interview

40代

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ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

伊澤 敦彦さん

素材の持ち味を、最大限にいかしたジェラートを 「正直にいうと、ぼくはこの吉田村が大嫌いだったんです」 どこまでも続くのどかな田園風景や、夜空に広がる満点の星は美しく、子どものころから好きだった。けれど、最寄り駅まで自転車で30分以上かかる不便さや、近くに飲食店や商業施設などが何もない環境にたえられず、伊澤さんは高校を出てすぐに東京のデザイン学校へ。卒業後も都内でデザイナー・アートディレクターとして8年間、グラフィックやWebの制作に携わってきた。 そんな伊澤さんが地元に戻る決意をしたのは、いちご農園を営む父親が、近くにオープンする道の駅でジェラート店を開こうとしたことがきっかけだった。 「父の計画では、どこの田舎にでもあるようなお店になってしまいそうで。いちご農園がジェラート店をやるのであれば、『どこよりもおいしい、いちごのジェラート』を出さなければ意味がない。そのためには、自分がやるしかないと思ったんです」 それから伊澤さんは、都内の名だたるジェラート専門店を訪ねて回った。そのなかで、東京・阿佐ヶ谷にあるジェラートの有名店「Gelateria SINCERITA(ジェラテリアシンチェリータ)」の門をたたく。 「素材のよさを最大限に生かすという考え方に強くひかれました。ジェラートは、材料の配合バランスが命。素材のおいしさを引き出すためには、糖分や乳脂肪などの質や量を綿密に計算し、その素材に合った最適な配合にすることが大切です。『Gelateria SINCERITA』でジェラートづくりの本質を学べたことは、本当に幸せでした」 2011年3月「道の駅しもつけ」の開業とともに、ジェラート専門店「GELATERIA 伊澤いちご園」はオープン。ショーケースをいろどるのは、常時15種類から20種類ほど用意されるジェラートだ。その素材は、県内外問わずいいものを厳選して使用。たとえば、ブドウは栃木市大平町のブドウ園から、りんごは長野のりんご園からと、伊澤さんは生産者に直接会って仕入れることを大切にしている。 「いい素材には、それぞれの生産者の思いが詰まっています。ぼくはその思いを大切に受け継ぎながら、おいしさや素材感を高めたジェラートとして提供していきたい。ブドウよりもブドウらしい、りんごよりもりんごらしいジェラートをつくり、生産者をヒーローにすることが、いちごの生産者でもある自分の責任だと思うんです」 現在、伊澤さんは父親とともに、いちごの栽培にも携わっている。「伊澤いちご園」のいちごは、ハウスで完熟の一番おいしい状態に育てたうえで、出荷されるのが特徴。そのためには、徹底した温度管理とスケジュール管理が欠かせない。伊澤さんは、これまで父親の経験に頼ってきたその技術をすべて数値化。栽培の要点を、いち早くつかもうと努めている。一方、父親も、適度な酸味があり加工品に適した「女峰」という品種を新たに栽培するなど、伊澤さんの取り組みを応援している。 地元を快適な居場所に、自分たちの手で 2014年5月、伊澤さんは旧吉田村にイタリアンカフェ・バール「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」をオープンした。