は市内唯一のぶどう園を経営しています。ただ跡継ぎがおらず、今後どうするんだ、という話を以前からずっとしていました。先代の頃からワイン作りやワイナリーの夢もあり、叔父も自分も諦めたくない、という想いが強く、2015年の正月に話し合いをしました。起業して1年も経っていませんでしたが、自分が畑を手伝うことにしたんです」 こうして東京と矢板、オンライン配信サービスと農業という全く異なる分野での2拠点生活が始まった。 ぶどう園での手伝いから協力隊へ 2015年6月からぶどう畑で作業するようになった高橋さん。 日々の作業の中で、市役所の農業や広報の担当者と接点を持つ機会が増えた。当初は農業に関する話が多かったが、徐々に今後の矢板市について語り合うことも増え、「矢板市は、地域おこし協力隊の募集はしないのですか?」と尋ねたことがあった。 以前から全国の地域活動に目を向けていたため、地域おこし協力隊のことは知っていたという。ちょうど矢板市でも、募集に向けて動いているタイミングだった。 矢板で過ごす時間が増え、叔父のぶどう園だけでなく、周辺地域のこと、農業のこと、市の未来について考えることが多くなったという。 「自分が育った矢板を、どうにか盛り上げていきたい」という想いは、日々強くなっていった。 そんな中、矢板市での地域おこし協力隊募集が始まり、手をあげた高橋さん。 地域への想いや活動の実績が評価され、“中山間地域の活性化”をミッションに2017年4月から活動を始めることとなった。 「活動地域が泉地区という、ぶどう園とは異なる地域だったので、協力隊としては泉地区にコミットし、休みの日にぶどう園の作業、夜に自社の仕事をオンラインで、という生活スタイルでした。全く違う頭を使わなければならなかったので、切り替えは大変でしたね」 泉地区では、まず地域を周り、現状を知ることからスタート。矢板市の中でも過疎化が著しいこの地域では、住民たちも危機感を募らせていた。 そこで都内の大学生を呼び、地域課題に取り組むプログラムをコーディネートしたり、全国の地域課題に取り組む団体の方を講師に呼んで勉強会を開いたりと、様々な取り組みに着手。 2年目には、既に地域で活動している人たちのサポートに入り、一緒に事業の収益化を考えるなど、コンサルタントのような立場でまちづくりに取り組むようになった。 そんな中、矢板市で人口減少などの地域課題に取り組むための拠点(後の『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』)を作る構想が立ち上がる。協力隊卒業後は市内で団体を立ち上げ、矢板に人を呼び込むような仕組みを作りたいと考えていた高橋さんは、市からの依頼もあり、協力隊2年目の途中から拠点の構築に取り組むこととなった。 「泉地区の皆さんには、3年間携われず申し訳ない気持ちも大きかったですが、関わった期間の中での取り組みにはとても感謝してもらえて。今でも飲みに誘ってもらえる関係を築けています」 TAKIBIの立ち上げ 新たなミッションとなった『矢板ふるさと支援センター』の構築については、拠点の場所探し、運営の構想、スタッフの採用、その全てを担った。 「人々が自然と集まってくるような場所。その時々でカタチを変えるような空間。薪を集めて火を灯すことがスタートアップのイメージにもつながることから“TAKIBI(焚き火)”という名称になりました」 スタッフとして新たに3名の地域おこし協力隊を採用。市内の空き家を借り、採用した協力隊と共に地元の高校生なども巻き込みながら自分たちで改修作業を行なった。 そして2019年6月『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』として、地域内外の人々が気軽に集えるシェアスペースがオープン。 「自分の力を出し切り、やっと形になった時は嬉しかったですね」 その後、移住相談窓口やテレワーカーの仕事場、地元学生の勉強の場、イベントスペースなど幅広く活用された『TAKIBI』だったが、2022年8月に矢板駅東口からほど近い場所へ移転。現在、高橋さん自身もより広くなった新生『TAKIBI』を利用している。 「商業施設などとも隣接しているので、多くの方の目に触れやすく利用しやすい環境だと思います。シェアスペースやシェアキッチンを多くの方に利用いただきたいですね」 『TAKIBI』のスタッフの皆さん、顔馴染みの利用者さんと 地域での商売を、うまく循環させたい 今も変わらず、矢板と東京の2拠点生活を続けている高橋さん。協力隊卒業のタイミングが2020年3月だったこともあり、卒業と同時に会社のオンライン配信サービスの仕事が急激に忙しくなってしまったが、それぞれで仕事がある時に行き来しているという。 「協力隊卒業を見越して、矢板でNPO法人を立ち上げたんです。コロナのタイミングと重なりほとんど活動できていなかったのですが、少しずつ準備を整えていて、2023年はやっと動き出せそうです」 市内の空き物件を借り、整備を進めている。 「この空間を整備して、地域住民のための情報発信拠点を作ります!」 地元の商店主たちと話をする中で、「何かをやるにもPR手段がない」との声を多く聞いた。 広報物では情報発信までのタイムラグが生じ、SNSでは一部の人にしか届かない。誰でも聴けるラジオを通じて、リアルタイムの情報を地域の人に届けるサービスを展開したいと考えている。 「配信ツールは、会社の機材があるので整っています。例えば、飲食店の店主にスタジオに来てもらって“今夜のテーブル席、まだ空いてます!”といった情報を発信してもらえたらと。事前に日にちを決めて、数万円の広告費を払ってもらうのではなくて、発信したいときに来てもらって、ワンコインでもいいから気持ちを収めてもらう。その方が、お互いに気持ちよくサービスを続けられると思うんです」 目指すところは、この仕組みがうまく循環し、店主たちにとって“商売しやすいまち”となることだ。そのためにも、できるだけ気軽に立ち寄れるよう、普段から誰でも自由に出入りできるフリースペースも設ける。偶然ではあるが、情報発信拠点は地域の方が立ち寄りやすい場所にあるという。 「『くじら亭』という焼鳥屋があるんですけど、地元のみんなのたまり場みたいな場所なんです。縁があり、お店のすぐ隣の物件を借りられることになって。大将とは20年来の付き合いで、常連さんたちとも顔馴染み。これから地元の皆さんとの縁をより大切にしていきたいですね」 矢板への想い 「当面は2拠点生活を続けることになりそうですが、いずれは矢板を軸にという思いはあります。その時に、もっと矢板を生活しやすいまちにしたいと思っていて。そのために今種撒きをしている感じですね」 まずは情報発信拠点を稼働し、多くの人に利用してもらえるようにする。地元で商売をしている人だけでなく、移住者やテレワーカーなど、さまざまな人が交流し情報交換できる場になれば、と考えているという。 またぶどう園についても、まだまだやりたいことはたくさんある。現在、ぶどうジュースは道の駅や直売所で取り扱いをしているが、ワイン作り、ひいてはワイナリーへの夢は膨らむ一方だ。 「ワインで儲けたい。という訳ではなく、矢板市産のワインを作ることで地域を盛り上げるツールにしたいんです。ワイナリーを作ることができたら、雇用を生むことだってできる。この地域に人を呼び、ここに暮らして一緒に矢板を盛り上げる人たちを増やしていきたいです」

