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ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

ここ宇都宮を“着物のまち”に

ここ宇都宮を“着物のまち”に

荻原貴則さん

着物を楽しむ、すそ野を広げていきたい 階段をあがり長い廊下を進むと、大正・昭和初期の家具に彩られた空間が広がる。そこにずらりと並ぶのは、1000点以上に及ぶ着物や帯など。その豊富さだけでなく、すべてが正絹(絹100%)で、価格は5400円以下というところにも驚かされる。 「我ながら、安いなと思いますね(笑)。『着物に興味はあるけど、なかなか敷居が高くて』という方が、楽しむための第一歩にしてほしい。また、せっかく楽しんでいただけるのなら、本物を手に取ってほしいと思い、平成の初めころまでにつくられた絹の着物を厳選して揃えるようにしています」 そう話すのは、「きものHAUS」の店主の荻原さん。宇都宮で60年以上続く呉服屋の長男として生まれ、大学進学を機に東京へ。卒業後、一旦はアパレル会社の営業として働くが、数年経験を積んだのち着物の道に進んだ。 修業に入ったのは、銀座や伊豆に店を構える中古着物買い取り・販売店。北は青森から南は四国まで、全国各地の個人宅へ着物の買い取りに回るとともに、月に1度はデパートなどで催事も開催するという、なかなかハードな3年半を過ごした。 「最終的には、新宿タカシマヤで開催した催事の仕入れから値付け、販売までを、すべて任せてもらいました。着物を見る目や知識などはもちろん、経営者としての視点も叩き込んでいただき、本当に感謝しています」 こうして修業を終えた荻原さんだが、そのまま実家の呉服屋には入らず、自らお店を開くことを選んだ。 「着物離れが進むなかで、新たな挑戦をしていかなければ、呉服屋自体が成り立たなくなってしまう。その一方で、若い女性のなかにも『着物にあこがれている』『着付けを習ってみたい』といった潜在的なニーズは確実にあると思うんです。まずは、そのすそ野を広げることが重要だと考えています」 花魁姿の女性約70人が、オリオン通りを練り歩く 独立の場所として、荻原さんが選んだのは、地元・宇都宮だ。 「着物の大規模なセリ市場が開かれる東京に比較的近く、都内に比べて家賃が安い。さらに、リサイクル着物の競合店がほとんどなかったことも、宇都宮を選んだ理由です」 最初の店は、「haus 1952」という古民家を改装したシェアハウスの一室で開店したが、2年ほどで手狭になり、2018年2月、現在の場所に移転オープンした。 「というのも、当初、市内の着付け教室や着物のリメイク教室などをすべて調べて、とにかく営業に回りました。ありがたいことに、それをきっかけにお客様が口コミで広がり、3年以上経った今でも、毎月のように来てくださるリピーターの方が多くいます」 荻原さんは、着物を楽しむ機会を日常的に増やしていきたいと、これまでに参加者全員が着物をまとい、和太鼓の演奏と日本酒を堪能するイベントなどを定期的に開催してきた。 さらに、2018年12月8日(土)には、宇都宮市の中心部にあるアーケード街のオリオン通りを、約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」というイベントを企画。着付けや衣装は、ニューヨークや京都などでも花魁道中を行った実績を持つ「時代衣裳おかむら」が担当。加えて、和小物や飲食、ライブイベントなど、さまざまなブースやステージが用意されている。 「宇都宮には、なにか新しいことに挑戦しようと動き出すと、その気持ちを受け取って協力してくれる人、一緒に楽しんでくれる人が多いと感じています。東京ほど街が大きくないぶん、人と人との距離感が近く、つながりやすいところが魅力。今回のイベントでも、さまざまな方が協力してくれました」 今後は、「宮魁道中」を毎年恒例のイベントに育て上げ、宇都宮を“着物のまち”にしていきたいと考えている。 「何よりも自分たちが楽しむこと。それが結果的に、宇都宮の街を元気にすることにつながっていけば、これほどうれしいことはないですね」 本物の職人技や日本の文化も、大切に伝えていきたい きものHAUSのロゴにもなっている模様(上写真)は、実は伝統的な着物の柄で“破れ格子”と呼ばれ、荻原さんがもっとも好きな柄の一つ。規則的な格子を崩したこの柄には、「秩序を破る」といった意味がある。 「江戸時代であれば、この柄の着物をまとっているだけで打ち首になったと言われています。いわゆる、“傾奇者”が覚悟をもって身に着けた柄です。このように着物の柄には一つひとつ意味があり、それを身にまとうことで自分を律したり、心意気を表現したりする。そういった着物ならではの伝統的ないい部分も伝えていきたい」 実家の呉服屋では、京都で280年続く帯の老舗「誉田屋源兵衛」の展示会を毎年開催するなど、伝統的な職人技を受け継ぐ、上質な商品を中心に扱っている。ゆくゆくは荻原さんも、そういった一流の商品を紹介する店を営むのが目標だ。 「実は中学生のころ、105歳まで帯をつくり続けられた名匠、山口安次郎さんが手がけた帯を目にしたとき、モヤモヤしていた気持ちが晴れ渡ったような気がしたんです。当時は、山口安次郎さんがどのような方かは分からなかったのですが、その素晴らしさに、とにかく感動したのを覚えています。今思えば、それが着物の世界に進んだ原点。現在は着物人口を増やすことに力を入れつつ、将来的には職人の本物の技や日本の文化を伝えることに、少しでも役立てたらうれしいです」