そのきっかけは、高校の後輩であり、ジェラート店を手伝っていた伊藤美琴さんや父親と、飲みながら「伊澤いちご園」の将来について語り合ったことだった。 「ジェラートは、どうしても冬場に売上が下がってしまう。だから、ジェラート店にカフェを併設したい」と漠然と考えていた伊澤さんに対し、都内のフレンチやイタリアンなどのレストランで経験を積んできた伊藤さんは「イタリアの農村にあるような、地域に根ざしたレストランができたら素敵だよね」と語った。すると「使われていない、あの農協の建物がいいのでは!」と父親。翌日、みんなでその建物を見にいくことに。 「築50年ほど経った無骨な鉄骨の事務所や、大谷石でつくられた石蔵を見たとき、お店のイメージが一気に膨らんできました。『吉田村に飲食店がないなら、自分たちでやるしかない』と考えていたこともあり、イタリアンカフェ・バールを開く決意をしたんです」 大谷石の石蔵を、たくさんの人が集う場所に 2015年10月4日、「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」の前の敷地には、栃木や茨城にあるカフェの有名店をはじめ、古道具店や花屋、農家などが集まった。「吉田村まつり」の会場は、各ブースから漂うおいしそうな香りや、アイリッシュバンドが奏でるメロディ、そして多くの笑顔で満たされていた。 地元の旧吉田村にイタリアンカフェをオープンし、マルシェも成功させた伊澤さんに「この街が、だんだん好きになってきたのでは?」とたずねると、返ってきたのは「まだまだですね」という言葉だった。 「まだ、このイタリアンカフェが一軒、オープンしたにすぎません。これからは、カフェの向かいに建つ大きな石蔵を改装し、パン屋や花屋など、いろんなお店が出店できる場所にするのが目標です。ぼくはこの吉田村を、住む人が誇れる街にしていきたい。わざわざ友だちを呼びたくなるような、子どもたちがずっと住み続けたくなるような、何よりもここに暮らす自分たちが快適に過ごせる街に」 何もないからこそ、可能性はあふれている 中学や高校のころ「何もない」と感じていた地元には、じつはたくさんの魅力や可能性があることを、いま伊澤さんは実感している。 「豊かな田畑、おいしい野菜、あたたかな人々。何もないからこそ残る、のどかな田舎の風景は、首都圏の人たちの目にきっと新鮮に映るはずです。栃木県内には、吉田村のような地域が数多くある。UIターンした人たちが新たな視点で地域の魅力を掘り起し、培ってきた能力をいかして、これまでにない仕事を生み出せる可能性はあふれています」 伊澤さんが「吉田村まつり」を始めたのは、豊かな田舎の風景が残るこの地域の魅力を、県内外にアピールするのも狙いの一つだという。 「ぼく一人でできることは限られている。だから、活気あふれる吉田村の“青写真”を鮮明に描くこと、常にそれを発信し、多くの人を巻き込むことが大切。それこそが自分の役割だと思うんです。“青写真”には、たくさんの人に色をつけてほしい。いろんな個性が集まったほうが、きっと魅力的な地域が実現できるから」 いま旧吉田村では、伊澤さんの思いに共感した設計士やデザイナーが参加し、石蔵を人が集う場に再生する「吉田村プロジェクト」が動き始めている。東京から地元に戻って5年。伊澤さんの思い描く“青写真”が現実になる日は、きっともうすぐそこだ。

