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単身で移住

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毎日を幸せにするコーヒーを

毎日を幸せにするコーヒーを

秋元健太さん

“町の豆腐屋さん”のような焙煎所を目ざして 「こんにちは! いつものください」(お客さん) 「『黄昏』(豆の商品名)ですね。ありがとうございます!」(秋元さん) 取材中、こんな光景を何度目にしただろう。 「秋元珈琲焙煎所」の扉を開けると、目の前には小さな和室が二つ。向かって左手の和室にはカウンターと小さなキッチンがあり、店主の秋元健太さんは、たいていここで豆を挽いたり、袋詰めしたりと手を動かしている。一方、右手は試飲スペース。コーヒー豆を購入する人は、ここで気になる豆を試し飲みできる。 さて、冒頭の光景について。和室に上がらず、入り口で豆を注文するのは、ほとんどが常連さんだ。注文から数分、世間話をしているうちに袋詰めが終わり、会計を済ませて帰っていく。そんな常連さんを含め、お客さんの多くは地元・大田原の人だという。 「僕はこの焙煎所が、“町の豆腐屋さん”のような存在になったらいいなって思っているんです。桶やボールを持って毎日豆腐を買いにいくように、『いつものを!』って来ていただけるお店に」 コーヒー貧乏になるくらい、飲んでいました(笑) 秋元さんがコーヒーやカフェに興味を持ったのは、高校の頃のこと。試験勉強などで夜中まで起きていたとき、眠気覚ましにコーヒーをよく飲んでいたそう。そのうちにコーヒーのおいしさにも目覚め、「大学にいったらカフェで働きたい」と思うようになった。 埼玉県にある大学に進学し、たまたま働き始めたのが所沢にあった「カフェセボール」(現在閉店)。ファーストフード店でありながら、店内で自家焙煎を行い、豆も販売していた。 「ここのコーヒーが本当においしくて。バイトしたお金で豆を買っては、家でドリップして飲んでいました。もう、コーヒー貧乏になるくらい熱中していましたね(笑)。『いつか自分のお店を開きたい』と思ったのもこの頃です」 カフェセボールでは約2年間働き、接客の基本やドリップの仕方などいろんなことを学んだ。なぜ、セボールのコーヒーがそれほどおいしかったのか? 数年後に理由が判明するのだが、その話はまた後ほど。 大学を卒業後、親を安心させたいという思いから、秋元さんは地元の金融機関に就職する。しかし、カフェを開きたいという思いはどうしても消えず、強まる一方だった。約3年間勤めたのち、「これからはコーヒーの道で生きていく」と決意し退職。カフェや自家焙煎珈琲店を巡る旅へと向かった。 自家焙煎珈琲店で修業。本当においしいコーヒーを届けるために 「とにかくおいしいコーヒーを飲みたい!」「素敵なカフェに行きたい! 体感したい!」と、車中泊しながらカフェを巡り、遠くは福岡まで出かけた。じつはこの旅には、今後カフェの道に進むか、それとも自家焙煎の道を選ぶのかを見極める狙いもあった。 「カフェを巡るなかで、どんなに内装や雰囲気が素敵でも、コーヒーが好みじゃないとちょっと残念な気持ちになることがあって。『何よりもコーヒーがおいしいことが大切なんだ』と気づいたんです」 貯金をはたいてカフェを巡り、残高が1万円になった頃、豆や焙煎について学びたいと門を叩いたのが、自家焙煎珈琲の専門店「那須の珈琲工房」だ。