点と点がつながって、大きな輪に

点と点がつながって、大きな輪に

渡辺直美さん

1年かけて商品化した「日光彫の御朱印帳」 開け放たれたその窓からは、借景の美しい緑が眺められる。ここは、日光東照宮の門前。表参道からは1本離れているが、それでも国内外から訪れた多くの旅行者が、お店の前を行き交う。 「すみません。“神橋”は、こっちですか?」 そう旅行者に聞かれて、「TEN to MARU」の店主・渡辺さんは丁寧に道を案内する。 「いつも扉をオープンにしているから、みなさん気軽に立ち寄ってくれて。よく道も尋ねられます。それをきっかけに、会話が弾むことも。そんな何気ない触れ合いが楽しいですね。このお店が、街の案内所のようになっているのがうれしい!」 店内に所狭しと並ぶ商品のなかでも、人気は御朱印帳。伝統工芸である〝日光彫〟の老舗「村上豊八商店」とコラボして、女性職人と約1年かけて一緒に商品化したのが「日光彫の御朱印帳」だ。表紙には、「榀(シナ)」の木の合板などを使い、そこに日光ならではの〝眠り猫〟や〝神橋〟などの図柄をあしらっている。 「日光彫は、ヒッカキ刀という独特の刃物を使い、細く繊細な線から力強い線まで自在に表現できるのが魅力です。従来の日光彫では、おぼんや手鏡、花瓶など、家のなかで楽しむものが中心でしたが、御朱印帳ならいつも一緒に持ち歩くことができる。もっと身近に日光彫を楽しんでほしいという思いを込めて、『一緒に旅する日光彫』と名付けて発信しています」 その隣に置かれているのは、御朱印帳ケース。御朱印帳は、寺院と神社を分けて使っている人も多く、「2冊を一緒に持ち運べるケースがあったら」という渡辺さんのアイデアをもとに、宇都宮で帆布を使ったバッグや小物を手がける「1note(ワンノート)」と一緒に形にしていった。好きなカラーを選んで、オーダーすることができる。 さらに、本サイトでも紹介させてもらった「mother tool」のモビールや「秋元珈琲焙煎所」のコーヒー豆のほか、日光で続く「小野糀」の塩糀や味噌、同じく日光の「だいもん苺園」のジャム、「李舎(すももしゃ)」のどうぶつ組み木など、日光や栃木県でつくられた品々が並べられている。といっても、扱う商品を〝県内のもの〟と限定しているわけではない。 「ここから広がっていった人との出会いやつながりを大切に、多くの人に紹介したいと感じたモノを全国からセレクトするようにしています」 その言葉どおり、棚には鹿児島県の「ONE KILN(ワンキルン)」のドリッパーやシーリングランプ、お皿なども並んでいる。 人と出会い、つながっていくのが楽しい! 実は、渡辺さんは鹿児島県の出身で、2006年に結婚を機に、ご主人の地元である栃木県に移り住んだ。最初の3年ほどは宇都宮で、その後、日光に暮らしてもうすぐ10年になる。転機となったのは、日光にある木工房「Ki-raku」が、2013年にオープンしたギャラリーを手伝い始めたことだった。 「やっぱり人と出会って、つながっていくのが楽しくて。実は、宇都宮では東武百貨店の婦人服売り場で働いていて、鹿児島でも販売の仕事をしていたんです。今思えば、もともと好きだったんですよね、接客の仕事が」 だんだんと「自分のお店を開きたい」という思いが強くなり、実際に物件を探し始めたのが2015年初めのこと。