誰もが地域を面白くすることができる

誰もが地域を面白くすることができる

田中 潔さん

400年にわたり受け継がれた、米づくりを守るために 田中さんが写真に興味を持ったのは、姉の結婚式を撮影したことがきっかけだった。そのとき撮った一枚の写真を、姉夫婦をはじめ多くの人がほめてくれた。大学受験に失敗し将来について悩んでいた田中さんにとって、周囲の言葉はひとすじの希望の光となった。 「その写真は、本当にたまたま撮れた一枚でした。けれど、一瞬で勝負が決まる写真の魅力に、強くひかれたのを鮮明に覚えています。当時は農業を継ぐのが本当にイヤで、カメラマンになろうと家出同然で実家を飛び出したんです」 20歳で上京した田中さんは、写真スタジオに勤めたあと、アシスタントとして経験を積み独立。十数年間、カメラマンとして第一線でキャリアを重ねてきた。「実家に戻るつもりは、まったくなかった」という田中さんだが、いつも実家から送ってもらい食べていたお米が、じつは他人がつくっているものだと知ったとき、その心境に大きな変化が。 「父は、年齢を重ねるうちに手が回らなくなり、米づくりを業者に委託していたんです。そのことを聞いたとき、400年続く米農家が他人のつくったお米を食べていることに危機感を感じました。自分が米づくりを守らなければと、実家に戻る決意をしたんです」 こうして2010年に地元に戻った田中さんは、栃木県内の農家のもとで有機栽培の基礎を学んだ。同時に、父親からも新波の土地に合った栽培方法など、多くのことを教わったという。 「昔、新波地区では洪水が多く、一面が水につかったこともあったそうです。それでも先祖がこの地を離れなかったのは、土地が豊かだったからにほかなりません。田中家には代々受け継がれてきた栽培の知恵や、粛々と続けられてきた自然を敬う風習などが息づいている。ぼくはこうした“土地の魅力”をもう一度掘り起し、大切に受け継いでいきたい。それこそが、自分の役割だと思うんです」 農業を魅力的かつ、稼げる仕事にしていきたい! 川が運んだ肥沃な土地に恵まれ、古くから「おいしい」と評判だった新波のお米。田中さんはこの地で、春には地元から出る“米ぬか”と“酒粕”でつくった有機質肥料を、秋には“米ぬか”や“もみ殻”を田んぼにまき、農薬や化学肥料を一切使うことなくコシヒカリを栽培している。また、肥料のもちをよくするために栃木県特産の“大谷石”の粉末を入れるなど、「土地ならではの味」を引き出すことを追及。こうして大切に育てたお米を、「NIPPA米(ニッパマイ)」という新たなブランドとして販売している。 「ぼくにとって、米づくりも写真の仕事も同じ“ものづくり”。その姿勢が変わることはありません。大切なのは『自分がいいと思うもの、おいしいと思えるお米をつくること』。写真表現で培った感性を生かしながら、自分だからこそできる新たな米づくりを、この新波から発信していきたいと考えています」 「NIPPA米」のファンは県内だけでなく首都圏にも多く、田中さんは直接「NIPPA米」を発送している。栃木市や宇都宮市にあるカフェや雑貨店、古道具店などでも「NIPPA米」を販売。益子の陶器市などのイベントにも積極的に出店し、「NIPPA米」でつくったおにぎりなどをお客さんに届けている。 また、毎年、田植えと稲刈りの時期に開催している体験イベントには、県内外から多くの家族が参加。「自分で植えたもの、かかわったものを食べるのは本当に豊かなこと。暮らしや食生活を見つめ直す、きっかけにしてもらえたら」と田中さんは願う。 「お客さんから直接『おいしかった』、『子どもがNIPPA米ばかり食べています』などの声をいただいたとき、この道に進んで本当によかったと実感します。ぼくは、農業を魅力的で稼げる仕事にしていきたい。カフェや雑貨店でお米を販売したり、イベントに積極的に参加したりと新たなチャレンジを続け、自分自身がその先駆けになることで、新波で農業をやってみたい、住んでみたいという人が増えていったら最高ですね!」 地域を面白くできる可能性が、誰にでも 現在、田中さんは、栃木市の中心部にある古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」の店主や、シェアスペース「ぽたり」のオーナーなど、同世代、若い世代の人たちと一緒に「ニュートチギ」という団体を設立。合併により広くなった栃木市全域で、つくる人・商う人・使う人のつながりを育みながら、新たな価値観で地域を見つめ直し、暮らしの楽しみや魅力を発信していきたいと考えている。 「地元に戻って感じたのは、つくり手やショップオーナーなど、身近なところにたくさん魅力的な人がいるということ。栃木市内ではまさに今、つくる人や商う人の連携が生まれ、新たなチャレンジが始まったばかりです。だからこそ、やる気と思いさえあれば、誰もが地域を面白くすることができる。そんな可能性にあふれているところが、このエリアの大きな魅力ですね」 昨年、田中さんは初めて酒米の栽培に挑戦。地域の酒蔵とコラボして「新波」という酒をつくり、地元の神社に奉納することを目ざしている。また、自分の田んぼの土とワラを焼いた釉薬を使い「めし椀」をつくるなど、今後は県内の作家と連携しながら「お米にまつわるさまざまなもの」をつくっていきたいという。 新波の地で田中さんが起こす新たな波は、きっとこれからも多くの人を巻き込み、さらに大きく広がっていくに違いない。