見習いとして秋元さんを受け入れてくれた店主は、この道45年。ブレンダ―として、大手の缶コーヒーメーカーの味を設計する仕事も手がけてきた。 「あとで分かったのですが、大学時代に働いていたカフェセボールのコーヒーも、師匠がブレンドしたものだったんです。多くの偶然が重なり門を叩いた『那須の珈琲工房』を手がける師匠が、セボールも担当していたと知って縁を感じるとともに、すごく嬉しかった。自分の舌は間違っていなかったんだって」 2年間の修業期間中、秋元さんは多くのことを吸収した。 「なかでも、『味に妥協しない』という師匠の姿勢は、これからも一生見習っていきたい。師匠は、僕が大田原で自家焙煎所をやっていくためには、何日間営業して、常連さんを何人つけて……といった具体的な戦略まで、一緒に考えてくれました。今、こうしてお店ができているのも、本当に師匠のおかげなんです」 地域の仲間とともに面白いことを、楽しみながら お店を開く場所として大田原を選んだのは、「やっぱり地元が好きだったから」と秋元さん。くわえて、曽祖父母が暮らした平屋が大好きだったこと、栃木県内には魅力的なカフェや焙煎所が多く、日常の中にコーヒーを楽しむ文化が根づき始めていることも大きな理由となった。 平屋を大切に受け継ぎ、「秋元珈琲焙煎所」を開いたのは2014年9月のこと。準備したのは焙煎機とミルとちゃぶ台2台だけといってもいいほど、必要最低限でのスタートだった。 「準備はいくらしても完璧はないので、それならとりあえず始めてしまうこと、動き出してから流れのなかで考えることも大切だと思うんです。うちの場合は、お店が軌道に乗り始めてから必要なものをそろえていきました」 営業日は、水曜から土曜の週4日。午前中に焙煎を行い、13時から18時までお店を開く。日曜はほぼ毎週、イベントに出店。月・火曜の定休日を焙煎にあてることもある。週に5日間ほど、少量ずつ焙煎するのは、焼きたての新鮮な豆を届けたいからだ。 「もう一つの理由は、少量の豆を長時間焼くことで、芯までじっくり火を通すことができるからです。焙煎で何よりも大切にしているのは“自分の感覚”。日によって気温や湿度も違えば、素材や自分の状態も変わってきます。その中で、データには出ない微妙な違いを見極められるのは、自分の感覚だけ。言葉で説明するのは難しいですが、最適な焼き具合になると、豆が“キラキラ”“コロン”として見えるんです。素材に耳を傾け、美しい瞬間を見逃さないように心がけています」 取材当日、昨年本サイトで紹介した「色実茶寮」の磯部なおみさんが、茂木町から多くの焼菓子を携え、秋元珈琲焙煎所に出店していた。ほかにも秋元さんは、大田原で長年藍染を手がける「紺屋」を若くして継いだ小沼雄大さんと、ドリップ教室と染物教室をセットで開いたり、手づくりスコーンや焼菓子の人気店「ぎんのふえ」の寺田尚子さんと一緒にイベントに出店したり、地域の仲間との輪を広げている。また、今年9月22日には、計20組の飲食店や作り手が参加した「第二回 田舎ノ露店市」が、秋元珈琲焙煎所で開催された。 「魅力的なお店や人たちが連携して、おいしいもの、いいものを届けていくことで、結果的に地域が元気になっていったら嬉しいですね。僕はこれからも味に妥協することなく、本当においしいコーヒーを提供していきたい。それで少しでも、地域のみなさんの日常に幸せを届けられたらと願っています」

