interview

Iターン

装飾 装飾
鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

武藤小百合さん

自分が惹かれた街で、暮らしを楽しみたい 武藤さんが鹿沼に移り住むきっかけとなったキーパーソンの一人が、新鹿沼駅前にあるレンタサイクルショップ「okurabike」の鷹羽(たかのは)さんだ(下写真左)。武藤さんは、okurabikeが主催するサイクリングツアーに何度か参加し、鹿沼の魅力に触れたことで移住を決意。さらに、移住後も鷹羽さんに街のことを教えてもらったり、プライベートでも相談に乗ってもらったりと、とてもお世話になっていて、武藤さんは“鹿沼のママ”として慕っている。 そんなokurabikeのサイクリングツアーで鹿沼を巡りまず感じた魅力が、身近に広がる自然だ。 「街中から自転車で少し走るだけで田畑や里山が広がり、きれいな川が流れる豊かな自然に出会えます。例えば、新鹿沼駅から自転車で10分ほどにある『出会いの森総合公園』は(下写真)、春には大芦川沿いの桜並木がとても美しく、5月下旬から6月上旬にはホタルも見られます。自然と人が共存しているところに、とても惹かれました」 もう一つ感じた鹿沼の魅力が、いきいきと暮らす街の人たち。サイクリングツアーで出会った、400年の歴史を持つ麻農家が営む「野州麻紙工房」の店主や、秋まつりに登場する彫刻屋台が展示されている「屋台のまち中央公園」の方をはじめ、カフェや飲食店を開業したり、新たなことに挑戦したりしている人たちも多く、個性豊かで面白い街だなと感じた。 「鹿沼はもともと人が行き交う宿場町だったこともあり、移り住む人に対してウェルカムな雰囲気があり、新しいことに挑戦する人をあたたかく応援してくれます。何よりも皆さんとても優しく、一人で移り住んでもなんとかやっていけそうだなと感じました」 さらに、長年受け継がれている街の文化にも強く惹かれた。サイクリングツアーでは、絢爛豪華な彫刻屋台が鹿沼の街を練り歩く、歴史あるお祭りを特等席で見学。街の人たちが一丸となって文化を継承している姿に心震えた。 武藤さんは、これまで客室乗務員として、いろいろな地域を訪れ、さまざまな街を目にしてきた。そこで感じたのは、「どこに行っても変わらない暮らしはできる」ということ。 「東京は確かに便利ですが、地方でも必要なものはそろうし、どこへ行ってもそれほど変わらない生活ができる。だとしたら、自分が惹かれた街で、惹かれた人たちと、したい暮らしをすることが大切なのではないか。そう思って、鹿沼へ移り住むことを具体的に考え始めたんです」 東京の郊外に引っ越すような感覚で 人と自然、文化に加えて、東京からのアクセスの良さも、鹿沼に惹かれたもう一つの理由だ。「新鹿沼駅」からは、特急で都心まで1時20分ほど。これまで、羽田や成田へ1時間半ほどかけて通勤していた武藤さんにとって、鹿沼は意外と近いと感じた。 「移住と言うと、山の中などへ一大決心をして移り住むイメージがありますが、私にとって鹿沼への移住はそれほど大袈裟なものでなくて、東京の郊外に引っ越すような感覚でした。鹿沼に限らず栃木県全体に言えることかもしれませんが、東京へのアクセスの良さが、移住を考える人にとって一つの魅力になっていると思います」 とはいえ、転職は大きな決心だった。締め切り数日前に見つけた市役所の採用試験に応募し、見事に合格したことで、鹿沼への移住は現実のものとして一気に動き出した。こうして2020年9月、武藤さんはこの街での新たな暮らしをスタートした。 鹿沼市役所の中でも、教育委員会事務局で働く武藤さんは、主に奨学金貸付業務と入札業務を担当している。 「部署の上司や同僚たちは、鹿沼歴が浅い私のことをとても優しくフォローしてくださいます。仕事のことはもちろん、鹿沼のことも、もっともっと詳しくなって、地域の役に立てる職員になりたいです」 日々の小さな喜びの積み重ねが、QOLを高める 鹿沼に移り住んでからは、市役所で働きながら、休日にはランニングやカフェ巡り、ボタニカルキャンドルづくり(下写真)を楽しんだり、日光や宇都宮まで車で出かけたり、ときには東京まで遊びに行ったりと、充実した毎日を過ごしている。 「私は移住とともに起業したり、新たにお店を始めたりしたわけではなく、平日は仕事をして休日に趣味などを楽しむという生活スタイルは、大きく変わっていません。それでも、日々の食事や通勤、ウォーキングなどの満足度が、ちょっとずつ上がり、全体として暮らしが豊かになったなと実感しています」 例えば、この街では、おいしい地元の食材が手軽に入手できる。自転車通勤の途中に美しい花が咲いていたり、虫がいたり、夜には星が見えたり、ときには雷が鳴ったり、四季の移り変わりを肌で感じながら生活できる。鹿沼には何かにチャレンジする人が身近に多く、自分も頑張ろうと刺激を受けられる。もちろん、家賃などが安いのもうれしいポイント。東京と同じ金額で、より広く新しい住まいに暮らすことができる。 こうした積み重ねが、いわゆるQOL(Quality of Life)の向上につながっている。 そして、移住して2年目の2022年に、武藤さんは結婚。ご主人も東京からこちらへ移り住んだ。 「主人はシステムエンジニアで、リモートワークが定着してきたことで、仕事を辞めることなく鹿沼に移住できました。彼はキャンプが趣味なので、これからはもっとアウトドアのアクティビティも満喫していきたい。2024年にはスノーピークが運営するキャンプフィールドが、鹿沼市にオープンするのもとても楽しみです!」 今後、数年間中止となっている「秋まつり」や、さまざまなイベントが開催されるようになったら、積極的に参加して、地域の人や移住者どうしのつながりをもっと広げていきたいと考える武藤さん。 「勇気を持って一歩を踏み出し、鹿沼でのコミュニティを築いていきたい。そして、これから鹿沼に移り住む人が、安心して移住できる環境をつくるなど、大好きなこの鹿沼に恩返しをしていきたいです」