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

那須の街を“自分の居場所”だと思ってほしい

宮本 吾一さん

魅力的な人が集う、那須という街にひかれて 「Chusという店名は、那須五山のひとつ“茶臼岳”から名づけました。ふだん那須の山々を眺めながら暮らす人たちが気軽に集まり、人と人がつながって、みんなで街をおもしろくしていけるような、そんな場所にしていきたいと思って」 そう話すのは、Chus代表の宮本吾一さん。 Chusは、まさに「マルシェ(直売所)」と「ダイニング」が一体となった場所。約200坪の広々とした店内の手前には、那須の農家の人たちが育てたおいしい食材とともに、宮本さんが生産者に会って直接仕入れた全国各地の食材も並べられている。その理由は、ここで一度にいろいろな食材を購入できたほうが、那須の食材を食べてもらえる機会が増えると考えたから。食材と食材の出会いも楽しんでほしいという。一方、店内の奥はカフェスペース。Chusに並ぶ食材を使った料理が楽しめる。 東京で生まれ育った宮本さんは、20歳のときワーキング・ホリデーでオーストラリアへ。1年間、自然が身近な環境で暮らしたことをきっかけに、帰国後も田舎で暮らしたいと考えるようになった。そのとき、たまたま見つけたのが那須のリゾートバイト。それから3年間、観光シーズンは那須で働き、残りの期間は海外や国内を旅してまわった。 「はじめは、那須に住み続けようとは思っていませんでした。けれど、ここで過ごすうちに、いろいろな人と出会い、那須にはおもしろい人がたくさんいることを知ったんです。例えば、黒磯のSHOZO COFFEEや、森の中にある納屋を改装したバーなど、センスあふれるお店を営む魅力的な人が多くて。こんな生き方ができるんだ、自分もまだ誰も手がけたことがないお店を、那須で始めてみたいと思ったんです」 地元の農家とつながるために、マルシェを まずはリヤカーを改造した屋台で、コーヒー屋台を始めた宮本さん。その2年後に、オープンしたのが「Hamburger Cafe UNICO」だ。 「お店の場所からは、那須の美しい山々が一望できて、目線を上げて景色を眺めながら食べてもらえるものをと考え抜き、ハンバーガーにいきつきました。当時、ハンバーガーはファストフードの代名詞。だからこそ、あえてスローフードと手づくりを大切にした、那須の食材をまるごと味わえるようなハンバーガーを提供しようと思ったんです」 けれど、地元の食材だけで、つくり続けるのは難しかった。 「冬場には、どうしても地元の野菜が少なくなってしまう。那須でカフェやレストランを営む仲間に聞いてみたら、みんな同じ悩みを抱えていました。なんとか、農家の方にお願いして野菜をつくってもえないか。そのためには、何よりも農家と“つながること”が大切だと思ったんです」 “つながる”ための手段として、宮本さんは「マルシェ」を開くことを決意。那須の農家に5軒、10軒と電話をかけ続けるうちに、1軒の農家が協力してくれることに。その方に会いにいくと、マルシェの趣旨に共感し、いろいろな生産者を紹介してくれた。こうして10台の軽トラが並ぶマルシェを、2010年に初めて開催することができた。 「来場者は数百人ほどでしたが、お客さんも農家の方もとても喜んでくれて、笑顔で会話をするシーンが会場のいたるところで見らました。直接、顔と顔を合わせてつながることの大切さを、改めて実感したんです」 「マルシェを毎日開催してほしい」。その声がChusのはじまり それからもマルシェの開催を続けていくと、那須で設計事務所や不動産屋、牧場、味噌屋、カフェを営む人など、協力してくれる人が増えていった。そして7人のメンバーが集まり、2012年にマルシェは「那・須・朝・市」にバージョンアップ。現在は春と秋の2回開催され、毎回5000人が訪れるイベントに。お客さんからは「毎日開催してほしい」という声が多く寄せられるようになった。 「とてもありがたいことですが、メンバー全員が他に仕事をしながらボランティアで参加していて、毎週集まって準備を重ねても、半年に1回開催するのがやっとなんです。でも、諦めたくなかった。毎日開催すれば、人と人のつながりがどんどん広がり、街が面白くなっていく。どうしたら実現できるか?お店にするしかないと思ったんです」 ちょうどタイミングよく、もと家具屋だったこの物件が見つかった。こうして「那・須・朝・市」の7人のメンバーが共同運営するChusが、2015年1月にオープンした。 誰もが参加できる「公民館」のような場所に Chusは、一言で表現するなら、マルシェをそのままお店にしたような場所だ。 「マルシェの魅力はいろいろなお店が集まり、人と人、人とモノがつながる機会があふれているところ。同じようにChusも、多くの人が参加できる場所にしていきたい。一応、僕が代表ですが、Chusは僕のものでも、7人のメンバーのものでもありません。那須連山のふもとに暮らす人はもちろん、県外の人も、誰もが参加することができる。そんなマルシェの会場のような、公民館のような場所をつくることを、僕たちは目指しています」 例えば、毎週木曜日は、イベントを開催したい人のためにお店を開放。イタリアンや中華のディナー会、音楽ライブ、映画上映会など、オープンから1年足らずで50件以上イベントが開催されている。 「これまでにマルシェを開催し、Chusをオープンしてきましたが、行政からの補助金などは一切もらっていません。ただ自分たちが面白いから続けているだけなんです。楽しんでやっているからこそ、人の輪が広がっていく。それは結局、自分にとってもプラスになると思うんです。それに、マルシェやChusによって街が面白くなっていけば、自分のライフスタイルも充実していきます。 多くの人にChusに参加してもらうことで、Chusや那須の街を“自分の居場所”だと思ってくれる人を増やしていきたい。そして、一人でも多くの人が、自分の居場所を良くしようと一歩を踏み出してくれたら嬉しい」 2011年に震災が起こったとき、宮本さんは自宅の建設を計画中だった。観光客は激減し、お店を続けられないのではと不安になることもあったが、宮本さんは計画を変更せず、那須に自宅を建てることを決意。現在、家族3人で暮らしている。 ここが自分の居場所だと決めた宮本さんは、これからもChusから、街を面白くする様々な試みを発信してくれるに違いない。