もちろん不動産屋も訪れたが、もっと地域の生の情報が知りたいと、渡辺さんは日光にある飲食店や居酒屋などに足を運んだ。そのなかで知り合ったのが、日光で食事処「山楽」を営む、古田秀夫さん(上写真)。古田さんは、「二社一寺だけではない日光の魅力をゆっくり体感してほしい」と、自転車によるアウトドア体験型ツアーやレンタサイクルショップ「Fulltime」も運営している。 「古田さんが、『ここでやりなよ!』と言ってくれたが、この場所。もともとレンタサイクル『Fulltime』の店舗で、いまも自転車の貸し出しをしています。ちなみに、古田さんのお店『山楽』さんは斜め向かいなんです」 古田さん:「最初は、お店の前にずらりと自転車が並んでいたんですが、だんだん奥に追いやられてしまって(笑)。でも、それでいいんです。これまでになかった新しいジャンルのお店を渡辺さんがここでやってくれて、商店街全体が元気になっていくことが大切だから」 「TEN to MARU」がオープンしたのは、2015年9月のこと。店内の改装は、「Ki-raku」が手がけてくれた。 大切なのは、勇気を持って一歩を踏み出すこと 自分のお店を開いたことで、人とのつながりはさらに広がっていった。東京から日光を訪れ、たまたまお店に立ち寄ってくれた建築ライターの紹介で、運営に参加するようになったのが「ペチャクチャナイト」だ。これは、2003年に東京でスタートしたトークと交流のイベントで、20枚のスライドそれぞれに20秒ずつコメントしていくというコンパクトなプレゼンスタイルが特徴。現在、1020都市以上で開催されており、渡辺さんは「ペチャクチャナイト日光」の実行委員長を務めている。 「TEN to MARUで知り合った魅力的な方に登壇してもらったり、ペチャクチャナイトでつながった方にお店でイベントを開催してもらったり、『日光には魅力的な活動をしている人が、こんなにもたくさんいるんだ』と改めて実感しています。同時に、ペチャクチャナイトでは、外からも面白いアイデアを持った人たちが、日光を訪れてくれます。それが刺激となって、例えば、他の地域の人と日光の人がコラボした新たな商品が誕生したりと、さまざまな化学反応も生まれています」 これまでに日光では、ペチャクチャナイトを3回開催。今後は、毎回よりテーマを絞って開催していけたらと考えている。一方、お店については、これまでと変わることなく、人との出会いやつながりを大切にしていきたいという。 「日光へは、日本中、世界中からたくさんの人が訪れてくれます。そのなかから、『面白そうだから、日光に住んでみたい!』と、移住してくれる人が増えていったらうれしいですね。私もそんな相談を受けたときに、人を紹介したり、情報を提供したりと少しでも〝架け橋〟になれるよう、これからもネットワークを広げていきたいです」 鹿児島から知り合いのほとんどいない栃木へ移り住み、「お店を開くために自ら一歩を踏み出したことで、どんどんと人とのつながりが広がっていった」と振り返る渡辺さんは、次は誰かが一歩を踏み出す応援ができたらと考えている。 「私がお店に挑戦できたのも、それを理解し、応援してくれた主人や3人の子どもたちのおかげです。だから、これまでと変わらず、普段の暮らしも大切にしていきたいです」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