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

武藤小百合さん

自分が惹かれた街で、暮らしを楽しみたい 武藤さんが鹿沼に移り住むきっかけとなったキーパーソンの一人が、新鹿沼駅前にあるレンタサイクルショップ「okurabike」の鷹羽(たかのは)さんだ(下写真左)。武藤さんは、okurabikeが主催するサイクリングツアーに何度か参加し、鹿沼の魅力に触れたことで移住を決意。さらに、移住後も鷹羽さんに街のことを教えてもらったり、プライベートでも相談に乗ってもらったりと、とてもお世話になっていて、武藤さんは“鹿沼のママ”として慕っている。 そんなokurabikeのサイクリングツアーで鹿沼を巡りまず感じた魅力が、身近に広がる自然だ。 「街中から自転車で少し走るだけで田畑や里山が広がり、きれいな川が流れる豊かな自然に出会えます。例えば、新鹿沼駅から自転車で10分ほどにある『出会いの森総合公園』は(下写真)、春には大芦川沿いの桜並木がとても美しく、5月下旬から6月上旬にはホタルも見られます。自然と人が共存しているところに、とても惹かれました」 もう一つ感じた鹿沼の魅力が、いきいきと暮らす街の人たち。サイクリングツアーで出会った、400年の歴史を持つ麻農家が営む「野州麻紙工房」の店主や、秋まつりに登場する彫刻屋台が展示されている「屋台のまち中央公園」の方をはじめ、カフェや飲食店を開業したり、新たなことに挑戦したりしている人たちも多く、個性豊かで面白い街だなと感じた。 「鹿沼はもともと人が行き交う宿場町だったこともあり、移り住む人に対してウェルカムな雰囲気があり、新しいことに挑戦する人をあたたかく応援してくれます。何よりも皆さんとても優しく、一人で移り住んでもなんとかやっていけそうだなと感じました」 さらに、長年受け継がれている街の文化にも強く惹かれた。サイクリングツアーでは、絢爛豪華な彫刻屋台が鹿沼の街を練り歩く、歴史あるお祭りを特等席で見学。街の人たちが一丸となって文化を継承している姿に心震えた。 武藤さんは、これまで客室乗務員として、いろいろな地域を訪れ、さまざまな街を目にしてきた。そこで感じたのは、「どこに行っても変わらない暮らしはできる」ということ。 「東京は確かに便利ですが、地方でも必要なものはそろうし、どこへ行ってもそれほど変わらない生活ができる。だとしたら、自分が惹かれた街で、惹かれた人たちと、したい暮らしをすることが大切なのではないか。そう思って、鹿沼へ移り住むことを具体的に考え始めたんです」 東京の郊外に引っ越すような感覚で 人と自然、文化に加えて、東京からのアクセスの良さも、鹿沼に惹かれたもう一つの理由だ。「新鹿沼駅」からは、特急で都心まで1時20分ほど。これまで、羽田や成田へ1時間半ほどかけて通勤していた武藤さんにとって、鹿沼は意外と近いと感じた。 「移住と言うと、山の中などへ一大決心をして移り住むイメージがありますが、私にとって鹿沼への移住はそれほど大袈裟なものでなくて、東京の郊外に引っ越すような感覚でした。鹿沼に限らず栃木県全体に言えることかもしれませんが、東京へのアクセスの良さが、移住を考える人にとって一つの魅力になっていると思います」 とはいえ、転職は大きな決心だった。締め切り数日前に見つけた市役所の採用試験に応募し、見事に合格したことで、鹿沼への移住は現実のものとして一気に動き出した。こうして2020年9月、武藤さんはこの街での新たな暮らしをスタートした。 鹿沼市役所の中でも、教育委員会事務局で働く武藤さんは、主に奨学金貸付業務と入札業務を担当している。 「部署の上司や同僚たちは、鹿沼歴が浅い私のことをとても優しくフォローしてくださいます。仕事のことはもちろん、鹿沼のことも、もっともっと詳しくなって、地域の役に立てる職員になりたいです」 日々の小さな喜びの積み重ねが、QOLを高める 鹿沼に移り住んでからは、市役所で働きながら、休日にはランニングやカフェ巡り、ボタニカルキャンドルづくり(下写真)を楽しんだり、日光や宇都宮まで車で出かけたり、ときには東京まで遊びに行ったりと、充実した毎日を過ごしている。 「私は移住とともに起業したり、新たにお店を始めたりしたわけではなく、平日は仕事をして休日に趣味などを楽しむという生活スタイルは、大きく変わっていません。それでも、日々の食事や通勤、ウォーキングなどの満足度が、ちょっとずつ上がり、全体として暮らしが豊かになったなと実感しています」 例えば、この街では、おいしい地元の食材が手軽に入手できる。自転車通勤の途中に美しい花が咲いていたり、虫がいたり、夜には星が見えたり、ときには雷が鳴ったり、四季の移り変わりを肌で感じながら生活できる。鹿沼には何かにチャレンジする人が身近に多く、自分も頑張ろうと刺激を受けられる。もちろん、家賃などが安いのもうれしいポイント。東京と同じ金額で、より広く新しい住まいに暮らすことができる。 こうした積み重ねが、いわゆるQOL(Quality of Life)の向上につながっている。 そして、移住して2年目の2022年に、武藤さんは結婚。ご主人も東京からこちらへ移り住んだ。 「主人はシステムエンジニアで、リモートワークが定着してきたことで、仕事を辞めることなく鹿沼に移住できました。彼はキャンプが趣味なので、これからはもっとアウトドアのアクティビティも満喫していきたい。2024年にはスノーピークが運営するキャンプフィールドが、鹿沼市にオープンするのもとても楽しみです!」 今後、数年間中止となっている「秋まつり」や、さまざまなイベントが開催されるようになったら、積極的に参加して、地域の人や移住者どうしのつながりをもっと広げていきたいと考える武藤さん。 「勇気を持って一歩を踏み出し、鹿沼でのコミュニティを築いていきたい。そして、これから鹿沼に移り住む人が、安心して移住できる環境をつくるなど、大好きなこの鹿沼に恩返しをしていきたいです」