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

冨永美和さん

Iターンで、小山市にマイホームを 山形生まれの山形育ち、就職も地元企業。同じく山形県出身のご主人と結婚したが、ご主人の勤め先が栃木県内の企業だったこともあり、結婚を機に山形を離れ、栃木県下野市へ。冨永さんが勤めていた会社は都内にもオフィスがあったため、そちらに転勤し、下野市から都内のオフィスへ通勤していた。 ご主人の転職に伴い、一度は茨城県古河市へ。その後、子どもが生まれたことで「家を建てたい」という想いが強くなった。 「山形に戻ることも考えましたが、今後のライフプランを考えた時に、関東にとどまることにしました。栃木県、茨城県、埼玉県で土地を探す中で、自分たちの理想にぴったりの場所を小山市に見つけ、念願のマイホームを建てることにしました。」 第二子出産とほぼ同じタイミングに家が完成し、家族4人での小山市暮らしがスタート。 「駅からそれほど離れていませんが、静かな土地で、周りには子どもの同級生も多いので、安心して子育てできます。日常生活に必要なものは15分圏内で全て揃うので、暮らしの利便性はとても良いですよ。」 また、一戸建てに住んで良かった、と今になって強く思うことがある。それは、子どもたちがとても元気なこと。 「息子たちの今のブームは“戦いごっこ”。喧嘩ではないのですが、何をしていてもすぐに戦いごっこが始まり、毎日大騒ぎです。アパートやマンションに住んでいたら、常にご近所さんのことを気にしていたでしょうね・・・(苦笑)」 子どもに色々なことを経験させてあげられる環境 住まいには庭もあるので、2021年春からは家庭菜園をはじめた。 「ナス、トマト、とうもろこし、ブロッコリーを植えました。子どもたちも野菜が育つ過程や収穫を楽しんでいます。ただ、とうもろこしだけは収穫直前に鳥に食べられてしまいました。植えれば採れるというものではないこと、どうすれば無事に収穫できるか、など、失敗から学べることもありました。」 そして今年の夏は初めてカブトムシを飼うという経験もした。 「子どもたちは昆虫が大好き。毎日餌やりなど世話をしていました。生き物なので、お別れもありますが、生き物を育てることの難しさや楽しさを学んでくれたと思います。」 そして、これからは「アウトドア」にも挑戦してみたいという。 少し前からご主人の趣味が登山やキャンプになり、休日はアウトドアを楽しんでいる。 「せっかく身近にこれだけの自然環境があるのだから、そろそろ子どもたちもアウトドアデビューさせたいと話しています。」 県内には小さなお子さん連れでも登りやすい低い山から、本格的に登山を楽しめる山まである。川遊びやキャンプなども各地で楽しめるので、アウトドア好きにとって行き先に困ることはない。 「毎日外を走りまわって、笑って過ごしていることだけで十分ですが、身近でいろんな経験ができるので、その都度成長を感じられます。」 親が選んだこの地で、子どもたちも楽しく過ごせていることもシンプルに嬉しいという。 遊びに行ける場所の選択肢が多い 子どもが小さい頃は、市内で開催されるマルシェや近所の公園に行くことが多かったが、成長に伴い遊ぶ場所も変化してきた。 ご主人もいる週末は、一日は近場で、一日は遠出するというのが最近の過ごし方。 「近場では、市内のショッピングモールや、近隣市町の公園に行きます。遊具が充実した公園は子どもたちのお気に入りで、毎回行き先を変えることで飽きずに楽しんでくれます。」 遠出の場合は、那須エリアにあるファミリー向けテーマパークや、茨城県、群馬県に足を伸ばすことも。高速を使えばどこへ行くにも1時間程度なので、行き先に困ることはないという。 「調べてみると、宇都宮市や佐野市の商業施設にも、キッズスペースが充実しているところがあるみたいで。子どもを遊びに行かせるだけでなく、大人も買い物を楽しみながら、子どもも楽しめるというのは良いですよね。」 情報通の冨永さん。普段の情報収集については、「イベントなどは、市内のお気に入りのお店のS N Sをフォローして、出店情報をチェックして把握しています。子どもの遊び場は、友人が調べたものを教えてくれるんです。」 友人というのも、小山市に移住して来られた移住者仲間。 冨永さんが移住してきた当初、市が主催している移住者交流会『welcome! Oyama beginner』に参加したことをきっかけに、地元のキーパーソンや移住者同士とつながることができた。その時に知り合ったママ友とは、普段から情報交換をしたり、子どもと一緒に遊びに行くこともあるという。 「小山市はイベントが多いですが、最近はイベントで地元の方と交流するより、家族と公園や遠出して過ごすことが多かったなと気づきました。気になるお店もどんどん増えていますし、原点回帰でまたイベントに参加したいですね。」 子育てしながら在宅でできる仕事を 2022年春まで、都内の会社に在籍していた冨永さん。 会社がテレワークを導入していた際は、子どもと触れ合う時間が十分確保でき、仕事と子育てのバランスが非常に理想的だったという。しかし春にコロナが落ち着いたタイミングでテレワークが終了。会社との話し合いも重ねたが、子どもの幼稚園入園のタイミングとも重なり、一度子育てを優先する決断をし、退職した。 「仕事はしたいと思っているので、情報収集はしています。私も驚きましたが、在宅で働くことを望む主婦向けの求人情報って、栃木には意外とたくさんあるんです。」 働き方の変化に伴い、求人情報も世の中のニーズに合わせたものに変化している。 「在宅のみの仕事であれば、通勤アクセスを気にせずに、仕事内容で選ぶことができます。これからは、より一層栃木での暮らしを満喫しながら、仕事も子育ても充実させていきたいですね。」

日々を豊かにする器を

日々を豊かにする器を

茨木伸恵さん

長く愛される、普遍的な美しさを形にしたい 工房におじゃますると、ちょうど茨木さんが土をこね、作陶の準備をしているところだった。新しいものなのに、何十年と時を重ねたような味わい深い質感やフォルム、水色やグレーなどの美しい色合いが魅力の器たちは、一つずつ手びねりでつくられている。 「ロクロよりも、地道に手びねりで成形していくほうが、自分には合っているんです」 新潟県の出身で、文化服装学院で服飾デザインを学んでいた茨木さんが陶芸の道に進んだ理由にも、じっくりものづくりに向き合いたいという同じ思いを感じた。 「どんどんトレンドが移り変わっていく、ファッションデザインのサイクルの速さに違和感を感じて。もっと長く愛されるものづくりがしたいと思うようになったんです」 こうして文化服装学院を卒業後、1年かけて資金を貯め、岐阜県の多治見市陶磁器意匠研究所に入学。2年にわたり陶磁器のデザインを学んだ茨木さんは、多治見の焼き物メーカーに就職し、そこで働きながら自身の作品も製作する日々を過ごしていた。けれど、当たり前だが、最初から現在のような作品がつくれたわけではなかった。 「私は、古代ペルシアやギリシアなどの美術が好きで、展覧会に行くと感動して、わーって舞い上がってしまうほどなんです。その“根源的な美しさ”を、なんとか形にしたいと試行錯誤を重ねて、ようやく目指す色合いや質感が表現できるようになってきたのは、意匠研究所を卒業して5、6年が経ったころからです」 ヨーロッパから国内まで、各地で作品を発表 ちょうどそのころ、二つの大きな転機が訪れる。一つは、作品の販売について。2013年に、パリにある有名なセレクトショップ「Merci(メルシー)」のバイヤーが多治見を訪れたとき、茨木さんの作品が目にとまり、同店で扱ってもらえるように。それをきっかけに、デンマークやイギリスなど、ヨーロッパ各地で作品を発表し、スウェーデンで個展も開催。国内でも全国各地で個展を開くなど、活動の場が広がっていった。 さまざまなクラフトフェアにも出展していた茨木さんだが、ある年の「クラフトフェアまつもと」に参加したとき、事情があり開催時間に遅れてしまった。出展場所が、来た順番に埋まっていくなかで、最後まで空いていたのが木陰の小さなブース。そのとき、たまたま隣になったのが、山根さんだった。 「僕はギターが直射日光に当たらないように、あえて木陰を選んで出展していたんです」(山根さん) この偶然の出会いがきっかけとなり、二人は2015年に結婚。茨木さんは、山根さんの地元である佐野市に移り住むことに。これが二つ目の大きな転機だった。 自然も街も身近にそろうのが佐野の魅力 現在、茨木さんは、ご主人の山根さんと長男(5歳)、長女(3歳)の家族4人で、佐野市に暮らしている。佐野で生活して実感するいちばんの魅力は、冒頭にも書いた「ちょうどよさ」だ。 「佐野は、身近に自然が豊富にありながら、生活に必要なものは近くでなんでも手に入り、交通の便もいい。ちょうどいいバランスで、本当に住みやすいんです。『佐野市こどもの国』などの大きな公園から、唐沢山や美しい川まで、子どもたちと出かけられる場所もたくさんあって、子育てがしやすいところも魅力ですね」 この日は、関東平野を一望する唐沢山の山頂へ出かけた。唐沢山は、山根さんがよくランニングに訪れる場所。茨木さんは、唐沢山の近くの浅間山山頂から松明を持って山を降りる「浅間の火祭り」にも、参加したことがあるという。 一方で、東京へのアクセスの良さも、大きなポイントだ。高速バスで、約1時間30分で都心まで出られるので、美術館の展覧会に出かけたり、ギャラリーを巡ったりと、インプットなどを目的にフットワーク軽く訪れることができる。 「交通の便がいいので、友達もよく遊びにきてくれます」 人との出会いが、新たなチャレンジの刺激に 佐野に移り住んでから巡り合った“人”も、大切な財産になっている。例えば、今年80歳になる陶芸の先生は、足利市の山奥に薪窯をつくり、主にお茶の道具などを教室の生徒たちと10日間かけて焼き上げている。 「私は、作品の幅を広げたいと思い、ロクロを習いに通っています。先生は技術だけでなく知識もとても深く、茶道の道具のことや薪窯のことなど、たくさんのことを教わっています」 人との縁が刺激となり、ものづくりの本質的な部分に向き合い、新たなチャレンジをしていきたいと感じるように。ご主人の山根さんも、そんなプラスの影響を与えてくれる一人だ。 「彼のものづくりの姿勢は本当に真面目で、1本のギターをコツコツと3カ月ほどかけて、丁寧につくり上げるんです。私も、じっくりと製作に向き合い、日々を豊かにする器を、これからも目指していきたい」