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

中村純さん・後藤洋平さん

地域づくりを、自分の仕事にするために 東京農業大学で林業を学んでいた中村純さんは、その頃から地元・栃木市で、地域づくりのボランティアなどに参加。地域や林業にかかわる仕事に就きたいと考えたが、なかなか生計を立てていく道が見つからず、都内の大手ハウスメーカーに就職した。 中村さん:「営業の仕事を通じて、民間ではこうやって泥臭く必至に取り組んでいるから、利益を生むことができるんだと実感しました。やりたかった地域の仕事も、ボランティアでは続けられない。好きなことを続けるためには、その道でお金を稼ぐことが重要だと学んだんです」 27歳でハウスメーカーを退職し、東日本大震災の被災地でボランティアとして活動。そこで知り合った人にすすめられて、鎌倉のゲストハウスで働き始めた。 中村さん:「そこで、ゲストハウスのオーナーはもちろん、ウェブデザイナーやカメラマンなど、やりたいことを仕事にして面白く生きている人たちと出会い、こんな生き方もあるんだと視野が広がりました。自分もやっぱり地域に携わりながら生きていきたいと、地元に戻る決意をしたんです」 栃木市にUターンしてから、中村さんはまちづくりのワークショップなどに参加。そこで出会った人たちに、空き家バンクなどの企画書を見てもらったことをきっかけに、ビルススタジオのことを教えてもらった。ホームページを見ると、ちょうど人材募集の告知が! すぐに応募し、2011年の冬から不動産担当として働くことになった。 地域のことを考えながら建築をつくる 高校3年の大学受験が近づいたとき、後藤洋平さんは進路について迷っていた。後藤さんの父親は設計事務所を運営。しかし父と同じ道に進むのがなんとなく嫌で、一度は違う分野の学部を受験した。 後藤さん:「けれど、後期試験までの間に、父の建築の本を読んだり、設計した家を見に行ったりして、『人が生活する場所をつくる』という設計の仕事の面白さに強くひかれました。無理をいって浪人させてもらい、翌年、新潟大学の建築学科に進学したんです」 大学では、県内の豪雪地帯にある街で、古くから雪よけの通路としてつくられてきた大きな軒のような「雁木(がんぎ)」を、設計・制作する活動にも携わってきた。 後藤さん:「雁木は地域にとってのアイデンティティなんです。軒を連ねる家の一軒でも雁木を壊してしまうと、通路が途切れてしまうだけでなく、まちの誇りが失われてしまう。地域住民や自治体と協働して雁木通りを再生するプロジェクトに参加し、地域のことを考えながら建築をつくることの面白さを体感したんです」 卒業後は、都内の大手ゼネコンに就職。当時から、いずれ地元で設計事務所を開きたいと考えていたため、休日などに栃木市に帰省し、地域づくりの活動にも携わっていた。 後藤さん:「そんな頃、すでにビルススタジオで働いていた中村から『設計スタッフを募集しているぞ!』って電話があって。後日、もみじ通りの店主の方たちが集う忘年会に参加させてもらいました。そこで『単に建物を設計するだけではなく、場のコンセプトから不動産も含めて総合的に場所をつくっていく』というビルススタジオの取り組みを知ったとき、自分のやりたかったことはこれだ!と思ったんです」 新たな場から、広がっていく化学反応 築年数が経った物件や大谷石の蔵、倉庫など、一般的な不動産会社では扱われにくい、「ひとクセあるが、他にはない魅力を持った物件」を街から掘り起し、そこで営まれるライフスタイルまでを含めて提案するのが、中村さんの仕事。 一方、後藤さんは、入居や購入する人が決まった段階から、その人の思いや建物・土地が持つ魅力を大切に、コンセプトづくりから図面作成、見積もり、現場監理、引き渡しまで、すべてに携わっている。 ときには、二人のそれぞれの視点から、建物を活用していくための事業プランを考え、オーナーや入居希望者に提案することもあるという。 中村さん:「例えば、宇都宮市内にある大谷石でできた倉庫群のオーナーさんから、『個人か借りるには建物が広すぎて、入居者が見つからず困っている』と相談を受けました。大谷石の壁や鉄骨のトラス梁は無骨なつくりで、とても魅力的に感じたので、複数の店舗が集まる場所にリノベーションすることを提案。現在では、美容室や飲食店などの個性的な5店舗が入居する『porus(ポーラス)』というエリアに生まれ変わりました」 また、「宇都宮のまちなかで、面白い暮らし方をしたい」と希望していた方に、眺望に優れた6階建てのビルの最上階を提案。併せて、1~5階はシェアハウスとして活用する事業プランを提示したことをきっかけに、宇都宮市内初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」が誕生した。 中村さん:「シェアハウスの住人たちが、近隣のお店が開催しているイベントに参加したり、地域の人たちと一緒に雪かきをしたり、新たな場ができたことで化学反応が起こり、交流や活動が広がっていくは、やっぱり嬉しいですね」 後藤さん:「僕たちが見つけ出した物件や、リノベーションした空間に共感してくれる人たちが集まってきてくれることもあり、自然と交流や新たな活動が生まれやすいのだと思います」 街の人とつながる“入り口”を、栃木市に 中村さんと後藤さんは、もう一人の同級生である大波龍郷さんと「マチナカプロジェクト」を立ち上げ、栃木市の地域づくりにも携わっている。 後藤さん:「マチナカプロジェクトをきっかけに、栃木市の中心部に誕生したシェアスペース『ぽたり』のコンセプトづくりや内装デザインなどをサポートさせてもらいました。ここではさまざまなイベントやワークショップが開催され、新たな出会いや人のつながりが生まれつつあります」 さらに、現在マチナカプロジェクトでは、栃木市の中心部にある空き建物を改装し、カフェやゲストハウスなどが入居する場をつくろうと計画している。 後藤さん:「いちばんの目標は、この場所を栃木市で新しい何かを始めたい人たちが、街の人とつながる“入り口”にすること。『もみじ通り』のように、この場所をきっかけに新たなお店が次々と誕生していく拠点にしていきたいです」 中村さん:「もう一つの目標は、ここの運営を通じてマチナカプロジェクトとして利益を上げていくこと。それこそが継続的にまちづくりに携わり、地域の魅力を高めていくためには大切だと思うんです」

