interview

50代

装飾 装飾
芸術を核に、人の力が集う“渦”を

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

小坂憲正さん・朋子さん

目ざすのは、土地に根ざした家 「シルバーパインを切り出してくれる山主が見つかったぞ!」 フィンランドからの電話の主は、材木の輸入を手がける知人だった。シルバーパインとは、厳しい自然のなかで立ち枯れたまま、数百年の年月を重ねた木。収縮がほとんどなく、ログビルダーの間では「幻の木」と呼ばれている。 「いつかシルバーパインで家を建てたい」と周囲に話していた小坂憲正さんは、先立つものはなかったが購入を決意した。その後、融資してくれる銀行を見つけ、美しい自然に魅了された霧降高原の土地を購入。3年の歳月をかけて、2004年に「幾何楽堂」を完成させた。 樹齢400年から600年のシルバーパインを重ねたログハウスの構造と、昔ながらの日本建築のよさを融合することで、約40畳のメインルームが実現できた。その大きな窓からは、霧降の美しい森が一望できる。憲正さんが家づくりで何よりも大切にしているのは、周囲の空間を生かした建物をつくること。それを象徴するのが、幾何楽堂の大きな玄関扉の横に掲げられた“渦”のマークだ。 「宇宙がそうであるように、渦と空間は物を生み出す原点であり、同じように家の周りの周辺から生まれてくるイメージが自分の中にはあるんだ。住む人が大切に選んだ土地の力をもらいながら、空間にとけこみ、地に根をはったような家をつくっていきたい」 つくることが自信になり、前に進んでいける 北海道で生まれ育った憲正さんは、神奈川の大学で建築を学んだあと、手に職をつけたいと鳶の道へ。厚木や横須賀で働き30歳を迎え、これからの人生について考えたとき、もともと興味のあったログハウスへの思いがよみがえってきた。日光の小来川(おころがわ)に、ログハウスの神様といわれるB・アラン・マッキーさんがいることを知り、彼のもとを訪ねログビルディングを学んだ。 「木という自然の恵みを、頂いて家をつくる。自分でつくり上げることは、生きていく上で大きな自信に繋がる。細かいことは気にせず、まずはつくることが大切だというマッキーさんの考えにすごくひかれました。マッキーさんは『斧で家をつくるのが一番好きだ』と聞いて、自分も最初に建てる家は斧でつくろうと思ったんだ」 神奈川に戻り、斧と手道具のみでログハウスを建てたのは1998年のこと。自らの手で家をつくるうちに、どんどん木の仕事に魅了されていった。日光に移住したのは、何のしがらみのない土地で、ゼロからスタートを切りたいと思ったからだ。 「“日の光”って書く、地名にもひかれてね。それ以外、本当に特別な理由はないんだ」 扉も建物も、体にいい自然素材で 日光に移り住んでから、便利屋、石屋を経て、ログハウスや日本の在来建築を手がける地元の工務店へ。そこで7年間働きながら、木の家づくりを学んだ。 「夜、仕事が終わってからも、余った材料を使わせてもらって、犬小屋や棚などをひたすらつくっていました。木と木を抜けないように組むにはどうしたらいいかなど悩みに悩んで、自分の頭で考えたからこそ、基本が身についたと思うんだ」 そんなとき、霧降高原の観光施設から扉づくりを頼まれる。 「初めて木を使って扉をつくらせてもらったとき、扉によって建物の印象が大きく変わることを実感しました。当時はもう、集成材やビニールクロスでつくる家が主流になっていたけど、木の扉をつくったことで、その先の空間も木や漆喰などの自然素材でつくりたいという思いが大きくなっていったんだ」 住む人が、参加できる家づくりを 現在、ログハウスの聖地として知られるようになった小来川。この地で育った杉を使い、ログハウスと在来工法を組み合わせることで開放的な空間を実現したそば屋「山帰来」をはじめ、憲正さんは数多くの住まいや店舗を手がけてきた。 南三陸町歌津地区の集会場に携わったのは、震災後、継続的にボランティアに訪れたことで、地元の人たちとの深い縁が生まれたことがきっかけだった。 「あの震災で、自然の力の大きさを痛感してね。地元の人たちと話し合って、今だからこそ“原点”に立ち返ろうと、竪穴式住居を建てることにしたんだ」 大切にしたのは、自分たちの手でつくること。地元の人や日光の仲間たち、ボランティアに訪れた人たちとともに丸太の皮をむくところからはじまり、手堀りで直径9m、深さ1mの大きな穴を掘った。憲正さん以外は皆、素人であったが、はじめて持つノミやのこぎりを手にして木を組み上げていった。こうして、限りなく円に近い24角形の竪穴式住居が完成した。 「大地にかえる素材を用い、自分たちの力で建てた自然に調和するこの建物は、原点でありながら、これから進むべき建物の形でもあると思うんだ。じつは、竪穴式住居はエアコンがなくても、夏涼しくて冬暖かい。これからも体にいい素材を使って環境に寄り添う建物を、そこに住む人たちと一緒につくっていきたいね」 厳しくも豊かな自然が、たくさんのヒントをくれる 霧降高原に暮らして13年。この地の魅力は、自然の厳しさだと憲正さんはいう。 「険しい山道をのぼるからこそ、頂上にたどり着いたとき大きな感動があるように、厳しい自然のなかに暮らすからこそ、本当の喜びが見えてくる。標高差の大きい、厳しくも豊かな霧降の自然は、たくさんのヒントを与えてくれる。ここに身を置くことで、一歩先に進んだものづくりができるのではないかって思っているんだ」 2015年6月、憲正さんと朋子さんは仲間の作り手たちとともに「キリフリ谷の藝術祭」を開催した。今後は幾何楽堂の前に広がる谷に自らの手で舞台をつくり、劇団四季などの出身俳優が活躍する「心魂プロジェクト」とともに、芸術祭で演劇を開催するのが二人の夢だ。 憲正さん:「障がいを持った子どもたちや両親に、ひとすじの喜びを届ける心魂プロジェクトの舞台を観たとき胸が熱くなって、この人たちと一緒に何かをつくりたいと思ったんだ。誰かと一緒に笑ったり泣いたり、感動を共有できる舞台を核に、いろんな人の力が集う“渦”をここから巻き起こしていきたい」 朋子さん:「仲間と一つのことに一生懸命に立ち向かうとき、自分が想像もしなかった力が生まれてきます。そのとき感動は、生きる力になる。そう被災地で実感しました。多くの人と一緒に芸術祭をつくり上げていくことで、感動が生み出す力の輪を、霧降の谷から広げていけたら嬉しいですね」