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

髙山 毅さん

代々商売をしてきた壬生の地で、暮らしと営みを 左は米穀店だったころの法被、右は「壬生町史」。 「これを見てください」と髙山さんが開いてくれたのは、明治の頃、壬生の町内にあった商店の名が記録された「壬生町史」だ。そこには、鍛冶屋、薪炭商、桶屋、左官などがずらりと並ぶ中で、「銅鐡打物商」として髙山さんの曽祖父の名と屋号紋が記されている。当時の屋号紋は、「澤デザイン室」の上澤裕一さんによってリデザインされ、山十設計社のロゴ(下写真)として、今も受け継がれている。 現在、髙山さんのアトリエと住まいがあるこの場所は、壬生城址にほど近い中心市街地にあたり、髙山家では代々この地で商売を手がけてきた。 「曽祖父が金物商、祖父がお米屋、父が紙器と、生業はそれぞれ違うのですが、代々ここに暮らし、商売を営んできました。だから、私もこの地を受け継ぎ、ここで生活しながら仕事をするというのが、自然なこととして頭にあったんです」 髙山さんは一人っ子で、両親が年齢を重ねてから誕生した子どもだったため、親の介護をする時期もおのずと早いだろうと自覚していたことも、Uターンを選んだ理由の一つだった。 顔が見える関係を大切に、地域ならではのつながりを 山十設計社のホームページを開くと、次のようなメッセージが記されている。 「衣・食・住の縮図である“家”づくりを通じて、モノと人が循環する地域ならではの『地縁』を紡いでいきたい――」 こうした髙山さんの思いのルーツも、生まれ育った壬生町にある。 「例えば、昔は、先ほど見てもらった鍛冶屋や桶屋などの商店が並んでいて、近所のお店で買い物をしたり、馴染みの職人さんに仕事を頼んだりというのが、日常だったと思うんです。私は今でも、おいしいものを食べたいときは行きつけのお店で店主とおしゃべりしながら味わったり、車のメンテナンスは同じ整備士さんにずっとお願いしていたり、顔が見える関係を大切にしています。そんな地域の豊かな人のつながりを、家づくりを通じて再び育んでいけたらと考えているんです」 近くにあるイタリアン・レストランの「Fill kitchen」(フィルキッチン)にて。 その挑戦の一つが、この土地の風土や気候に適した、つくり手の顔が見える道具や素材を発信する「てびき」という取り組みだ。 髙山さんは、家は建物だけでは完成しないと考えている。丁寧な暮らしを楽しんでいきたいと思ったとき、家という器だけでなく、そこで使う道具や、ふだん食べるものなど、衣・食・住すべての要素が大切になってくる。 「かぬちあ」の中澤恒夫さんによるタオルハンガー。 だからこそ、様々なつくり手と山十設計社のプロダクト「てびき」では、那須塩原市の金工作家「かぬちあ」の中澤恒夫さんが手がける靴べらやタオルハンガー、フックをはじめ、益子町に2015年に創業した手仕事集団「星居社」がつくる今の暮らしに馴染む神棚などを、自社のホームページで発信。それだけでなく、佐野市で90年以上続く「日本プラスター」の漆喰などの素材も紹介している。 「ただ、これらはオンラインでは販売していなくて。家づくりなどを通じて、顔が見える関係になった方だけに提供しています。それは、やはり山十設計社で建てる家をきっかけに、豊かな『地縁』を広げていただきたいと考えているからです」 刺激を与え合う、異業種のつながりから生まれた「octopa」 「octopa」の4人。左から上澤さん、髙橋さん、髙山さん、荒井さん。 もう一つ、目指すベクトルが同じ異業種の人たちとのつながりを大切に始まった取り組みが、「octopa」(オクトパ)だ。宇都宮市で「古道具あらい」を営む荒井正則さんと、芳賀町で「mikumari」という名のカフェを開く髙橋尚邦さん、那須烏山市を拠点に活動するグラフィックデザイナー「澤デザイン室」の上澤裕一さん、そして髙山さんの4人がメンバー。古き良きものを、衣・食・住をテーマに今の暮らしに馴染むものとして再現し、“フルダクト”として提案している。 「例えば、アームライトやミシン椅子など、デザイン性に優れたアンティークをリプロダクトしたものだったり、昔ながらの保存食にヒントを得たソースや調味料の瓶詰めだったり、4人それぞれの得意分野を生かして、現代に合うものとしてつくり出しています」 また、octopaとして、これまでに日本最大級のアンティーク・マーケット「東京蚤の市」に出店するほか、黒磯の「1988 CAFE SHOZO」や益子町の「スターネット」などのカフェでも、食とクラフト、アンティークをテーマにしたイベントを開催してきた。現在では、古道具あらいに併設された建物で、「オクトパ食堂」をオープンし、瓶詰めのソースや調味料を生かした料理を提供している。 地域に根ざす喜びを実感する日々 一方、暮らしの面では、髙山さんは奥さんと二人のお子さん、そして父親の5人で、アトリエに併設された住まいで暮らしている。奥さんも建築士として勤めているため、髙山さんも掃除や洗濯などの家事を分担したり、子どもたちの宿題や、父親の様子を見たりと、1日のなかにこうした仕事以外のやるべきことも組み込みながら行っている。 「今年92歳の父は、だんだんと介護が必要になっていますが、やはり一緒に暮らしている安心感は大きいですね。ふだんの様子がわかるからこそ、どんな介護サービスが必要か、どこの業者に頼もうかなどを、しっかりと検討できます」 2016年に、実家の土地にアトリエと住まいを建築したとき、髙山さんはバリアフリーはもちろん、1階にある父親の部屋の近くにトイレや洗面、浴室などの水回りも配置した。これにより、自宅で父親を介助するときの負担を軽くすることができた。 「実は、この家に暮らし始めて6年ほどの間に、父が倒れて救急車を呼んだことが何度かありました。そのときも一緒に暮らしていたからこそ、倒れたことに気づくことができ、すぐに搬送することができました。その後の通院をサポートできたのも、同居しているからだと感じています」 また、髙山さんは、父親から受け継いだ寺の役員や自治会の班長のほか、子ども会の育成会長など、地域の活動にも積極的に参加している。 「父は直接口には出しませんが、そろそろ私に町内の仕事を任せても大丈夫だと思ってくれたのかなと。というのも、デイサービスのヘルパーさんには、『うちの息子は一級建築士の仕事も、地域のことも頑張っている』と話しているそうなんです。きっと、この家のことも喜んでくれているんじゃないかな」 地域のお祭りなどにも携わる髙山さんは、「子どもの頃、楽しかった夏祭りに、今度は親として子どもたちと参加するなど、地域に根ざすのもいいものだなあと実感しています」と微笑む。 空き家を再生し、現代版の地縁でつながった街をつくりたい 最後に、そんな生まれ育った壬生町で、髙山さんが今後手がけていきたいことについて話を伺った。 「実は、このアトリエの2階はオープンスペースになっていて、ここでいろんな人が得意なことを教え合う、“寺子屋”のようなワークショップを開催できたらと考えているんです」 「ひび学舎」と名付けたこの取り組みのコンセプトは、次のとおりだ。 「使い、壊れ、捨てる」は「使い続け、傷んだら、繕う」に。「買っていたもの」は「育て、つくるもの」に。「古びたもの」は「活かし生きるもの」に。子どもから大人、つくり手も、暮らしに近い事柄を一緒に体験し、暮らしに持ち帰る。そんなきっかけを生み出す場に。 「例えば、『古道具あらい』の荒井さんがアンティークの磨き方をレクチャーしてくれたり、設計を担当させてもらった栃木市の『珈琲音 atelier』のオーナーにコーヒーの淹れ方を教えてもらったり、そんな様々なワークショップが開催できる場所になればと思っています」 レクチャーを行う人は壬生町に限らず、いろいろな地域から招きたいという。 「壬生町は、宇都宮市や栃木市、鹿沼市、下野市などの大きな街に隣接し、どこへでも行きやすく、どこからも来やすい。そんな特性を生かして、例えば、栃木市のコーヒーショップと宇都宮からワークショップに参加した人をつなぐなど、ここを地域と地域、人と人をつなぐ“ハブ的”な場所にしていきたいんです」 様々な地域の人が集うようになれば、いずれ壬生に住んでみたい、壬生でお店を開いてみたいという人も現れるのではないか。現在、壬生の中心市街地では、多くの商店街と同じように、空き家や空き店舗が増えつつある。一朝一夕にはいかないが、そんな空き家を一つひとつ人が暮らし生業を営む場所に変え、明治期の商店一覧で見たような多彩な生業の人が暮らし仕事を頼み合う、現代版の「地縁」でつながった街にしていきたい。それが髙山さんの大きな夢だ。 「街並みとして線にならなくてもいい。点と点が徐々につながっていくような、そんな空き家を生かした新たな試みに、私も自分の生業である建築の分野で携わることができたら最高ですね!」