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

多里(たり)まりなさん

実感したことを、自分の言葉で紡ぐことを大切に 中心市街地の活性化と、新聞社のさまざまな情報を発信する新たな拠点として、宇都宮まちなか支局が誕生したのは、2012年4月のこと。実は、1階にあるカフェ「NEWS CAFE」も、下野新聞社が運営。2階にはイベントスペースも設けられている。 京都府出身の多里さんは、最初の1年間は栃木支局で経験を積み、2年目からまちなか支局へ。ここでは、毎週日曜日に掲載される「みやもっと」面(2ページ)を、主に担当。紙面では、記者が自ら体験したことを、紹介することをコンセプトにしている。 例えば、本サイトでも紹介した宇都宮の「きものHAUS」が企画した、オリオン通りを約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」に、多里さんも花魁の一人として参加したり、ジャズの街としても知られる宇都宮で活動しているアマチュアのビッグバンドに、ピアノとして加わり演奏したり、1カ月で百人一首をすべて覚えて大会に出場してみたり、まさに体当たりで、街なかで起こる新たな取り組みに飛び込み、そこで実感したことを言葉にしている。 「通常の紙面とは逆に、『みやもっと』では、自分で体験したからこその感想や、そこから見えてきた街や人の姿、魅力を、自分自身の言葉で書くことを心がけています」 最初は顔には出さないけど、みんな歓迎してくれている 多里さんは、原稿を書くとき以外は、街へ出かける。移動は、徒歩が基本だ。 「暖かくなったら自転車にも乗りますが、街なかでは歩きが便利! 車のように駐車場を探さなくていいから、気になった場所へ身軽に立ち寄れるんです」 商店街を歩いていると、いろいろな人が声をかけてくれる。立ち止まって世間話をするなかで、意外な人から思わぬ情報を得られることもある。 「だからこそ〝枠〟をつくらず、できる限り幅広く、たくさんの人と会うように心がけています。もう一つ大切にしているのは、自分のことをオープンにすること。こちらから壁をつくらず、何でも話すようにしていると、相手も心を開いてくれる。これは、記者としての変わらぬ目標でもあります」 取材の途中に立ち寄った、「村山カバン店」の店主夫妻(上写真)も、家族のように接してくれる。コーヒーを出してくれたり、「おなか減ってない?」と、ときには一緒にお店のカウンターでお昼を食べさせてくれたりすることもある。 手作りパンを使ったサンドイッチ専門店「小時飯屋(こじはんや)」の店主も、いつも多里さんのことを気にかけてくれる(下写真:小時飯屋の店内の様子)。 「実は、就活で下野新聞社を受けるために、初めて宇都宮を訪れた帰りに、偶然立ち寄ったのが、小時飯屋さんだったんです。そのときお父さんが、『どこから来たの?就職活動? 栃木の人は表情には出さないけど、すごく温かいし、みんな外から人が来てくれるのをうれしく思っているから、大丈夫だよ!』と言ってくださって。もし受かったら、栃木に来よう!と前向きに思ったのを、今も覚えています」 世代間をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これからもっと このように地域と密接に関わる多里さんに、普段感じる「宇都宮の街なかの魅力」をうかがった。 「宇都宮は、東京や大阪ほど街の規模が大きくないぶん、初対面の人でも話してみると共通の知り合いがいたりして、コミュニティを築きやすいのが魅力だと思います。だからか、皆さん、職場や家庭以外にも、自分の趣味や好きなものに関する〝居場所〟を持っている人が多い。私も、よく近所のミュージックバーに行くのですが、2、3週間ほど間があいただけで、店主の方が『大丈夫?』と声をかけてくれる。そういう人の温かさに、日々支えられていますね」 もう一つ実感しているのは、幅広い年代の人たちが、地域をよくしようと活動していることだ。 「私も参加させてもらった『宮魁道中』をはじめ、若い人たちの新たな動きが、街なかで活発に生まれています。一方で、長年、商店街でお店を営んでいる上の世代の方たちも、地域の文化を受け継ぎながら、商店街を元気にしたいと考えている」 例えば、街の中心部にある二荒山神社の門前には、昭和30年代ころまで浅草のような仲見世があったという。 「初めてこのことを知った若い世代の人たちは、『復活させられたら、きっと面白いだろうな』とワクワクすると思うんです。そんな世代と世代をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これから果たしていきたい」 実は、春の人事異動により、3月から多里さんはまちなか支局を離れ、宇都宮総局へ異動することが決まった。けれど、まちなか支局で大切にしてきた、仕事や地域に対する思いに変わりはない。 「この2年の間に多くの人と接するなかで、実は日常のなかに〝いいもの〟がたくさんあることを気づかせてもらいました。これからも、外から来た人間だからこその視点で、何気ない宇都宮や栃木のいいものをたくさん再発見し、発信していきたいと思います」