多くの人の日々に、寄り添うパンを

多くの人の日々に、寄り添うパンを

池田絵美さん

おいしいだけでなく、体がよろこぶパンを 毎年、春と秋に開催されている「益子陶器市」の会場となる城内坂通りを抜け、共販センターの先を右へ。坂道を少し登った森のなかに、小さな山小屋のような建物が見えてきたら、そこが「日々舎」だ。 緑色のかわいい扉を開けると、焼きたてのパンのおいしい香りに包まれる。日々舎を訪れたのは、オープン前の朝10時ころ。奥の工房では店主の池田絵美さんが、前日の夕方に仕込みを行い、ひと晩じっくりと発酵させた生地を成形し、年代物のガスオーブンで次々とパンを焼き上げていく。お店が開店する11時には、カンパーニュやライ麦40などのハード系のパンをはじめ、ベーグルやマフィン、クッキーなどが店頭にずらりと並んだ。 池田さんが目指してるのは、「おいしいのはもちろん、体がよろこぶパン」をつくること。それは、「自分たちが毎日食べたいパン」でもある。 そこで、パンづくりの素となる酵母は、レーズンや酒粕などの身近にある素材からおこし、ずっと掛け継いできた自家製酵母を使用(下写真は、オープン前から掛け継いできたレーズン酵母)。その自家製酵母と国産小麦をベースに、もっちりしっとりとした食感で、噛みしめるほどに旨みや風味を感じられるパンに仕上げている。また、野菜や果物はなるべく地元産のもの、有機栽培のものをセレクト。サンドイッチにはさむキャロットラペをはじめ、あんこや柚子ピールなどの具材も、すべて手づくりしている。 「おいしく体にも優しいパンを毎日丁寧にコツコツつくることで、みなさん日々に寄り添うようなパンになったらいいなと思っています。『日々舎』という名前には、そんな思いを込めました」 健康的な暮らしを目指し、東京から益子へ 子どもの頃から料理が好きで、大学に進んでからは、「健康的な食事」にどんどんと興味がわいてきたという池田さん。卒業後は、オーガニック系雑誌の編集部に就職。それから2年が過ぎたころ、「自分が届けたものへの反応を、もっと直接知りたい」と思うようになり、渋谷でオーガニックカフェの立ち上げからかかわり、料理や天然酵母のパンづくりを担当してきた。 「仕事は充実していたのですが、毎日がとても忙しくて。自分自身の暮らしから健康的なものにしたいと考え、自然が身近なところでの暮らしに興味を持つようになったんです」 ちょうどその頃、編集者として働いていたときから気になっていた益子のオーガニックカフェで募集が。池田さんは思い切って応募し、2006年に益子へ移り住んだ。そのオーガニックカフェでは、主にスイーツを担当。2年半にわたり経験を積んだ。その後、結婚、出産を経て、日々舎をオープンしたのは2014年10月のことだ。(下写真の男性は、カフェ&ギャラリー、宿泊施設である「益古時計」を営む神田さん。池田さんがパン屋を開くための物件を探していた際に、益古時計の敷地内にある建物を紹介してくれた) 「益子には陶芸をはじめ、さまざまなものづくりに打ち込む魅力的な人が多くて、いい刺激をいただいています。お店を開くなら、やっぱり益子がいいなと思っていました。また、これまでオーガニックの料理やパン、スイーツなどを経験してきたなかで『パン』を選んだのは、夫婦ともに自家製酵母のパンが好きで自宅でも焼いていて、一番興味があったからなんです」 常に同じ仕上がりになるよう、生地と対話しながら 自家製酵母によるパンづくりの面白いところであり、難しいところでもあるのは、日々の気温や湿度、水温などによって、味も仕上がりも変化する点だという。 「気温が高い夏はどんどん発酵が進むのに対し、冬は発酵に時間がかかります。そこで、例えば夏場は生地を冷蔵庫にしまい、ゆっくりと発酵が進むように調整します。逆に冬場は冷蔵庫には入れず、室温で発酵させます。特に難しいのが季節の変わり目。常に同じ仕上がりになるよう、気温や水温の管理や調整にはすごく気を使いますね」 このように手間ひまをかけさまざまな工夫を凝らし、じっくりと生地を発酵させるからこそ、味わい深く口どけのいいパンに仕上がる。今ではその味に惚れこみ、宇都宮や水戸、東京などの遠方から訪れるリピーターや、オンラインショップで繰り返し注文してくれる人が増えている。 「そんなリピーターの方から『あのパンが美味しかったよ』と言っていただいたり、ネットでの注文の際にメッセージをいただいたり、お客様一人ひとりの声が励みになっています」 益子に暮らす魅力的な人たちをお手本に オープンから3年目を迎え、だんだん新たに挑戦したことが見えてきた。将来的には、イートインスペースがあるカフェのようなパン屋を、ここ益子でつくりたいと池田さんは考えている。 「実は、うちの自家製酵母パンや全粒粉ベーグルは、しっかり中までふんわりと焼くことで、よりおいしく味わうことができるんです。今でも口頭やホームページでおいしい食べ方をお伝えしていますが、さらに、実際にお店で提案していけたらと考えています」 そんな次の一歩を踏み出すためには、まずはここ益子で自分たちの仕事や暮らしを確立していくことが大切だと感じている。 「益子には、自分で仕事を生み出しながら、暮らしも楽しんでいる人が多くて。そんなみなさんをお手本に、私もパンづくりに打ち込みながら、季節ごとに梅干しを漬けたり、味噌を仕込んだり、暮らしも丁寧につくっていきたいと思っています」