人と人、技術と技術をつないでいきたい

人と人、技術と技術をつないでいきたい

中村 実穂さん・俊也さん

人や技術をつなぐ。新たな関係から生まれるものを 見る角度や動きによって表情を変える木枠や、まるで星座のようにつながる糸とスチール、円を描きながらやわらかに連なる真鍮など、さまざまな形や素材、技術を組み合わせて、美しいモビールをつくり上げるのは、栃木県足利市にある「mother tool」。さらにステーショナリーや暮らしの道具など、全国各地の工場やデザイナーたちと連携しながら、数多くのオリジナルプロダクトを手がけている。 代表の中村実穂さんは、足利市の隣町、群馬県邑楽町(おうらまち)の出身。都内の短大を卒業し、インテリア・家具デザインの専門学校に進んだあと、両親が営んでいた組み立て工場を継ぐために地元へ戻ってきた。 実穂さん:「じつは親戚中に説得されて、しぶしぶ工場を継ぐ決心をしたんです。当時、主に手がけていたのはパチンコ台を組み立てる仕事。深夜までかかって何千台と組み立てる日もあれば、ぽっかりと数日空くこともある。納期が厳しく仕事に波があるうえ、依頼先からは『代わりの工場はいくらでもある』といわれることもあったりして、この仕事を続けていく意味が、なかなか見いだせなかったんです」 そんな状況のなか、実穂さんと俊也さんの心の中では「自らの手でものづくりをしたい」という思いが膨らんでいった。実穂さんはとにかく一歩を踏み出そうと、専門学校時代の先生である家具デザイナーの村澤一晃さんのもとへ相談に。そのとき村澤さんがかけた「組み立ては、パーツとパーツをつなぐのが仕事。その“つなぐこと”を意識してものづくりに取り組んでいったらいいのでは」という言葉によって、これからやるべきことが見えてきたという。それから実穂さんは、足利をはじめ、岐阜や徳島、福井、東京などの工場を見学したり、気になるデザイナーに会いに行ったり、全国各地を巡った。 実穂さん:「いろいろな方にお会いするなかで、それぞれの工場、デザイナーさんが得意とする分野や技術が分かってきました。その良さをより引き出す形で、人と人、技術と技術をつないでいきたい。それこそが、組み立て屋である私たちの役目だと思ったんです」 モビールは“組み立て屋”の腕の見せどころ 2006年2月にmother toolを設立し、最初に手がけたのが「木とアルミ」のシリーズだ。足利では戦前の飛行機から現在の自動車部品まで、アルミなどの金属加工が盛ん。その技術を代表するのが、ロクロのように回転する板状のアルミに、ヘラを押し当てながら形をつくる“ヘラ絞り”という職人技だ。 実穂さん:「熟練の職人さんが手仕事で生み出すパーツの誤差はほんのわずか。丁寧につくられた強固なアルミに、木目や色味など樹種のよさを引き出すことに長けた徳島の『テーブル工房 kiki』さんの木のパーツを組み合わせることで、やさしさもあわせ持ったステーショナリーをつくることができました」 その後、2011年にモビールづくりを始めたのは、村澤さんの「モビールをつくってみない?」という、何気ない一言がきっかけだった。モビールが大好きだったという実穂さんは「ぜひつくってみたい!」と、モビールをはじめプロダクトデザインを手がけるユニット「DRILL DESGIN」に相談。