ほっと、リセットできる場所に

ほっと、リセットできる場所に

関 恒介さん

〝自分勝手〟に生きることが大事なんだ   「みんな、人のために生きすぎなんじゃないかな」 店主の関さんは、コーヒーを淹れながら、そう話す。 「カウンターのこっちに立つようになって思うのは、まずは自分自身が楽しく、家族が幸せに暮らしていないと、お客さんを笑顔にできないということ。間違っているかもしれないけど、今は〝自分勝手〟に生きることが大事なんだと思っています」 例えば、小学4年生の娘さんに、「仕事が終わったら、すぐに帰ってきてね!」と言われたとしても、お店の片付けが終わったあと、30分好きな音楽を聴いてから帰宅する。そうやって少しだけ自分を大切にすることで、いつも穏やかに笑顔で過ごすことができる。 「このお店が、お客さんにとって、そんな息抜きの場所になっていたら嬉しいですね。Waffle Coffeeに寄ってから帰ったことで、家でもニコニコ過ごせたと言われるような場所に」 コーヒー屋で働く人たちが、みんないい顔をしていたんです 関さんは、千葉県柏市の出身。20代前半の2年間を、学生としてロサンゼルスで過ごした。音楽に熱中し、レコードを買いあさる日々。そして帰国後は、ミュージシャンとしてCDを出す傍ら、会社員としてのわらじも履き、仕事を続けてきた。そんな関さんが移住を考え始めたのは、2011年ころのことだ。きっかけは大きく二つある。 「そのころ、ワーゲンに乗って日本を一周したいと言っていた祖父や、アメリカを横断したいと話していた母などの身内が、立て続けに亡くなってしまって。やりたいことは後回しにせずに、今を大切に楽しく生きなくては、と強く思ったんです」 もう一つは、会社員の仕事で、壁にぶつかっていたことがある。 「僕は、自分で言うのもなんですが、会社員としては本当に仕事ができなくて。自分では頑張っているつもりでも、いつも年下の上司に怒られていました」 当時も、しょっちゅうアメリカを訪れていた関さんは、滞在中、よくコーヒーショップに立ち寄っていた。 「コーヒー屋で、働いている人たちの顔を見ると、チェーン店で働く人たちよりも、個人でお店をやっている人たちのほうが、みんないい顔をしていたんです。やらされているのではない。ニコニコ楽しそうに仕事をしている。そんな姿を目にして、自分も好きなこと、得意なことで勝負しようと決意しました」 コーヒーは、もともと好きで、自分で工夫しながら淹れていた。焼き菓子やケーキは、日本ではなかなかアメリカで食べた味に出会えず、ないなら自分でつくろうと家で焼いていた。器やアンティークも好きで集めていて、自宅はDIYで改装していた。 「そうやって、自分が情熱を注げるものを集めていったら、自然と今のコーヒーと焼き菓子のお店にたどり着きました」 NYのブルックリンのような、ポテンシャルを感じて お店を開く場所を探して足利市なども見て回ったが、佐野市を選んだ理由は、「適度に街で、適度に田舎で、交通の便もいい」ところ。奥さんの実家の群馬県館林市に隣接しているところ。「佐野の人は穏やかで、やさしい」ところなどが決め手に。 「うまく言えませんが、なんか好きだなぁって感じて。ここが、自分たちの暮らしにフィットしたんです」 さらに、佐野の街にポテンシャルを感じたのも、大きな理由だ。 「ポートランドやニューヨークのブルックリン、ロサンゼルスのダウンタウンなど、僕がアメリカにいたころには、今のように注目を集める街になるとは、想像もつかなかった。それが、物価や家賃が安いからと、アーティストやクリエイターたちが集まってきて、コーヒーショップや古着屋、レコード屋など、感度の高いお店がどんどん誕生していった。佐野にも、そんなポテンシャルを感じたんです」 このコンビニだった物件は、よく足を運んでいた「自家焙煎 福伝珈琲店」(Waffle Coffeeの2軒隣で、コーヒー豆は福伝珈琲店から仕入れている)の店主が紹介してくれた。それを、約1年かけてDIYでリノベーション。1900年代初頭の古き良きアメリカの空気に満たされた、Waffle Coffeeが誕生したのは、2016年4月のことだ。 佐野の居心地が良すぎて、家も買っちゃいました 「こないだ気づいたら、『きな粉のマフィン』をつくっていて。これはそろそろアメリカに行かなくちゃダメだなと思って(笑)」 そう話すように、関さんは今でも定期的にアメリカを訪れ、ベーカリーやコーヒーショップを巡り、実際に食べておいしいと感じた焼き菓子やケーキを、甘さやスパイスを少し抑えるなど、日本人の口に合うようにアレンジして提供している。素材は、娘さんにも安心して食べさせられるものを基準にセレクト。フルーツなどの盛り付けは、あえて綺麗に行わず、アメリカのラフな雰囲気を再現している。 「そうやってつくった焼き菓子を、おいしいと言ってもらえたとき、喜んでもらえたときが、何よりも嬉しいですね。また、お客さんから『福伝さんとうちと、今日はどっちに行こうかと迷えるのがありがたい』と言ってもらえたときも嬉しかった。そうやって訪れるお店の選択肢が、もっともっと佐野に増えていったらいいですね」 お店を訪れる若い人たちから、「自分もお店を開きたい」と相談をされることもある。 「そんなときは、『佐野は東京などの都市部に比べて家賃が安く、クリエイティブなことにも挑戦しやすいんだから、どんどんやるべきだよ!』って、もう何人もの背中を押しています」 さらに週末には、若い人たちがお店に来やすいよう、同世代の若いスタッフに、なるべくお店に立ってもらうようにしている。 「そうやって微力ながらも応援していくことで、若い人たちが新たなお店を立ち上げ、また次の世代の子たちの背中を押して……と、佐野に魅力的なお店が、どんどん増えていったら楽しいだろうなって」 実は、関さんは、佐野市内に1960年代に建てられたプール付きのもと別荘を格安で購入し、現在、自宅へとリノベーション中だ。 「これこそが、まさに佐野の住みやすさの証! この街が気に入らなければ、家は買わないですから(笑)」