農家の右腕という新たな働き方

農家の右腕という新たな働き方

佐川友彦さん

グローバル企業から一転、ローカルな梨農家へ 宇都宮市で3代にわたり続く「阿部梨園」。そこで働く佐川友彦さん(下写真右)は、マネージャーとして経営改善から企画、PR、会計、事務、労務、システムまで、生産以外のすべての業務を担当している。 群馬県館林市出身の佐川さんは、東京大学農学部、同大学院を卒業後、外資系メーカーで研究職として、宇都宮市で2年間、茨城県つくば市で2年間働いてきた。そんな佐藤さんがグローバル企業から一転、ローカルで働くことを選んだのは、どんな理由からだろう? 「以前の仕事では、地元の方とかかわる機会がほとんどなくて。もっと自分が暮らす地域と深くかかわる仕事がしたい。また、事業全体を見渡す経験を積みたいと思い、転職を決意したんです」 実は、佐川さんは次の仕事が決まる前に、宇都宮へ戻ってきた。 「就職して最初に宇都宮で働いていたときに妻と結婚したのですが、その頃に今でも仲のいい友達が多くできて、ここが自分たちの居場所になっていたんです。また、宇都宮は栃木県の中心ということもあり、面白い企画の情報や魅力的な人たちが集まってくる。地方でありながらも、これからの自分の成長につながるような刺激が得られるところも、宇都宮を選んだ理由の一つです」 こうして宇都宮へ移り住み、ネットで仕事の情報を探していたとき、「NPO法人とちぎユースサポーターズネットワーク」が手がける、若者の力を活かして地域を元気にする実践型インターンシップの取り組みを知る。そのなかで、地域と深くかかわり、経営全体を経験できそうだと感じた、阿部梨園のプログラムに応募することに。 小さなことに忠実に向き合い、400を超える改善を実施 当初、阿部梨園のインターンシップで求められていたのは、イベントの企画といった新たな顧客や売上を生み出すことを目指した外部向けの取り組みだった。しかし、最初の数週間、阿部梨園の業務を体験するうちに、佐川さんは、それよりもまず取り組むべきことがあると感じたという。 「阿部梨園の梨は本当においしく、たくさんのお客様から愛されている一方で、経営や組織については多くの個人農家がそうであるように自己流で、至るところに改善点があると感じました。今後、阿部梨園が生き残っていくためには、まずは組織の内側を鍛えることが重要だと感じ、代表の阿部(下写真右)やとちぎユースサポーターズネットワークの岩井さん(下写真左)と話し合い、プログラムのテーマを『経営と組織の改善』に変えることになったんです」 そこで、事務所の掃除から始め、売上や顧客データの管理、スタッフの管理、業務の流れや販促物の見直しまで、インターンシップ期間中に70件の改善を実施。2015年1月に阿部梨園に入社してからも含めると、400件以上の改善に取り組んできた。 「改善といっても、多額の費用かけて大きな変化を起こすのではなく、『小さなことに忠実に向き合う』を大切に、できるところから少しずつ改善を重ねてきました。その結果、今ではスタッフのキャリアプランやコンプライアンスなどの分野にまで、取り組めるようになってきました」 こうした改善を実現できたのも、代表の阿部さんが信頼して任せてくれたからこそだと、佐川さんは考えている。 「これまでの経営や会計の内側をすべてオープンにしたうえで、改善点を指摘されることは、阿部にとって辛い部分もたくさんあったと思います。それでも阿部は、信頼してすべてをさらけ出してくれました。だからこそ、僕も結果を出さなければならないと、全力で改善に取り組んできました。インターンシップが終わった後、入社を決めたのは、阿部と一緒に仕事をしていきたいと思ったからなんです。その思いは、今も変わりません」 また、スタッフも労力や時間を割き、改善に積極的に取り組んでくれた。 「今ではようやく、当初のテーマだった新たな顧客や売上を生み出すためのチャレンジに、本腰を入れられる体制が整ったと感じています」 新たな客層にも、阿部梨園の梨を知ってもらうために 阿部梨園では、約20種類の梨を栽培。夏から秋の収穫シーズンには、事務所の前に販売スペースが設けられる。それに加えて、ウェブショップやFAXによる注文など、ほぼすべての梨を直接販売している。 「店頭に買いに来てくれるのは常連の方が多く、20年以上にわたり、毎年来てくださる方もいます。こうした常連さんを大切にしていく一方で、新たな客層にどうやって『阿部梨園の梨』を発信していくか、購入してもらえるようにしていくかについても、考えていかなければなりません」 そのための取り組みのひとつとして、本サイトでも紹介している下野市の「GELATERIA 伊澤いちご園」とコラボレーションして、阿部梨園の梨を使ったジェラートを商品化。「普段とは違うお客様にも、楽しんでもらえる商品が実現できた」と佐川さんは語る。 ここで培ったノウハウを、農業界に還元していきたい まさに“農家の右腕”として働く佐川さんだが、このような新たな働き方は、栃木でなければ実現できなかったと感じている。 「阿部やとちぎユースの岩井さんをはじめ、栃木ではさまざまな人が各地域で新しいチャレンジを続け、情報交換をしたり、コラボしたりと密に連携している。そんなみなさんのこれまでの活動があったからこそ、僕は今、“農家の右腕”という新たな仕事に取り組めているのだと思っています」 これまでは畑に出ることはなく、農家の右腕として現場を支えてきた佐川さんだが、今年からは少しずつ生産にも携わっていく予定だ。その目的は、現場チームと経営の融合。佐川さんが現場に加わることで、より連携した一枚岩のチームをつくり上げることができる。さらに、現場の実情や作業内容を把握することで、効果的な改善が可能になると考えている。 「阿部梨園だけでなく、多くの個人農家が同じような悩みを抱えています。これからは多くの個人農家が楽しく生き延びていくために、阿部梨園で培ったノウハウを農業界に還元していくことが目標です」