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

小出拓也さん

「この街は面白そう!」。それが鹿沼の第一印象 2016年2月、小出さんは初めて鹿沼を訪れた。きっかけは、就職活動。大学で都市計画を専攻していた小出さんは住宅業界に興味を持ち、東京の就職セミナーで、鹿沼の住宅会社「カクニシビルダー」の担当者と出会う。 「そのときは、栃木の企業に就職するとは思ってもみませんでした。でも、これまで選択肢になかったことだからこそ、新たな気づきがあるかもしれない。説明会だけでも受けてみようと、後日、鹿沼へ行ってみることにしたんです」 こうして説明会に参加した後、小出さんは駅まで鹿沼の街を歩きながら帰った。そのとき直感的に、「この街は面白そうだな」と感じたという。まず惹かれたのは、立派な石蔵が残る街並みや、身近に広がる豊かな自然、温泉だった。中学の頃から、よく電車に乗って一人旅に出かけていた小出さんにとって、自然や温泉は東京から遠く離れたところにあるものというイメージがあった。 「でも、鹿沼に住めば、朝、出社前に山や川へ出かけたり、帰りに温泉に立ち寄ったりできる。ここでの暮らしもアリかもしれないなと、東京へ帰る電車の中で思ったんです」 その後の面談や最終面接などで、代表や人事担当者が親身に対応してくれたことが決め手となり、小出さんはカクニシビルダーへの就職を決意。2016年5月に無事に内定が出て、鹿沼への移住が決まった。 鹿沼や全国に新たな人脈が広がった、移住前の10カ月間 「内定をもらってから実際に鹿沼へ引っ越し、働き始めるまでの約10カ月間がとても重要で、とても充実した時間でした」 そう振り返る小出さんは、この時期に毎月1、2回は鹿沼を訪れ、お祭りなどの街のイベントや、鹿沼の街を愛する人たちが地元ネタやサブカルチャーをテーマにした授業を行う「カヌマ大学」などに積極的に参加。これにより、一気に鹿沼での人脈が広がっていった。 「すでに街にたくさんの知人や友人ができた状態で引っ越せたので、みなさんに支えていただきながら、鹿沼での暮らしを始めることができました。いま思えば、就職してからでは忙しく、なかなか新たな人脈をつくる時間やエネルギーを持てなかったかもしれません」(上写真:常陸屋呉服店 四代目の冨山 亮さんも、小出さんの鹿沼での暮らしや活動を応援してくれている) 同時にこの10カ月の間に、小出さんはアルバイトでお金を貯めては、京都の綾部市や宮津市、長野の諏訪市など、全国の中でもUIターンが盛んな地域へと足を運んだ。 「全国各地の魅力的な方々とつながることができたうえ、いわゆる〝半農半X〟のライフスタイルなど、鹿沼で始まる暮らしに生かせるような、新たなヒントをたくさん得ることができました」 それだけではない。小出さんは、地元の東京・日暮里の祭りなどにも神輿の担ぎ手として参加。ここでも人脈が広がり、もともと好きだった地元がさらに自慢したい場所に。地元を離れると決意したことが、自分が生まれ育った地域の魅力を再発見することにもつながった。 家族のように接してくれる人が、街のいたるところに 移住前に鹿沼を訪れた際によく泊まっていたのが、本サイトでも紹介したゲストハウス「CICACU(シカク)」。その女将・辻井まゆ子さん(上写真)も、鹿沼の街や人に惹かれて京都から移住した一人だ。 「2017年3月に大学を卒業して、鹿沼で空き家を借りて暮らし始めてからは、辻井さんが『ごはんあるで!』と、CICACUに皆さんが集まって夜ごはんを食べているときなどに、よく誘ってくれました」 そうやって、「うちにご飯食べにおいで」と誘ってくれるのは、辻井さんだけではなかった。 「今回、この取材のお話をいただいてから、『鹿沼の良さってなんだろう?』ってずっと考えていたのですが、一番自慢したいことは、やっぱり〝街の人の温かさ〟。鹿沼に移り住んでから、お兄さんみたいな人、お姉さんみたいな人、両親みたいな人、祖父母のような人など、家族のように接してくださる方々とのつながりが、たくさん広がりました」 そんな鹿沼の人たちが集まる〝街の居間〟のような場所がCICACUだと、小出さんは言う。毎晩のようにCICACUに遊びに来ていた小出さんは、「ここに住めたら楽しいだろうな」と考え、2カ月ほど前からCICACUの1室に長期滞在という形で宿泊している。 「女将の辻井さんの人柄もあると思いますが、CICACUの共同スペースである居間やダイニング(上写真)には旅行者や街の人が集い、自然と交流が生まれています。移住前は、地域で活動していくためのヒントを得るためにいろいろな場所へ出向いていたのですが、いまはCICACUにいることで、いろいろな人がここへ来て、さまざまな刺激を与えてくれます。多くのことを吸収すべき20代の期間をCICACUで過ごせるのは、とてもありがたいことだなと感じています」 木工のまち、職人のまち鹿沼ならではの新たな仕事を 鹿沼で多くの人とつながり、仕事を通じて現代の家づくりを学ぶなかで(上写真:カクニシビルダーでの仕事風景)、今後この街で挑戦したいことが見えてきた。その一つが、家を解体する際に廃棄されてしまう建材や建具、家具などの有効活用だ。 「古くから木工のまち、職人のまちとして発展してきた鹿沼には、優秀な職人さんが手がけた素晴らしい建具や家具が家の中に残されています。それを捨ててしまうのは、もったいない。新たな価値を付けて欲しい人のもとへと手渡す、そんな役割を担っていけたらと考えています」 さらに、全国各地で取り組みが始まっている新たな林業のやり方についても勉強し、鹿沼で実践していきたい。休日には、鹿沼を案内するツアーも手がけたい。そうやってゆくゆくは何足ものわらじを履きながら、生計を立てていくことが小出さんの目標だ。 「鹿沼をはじめ栃木県では、東京とつながりながら、ここでしかできないことにチャレンジできます。東京で生まれ育ち、鹿沼に移り住んだ自分だからこそできることを一つひとつ実現していくことが、結果的に鹿沼の街の魅力を高めることにつながっていったら嬉しいですね」