那須に新たなスペクタクルを

那須に新たなスペクタクルを

鈴木 和也さん

那須の美しい自然にいざなわれて 那須どうぶつ王国に隣接する牧場からは、緑豊かな森や田畑に抱かれた那須の街並みを見渡すことができる。振り返れば、那須岳の雄大な山並み。今から28年前、この美しい自然に魅せられた一人の男性がいた。 「那須高原を訪れたのは、ちょうど5月の終わりごろ。360度見渡すかぎりの新緑がまぶしくて。日本にこんなに美しい場所があったんだ! ここで仕事がしたい! と強く思ったんです」 その男性の名は、鈴木和也さん。当時、東京のホテルチェーンに入社したばかりだった鈴木さんは、リゾート開発プロジェクトの視察で役員の運転手として那須高原を訪れた。それからというもの「現地でプロジェクトに携わりたい!」と、何度も上司に直談判。2年を経て思いは受け入れられ、鈴木さんは那須町に移り住んだ。事業立ち上げのために最初に取りかかったのは、地元の人たちとの交渉だ。 「地元の人たちと飲みに行って、膝を突き合わせてお話する機会がたくさんありました。みなさん、とても温かくて。当時、独身だったぼくにゴハンを差し入れてくれるなど、本当によくしてくれました。那須には四季折々の美しい自然、おいしい食材、何よりも魅力的な人がたくさんいる。ぼくはそんな那須の魅力をいかした、地域に密着した施設をつくりたいと思ったんです。首都圏から訪れる人だけではなく、地元の人にも愛される動物園を」 那須の食材100%!地元のおいしさが詰まった「なすべん」 「那須どうぶつ王国」がオープンしてからも、鈴木さんは観光協会の理事を務めるなど、地域活性化の活動に積極的に取り組んできた。そんな活動のなかから誕生したのが、「なすべん」の愛称で親しまれる「那須の内弁当」だ。 「それまで『那須どうぶつ王国』で提供していた料理は、ありきたりなものばかりで。なんとかメニューを充実させたかったんです」 鈴木さんは、地元農家や酪農家、飲食店を営む人たちと協力し、2006年に「なすとらん倶楽部」を結成。那須の看板メニューを生み出すべく、話し合いを重ねた。また、地元野菜を料理に活かすために、JAにも直談判を行った。 「那須町は農業がとても盛んで、『白美人ねぎ』『美なす(ビーナス)』などのブランド野菜がたくさんあります。けれど当時は、それらの野菜はすべて首都圏に出荷されていて、地元では流通していませんでした。そこで、JAさんにお願いに行き、戻り際何度も足を運ぶうちに、気骨ある職員の方が協力してくれるようになって、ブランド野菜の入手が可能になりました。こうして2010年に『なすべん』が誕生したんです」 現在では、「那須どうぶつ王国」を含む9店舗が、これらの地元食材を活かしたオリジナルメニューを提供している。2015年には「なすべん」の地産地消の取り組みが評価され、「農水省食料産業局長表彰」を受賞した。 大切なのは、自分の言葉で発信すること その後も鈴木さんは、那須の広大な自然のなかで若手アーティストの作品を発表するアートイベント「スペクタクル・イン・ザ・ファーム」を開催するなど、那須の魅力を積極的に発信してきた。その「発信すること」の大切さを気づかせてくれたのは、うれしい偶然の出会いだったという。 「たまたま那須にあるホテルで早稲田大学の中村好男教授にお会いして、それがきっかけで早稲田大学のスポーツ科学学術院で、ぼくたちの那須での取り組みについてお話させていただくことになったんです。そのプレゼンの後の懇親会で、中村先生から『那須の魅力を活かす鈴木さんの取り組みは、『那須だけではなく、日本のためにもなることだと思いますよ』と言っていただいて」 その言葉をきっかけに、鈴木さんはこれからの自分の使命に気付いたという。 