日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

日々を丁寧に、栃木暮らしを満喫中!

小栗恵子さん

横浜、東京を経て、地元の宇都宮へUターン この日の朝、小栗さんと待ち合わせたのは、週に数日、ウォーキングを楽しんでいるという、宇都宮市の街なかにある「栃木中央公園」(上写真)。そのあと、公園からほど近い「光琳寺」へ(下写真)。光琳寺では、毎月1日に誰でも参加できるラジオ体操と朝参りを行っていて、小栗さんは母親とよく参加しているという。「地域の幅広い年代の方たちと交流できる、いい機会になっています」と話す。 さらに、このあと訪れた「White Room COFFEE」や、中央公園そばの自家焙煎コーヒーショップ「FRENCH COFFEE FANCLUB」などのカフェをはじめ、雑貨店やパン屋、古書店などを巡るのも好きだという小栗さん。お気に入りのカフェなどで知り合った友人たちと一緒に、県内にとどまらず、茨城や群馬など県外のカフェにもよく足を運んでいる。 こんなふうに、栃木暮らしを満喫している小栗さんだが、「一度、宇都宮以外での暮らしも体験したい」と横浜の大学に進学し、4年間を過ごした。その後、「自分なりに地域に貢献できる仕事に就きたい」という思いを胸に就職活動を行い、全国で地域に根差した雑貨店を運営する会社に就職。最初に配属された宇都宮の店舗で3年間経験を積んだあと、バイヤー職として東京へ。 宇都宮の店舗で働いていたころ、よく訪れていたカフェが「伊澤商店」だ。そこで、「自分から一歩踏み込んで興味を持つことで、店主やそこに居合わせたお客さんとの距離が知縮まり、人のつながりが広がっていく楽しさ」を知った。 「でも、東京での3年間は仕事一色の生活で、もちろん得られたこともたくさんありましたが、カフェを巡ったり、音楽や映画を楽しんだりという自分の好きなことは、置き去りになっていました」 そして、2013年、小栗さんは宇都宮へのUターンを決意する。 「体調を崩したこともあったのですが、趣味の時間を大切にしたり、新たな何かを学んだり、自分の好きなもの、興味があることに、丁寧に向き合っていきたいと思ったことが、Uターンを決めた大きな理由です」 栃木には魅力的な場だけでなく、それを上手に楽しむ人も多い 宇都宮に戻ってから、小栗さんは大学で学んだ法律の知識を活かし、市内の土地家屋調査士事務所に勤めている。その仕事内容は地域に根差したもので、「地域に貢献したい」という思いは、雑貨店で働いていたころから変わらないという。 そして、休日にはカフェを巡ったりするなかで、偶然の出会いから始まる人とのつながりが増えていった。例えば、行きつけのカフェでたまたま居合わせた女性と意気投合し、一緒にカメラのワークショップに参加したり、同じカフェで、よく訪れる地元の映画館「ヒカリ座」のスタッフと知り合い映画館のイベントに参加したり、SNSを通じて知り合った作家さんに名刺入れ(下写真)をつくってもらい、その後、共通の趣味である山登りやトレッキングツアーに参加したり、自分の好きなことを大切に、一歩踏み込んで人と接することで、同じ興味を持つ仲間との出会いがどんどんと広がっている。 