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

小出拓也さん

「この街は面白そう!」。それが鹿沼の第一印象 2016年2月、小出さんは初めて鹿沼を訪れた。きっかけは、就職活動。大学で都市計画を専攻していた小出さんは住宅業界に興味を持ち、東京の就職セミナーで、鹿沼の住宅会社「カクニシビルダー」の担当者と出会う。 「そのときは、栃木の企業に就職するとは思ってもみませんでした。でも、これまで選択肢になかったことだからこそ、新たな気づきがあるかもしれない。説明会だけでも受けてみようと、後日、鹿沼へ行ってみることにしたんです」 こうして説明会に参加した後、小出さんは駅まで鹿沼の街を歩きながら帰った。そのとき直感的に、「この街は面白そうだな」と感じたという。まず惹かれたのは、立派な石蔵が残る街並みや、身近に広がる豊かな自然、温泉だった。中学の頃から、よく電車に乗って一人旅に出かけていた小出さんにとって、自然や温泉は東京から遠く離れたところにあるものというイメージがあった。 「でも、鹿沼に住めば、朝、出社前に山や川へ出かけたり、帰りに温泉に立ち寄ったりできる。ここでの暮らしもアリかもしれないなと、東京へ帰る電車の中で思ったんです」 その後の面談や最終面接などで、代表や人事担当者が親身に対応してくれたことが決め手となり、小出さんはカクニシビルダーへの就職を決意。2016年5月に無事に内定が出て、鹿沼への移住が決まった。 鹿沼や全国に新たな人脈が広がった、移住前の10カ月間 「内定をもらってから実際に鹿沼へ引っ越し、働き始めるまでの約10カ月間がとても重要で、とても充実した時間でした」 そう振り返る小出さんは、この時期に毎月1、2回は鹿沼を訪れ、お祭りなどの街のイベントや、鹿沼の街を愛する人たちが地元ネタやサブカルチャーをテーマにした授業を行う「カヌマ大学」などに積極的に参加。これにより、一気に鹿沼での人脈が広がっていった。 「すでに街にたくさんの知人や友人ができた状態で引っ越せたので、みなさんに支えていただきながら、鹿沼での暮らしを始めることができました。いま思えば、就職してからでは忙しく、なかなか新たな人脈をつくる時間やエネルギーを持てなかったかもしれません」(上写真:常陸屋呉服店 四代目の冨山 亮さんも、小出さんの鹿沼での暮らしや活動を応援してくれている) 同時にこの10カ月の間に、小出さんはアルバイトでお金を貯めては、京都の綾部市や宮津市、長野の諏訪市など、全国の中でもUIターンが盛んな地域へと足を運んだ。 「全国各地の魅力的な方々とつながることができたうえ、いわゆる〝半農半X〟のライフスタイルなど、鹿沼で始まる暮らしに生かせるような、新たなヒントをたくさん得ることができました」 それだけではない。小出さんは、地元の東京・日暮里の祭りなどにも神輿の担ぎ手として参加。ここでも人脈が広がり、もともと好きだった地元がさらに自慢したい場所に。地元を離れると決意したことが、自分が生まれ育った地域の魅力を再発見することにもつながった。 家族のように接してくれる人が、街のいたるところに 移住前に鹿沼を訪れた際によく泊まっていたのが、本サイトでも紹介したゲストハウス「CICACU(シカク)」。その女将・辻井まゆ子さん(上写真)も、鹿沼の街や人に惹かれて京都から移住した一人だ。 「2017年3月に大学を卒業して、鹿沼で空き家を借りて暮らし始めてからは、辻井さんが『ごはんあるで!』と、CICACUに皆さんが集まって夜ごはんを食べているときなどに、よく誘ってくれました」 そうやって、「うちにご飯食べにおいで」と誘ってくれるのは、辻井さんだけではなかった。 「今回、この取材のお話をいただいてから、『鹿沼の良さってなんだろう?』ってずっと考えていたのですが、一番自慢したいことは、やっぱり〝街の人の温かさ〟。鹿沼に移り住んでから、お兄さんみたいな人、お姉さんみたいな人、両親みたいな人、祖父母のような人など、家族のように接してくださる方々とのつながりが、たくさん広がりました」 そんな鹿沼の人たちが集まる〝街の居間〟のような場所がCICACUだと、小出さんは言う。毎晩のようにCICACUに遊びに来ていた小出さんは、「ここに住めたら楽しいだろうな」と考え、2カ月ほど前からCICACUの1室に長期滞在という形で宿泊している。 「女将の辻井さんの人柄もあると思いますが、CICACUの共同スペースである居間やダイニング(上写真)には旅行者や街の人が集い、自然と交流が生まれています。移住前は、地域で活動していくためのヒントを得るためにいろいろな場所へ出向いていたのですが、いまはCICACUにいることで、いろいろな人がここへ来て、さまざまな刺激を与えてくれます。多くのことを吸収すべき20代の期間をCICACUで過ごせるのは、とてもありがたいことだなと感じています」 木工のまち、職人のまち鹿沼ならではの新たな仕事を 鹿沼で多くの人とつながり、仕事を通じて現代の家づくりを学ぶなかで(上写真:カクニシビルダーでの仕事風景)、今後この街で挑戦したいことが見えてきた。その一つが、家を解体する際に廃棄されてしまう建材や建具、家具などの有効活用だ。 「古くから木工のまち、職人のまちとして発展してきた鹿沼には、優秀な職人さんが手がけた素晴らしい建具や家具が家の中に残されています。それを捨ててしまうのは、もったいない。新たな価値を付けて欲しい人のもとへと手渡す、そんな役割を担っていけたらと考えています」 さらに、全国各地で取り組みが始まっている新たな林業のやり方についても勉強し、鹿沼で実践していきたい。休日には、鹿沼を案内するツアーも手がけたい。そうやってゆくゆくは何足ものわらじを履きながら、生計を立てていくことが小出さんの目標だ。 「鹿沼をはじめ栃木県では、東京とつながりながら、ここでしかできないことにチャレンジできます。東京で生まれ育ち、鹿沼に移り住んだ自分だからこそできることを一つひとつ実現していくことが、結果的に鹿沼の街の魅力を高めることにつながっていったら嬉しいですね」