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

水品沙紀さん

初めてのアルバイトも、卒論のテーマも「温泉」 「私が温泉に興味を持ったのは、旅行好きな母親の影響が大きくて。休日には、家族で温泉をはじめさまざまな場所へ出かけていたんです」 そう話すのは、2年間閉館となっていた日光市中三依にある「中三依温泉 男鹿の湯」を、25歳の若さで復活させた水品沙紀さん。千葉県出身の水品さんは子どものころから温泉が大好きで、高校2年生のときには、近所の温泉施設に「働かせてください」とメールするほどだったという。実際には受験が終わり大学へ進学してから、その温泉施設でアルバイトをスタート。このころから日本の名湯百選を巡り始め、現在までに国内外1000カ所以上の温泉へ足を運んだ。さらに、卒論のテーマも温泉。まさに筋金入りの温泉好きだ。 「私は、大衆演劇も好きで。健康ランドで公演することが多い大衆演劇の役者になれば、いろいろな温泉施設を知ることができ一石二鳥だと思い、ある劇団に体験入団して、岡山や福島の温泉施設を巡ったこともあるんです」 大学を卒業後は、埼玉県内を中心に温泉施設を運営する会社に就職。温泉施設で働きながら、運営や経営についても学んだ。そこで2年半働くなかで、「自分の目線で温泉施設を運営したい」「泉質のいい場所で施設を持ちたい」という思いが大きくなっていった。そんなとき、SNSで「男鹿の湯 オーナー募集」の記事を目にする。水品さんはすぐに連絡を取り、男鹿の湯へ向かった。 地元の人の温かさと、のどかな環境にひかれ中三依へ 2015年9月、初めて中三依を訪れた水品さんは、ひと目でここの雰囲気が気に入った。 「男鹿の湯から歩いて3分ほどにある無人駅をはじめ、チェーン店がなく個人商店がぽつぽつと続く様子など、のどかな町の雰囲気に一目ぼれしました。温泉の裏にある男鹿川(下写真)の水も本当にきれいで。ここは観光地ではないですが、古き良き里山の風景がそのまま残っている。きっと都会に暮らす人の中には、こうしたのどかな環境でゆったりと過ごしたいという人も多いのでは、と思ったんです」 こうして「男鹿の湯 オーナー募集」に応募した水品さんだったが、一番不安だったのは、ボイラーなどの機械がちゃんと動くのか、修理にどのくらいのお金がかかるのかということだった。それを業者に調べてもらうとしていたちょうどその頃、豪雨が発生し、風呂場と機械室が泥水に浸かってしまった。 「大変な状況の中、地元の方々が集まり、泥の撤去作業を手伝ってくださいました。みなさんの温かさ、この温泉を大切にしたいという思いに触れて、なんとしても復活させたいと思ったんです」 そこで水品さんは、クラウドファンディングを活用して資金を集め、機械や内装を修復。そんな開店準備を、家族や友人をはじめ、地元の人たちも手伝ってくれた。営業許可申請も無事にクリアし、2016年4月、ついに「男鹿の湯」を復活させた。 この地域ならではの魅力を生かした、新たなプランを 「男鹿の湯」には温泉施設のほかに、コテージやバーベキュー場、キャンプ場が併設されており、水品さんはすべての運営を手がけている。オープンした当初は、日帰り温泉の利用者が大半だったが、ホームページなどで、中三依の魅力を発信するうちに、週末にはコテージが予約で埋まるように。 「できれば、ゆっくりと3泊ぐらい滞在していただきながら、美しい男鹿川や里山を散歩したりと、のんびり過ごしていただけたらと思っています」 温泉の1階には「おじか食堂」があり、水品さんの中学高校の同級生で、運営をともに手がける豊島さんが打った「十割そば」などが味わえる。そばは、100%地粉を使用。添えられた温泉を煮詰めた温泉塩をつけて食べると、よりそばの味と香りが引き立つ。また、「おじか食堂」ではお酒も提供していて、地元の人が集まる憩いの場となっている。 「自治会や消防団など、地域の集まりがあるたびにここを使っていただいて。地元のみなさんにも受け入れてもらえているのが、本当にありがたいなと思っています。今後は、渓流釣りやキノコ狩りなど、この地域ならではの遊びを学んだり、周囲の魅力的なお店と連携したりして、中三依をより楽しんでもらえる新たなプランを提供していきたいです」 さらに、将来的には温泉で病気を癒やしたり、仕事のパフォーマンスを上げたりと、日常的に“温泉の力”を活用するライフスタイルを広めていくことが目標だ。 「日本には都市部から離れているために、あまり利用されていない、いい温泉がたくさんあるんです。そんな極上の温泉を、より多くの人に楽しんでもらいたい。そのために、温泉情報の発信も手がけていけたらと思っています」