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

村瀬正尊さん

現場に飛び込むことを決意。地域の課題解決を目ざして 「“民間自立型のまちづくり”というと難しく聞こえるかもしれませんが、ようは、『自分たちの手で、自分たちが暮らす地域を面白くしていこう』ということです。これまで地域活性化の取り組みは行政からの補助金に頼りがちで、一過性の活動で終わってしまうケースが多々見られました。そうではなく、自分たちで利益を上げながら、継続してまちづくりに取り組んでいくことが大切だと思うんです」 そう話す村瀬正尊さんは、小山市出身。大学生のころ、埼玉県草加市役所の「みんなでまちづくり課」で2カ月間、インターンシップを経験したことをきっかけに、まちづくりに興味を持つようになった。同じころ、若い世代などの起業を支援する「NPO法人 ETIC.(エティック)」のイベントなどにも参加。ここで自ら起業するという選択肢もあることを知ったという。 大学を卒業後、都内のオフィス家具メーカーに営業として2年間勤務したのち、やはりまちづくりの仕事に携わりたいと「ジャパンエリアマネジメント(JAM)」に入社。エリアマネジメント広告事業の立ち上げなどに携わった。 「エリアマジメント広告事業は、まちづくりの担い手が景観向上のためのルールに基づき、公道上や民有地の屋外広告を企業に販売し、得られた収入をエリアマネジメントの財源に充てようという事業。その立ち上げのために、深夜バスに乗って大阪や福岡、松山など全国各地の商店街を訪ねて回りました」 また、全国で自立的なまちづくりを目ざす団体や大学の教授、企業の担当者などが集うシンポジウムも開催。そうやって各地のまちづくり団体と関係を築いていたとき、一つの大きな壁にぶつかった。 「東京にいながら各地の地域活性化をサポートする活動は、どうしても『広く浅く』なってしまうのが課題でした。全国のいろんな方と知り合うなかで見えてきた地域の問題や、地元の人たちが抱える悩みを解決していくためには、思い切って現場に飛び込むことが必要だと思ったんです」 こうして村瀬さんは2009年、栃木県へ帰郷した。 “ハブ”となる人物との出会いが、大きな転機に 高校から埼玉の学校に通っていた村瀬さんは、じつはこれまで地元に対して、あまり関心がなかったという。栃木に戻ったとき唯一ツテがあったのが、JAMの仕事を通じて知り合った宇都宮大学の陣内教授だった。 「陣内先生に『県内で自分と同じような考えを持って、まちづくりに取り組んでいる若い人をご存じないですか』とうかがったら、ある3人の方を紹介してくれたんです」 その3人とは、本サイトでも紹介した、鹿沼で「CAFE 饗茶庵」やゲストハウス「CICACU Cabin」を運営する風間さん、宇都宮市のもみじ通りを拠点に、空間プロデュースを手掛ける建築設計事務所「ビルススタジオ」の塩田さん、インターンシップなどを通じて若者の力をいかし地域の課題解決を目ざす「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」代表の岩井さんだった。 「自らの手で地域を盛り上げようと活動する3人の方と出会えたことで、『じつは栃木って、すごく面白い場所だったんだ』と実感しました。陣内先生も含む4人は、県内でさまざまな活動をする人たちをつなぐ“ハブ”の役割を果たしている方。みなさんに出会えたことで、県内での人脈が大きく広がっていきました」 自立型のまちづくりを目ざし、さまざまな活動を展開 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーを立ち上げた村瀬さんが、塩田さんや風間さんとともに最初に手がけたのが「ユニオンスタジオ」のプロジェクトだ。宇都宮の中心部、ユニオン通りの空き物件を「ユニオンスタジオ」として活用。ここを拠点に、ユニオン通り界隈に暮らす“人”にフォーカスすることで、地域のつながりや魅力を探るフリーペーパー「Stew(しちゅう)」の発行などを手がけてきた。 2012年には、JR宇都宮駅西口から徒歩10分ほどにある空き倉庫を活用した「SOCO」プロジェクトをスタート。2階・3階はコワーキングスペース「HOTTAN(ホッタン)」として、1階は「TEST KITCHEN STUDIO」として活用している。 「TEST KITCHEN STUDIOには厨房設備や什器などを準備しており、『県内で飲食店を開きたい』という方が、その前に飲食店経営を経験する場として、人とのつながりを広げる場として利用していただいています」 また最近では、新たに「Plus BICYCLE」という情報誌の発行も始めた。 「栃木県内や宇都宮市内で、魅力的なお店やスポットを巡ろうとしたとき、街の雰囲気を肌で感じられる自転車は最適なツールです。ライフスタイルのなかに自転車をプラスすることで、より多くの人に栃木の魅力を実感してもらえたらと考えています」 ローカルと全国、両方の視点をいかして 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーをスタートした頃、村瀬さんは「エリア・イノベーション・アライアンス(AIA)」の立ち上げにも携わった。AIAでは東京を拠点に、全国各地でまちづくり事業を展開する団体や企業をサポートしながら、民間自立型のまちづくりのノウハウを集め、これから同様の事業を始めようとする人たちの支援を行っている。また、自治体の財政が厳しさを増していくなか、公共施設を持続的に活用・運営していけるよう、公務員を対象にしたeラーニングなどのプログラムも提供している。 現在、村瀬さんは宇都宮を拠点に活動しながら、週2日ほど東京のAIAに出社。このように“二地域”で活動することには、大きなメリットがあるという。 「栃木県というフィールドがあることは、まちづくりの仕事を続けていくうえで、とても重要。このフィールドで実践し、成功した事例や得られたノウハウを、全国のほかの地域にいかすことができます。逆に全国の最新事例を、県内のまちづくりのヒントとして活用することもできるんです」 さらに村瀬さんは続ける。 「最近ではSNSの普及によって、東京にいながらにして地元のローカルな情報や旬な動きをタイムラグなく知ることができます。これまでは東京だけに向いていた意識が、地方にも向けられるようになっている。これはとても大きな変化だと思うんです。地方に関心を持つ都市部の人たちともつながり、巻き込んでいくことで、より面白いまちづくりが実現できるのではないかと感じています」 今後は、県内に民間自立型のまちづくり会社を立ち上げるのが村瀬さんの目標。自ら収益を上げながら、持続的に地域活性化に取り組むモデルケースをつくり出すことで、県内各地にその輪を広げていきたいと願っている。