点と点がつながって、大きな輪に

点と点がつながって、大きな輪に

渡辺直美さん

1年かけて商品化した「日光彫の御朱印帳」 開け放たれたその窓からは、借景の美しい緑が眺められる。ここは、日光東照宮の門前。表参道からは1本離れているが、それでも国内外から訪れた多くの旅行者が、お店の前を行き交う。 「すみません。“神橋”は、こっちですか?」 そう旅行者に聞かれて、「TEN to MARU」の店主・渡辺さんは丁寧に道を案内する。 「いつも扉をオープンにしているから、みなさん気軽に立ち寄ってくれて。よく道も尋ねられます。それをきっかけに、会話が弾むことも。そんな何気ない触れ合いが楽しいですね。このお店が、街の案内所のようになっているのがうれしい!」 店内に所狭しと並ぶ商品のなかでも、人気は御朱印帳。伝統工芸である〝日光彫〟の老舗「村上豊八商店」とコラボして、女性職人と約1年かけて一緒に商品化したのが「日光彫の御朱印帳」だ。表紙には、「榀(シナ)」の木の合板などを使い、そこに日光ならではの〝眠り猫〟や〝神橋〟などの図柄をあしらっている。 「日光彫は、ヒッカキ刀という独特の刃物を使い、細く繊細な線から力強い線まで自在に表現できるのが魅力です。従来の日光彫では、おぼんや手鏡、花瓶など、家のなかで楽しむものが中心でしたが、御朱印帳ならいつも一緒に持ち歩くことができる。もっと身近に日光彫を楽しんでほしいという思いを込めて、『一緒に旅する日光彫』と名付けて発信しています」 その隣に置かれているのは、御朱印帳ケース。御朱印帳は、寺院と神社を分けて使っている人も多く、「2冊を一緒に持ち運べるケースがあったら」という渡辺さんのアイデアをもとに、宇都宮で帆布を使ったバッグや小物を手がける「1note(ワンノート)」と一緒に形にしていった。好きなカラーを選んで、オーダーすることができる。 さらに、本サイトでも紹介させてもらった「mother tool」のモビールや「秋元珈琲焙煎所」のコーヒー豆のほか、日光で続く「小野糀」の塩糀や味噌、同じく日光の「だいもん苺園」のジャム、「李舎(すももしゃ)」のどうぶつ組み木など、日光や栃木県でつくられた品々が並べられている。といっても、扱う商品を〝県内のもの〟と限定しているわけではない。 「ここから広がっていった人との出会いやつながりを大切に、多くの人に紹介したいと感じたモノを全国からセレクトするようにしています」 その言葉どおり、棚には鹿児島県の「ONE KILN(ワンキルン)」のドリッパーやシーリングランプ、お皿なども並んでいる。 人と出会い、つながっていくのが楽しい! 実は、渡辺さんは鹿児島県の出身で、2006年に結婚を機に、ご主人の地元である栃木県に移り住んだ。最初の3年ほどは宇都宮で、その後、日光に暮らしてもうすぐ10年になる。転機となったのは、日光にある木工房「Ki-raku」が、2013年にオープンしたギャラリーを手伝い始めたことだった。 「やっぱり人と出会って、つながっていくのが楽しくて。実は、宇都宮では東武百貨店の婦人服売り場で働いていて、鹿児島でも販売の仕事をしていたんです。今思えば、もともと好きだったんですよね、接客の仕事が」 だんだんと「自分のお店を開きたい」という思いが強くなり、実際に物件を探し始めたのが2015年初めのこと。もちろん不動産屋も訪れたが、もっと地域の生の情報が知りたいと、渡辺さんは日光にある飲食店や居酒屋などに足を運んだ。そのなかで知り合ったのが、日光で食事処「山楽」を営む、古田秀夫さん(上写真)。古田さんは、「二社一寺だけではない日光の魅力をゆっくり体感してほしい」と、自転車によるアウトドア体験型ツアーやレンタサイクルショップ「Fulltime」も運営している。 「古田さんが、『ここでやりなよ!』と言ってくれたが、この場所。もともとレンタサイクル『Fulltime』の店舗で、いまも自転車の貸し出しをしています。ちなみに、古田さんのお店『山楽』さんは斜め向かいなんです」 古田さん:「最初は、お店の前にずらりと自転車が並んでいたんですが、だんだん奥に追いやられてしまって(笑)。でも、それでいいんです。これまでになかった新しいジャンルのお店を渡辺さんがここでやってくれて、商店街全体が元気になっていくことが大切だから」 「TEN to MARU」がオープンしたのは、2015年9月のこと。店内の改装は、「Ki-raku」が手がけてくれた。 大切なのは、勇気を持って一歩を踏み出すこと 自分のお店を開いたことで、人とのつながりはさらに広がっていった。東京から日光を訪れ、たまたまお店に立ち寄ってくれた建築ライターの紹介で、運営に参加するようになったのが「ペチャクチャナイト」だ。これは、2003年に東京でスタートしたトークと交流のイベントで、20枚のスライドそれぞれに20秒ずつコメントしていくというコンパクトなプレゼンスタイルが特徴。現在、1020都市以上で開催されており、渡辺さんは「ペチャクチャナイト日光」の実行委員長を務めている。 「TEN to MARUで知り合った魅力的な方に登壇してもらったり、ペチャクチャナイトでつながった方にお店でイベントを開催してもらったり、『日光には魅力的な活動をしている人が、こんなにもたくさんいるんだ』と改めて実感しています。同時に、ペチャクチャナイトでは、外からも面白いアイデアを持った人たちが、日光を訪れてくれます。それが刺激となって、例えば、他の地域の人と日光の人がコラボした新たな商品が誕生したりと、さまざまな化学反応も生まれています」 これまでに日光では、ペチャクチャナイトを3回開催。今後は、毎回よりテーマを絞って開催していけたらと考えている。一方、お店については、これまでと変わることなく、人との出会いやつながりを大切にしていきたいという。 「日光へは、日本中、世界中からたくさんの人が訪れてくれます。そのなかから、『面白そうだから、日光に住んでみたい!』と、移住してくれる人が増えていったらうれしいですね。私もそんな相談を受けたときに、人を紹介したり、情報を提供したりと少しでも〝架け橋〟になれるよう、これからもネットワークを広げていきたいです」 鹿児島から知り合いのほとんどいない栃木へ移り住み、「お店を開くために自ら一歩を踏み出したことで、どんどんと人とのつながりが広がっていった」と振り返る渡辺さんは、次は誰かが一歩を踏み出す応援ができたらと考えている。 「私がお店に挑戦できたのも、それを理解し、応援してくれた主人や3人の子どもたちのおかげです。だから、これまでと変わらず、普段の暮らしも大切にしていきたいです」

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

水品沙紀さん

初めてのアルバイトも、卒論のテーマも「温泉」 「私が温泉に興味を持ったのは、旅行好きな母親の影響が大きくて。休日には、家族で温泉をはじめさまざまな場所へ出かけていたんです」 そう話すのは、2年間閉館となっていた日光市中三依にある「中三依温泉 男鹿の湯」を、25歳の若さで復活させた水品沙紀さん。千葉県出身の水品さんは子どものころから温泉が大好きで、高校2年生のときには、近所の温泉施設に「働かせてください」とメールするほどだったという。実際には受験が終わり大学へ進学してから、その温泉施設でアルバイトをスタート。このころから日本の名湯百選を巡り始め、現在までに国内外1000カ所以上の温泉へ足を運んだ。さらに、卒論のテーマも温泉。まさに筋金入りの温泉好きだ。 「私は、大衆演劇も好きで。健康ランドで公演することが多い大衆演劇の役者になれば、いろいろな温泉施設を知ることができ一石二鳥だと思い、ある劇団に体験入団して、岡山や福島の温泉施設を巡ったこともあるんです」 大学を卒業後は、埼玉県内を中心に温泉施設を運営する会社に就職。温泉施設で働きながら、運営や経営についても学んだ。そこで2年半働くなかで、「自分の目線で温泉施設を運営したい」「泉質のいい場所で施設を持ちたい」という思いが大きくなっていった。そんなとき、SNSで「男鹿の湯 オーナー募集」の記事を目にする。水品さんはすぐに連絡を取り、男鹿の湯へ向かった。 地元の人の温かさと、のどかな環境にひかれ中三依へ 2015年9月、初めて中三依を訪れた水品さんは、ひと目でここの雰囲気が気に入った。 「男鹿の湯から歩いて3分ほどにある無人駅をはじめ、チェーン店がなく個人商店がぽつぽつと続く様子など、のどかな町の雰囲気に一目ぼれしました。温泉の裏にある男鹿川(下写真)の水も本当にきれいで。ここは観光地ではないですが、古き良き里山の風景がそのまま残っている。きっと都会に暮らす人の中には、こうしたのどかな環境でゆったりと過ごしたいという人も多いのでは、と思ったんです」 こうして「男鹿の湯 オーナー募集」に応募した水品さんだったが、一番不安だったのは、ボイラーなどの機械がちゃんと動くのか、修理にどのくらいのお金がかかるのかということだった。それを業者に調べてもらうとしていたちょうどその頃、豪雨が発生し、風呂場と機械室が泥水に浸かってしまった。 「大変な状況の中、地元の方々が集まり、泥の撤去作業を手伝ってくださいました。みなさんの温かさ、この温泉を大切にしたいという思いに触れて、なんとしても復活させたいと思ったんです」 そこで水品さんは、クラウドファンディングを活用して資金を集め、機械や内装を修復。そんな開店準備を、家族や友人をはじめ、地元の人たちも手伝ってくれた。営業許可申請も無事にクリアし、2016年4月、ついに「男鹿の湯」を復活させた。 この地域ならではの魅力を生かした、新たなプランを 「男鹿の湯」には温泉施設のほかに、コテージやバーベキュー場、キャンプ場が併設されており、水品さんはすべての運営を手がけている。オープンした当初は、日帰り温泉の利用者が大半だったが、ホームページなどで、中三依の魅力を発信するうちに、週末にはコテージが予約で埋まるように。 「できれば、ゆっくりと3泊ぐらい滞在していただきながら、美しい男鹿川や里山を散歩したりと、のんびり過ごしていただけたらと思っています」 温泉の1階には「おじか食堂」があり、水品さんの中学高校の同級生で、運営をともに手がける豊島さんが打った「十割そば」などが味わえる。そばは、100%地粉を使用。添えられた温泉を煮詰めた温泉塩をつけて食べると、よりそばの味と香りが引き立つ。また、「おじか食堂」ではお酒も提供していて、地元の人が集まる憩いの場となっている。 「自治会や消防団など、地域の集まりがあるたびにここを使っていただいて。地元のみなさんにも受け入れてもらえているのが、本当にありがたいなと思っています。今後は、渓流釣りやキノコ狩りなど、この地域ならではの遊びを学んだり、周囲の魅力的なお店と連携したりして、中三依をより楽しんでもらえる新たなプランを提供していきたいです」 さらに、将来的には温泉で病気を癒やしたり、仕事のパフォーマンスを上げたりと、日常的に“温泉の力”を活用するライフスタイルを広めていくことが目標だ。 「日本には都市部から離れているために、あまり利用されていない、いい温泉がたくさんあるんです。そんな極上の温泉を、より多くの人に楽しんでもらいたい。そのために、温泉情報の発信も手がけていけたらと思っています」