長く手元に置きたくなるデザインを

長く手元に置きたくなるデザインを

惣田紗希さん

より長く、その人の生活のなかにあるものを どこか切なく透明で、でも、奥底に強い意志を持っている。惣田紗希さん自身が“女の子”と呼ぶそのイラストをはじめて目にしたとき、そんなふうに感じた。 「この女の子は、誰でもなくて。描き始めたのは、あるコンテンポラリーダンスの映像を見たことがきっかけでした。同じ格好の女性が建物のなかでひたすら踊るシーンを目にしたとき、『体のラインがキレイだな』って思って。人の体を描きたいという思いから、半袖半ズボンになって、鼻と口が省略されていって……。最初は仕事とは別に、自分の日常の記録というか、考えを整理するために描いていたんです」 都内のデザイン事務所で、実用書などのデザインを手がけていた惣田さんは、2009年に退職。ちょうどその頃、友人に頼まれて「cero」というバントのジャケットデザインを担当したことをきっかけに、音楽関連のデザインを数多く手がけるようになった。仕事でイラストを描くようになったのも、CDジャケットがきっかけ。 「描きためていた“女の子”のイラストを、『ザ・なつやすみバンド』のメンバーが、『無機質だけどポップな雰囲気もあっていいね』と気に入ってくれて。ジャケットに女の子のイラストを描かせてもらったところから、キャラクターとして広まっていって。書籍や雑誌でのイラストの仕事も増えていったんです」 それまで、グラフィックデザイナーとして活動してきた惣田さん。イラストの依頼が増えるにつれて、「本業として経験を積んできたわけではないのに、自分がイラストレーターと名乗っていいのか」という葛藤もあった。 「でも、デザインの先人を見ると、自分でイラストを描き、デザインも手がけている人はけっこう多くて。どちらからの視点も、自分の仕事には大切な要素が多いことに気づいてからは、イラストの仕事も楽しくなってきました。今では、写真家やイラストレーターなど、いろんな人の力を借りて誌面をつくり上げるデザイナーの仕事も好きだし、イラストレーターとして誰かの力になることも面白いなって感じています」 現在、仕事の割合はデザインとイラストで半々。そのどちらの仕事をするうえでも、大切にしていることがある。 「音楽も本もデータで買える時代に、せっかくモノとして届けられるのなら、より長くその人の生活のなかにあり続けられるものをつくりたい。だから、『ジャケットを部屋に飾っています』『ブックレットを繰り返し読んでいます』などと言ってもらえたときは、本当に嬉しいんです」 惣田さんは、イラストを仕事で手がけるようになってから、1日1枚を目標にイラストを描き、SNSにアップしてきた。それられのイラストが韓国の出版社の目にとまり、『Waving Lines』という作品集として出版されている。 足利だからこそ生まれた、新たな作品 足利で生まれ育った惣田さんは、産業デザイン科に通っていた高校の頃、先生に『STUDIO VOICE』や『relax』などの雑誌を見せてもらい、デザイナーの仕事に憧れを持った。そして、桑沢デザイン研究所を卒業後、前述の都内にあるデザイン事務所へ。 「そこでは、グラフィックデザインの基本をみっちり学ばせていただきました。けれど、担当した本が、どんなふうに求められて、どんなふうに届いているのか分からないことが不安になって。一度デザインの現場を離れて、もう一度本まわりのことを勉強しようと思ったんです。本がお客さんの手に届く現場を見てみたくて、本屋さんで働いたこともありました。そのうちに、だんだん音楽関係の仕事が増えていって、フリーランスとして活動するようになりました」 それまで東京を拠点としていた惣田さんが、足利にUターンしたのは2013年春のこと。それ以降も、都内から依頼される仕事を中心に手がけている。 「都内で打ち合わせがあっても、足利からは特急で1時間、普通で2時間で行くことができるので、不便さはあまり感じません。むしろ東京にいなくても、自分で立てたスケジュールに合わせてのんびりと、面白い仕事ができることを日々実感しています」 自然が身近にある環境も、仕事にいい影響を与えてくれている。 「足利に戻ってからは、四季の移り変わりをはっきり感じるようになりました。例えば、仕事の息抜きによく散歩する渡良瀬川の土手も、季節によって緑の色が全然違うんです。それを記録するように描いていたら、自然と植物のイラストが増えていって。女の子と植物を組み合わせたイラストが、新たなテイストとして加わったんです」 若手作家が、気軽に作品を発表できる場所を足利に 2016年秋には、足利の「西門 -SAIMON-」というスペースで個展を開催。足利に戻ってから描きためた女の子と植物のイラストを中心に展示。紙だけでなく、木や布などの新たな素材にも挑戦した。 「木の絵を木材にレーザーで彫刻してみたり、風に吹かれる女の子を描いたイラストを布に落とし込んで、実際に布がゆれることで風に吹かれる様子を強調したり、いろいろな試みを盛り込みました」 20日間近くにわたり開催された個展には、「cero」や「ザ・なつやすみバント」のファンをはじめ、地元の若い人たちも多く足を運んでくれた。 「そんな子たちに話を聞いてみると、『足利には遊んだり、買い物したりするところがないから、市外や東京まで出かけている』という声が多くて。ちょっともったいないなって思いました。足利には『mother tool』さん(下写真)や『うさぎや』さんをはじめ、自家焙煎の喫茶店など、個性があって魅力的なお店や店主の方がたくさんいます。そんな足利の魅力を、もっともっと若い人たちに伝えていけたら」 現在、惣田さんは、共に受験した桑沢デザイン研究所を一緒に卒業し、同じフリーランスのグラフィックデザイナーとして足利にかかわっていこうとしている友人とともに、個展を開いた「西門」の活用法を考えるプロジェクトにも参加している。 「足利には本格的な美術品を扱う画廊はあるのですが、若手の作家が作品を発表できるところは少なくて。『西門』が若手の作家が気軽に展示やイベントを開催でき、若い人たちが立ち寄れたり、地元を離れている人が帰ってくるきっかけになるような場所にできればと考えています」