暮らしと仕事のつながりが楽しい

暮らしと仕事のつながりが楽しい

早川友里恵さん

のびやかな街の雰囲気にひかれて 「就活を始めたばかりの頃は、東京で働きたい、栃木に戻りたいといった希望はまだ明確にはなくて、当時は就職氷河期だったので、興味のある企業を必死になって受けていました」 そう話す早川友里恵さんは、宇都宮市の出身。茨城県の筑波大学で学び、就職活動では東京や愛知などにある食品メーカーを中心に回った。「岩下食品」を受けたのは新生姜やらっきょうなどのファンで、普段からよく食べていたからだという。 だんだんと選考が進み、どの企業に就職するのか、これからどこで暮らしていきたいかを真剣に考えたとき、頭に浮かんできたのは栃木市の街並みだった。 「岩下食品の面接の日に早く着いてしまって、蔵が残る巴波川沿いなど、栃木の街を歩いて回ってみたんです。そしたら、街の雰囲気がすごくゆったりしていて、荒物屋さんや駄菓子屋さんなどのレトロで懐かしいお店もあれば、おしゃれな飲食店などの新しいお店も充実している。とても暮らしやすそうな街だなって感じました。逆に、面接でよく訪れていた東京は、立ち並ぶビルの圧迫感などに疲れてしまうことが多くて。私には、実家にも近く、のびのびとした雰囲気のこの街が合っていると思ったんです」 また、岩下食品では、高校で美術部に入っていた頃から独学で覚えた、イラストレーターやフォトショップの技術をいかせそうだったことも、大きな決め手に。こうして早川さんは2011年4月に栃木にUターン。岩下食品で働き始めた。 “しんしょうがくん”のブログをきっかけに、新プロジェクトへ 入社後、商品企画部に配属になった早川さんは、プレゼン資料や商品のポップ、チラシの制作などを担当。商品PRを目的としたイベントの企画・運営なども手がけてきた。3年目からは、ウェブサイトの更新も行うようになり、大幅なリニューアルも担当した。 「更新をタイムリーに、内容も自社で自由に作り替えられるように、というのが会社の方針で。主要なところだけを制作会社さんにお願いして、あとは“HTML”や“CSS”について勉強しながら、なんとか自分たちでリニューアルを行いました」 その後、ネット通販も担当。入社5年目の現在では、サイトの運営だけではなく、得意先に納品に出かけたり、集金を行ったり、注文を受けてから商品を届けるまでのあらゆる仕事に携わっている。 そんななか、入社2年目から若手の先輩社員たちと一緒に、自発的にスタートしたのが「ちょっとそこまで新生姜」というブログだ。 「ブログの主人公は、私がフェルトで手づくりした“しんしょうがくん”というキャラクター。この“しんしょうがくん”と一緒に、岩下の商品を使ったメニューを提供してくれている飲食店へ出かけたり、イベント出店の様子をレポートしたり、栃木の街並みを紹介したり、私たち自身も楽しみながら200件以上の記事をアップしてきました。すると、『なんか面白いことをやっている若手がいる』と社長の目にとまり、新たにオープンするミュージアムのプロジェクトに参加させてもらえることになったんです」 小さな会社だからこそ、多くのことに挑戦できる ミュージアムとは、2015年6月に栃木市内にオープンした「岩下の新生姜ミュージアム」のことだ。館内には、商品に関する展示だけではなく、新生姜を使った料理が味わえるカフェや新生姜の被り物をかぶって記念撮影できるコーナーや、岩下漬けの体験コーナーなど、遊び心あふれるコンテンツが充実している。 「私は主に『新生姜の部屋』を担当しました。ここは人間サイズになった新生姜が暮らす部屋をイメージして、細部まで新生姜にまつわるネタを散りばめています。新生姜と恋人になった気分で、さまざまな写真が撮影できるフォトスポットです!」 このほかにも、新生姜の被り物の企画や館内にあるジンジャー神社のおみくじ、絵馬のデザインなどを担当。クリスマスなどのイベント時には、飾りつけなどもすべて自分たちで行っている。 「ミュージアムに来てくれたお客さまに『あの展示がすごく面白かった!』『初めてこの商品を食べたけど、おいしかった!』などの声をいただくと、ますますやる気がわいてきます。岩下食品の魅力は、大きな会社ではないので、いろんな仕事に携われるところ。自発的に動くことで、さまざまなことに挑戦できます」 どんどん広がっていく、街の人たちとのつながり 毎朝、自転車で会社に向かう早川さん。通勤時間はわずか10分ほど、渋滞や満員電車に悩まされることはない。一方、住まいから栃木市の中心部へは、歩いて10分ほど。休日には散歩がてら、雑貨店や飲食店などに出かけることも多いという。 「栃木市には、おいしい飲食店が多くて、先輩たちとよく通っている市内のリゾット屋さんがミュージアムの料理を監修してくれたり、ファンだった洋菓子店が新生姜のマカロンを提供してくれたり、暮らしと仕事がつながっているところが楽しいですね。仲良くなったお店の方と一緒に、イベントやライブに出かけることもあるんです」 また、ここ数年で栃木市の街中には、シェアスペース「ぽたり」や古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」など、若い人たちが営むお店が次々と誕生している。早川さんも、ぽたりで開催されているライブやワークショップ、飲み会などに参加。ぽたりをきっかけに知り合った大工さんが開催する、木工教室のサポートも行っている。 「ここ1、2年で、地元の友達が本当にたくさん増えました。今、栃木市では、同世代の若い人たちが地域を盛り上げようとさまざまな活動をしていて、街に活気があふれています。私も、さらにつながりを広げていきたい。そして、ウェブなどの得意分野をいかして、地域の活動にも積極的に関わっていきたいです」 早川さんにとってこの栃木の街は、仕事に打ち込む場所であり、普段の暮らしを楽しむ場所。さらに今では、新たな出会いが広がっていく大好きな場所に。