目指すのは、地域に役立つレストラン

目指すのは、地域に役立つレストラン

照井康嗣さん

高根沢の野菜をふんだんに使った本格イタリアン 高根沢町にある「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」を訪れたのは、平日の午後1時半頃。それにもかわらず、店内は多くの人で賑わっていた。お客さんのお目当ては、栃木県産小麦「ゆめかおり」で打った自家製の生パスタランチ。高根沢産の新鮮な野菜が10種類以上味わえる、サラダビュッフェが付いているのも人気の秘密だ。 「高根沢では農業が盛んで、玉ねぎやカブ、ニンジンなど、馴染みのある野菜が抜群においしいんです」 そう話すのは、店主の照井康嗣さん。大学の頃から海外で働くことに憧れていた照井さんは、「イタリア研修旅行あり」という募集を目にし、地元・埼玉県熊谷市にあるイタリアンレストランで働き始めた。そこで5年間働きながら資金を貯め、語学を学び、2003年にイタリアへ。 国立のホテル学校で基礎を学んだ後、イタリア各地の郷土料理を学ぶために、まずは最高品質のワインの生産地として知られるピエモンテ地方へ。その後、アドリア海に面したマルケ地方で海の幸を生かした料理を、山岳地帯のアルト・アディジェ地方で山の料理を経験。星付きレストランを中心に、計5年間修業した。 帰国後は、南青山や六本木などのイタリアンレストランで8年間、シェフを務めてきた。そんな照井さが高根沢町への移住を決心したのは、どんな理由からだろう? 「実は、東京のレストランで働いていた頃から高根沢産の野菜を料理に使っていて、移住前からそのおいしさを実感していました。修業したイタリアの田舎町ような、豊かな食材が身近にある環境で店を持ちたいと考えていた私にとって、高根沢は最適な場所だったんです。また、実は下の子に障がいがあって、自然に囲まれた環境で子育てをしたいと思ったのも大きな理由の一つです。妻の育児の負担を考え、妻の実家がある高根沢を選びました」 野菜をつくる人と、食べる人をつなぐ場所に 2016年1月に高根沢町に移住した照井さんは、事業計画書をまとめたり、物件を探したりと、開店準備を急ピッチで進めた。そんななか高根沢町の職員と出会い、「創業支援事業計画」のことを知る。これは、町と商工会、農協、金融機関などが連携して創業を後押しする制度。照井さんは経営や財務などの講座を受講したほか融資の支援も受け、この制度の第一号として、2016年9月に「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」をオープンした。 店名は、イタリアに渡り初めて働いたレストランの名前からいただいた(上は、店内に飾られたイタリア修業時代の写真)。「ヴェッキオ・トラム」とは、イタリア語で「古い路面電車」という意味。田園風景のなかを烏山線が走る、高根沢の環境にぴったりだと感じたという。また、「食堂」と名付けたのにも理由がある。 「東京では各レストランが、イタリア料理なかでも『この州の郷土料理』といった特色を出しながら競い合っています。食材も現地から仕入れることが多いので、高額になってしまう。その料理をそのまま高根沢で提供しても、単なる独りよがりで、受け入れられないと思ったんです。高根沢には、身近においしい野菜がたくさんある。それを生かした親しみやすいイタリア料理を届けたいと考え、あえて『食堂』と名付けました」 たとえば、サラダビュッフェ(上写真)では、高根沢産の野菜を、茹でる、蒸す、焼くなどシンプルな調理法で提供。店内では、高根沢の野菜とともに、パスタやオリーブオイル、塩などを販売するコーナー(下写真)を設けている。 「高根沢の野菜は素材が本当にいいので、あえて余計な手は加えないようにしています。塩とオリーブオイルで野菜そのもののおいしさを味わう、イタリアの食文化も楽しんでいただけたらと思っています。また、ここで食べておいしいと感じていただいた料理を、自宅でも気軽につくれるように食材も販売。このお店から地域の野菜の魅力を発信していくことで、高根沢の農家と人をつなぐ役割も果たしていけたらと考えています」 地域とともに成長していく店でありたい 高根沢に移住して何よりもよかったのは、食材をつくる農家と直接話ができることだ。 「高根沢には、農業に取り組む若い人たちが数多くいます。そんな彼らとともに、食材の魅力を生かした加工品を開発していきたい。味の追求はもちろん、パッケージもおしゃれに仕上げることで、一緒に高根沢ブランドを築いていけたらと思っています」 そんな6次産業化の成功モデルをつくり、農業のイメージアップを図っていくことで、農業をやってみたいという担い手が増えるのではないか。また、新たな産業や雇用を生み出すことで、地域の魅力が高まっていけばと、照井さんは考えている。その第一歩として、今年の春に、若手農家とともにイタリアを訪れ、向こうの農業や食文化などを体験する研修旅行を実施した。 「高根沢に来て一番変わったのは、『地域のために』という視点が生まれたこと。このお店は、いろんな方にサポートしていただいたおかげでオープンすることができました。だからこそ、このお店を通じて高根沢を元気にしていきたい。これからヴェッキオ・トラムが、地域とともに成長していくのが楽しみです」