つくることの楽しさを、子どもたちに

つくることの楽しさを、子どもたちに

倉林真知子さん

一つとして同じものがない、作品との出会いを楽しんでほしい 布作家・倉林真知子さんのアトリエに一歩足を進めると、たくさんの色が目に飛び込んでくる。赤や青、黄緑など、ポップな色使いが、倉林さんの作品の魅力。さらに、問屋街を巡り探し出したデッドストックの布や革、古いボタン、さまざまな手芸店で入手した毛糸や刺繍糸など、素材の多くは一点もの。それによってつくられる作品は、どれもが世界に一つだけものとなる。 「例えば、ニット帽にアクセントとしてつけるタグやボタンの組み合わせ、つける位置なども、あえて少しずつ変えています。最近では木製の棒をカットして、ボタンも手作りしているんですよ。既製品のボタンのように均一な仕上がりではありませんが、逆に雑な感じが“味”になるんです」 さらに、アトリエではオーダーも受け付けている。例えば、バッグのデザインはそのままに、使う布の種類を変えてほしい、ここにポケットをプラスしてほしい、このボタンをアクセントにつけてほしいなど、自分だけの作品をつくってもらえるのだ。 「私の代表的な作品のひとつ『ループアクセサリー』(写真下)は、好きな糸の色や形をうかがって、その場で制作してお渡しすることもできます。アトリエに並んでいる作品は、あくまでも一つの提案。それをベースに、お客さん自身の遊び心も加えて、その方らしい作品を一緒につくれたらと思っています」 自分が楽しめてさえいれば、場所は関係ない 現在は布作家として活動する倉林さんだが、実は子どもの頃は手芸が苦手だった。 「それよりも、日曜大工が得意な父親の影響もあり、クギやトンカチが好きで、中学の頃から自分で机をつくったりしていました。手芸は苦手でしたが、色と色を組み合わせるのが大好きで、自然と洋服のコーディネートに興味を持つようになったんです」 東京の専門学校を卒業後、地元の下野市に戻り一旦は医療事務の仕事に就いたが、「やっぱり自分の好きなことを仕事にしたい」と、アパレル店に転職。販売の仕事を担当するも、強く興味をひかれたのはショーウィンドウのディスプレイや、店内全体をプロデュースする仕事だった。 もっとディスプレイや空間のコーディネートについて学びたいと、23歳で再び上京。最初に門をたたいたのは、知人が働いていた建築事務所。その後、横浜の帽子店で小物のディスプレイや見せ方の経験を積み、下北沢のシルバーアクセサリー店では、目標だった店内全体のコーディネートや、百貨店の催事に出店する際の企画、ディスプレイを担当。忙しくも、充実した時間を過ごした。 写真家と絵描きの友人と3人で、「ANT」の活動を始めたのもこの頃。倉林さんは、写真を撮影する際の洋服のコーディネートなどを担当。さらに布小物も制作し、イベントなどで販売していた。その当時からつくり続けているのが「鈴のアクセサリー」(写真上)。この作品が、栃木へ戻るきっかけを生み出してくれた。 「たまたま、宇都宮のイベントに出店していたとき、鈴のネックレスを宇都宮にある雑貨店『ムジカリズモ』のオーナーが目にしてくれて、『うちで作品を販売させてほしい』というお話しをいただいたんです」 当時は、ものづくりが自分の仕事になるとは、夢にも思っていなかった。 「でも、ムジカリズモさんに声をかけていただいたとき、これまで商品のディスプレイを考え、イベントの展示を企画し、宣伝なども手がけてきた経験は、そのまま自分のブランドを立ち上げても生かせるのではないかと思ったんです。また、『どこにいても、自分が楽しめてさえいれば場所は関係ない』と思えたことも大きかったですね」 こうして倉林さんはANTとして本格的に活動するために、栃木に戻る決意をした。 前に進むためには、つくりたいものをつくること 2004年に、下野市の実家にUターンした倉林さんは、両親に「1年でなんとかする」と宣言。その言葉どおり、1年後にはものづくりの仕事だけで暮らしていけるようになった。 「当時は、朝起きてから夜寝るまで1日中、制作していました。でも、全然苦ではなくて。自分の好きなことを仕事にするために、全力をかけて頑張りたかったんです」 作品をつくるうえで大切にしているのは、とにかく自分が楽しむこと。 「制作が義務になってしまうと、きっと何も生まれなくなってしまう。だから、自分がつくりたいもの、身に付けたいものをつくることが根本にあります。もちろん、個展の前や毎年参加している益子の陶器市の直前には、制作に追われて楽しいアイデアが出てこなくなることもある。そうならないためにも、あえて『自由に制作する日』を設けるようにしているんです」 作品のインスピレーションはどこから? とたずねると、「最近は、絵本や写真集からが多いですね」という意外な答えが返ってきた。 「絵本のなかで配色が美しいページだったり、写真集で外国のカラフルな街並みだったりを見ると、その色使いを作品で表現したくなるんです。色の組み合わせが大好きなのは、子どもの頃から変わらないですね。作品をつくるうえで、これまでのディスプレイや空間のコーディネートなど、すべての経験が役立っています」 この場所だからこそ始まった、ものづくりイベント 結婚後は、宇都宮の街中にあるご主人の実家でしばらく暮らしていたが、子育てを考え、より自然が身近なさくら市へ。ご主人の親戚の生家で、10年ほど空き家になっていた古民家の味わいある雰囲気が気に入り、自宅兼アトリエに選んだ。ここへ移り住んでよかったのは、周囲に自然が多いのどかな環境でありながら、幼稚園や小中学校、塾をはじめ、スーパーや病院など、生活に必要なお店や施設が近くにそろっていること。移動に時間を取られることがないため、その分を作品づくりに充てることができる。 さらに嬉しいのは、やはり自然が身近にあることだ。 「私たち家族は外遊びが好きで、週末には公園にシートと編み物セットを持っていって、息子を遊ばせながら、私はシートのうえで編み物をしたり、本を読んだりしています。地域のみなさんは温かく、子どもを見守ってくださるので、安心して外で遊ばせることができます」 自宅の前には大きな庭があり、息子さんは泥んこになりながら、虫を捕まえたり、葉っぱを拾い集めたり、外遊びを満喫している。その姿を見て生まれたのが、「にわのひ」というイベントだ。「家に閉じこもってゲームなどをするのではなく、子どもたちに自然の中でものづくりを楽しんでほしい」との思いから、自宅の庭に信頼する作り手を招き、ワークショップを中心としたイベントを毎月開催。今ではさくら市の後援を受け、氏家駅前広場などで実施している。さらに、2015年からは毎年夏に、さくら市ミュージアム勝山公園で「もりのひ」というイベントも行っている。 「『もりのひ』では作家さんたちが出店するブースやゲート、看板なども、身近な素材である段ボールを使って、みんなで手作りしています。そのコンセプトは、『にわのひ』と変わりません。これからもANTの活動と並行して、子どもたちにものづくりの楽しさを届けていけたらと思っています」 (↑ 2016年11月に開催された「にわのひ」のDM写真。男の子は、いつも倉林さんのアトリエの庭や、「にわのひ」などのイベントに出店している、「WANI Coffee」の店主の息子さん)