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

芸術を核に、人の力が集う“渦”を

小坂憲正さん・朋子さん

目ざすのは、土地に根ざした家 「シルバーパインを切り出してくれる山主が見つかったぞ!」 フィンランドからの電話の主は、材木の輸入を手がける知人だった。シルバーパインとは、厳しい自然のなかで立ち枯れたまま、数百年の年月を重ねた木。収縮がほとんどなく、ログビルダーの間では「幻の木」と呼ばれている。 「いつかシルバーパインで家を建てたい」と周囲に話していた小坂憲正さんは、先立つものはなかったが購入を決意した。その後、融資してくれる銀行を見つけ、美しい自然に魅了された霧降高原の土地を購入。3年の歳月をかけて、2004年に「幾何楽堂」を完成させた。 樹齢400年から600年のシルバーパインを重ねたログハウスの構造と、昔ながらの日本建築のよさを融合することで、約40畳のメインルームが実現できた。その大きな窓からは、霧降の美しい森が一望できる。憲正さんが家づくりで何よりも大切にしているのは、周囲の空間を生かした建物をつくること。それを象徴するのが、幾何楽堂の大きな玄関扉の横に掲げられた“渦”のマークだ。 「宇宙がそうであるように、渦と空間は物を生み出す原点であり、同じように家の周りの周辺から生まれてくるイメージが自分の中にはあるんだ。住む人が大切に選んだ土地の力をもらいながら、空間にとけこみ、地に根をはったような家をつくっていきたい」 つくることが自信になり、前に進んでいける 北海道で生まれ育った憲正さんは、神奈川の大学で建築を学んだあと、手に職をつけたいと鳶の道へ。厚木や横須賀で働き30歳を迎え、これからの人生について考えたとき、もともと興味のあったログハウスへの思いがよみがえってきた。日光の小来川(おころがわ)に、ログハウスの神様といわれるB・アラン・マッキーさんがいることを知り、彼のもとを訪ねログビルディングを学んだ。 「木という自然の恵みを、頂いて家をつくる。自分でつくり上げることは、生きていく上で大きな自信に繋がる。細かいことは気にせず、まずはつくることが大切だというマッキーさんの考えにすごくひかれました。マッキーさんは『斧で家をつくるのが一番好きだ』と聞いて、自分も最初に建てる家は斧でつくろうと思ったんだ」 神奈川に戻り、斧と手道具のみでログハウスを建てたのは1998年のこと。自らの手で家をつくるうちに、どんどん木の仕事に魅了されていった。日光に移住したのは、何のしがらみのない土地で、ゼロからスタートを切りたいと思ったからだ。 「“日の光”って書く、地名にもひかれてね。それ以外、本当に特別な理由はないんだ」 扉も建物も、体にいい自然素材で 日光に移り住んでから、便利屋、石屋を経て、ログハウスや日本の在来建築を手がける地元の工務店へ。そこで7年間働きながら、木の家づくりを学んだ。 「夜、仕事が終わってからも、余った材料を使わせてもらって、犬小屋や棚などをひたすらつくっていました。木と木を抜けないように組むにはどうしたらいいかなど悩みに悩んで、自分の頭で考えたからこそ、基本が身についたと思うんだ」 そんなとき、霧降高原の観光施設から扉づくりを頼まれる。 「初めて木を使って扉をつくらせてもらったとき、扉によって建物の印象が大きく変わることを実感しました。当時はもう、集成材やビニールクロスでつくる家が主流になっていたけど、木の扉をつくったことで、その先の空間も木や漆喰などの自然素材でつくりたいという思いが大きくなっていったんだ」 住む人が、参加できる家づくりを 現在、ログハウスの聖地として知られるようになった小来川。この地で育った杉を使い、ログハウスと在来工法を組み合わせることで開放的な空間を実現したそば屋「山帰来」をはじめ、憲正さんは数多くの住まいや店舗を手がけてきた。 南三陸町歌津地区の集会場に携わったのは、震災後、継続的にボランティアに訪れたことで、地元の人たちとの深い縁が生まれたことがきっかけだった。 「あの震災で、自然の力の大きさを痛感してね。地元の人たちと話し合って、今だからこそ“原点”に立ち返ろうと、竪穴式住居を建てることにしたんだ」 大切にしたのは、自分たちの手でつくること。地元の人や日光の仲間たち、ボランティアに訪れた人たちとともに丸太の皮をむくところからはじまり、手堀りで直径9m、深さ1mの大きな穴を掘った。憲正さん以外は皆、素人であったが、はじめて持つノミやのこぎりを手にして木を組み上げていった。こうして、限りなく円に近い24角形の竪穴式住居が完成した。 「大地にかえる素材を用い、自分たちの力で建てた自然に調和するこの建物は、原点でありながら、これから進むべき建物の形でもあると思うんだ。じつは、竪穴式住居はエアコンがなくても、夏涼しくて冬暖かい。これからも体にいい素材を使って環境に寄り添う建物を、そこに住む人たちと一緒につくっていきたいね」 厳しくも豊かな自然が、たくさんのヒントをくれる 霧降高原に暮らして13年。この地の魅力は、自然の厳しさだと憲正さんはいう。 「険しい山道をのぼるからこそ、頂上にたどり着いたとき大きな感動があるように、厳しい自然のなかに暮らすからこそ、本当の喜びが見えてくる。標高差の大きい、厳しくも豊かな霧降の自然は、たくさんのヒントを与えてくれる。ここに身を置くことで、一歩先に進んだものづくりができるのではないかって思っているんだ」 2015年6月、憲正さんと朋子さんは仲間の作り手たちとともに「キリフリ谷の藝術祭」を開催した。今後は幾何楽堂の前に広がる谷に自らの手で舞台をつくり、劇団四季などの出身俳優が活躍する「心魂プロジェクト」とともに、芸術祭で演劇を開催するのが二人の夢だ。 憲正さん:「障がいを持った子どもたちや両親に、ひとすじの喜びを届ける心魂プロジェクトの舞台を観たとき胸が熱くなって、この人たちと一緒に何かをつくりたいと思ったんだ。誰かと一緒に笑ったり泣いたり、感動を共有できる舞台を核に、いろんな人の力が集う“渦”をここから巻き起こしていきたい」 朋子さん:「仲間と一つのことに一生懸命に立ち向かうとき、自分が想像もしなかった力が生まれてきます。そのとき感動は、生きる力になる。そう被災地で実感しました。多くの人と一緒に芸術祭をつくり上げていくことで、感動が生み出す力の輪を、霧降の谷から広げていけたら嬉しいですね」