「地域を活性化していくためには、自分の住んでいる街を愛し、地域の魅力を徹底的に掘り下げることが重要。けれど、それだけでは十分とは言えない。大切なのは『自分の言葉で積極的に発信すること』『そして他地域と連携して輪を広げていくこと』だと、中村先生は気づかせてくれたんです」 地域への熱い思いが実現した、数々の奇跡 これまでの取り組みにより、来場者が順調に増えていたちょうどそのころ、東日本大震災が発生した。那須町への観光客は激減し、那須どうぶつ王国でも、スタッフを自宅待機させなければならない状況となった。 「それでも、きっと何かできることがあるはずだと考え抜き至った結論は、やはり『自分の言葉で発信すること』でした。そこで那須町観光協会の支援も頂き、震災後も那須で頑張る人々の情報を発信するラジオ番組をスタートしたんです。また、那須の有志で「那須元気プロジェクト」を立ち上げ、震災で那須町に避難されて来た皆様への情報提供等も行いました。さらに、那須に事業所を持つ企業が連携して協議会を立ち上げ、那須を盛り上げるさまざまな活動を、一緒になって行ってくれるようになったんです」 鈴木さんをはじめ有志が集まり、震災前から準備を進めてきたサイクルイベント「那須高原ロングライド」を初めて開催したのも2011年のことだ。 「震災後のイベント自粛ムードのなか、『誰も参加してくれないのでは』という声もありました。でも、こんなときだからこそやらなければいけないと、あえてリスク承知の上で開催すると、なんと800人以上もの人が参加。首都圏からも多くの人が来てくれました。みなさんからの『頑張ってください!』『応援していますよ!』という温かい言葉がうれしくて、うれしくて。涙があふれてきました」 このイベントから活動が広がり、翌年にはプロチームの「那須ブラーゼン」が誕生。2014年には、所属選手が全日本チャンピオンとなった。「那須ブラーゼン」は観光客や子ども向けのイベントも開催し、町を盛り上げている。また、ブラーゼンがモデルの地域密着のテレビドラマが全国放送されるなど全国にもその輪が広がっている。 これからも、新たなスペクタクルを ラジオ番組をはじめたころから、鈴木さんは「スペクタクル鈴木」というサブネームを使い始めた。アートイベントの名前にも使われた“スペクタクル”という言葉には、人と人との交流を通し、場に大きな化学変化が起きることで、そこに感動が生まれる、「まさに奇跡的な瞬間」という意味が込められている。 「自分の言葉で積極的に発信しはじめてから、活動に興味を持ってくれる人、応援してくれる人のつながりがどんどん広がり、奇跡のような出来事がたくさん起こりました。栃木県内には、地域の魅力をいかし自分たちで楽しみながら、スペクタクルを起こしている人がたくさんいます。そんな奇跡的な瞬間を目にした若い人たちが、さらに自分の街で新たな取り組みを始めようとしています。これからも、他地域の魅力的な人たちと連携しながら、自転車ロードレースの国際イベントや那須を舞台にした映画など、新たなスペクタクルを巻き起こしていきたいですね」

SUPPORT移住支援を知る

最大100万円+αの移住支援金をはじめ、さまざまな支援制度・補助金をご用意しています。
スムーズにとちぎ暮らしをスタートできるよう、また、移住後に後悔しないよう、
最新の情報をこまめにチェックするようにしましょう!

CONTACT移住について相談する

ちょっと話を聞いてみたいだけの人も、
本格的に移住を相談したい人も、どんな相談でもOKです!
お気軽にご相談ください!