すると、「せっかくならオリジナルのモビールブランドを立ち上げよう」とDRILL DESGINが快くディレクションを担当してくれた。こうしてモビールブランド「tempo」が誕生。5人のデザイナーによる9種類のモビールに、いまではmother toolのオリジナルをくわえ10種類を展開。海外でも取り扱われるほど注目を集めている。 工場では俊也さんが、デザイナーが手がけた図面や模型をもとに試作を行い、どのスタッフが組み立てても均一なモビールになるよう、工程ごとのマニュアルや、パーツ・工具の作業位置を示す器具づくりなどを行っている。 「モビールは、各パーツをテグスなどでつないで組み立てていきます。そのとき、パーツとパーツの距離や角度が少しずれるだけで、せっかく職人さんがいいパーツをつくってくれても、表情や雰囲気が台無しになってしまう。モビールづくりは、まさに“組み立て屋”の腕の見せどころなんです」 さらに、実穂さんが続ける。 実穂さん:「モビールには金属や木、樹脂、ガラスなどさまざまな素材が使われます。そのため、いつか一緒にものづくりができたらと思っていた多くの工場と、新たに仕事ができるようになりました。モビールの展開を始めたことで、よりmother toolらしいものづくりができるようになったと感じています」 足利の地で育まれた技術や人を活かして 足利学校のほど近く、石畳の通りに面した建物に、2009年mother toolのお店がオープンした。「ものをつくるだけではなく、使う人に直接届けたい」「つくり手の思いや背景を伝えることで、つくる人と使う人をつなぐ役割も果たしていきたい」との思いから、店内にはmother toolの道具だけではなく、つながりのあるデザイナーや工場のプロダクトも数多く並べられている。さらに2014年には、工場も足利市内に移転。その理由は、足利にはさまざまな技術を持った工場が集まっているからだという。 俊也さん:「足利では金属加工だけでなく、古くから繊維業も盛ん。フットワークの軽い小規模な工場が多く、ありがたいことに、私たちと一緒に楽しみながらものづくりに取り組んでくださる工場も増えています。何か相談ごとがあれば、すぐに会いに行ける距離。雑談のなかから新たなアイデアが生まれることもあるんです」 実穂さん:「歴史ある建物が点在している足利の石畳エリアは、散歩をしていてとても気持ちがいい。のびやかな雰囲気が気に入っています。屋台をはじめ、おいしいコーヒー屋さんや個性あふれる飲食店など、個人が営む小さなお店が多いのも魅力ですね」 そんな足利の魅力を多くの人に知ってもらいたいと、実穂さんは地域づくりの団体「いしだたみの会」のメンバーとして、石畳エリアの魅力を伝える冊子「TALIRU」の制作にも携わっている。 「今後は足利に息づく技術をさらに掘り起し、新たなプロダクトとしてその魅力を発信していきたい」と考える二人。 地域で育まれた技術や人の強みを活かし、ほかの産地の素材や技術と組み合わせることで、新しい価値をつくり出す。mother toolのプロダクトは、東京などの大都市でなくとも面白いものづくりができること、地域に根ざしているからこそ生み出せるものがあることを気づかせてくれる。