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

辻井 まゆ子さん

鹿沼の魅力的な人たちにひかれ、4日で移住を決意 「時間があるなら、ぜひ鹿沼へ行ってみたら!」 そうすすめてくれたのは、日光にあるゲストハウス「巣み家」のオーナー夫妻だった。旅行で日光を訪れていた辻井さんは、その言葉をきっかけに鹿沼へ立ち寄ることに。ちょうどその日は、ネコヤド商店街というマルシェの開催日。鹿沼にお店を構える若いオーナーや作り手たちが出店し、街は多くのお客さんで賑わっていた。 「じつは、初めて足を運ぶまで、鹿沼のことはまったく知りませんでした。鹿沼は観光地などではない、いわば普通の街。けれど、魅力的な人がたくさんいることに驚いたんです」 魅力的な人とは、マルシェに出店していた若い人たちだけではない。この日、辻井さんは、鹿沼で16年続く「CAFE 饗茶庵」のオーナー・風間教司さんと知り合い、街を案内してもらった。すると「どこから来たんだい?」と、街の人たちが気さくに声をかけてくれた。 「この街で商売を続けている方や、地元の祭りに登場する彫刻屋台(山車)を手がける職人さんなど、長年鹿沼に住んでいる人のなかにも魅力的な人がたくさんいて。風間さんをはじめ若い人たちと一緒に、街を盛り上げようとしている様子が伝わってきました。そんな温かい人のつながりや、何か楽しいことが起こりそうな街の雰囲気に強くひかれたんです」 その後、京都に戻った辻井さんは、仕事で奈良に来ていた風間さんと再会。「鹿沼に移り住みたい」という決意を伝えた。なんと、初めて鹿沼を訪れてから4日後のことだった。 誰かが一歩を踏み出す、きっかけになる場所を 神戸の大学を卒業後、辻井さんは2年ほど京都・大阪にあるカフェやパン屋で働いてきた。けれど、「将来こうなりたい」という明確な目標はなかったという。それが、鹿沼を訪れたことで「ゲストハウスを開く」という目標が見えてきた。 「初めて鹿沼を訪れた日、楽しかったこともあり、あっという間に夕方に。鹿沼に泊まろうとしたのですが、宿泊施設がほとんどなくて、そのとき『ゲストハウスがあったらいいのに』『ゲストハウスを開いて、自分がひかれた鹿沼の人たちのことを多くの人に紹介したい』と思ったんです」 また、日光の『巣み家』に宿泊したことも、大きなきっかけとなった。 「私は、『巣み家』のオーナー夫妻に鹿沼のことを教えてもらったから、ここへ来ることができた。そんな、誰かが一歩を踏み出すきっかけになるような、ゲストハウスをつくりたいなって思ったんです」 オープン前から広がった、つながりの輪 2013年5月から2カ月間、「巣み家」で修業をした辻井さんは、鹿沼市観光物産協会の臨時職員を経て、風間さんのもとで働き始めた。その間も1年にわたり物件を探し続け、ようやく旅館だったこの物件と出会った。 「大家さんは、江戸時代から続いていた旅館をやむなく閉めた経験から、『ここで宿をやるのは、なかなか難しいよ』と首を縦にふってくれませんでした。それでも諦めきれずに何度もお願いにいくと、『そこまで決意が固いなら』と大家さんが了承してくれて、1年越しで貸していただけることになったんです」 2015年3月、作業が始まった建物には、多くの人たちの賑やかな声があふれていた。