農業は“最高に楽しい接客業”

農業は“最高に楽しい接客業”

金子洋次さん・公乃さん

野菜の花など、新たな価値を畑から提案 「じつは、この黄色いゴーヤの花も食べられるんですよ」 そう金子洋次さんにすすめられて口に運ぶと、シャキシャキとした食感とともにゴーヤのほのかな苦みが口じゅうに広がった。 東京から那須町に移り住み、新規就農を果たした洋次さん・公乃さん夫妻は、アーティチョークやビーツなどの西洋野菜と、一般的な季節の野菜を無農薬・無化学肥料で栽培。季節の野菜は車で5分ほどにある「道の駅 東山道 伊王野」やマルシェなどで販売。一方、西洋野菜は、主に那須高原のレストランに出荷している。それだけではない。キュウリやインゲンの花をはじめ、あえて小さいサイズで収穫したピーマンやニンジン、オクラなどもレストランに届けている。 洋次さん:「例えば、キュウリやインゲンの花はこんなに小さいのに、食べると確かにその野菜の味がする。このギャップが、食べる人の感動につながります。そんなレストランのシェフが求めるものを、畑からどんどん提案していきたい。農地を拡大し生産量を増やすのではなく、今ある畑のなかで新たな価値を数多く創造することで、経営を成り立たせていくことを目ざしています。何よりもこのやり方のほうが楽しいんです!自分たちが種をまき育てたものを、その喜びのまま提案できる。僕は農業のことを、“最高に楽しい接客業”だと思っています」 最近では、那須高原のレストランのシェフたちが、畑を訪れる機会も増えている。 洋次さん:「実際に畑を見てもらいながら、『ゴーヤの花はこんな料理に使えそう』『小さいキュウリは、このサイズのものがほしい』などシェフと情報交換を行い、僕たちも勉強を重ねていくことで、最終的にレストランで出される料理の質を高めることができます。こんなふうにシェフと連携できるのも、市場には並ばない小さな野菜や花を届けられるのも、物理的な距離が近いからこそ。那須地域には、単に地元産の野菜を使うだけにはとどまらない、“新たな地産地消のカタチ”を生み出せる可能性があふれているんです」 移住者の仲間や、地域の人たちに支えられて 東京にいた頃、洋次さんはアパレルの販売を、公乃さんはスタイリストの仕事を手がけていた。二人のうち最初に移住に興味を持ったのは、公乃さんだった。 公乃さん:「彼の実家が、埼玉県の山に囲まれたところにあって、帰省する度にまわりの自然や生き物たちに癒やされていて。だんだんと自然が身近にあるところで暮らしたいなって思うようになったんです」 洋次さん:「僕は、大量に生産して大量に販売するというアパレル業界の仕組みに違和感を覚えるようになり、自分の手で一から育てたものを販売する農業に、漠然と関心を持つようになりました。二人で話し合い、妻の父親が建てた家が那須町にあったこともあり、この地への移住を決意したんです」 2010年2月に移住後、洋次さんは「道の駅 伊王野」(下写真)で、公乃さんは那須高原にある「那須高原HERB's」というハーブとアロマのお店で働き始める。 洋次さん:「最初に道の駅に飛び込んだのは、直売所で販売を担当させてもらうことで野菜について学びたいと考えたからです。農業について全く知識のない自分をひろっていただき、道の駅のみなさんには本当に感謝しています。ここで働かせてもらえたことで、地域のみなさんに僕たちのことを知ってもらうこともできました」 少しずつ地域に馴染み始めたころ、東日本大震災が発生する。原発事故による影響もあり、農業を諦め那須を離れる人たちがいる中で、二人がここに残る決意をしたのは、移住者の先輩や仲間たち、そして地域の人たちの支えがあったからだ。 洋次さん:「『アースデイ那須』の実行委員を通じて知り合った、隣の芦野地区で地域のハブとなるようなゲストハウス『DOORz』を営む田中麻美さん、佐藤達夫さん夫妻をはじめ(下写真)、アースデイ那須を立ち上げた『非電化工房』の藤村靖之さんや、妻が勤めていた那須高原HERB'sさんを中心に、『那須いろ野菜』というブランドを立ち上げたメンバーたち、震災後、農産物が売れなくなる中で、放射性物質の検査を行ったうえでオーガニック野菜を販売する『大日向マルシェ』を立ち上げた仲間たちなどなど。震災後の困難な状況を乗り越えようと活動する先輩や仲間たちの姿を目にし、みなさんと一緒にこの那須で頑張っていきたいと強く思ったんです」 公乃さん:「伊王野地区のみなさんの支えも本当に心強かったです。例えば震災直後、ガスが使えずに困っていると、地域の方が火鉢に火を起こしてくれたり、発電機を使って井戸の水をくみ上げてくれたり、感謝してもしきれないほど助けていただきました」 就農を目ざす人たちの“モデル”となるために 2011年4月から1年間、洋次さんは栃木県農業大学校が手がける、UIターン者などを対象とした「とちぎ農業未来塾」で研修を受けたあと、有機農家を見学して回り技術を学んだ。さらに、伊王野の地域の人たちからも多くのことを教わった。 洋次さん:「例えば、一般的な種まきの時期は調べることができますが、この地区での適期は教科書にもインターネットにも載っていないんです。だから、道の駅に野菜を出荷しにくる農家の先輩方や、隣のおばあちゃんなどに何度も聞いて、失敗を繰り返しながら年間の栽培スケジュールを組み立てていきました。地域のみなさんは種をくださったり、『この苗はあるけ?』と聞いてくれたり、とても親切に教えてくれて。みなさんから学んだことも、大切に受け継いでいけたらと思っています」 2012年4月に新規就農してからは、道の駅の直売所で野菜を販売。大日向マルシェやアースデイ那須などに出店するうちに、そこに野菜を買い付けに来ていたレストランのシェフと出会い、だんだんと今のスタイルが形づくられていった。また、オーガニック野菜を求める一般の人とのつながりも広がり、直接「野菜セット」の販売も行っている。このように自分たちならではの農業を追求している二人だが、もちろん壁にぶつかり悩むこともある。 公乃さん:「本当は初夏には梅を漬けたり、冬には大根を漬けたりと、季節に寄り添った暮らしをしたいのですが、畑仕事に追われてなかなか手が回りません。今はまだ『こうなりたい』という暮らしからはかけ離れてしまっているけど、目標を忘れずに現実の問題を一つ一つ解決していきたいです」 洋次さん:「二人で相談して、この夏、はじめて週1日アルバイトの方に来てもらいました。悩んでいても何も始まりません。この那須地域だからこそできる理想の農業と暮らしの両方を実現するために、新たなチャレンジを続けていきたい。そしていつか、自分たちを見て『ここで農業をやってみたい』と思ってくれる仲間が増えていったらいいなと思っています」 那須に移住してもうすぐ6年、二人は今、必死に悩みながら前に進もうとしている。これから那須地域で就農を目ざす人たちのモデルとなるために。

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