毎日を幸せにするコーヒーを

毎日を幸せにするコーヒーを

秋元健太さん

“町の豆腐屋さん”のような焙煎所を目ざして 「こんにちは! いつものください」(お客さん) 「『黄昏』(豆の商品名)ですね。ありがとうございます!」(秋元さん) 取材中、こんな光景を何度目にしただろう。 「秋元珈琲焙煎所」の扉を開けると、目の前には小さな和室が二つ。向かって左手の和室にはカウンターと小さなキッチンがあり、店主の秋元健太さんは、たいていここで豆を挽いたり、袋詰めしたりと手を動かしている。一方、右手は試飲スペース。コーヒー豆を購入する人は、ここで気になる豆を試し飲みできる。 さて、冒頭の光景について。和室に上がらず、入り口で豆を注文するのは、ほとんどが常連さんだ。注文から数分、世間話をしているうちに袋詰めが終わり、会計を済ませて帰っていく。そんな常連さんを含め、お客さんの多くは地元・大田原の人だという。 「僕はこの焙煎所が、“町の豆腐屋さん”のような存在になったらいいなって思っているんです。桶やボールを持って毎日豆腐を買いにいくように、『いつものを!』って来ていただけるお店に」 コーヒー貧乏になるくらい、飲んでいました(笑) 秋元さんがコーヒーやカフェに興味を持ったのは、高校の頃のこと。試験勉強などで夜中まで起きていたとき、眠気覚ましにコーヒーをよく飲んでいたそう。そのうちにコーヒーのおいしさにも目覚め、「大学にいったらカフェで働きたい」と思うようになった。 埼玉県にある大学に進学し、たまたま働き始めたのが所沢にあった「カフェセボール」(現在閉店)。ファーストフード店でありながら、店内で自家焙煎を行い、豆も販売していた。 「ここのコーヒーが本当においしくて。バイトしたお金で豆を買っては、家でドリップして飲んでいました。もう、コーヒー貧乏になるくらい熱中していましたね(笑)。『いつか自分のお店を開きたい』と思ったのもこの頃です」 カフェセボールでは約2年間働き、接客の基本やドリップの仕方などいろんなことを学んだ。なぜ、セボールのコーヒーがそれほどおいしかったのか? 数年後に理由が判明するのだが、その話はまた後ほど。 大学を卒業後、親を安心させたいという思いから、秋元さんは地元の金融機関に就職する。しかし、カフェを開きたいという思いはどうしても消えず、強まる一方だった。約3年間勤めたのち、「これからはコーヒーの道で生きていく」と決意し退職。カフェや自家焙煎珈琲店を巡る旅へと向かった。 自家焙煎珈琲店で修業。本当においしいコーヒーを届けるために 「とにかくおいしいコーヒーを飲みたい!」「素敵なカフェに行きたい! 体感したい!」と、車中泊しながらカフェを巡り、遠くは福岡まで出かけた。じつはこの旅には、今後カフェの道に進むか、それとも自家焙煎の道を選ぶのかを見極める狙いもあった。 「カフェを巡るなかで、どんなに内装や雰囲気が素敵でも、コーヒーが好みじゃないとちょっと残念な気持ちになることがあって。『何よりもコーヒーがおいしいことが大切なんだ』と気づいたんです」 貯金をはたいてカフェを巡り、残高が1万円になった頃、豆や焙煎について学びたいと門を叩いたのが、自家焙煎珈琲の専門店「那須の珈琲工房」だ。見習いとして秋元さんを受け入れてくれた店主は、この道45年。ブレンダ―として、大手の缶コーヒーメーカーの味を設計する仕事も手がけてきた。 「あとで分かったのですが、大学時代に働いていたカフェセボールのコーヒーも、師匠がブレンドしたものだったんです。多くの偶然が重なり門を叩いた『那須の珈琲工房』を手がける師匠が、セボールも担当していたと知って縁を感じるとともに、すごく嬉しかった。自分の舌は間違っていなかったんだって」 2年間の修業期間中、秋元さんは多くのことを吸収した。 「なかでも、『味に妥協しない』という師匠の姿勢は、これからも一生見習っていきたい。師匠は、僕が大田原で自家焙煎所をやっていくためには、何日間営業して、常連さんを何人つけて……といった具体的な戦略まで、一緒に考えてくれました。今、こうしてお店ができているのも、本当に師匠のおかげなんです」 地域の仲間とともに面白いことを、楽しみながら お店を開く場所として大田原を選んだのは、「やっぱり地元が好きだったから」と秋元さん。くわえて、曽祖父母が暮らした平屋が大好きだったこと、栃木県内には魅力的なカフェや焙煎所が多く、日常の中にコーヒーを楽しむ文化が根づき始めていることも大きな理由となった。 平屋を大切に受け継ぎ、「秋元珈琲焙煎所」を開いたのは2014年9月のこと。準備したのは焙煎機とミルとちゃぶ台2台だけといってもいいほど、必要最低限でのスタートだった。 「準備はいくらしても完璧はないので、それならとりあえず始めてしまうこと、動き出してから流れのなかで考えることも大切だと思うんです。うちの場合は、お店が軌道に乗り始めてから必要なものをそろえていきました」 営業日は、水曜から土曜の週4日。午前中に焙煎を行い、13時から18時までお店を開く。日曜はほぼ毎週、イベントに出店。月・火曜の定休日を焙煎にあてることもある。週に5日間ほど、少量ずつ焙煎するのは、焼きたての新鮮な豆を届けたいからだ。 「もう一つの理由は、少量の豆を長時間焼くことで、芯までじっくり火を通すことができるからです。焙煎で何よりも大切にしているのは“自分の感覚”。日によって気温や湿度も違えば、素材や自分の状態も変わってきます。その中で、データには出ない微妙な違いを見極められるのは、自分の感覚だけ。言葉で説明するのは難しいですが、最適な焼き具合になると、豆が“キラキラ”“コロン”として見えるんです。素材に耳を傾け、美しい瞬間を見逃さないように心がけています」 取材当日、昨年本サイトで紹介した「色実茶寮」の磯部なおみさんが、茂木町から多くの焼菓子を携え、秋元珈琲焙煎所に出店していた。ほかにも秋元さんは、大田原で長年藍染を手がける「紺屋」を若くして継いだ小沼雄大さんと、ドリップ教室と染物教室をセットで開いたり、手づくりスコーンや焼菓子の人気店「ぎんのふえ」の寺田尚子さんと一緒にイベントに出店したり、地域の仲間との輪を広げている。また、今年9月22日には、計20組の飲食店や作り手が参加した「第二回 田舎ノ露店市」が、秋元珈琲焙煎所で開催された。 「魅力的なお店や人たちが連携して、おいしいもの、いいものを届けていくことで、結果的に地域が元気になっていったら嬉しいですね。僕はこれからも味に妥協することなく、本当においしいコーヒーを提供していきたい。それで少しでも、地域のみなさんの日常に幸せを届けられたらと願っています」

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