この日、現地では鹿沼に事務所を構える一級建築士の渡辺貴明さんに協力してもらいながら、平面図をつくるワークショップが開催された。 辻井さんは準備段階から多くの人に参加してもらおうと、風間さんとともに「日光例幣使街道・鹿沼宿旅館再生プロジェクト」を立ち上げ、掃除や壁紙はがし、ペンキ塗りなど、さまざまなワークショップを開催。街の人たちや鹿沼を出て首都圏で働いている人など、たくさんの人たちが協力してくれた。 「いつもお世話になっている鹿沼のおじちゃんやおばちゃんが差し入れを持ってきてくれたり、『巣み家』をはじめ、県内や秩父のゲストハウスの方が応援に来てくれたり、人の輪がどんどん広がっていくのが本当に嬉しかった。消防法の申請などの高いハードルも、なんとしても乗り越えなければと思ったんです」 目標は、鹿沼のファンを増やすこと 開店準備が佳境に差しかかったころ、ゲストハウスの名を「CICACU(シカク)」と決めた。“CI”は“Civic”で鹿沼の人たちを、“CA”は“Cabin”でゲストハウスに泊まる旅行者を、“CU”は“Culture”(文化)や“Curation”(共有・編集)を意味している。 「私はCICACUを、単なる宿泊施設ではなく、地元の人や旅行者が集まれる場所にしていきたい。いろいろ人たちが集い交流するなかで、鹿沼の伝統や文化が受け継がれつつ、新たな文化が生まれ発信されていくような場所に」 そこで、CICACUの2階にある大広間をレンタルペースとして開放。オープン前から、すでにヨガ教室や料理教室、音楽ライブなどが開催されている。 「これからも珈琲ドリップ教室や映画上映会など、さまざまなコンテンツを増やしていく予定です。ときには鹿沼の人が先生になったり、旅行者が主催者になったり、学びやイベントを通じて多くの人が集い、つながる拠点にできたらと思っています」 さらに、鹿沼で自転車の卸を手がける大倉ホンダ販売に協力してもらい、CICACUのオープンに合わせて「レンタサイクル」も始める予定だ。 「ぜひ自転車に乗って、鹿沼の郊外へも出かけてほしい。郊外には豊かな自然や田園風景が広がり、農業を頑張っている若い方や田舎暮らしを楽しんでいる移住者がいます。一方で、鹿沼の街中にも魅力的な方がたくさんいる。CICACUに2泊、3泊しながら、ゆっくり両方の魅力に触れてもらえたらと考えています」 さらに、辻井さんは続ける。 「鹿沼のいちばんの魅力は、街の人たちの温かさ。新しい何かを始めようとする人を、たくさんの人が応援してくれます。CICACUに宿泊したり、教室に参加したり、街の人とふれ合ったりするなかで、鹿沼に移り住んでみたい、ここで新しいお店や仕事を始めたいという人が増えていったら、何よりも嬉しい!」 春の足音が近づくころ、鹿沼の街にCICACUはオープンする。鹿沼に旅へ出かけたときはもちろん、カフェを訪れたとき、「ネコヤド商店街」に遊びにきたときなどに、ぜひ気軽に立ち寄ってみてほしい。新たな出会いや発見に満ちた、その場所に。

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