那須に新たなスペクタクルを

那須に新たなスペクタクルを

鈴木 和也さん

那須の美しい自然にいざなわれて 那須どうぶつ王国に隣接する牧場からは、緑豊かな森や田畑に抱かれた那須の街並みを見渡すことができる。振り返れば、那須岳の雄大な山並み。今から28年前、この美しい自然に魅せられた一人の男性がいた。 「那須高原を訪れたのは、ちょうど5月の終わりごろ。360度見渡すかぎりの新緑がまぶしくて。日本にこんなに美しい場所があったんだ! ここで仕事がしたい! と強く思ったんです」 その男性の名は、鈴木和也さん。当時、東京のホテルチェーンに入社したばかりだった鈴木さんは、リゾート開発プロジェクトの視察で役員の運転手として那須高原を訪れた。それからというもの「現地でプロジェクトに携わりたい!」と、何度も上司に直談判。2年を経て思いは受け入れられ、鈴木さんは那須町に移り住んだ。事業立ち上げのために最初に取りかかったのは、地元の人たちとの交渉だ。 「地元の人たちと飲みに行って、膝を突き合わせてお話する機会がたくさんありました。みなさん、とても温かくて。当時、独身だったぼくにゴハンを差し入れてくれるなど、本当によくしてくれました。那須には四季折々の美しい自然、おいしい食材、何よりも魅力的な人がたくさんいる。ぼくはそんな那須の魅力をいかした、地域に密着した施設をつくりたいと思ったんです。首都圏から訪れる人だけではなく、地元の人にも愛される動物園を」 那須の食材100%!地元のおいしさが詰まった「なすべん」 「那須どうぶつ王国」がオープンしてからも、鈴木さんは観光協会の理事を務めるなど、地域活性化の活動に積極的に取り組んできた。そんな活動のなかから誕生したのが、「なすべん」の愛称で親しまれる「那須の内弁当」だ。 「それまで『那須どうぶつ王国』で提供していた料理は、ありきたりなものばかりで。なんとかメニューを充実させたかったんです」 鈴木さんは、地元農家や酪農家、飲食店を営む人たちと協力し、2006年に「なすとらん倶楽部」を結成。那須の看板メニューを生み出すべく、話し合いを重ねた。また、地元野菜を料理に活かすために、JAにも直談判を行った。 「那須町は農業がとても盛んで、『白美人ねぎ』『美なす(ビーナス)』などのブランド野菜がたくさんあります。けれど当時は、それらの野菜はすべて首都圏に出荷されていて、地元では流通していませんでした。そこで、JAさんにお願いに行き、戻り際何度も足を運ぶうちに、気骨ある職員の方が協力してくれるようになって、ブランド野菜の入手が可能になりました。こうして2010年に『なすべん』が誕生したんです」 現在では、「那須どうぶつ王国」を含む9店舗が、これらの地元食材を活かしたオリジナルメニューを提供している。2015年には「なすべん」の地産地消の取り組みが評価され、「農水省食料産業局長表彰」を受賞した。 大切なのは、自分の言葉で発信すること その後も鈴木さんは、那須の広大な自然のなかで若手アーティストの作品を発表するアートイベント「スペクタクル・イン・ザ・ファーム」を開催するなど、那須の魅力を積極的に発信してきた。その「発信すること」の大切さを気づかせてくれたのは、うれしい偶然の出会いだったという。 「たまたま那須にあるホテルで早稲田大学の中村好男教授にお会いして、それがきっかけで早稲田大学のスポーツ科学学術院で、ぼくたちの那須での取り組みについてお話させていただくことになったんです。そのプレゼンの後の懇親会で、中村先生から『那須の魅力を活かす鈴木さんの取り組みは、『那須だけではなく、日本のためにもなることだと思いますよ』と言っていただいて」 その言葉をきっかけに、鈴木さんはこれからの自分の使命に気付いたという。 「地域を活性化していくためには、自分の住んでいる街を愛し、地域の魅力を徹底的に掘り下げることが重要。けれど、それだけでは十分とは言えない。大切なのは『自分の言葉で積極的に発信すること』『そして他地域と連携して輪を広げていくこと』だと、中村先生は気づかせてくれたんです」 地域への熱い思いが実現した、数々の奇跡 これまでの取り組みにより、来場者が順調に増えていたちょうどそのころ、東日本大震災が発生した。那須町への観光客は激減し、那須どうぶつ王国でも、スタッフを自宅待機させなければならない状況となった。 「それでも、きっと何かできることがあるはずだと考え抜き至った結論は、やはり『自分の言葉で発信すること』でした。そこで那須町観光協会の支援も頂き、震災後も那須で頑張る人々の情報を発信するラジオ番組をスタートしたんです。また、那須の有志で「那須元気プロジェクト」を立ち上げ、震災で那須町に避難されて来た皆様への情報提供等も行いました。さらに、那須に事業所を持つ企業が連携して協議会を立ち上げ、那須を盛り上げるさまざまな活動を、一緒になって行ってくれるようになったんです」 鈴木さんをはじめ有志が集まり、震災前から準備を進めてきたサイクルイベント「那須高原ロングライド」を初めて開催したのも2011年のことだ。 「震災後のイベント自粛ムードのなか、『誰も参加してくれないのでは』という声もありました。でも、こんなときだからこそやらなければいけないと、あえてリスク承知の上で開催すると、なんと800人以上もの人が参加。首都圏からも多くの人が来てくれました。みなさんからの『頑張ってください!』『応援していますよ!』という温かい言葉がうれしくて、うれしくて。涙があふれてきました」 このイベントから活動が広がり、翌年にはプロチームの「那須ブラーゼン」が誕生。2014年には、所属選手が全日本チャンピオンとなった。「那須ブラーゼン」は観光客や子ども向けのイベントも開催し、町を盛り上げている。また、ブラーゼンがモデルの地域密着のテレビドラマが全国放送されるなど全国にもその輪が広がっている。 これからも、新たなスペクタクルを ラジオ番組をはじめたころから、鈴木さんは「スペクタクル鈴木」というサブネームを使い始めた。アートイベントの名前にも使われた“スペクタクル”という言葉には、人と人との交流を通し、場に大きな化学変化が起きることで、そこに感動が生まれる、「まさに奇跡的な瞬間」という意味が込められている。 「自分の言葉で積極的に発信しはじめてから、活動に興味を持ってくれる人、応援してくれる人のつながりがどんどん広がり、奇跡のような出来事がたくさん起こりました。栃木県内には、地域の魅力をいかし自分たちで楽しみながら、スペクタクルを起こしている人がたくさんいます。そんな奇跡的な瞬間を目にした若い人たちが、さらに自分の街で新たな取り組みを始めようとしています。これからも、他地域の魅力的な人たちと連携しながら、自転車ロードレースの国際イベントや那須を舞台にした映画など、新たなスペクタクルを巻き起こしていきたいですね」

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