「地元に戻って感じたのは、栃木では宇都宮だけではなく各市町に魅力的なお店があり、それぞれがイベントや情報発信など、新たな挑戦をしているということ。例えば、マルシェやクラフトイベントはもちろん、各地の古書店が集うイベントや音楽イベント、ワインや日本酒を楽しむイベントなど、『小さなワクワク』があらゆるところに散りばめられていて、共通の趣味や興味を持つ人と仲良くなるきっかけがたくさんあります」 さらに、同時に感じるのは、暮らす人の受信力の高さ。 「栃木には、アンテナの高い方が多くて。もともと栃木に住んでいる人、移り住んだ人、また年代や性別にかかわらず、新たな情報をうまくキャッチし交換しながら、栃木暮らしを満喫している人がたくさんいらっしゃいます」 その情報の範囲は、県内にとどまらない。「お店どうしは、けっこう県をまたいで交流している」と小栗さんが話すように、栃木のお店が茨城や群馬のイベントに出店することや、その逆もあり、小栗さんもドライブがてら、県外のイベントへ出かけることもあるという。 「栃木県は北関東の中心にあり、茨城や群馬、埼玉などの近県にアクセスしやすく、自然と自分のフィールドが広がっていくところも大きな魅力ですね」  (取材中に立ち寄った、光琳寺近くにある「BAKERY SAVORY DAY」にて) 日々の出会いと、好きなことに丁寧に向き合いながら 最後に訪れた「White Room COFFEE」では、栃木に戻ってきてから出会った友人たちと一緒に食事を楽しんだ。 「彼女たちのように栃木での暮らしを満喫している人や、私と同じようにUターンして、外での経験を生かし魅力的なお店を営んでいる人に会うと、本当にたくさんの刺激を受けます。『自分も何かに挑戦してみたい』という気持ちが、自然とわいてくるんです」 高校時代は吹奏楽部で、大学時代はビッグバンドジャズサークルでトロンボーンを吹いていた小栗さん。これからは、「ジャズの街」と呼ばれる宇都宮で、もう一度、楽器を始めてみたいと考えている。 「これからも日々の出会いを大切に、自分の好きなことに丁寧に向き合いながら、栃木での暮らしをもっともっと楽しんでいきたいです」

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

大好きな温泉を通じて、地域を元気に

水品沙紀さん

初めてのアルバイトも、卒論のテーマも「温泉」 「私が温泉に興味を持ったのは、旅行好きな母親の影響が大きくて。休日には、家族で温泉をはじめさまざまな場所へ出かけていたんです」 そう話すのは、2年間閉館となっていた日光市中三依にある「中三依温泉 男鹿の湯」を、25歳の若さで復活させた水品沙紀さん。千葉県出身の水品さんは子どものころから温泉が大好きで、高校2年生のときには、近所の温泉施設に「働かせてください」とメールするほどだったという。実際には受験が終わり大学へ進学してから、その温泉施設でアルバイトをスタート。このころから日本の名湯百選を巡り始め、現在までに国内外1000カ所以上の温泉へ足を運んだ。さらに、卒論のテーマも温泉。まさに筋金入りの温泉好きだ。 「私は、大衆演劇も好きで。健康ランドで公演することが多い大衆演劇の役者になれば、いろいろな温泉施設を知ることができ一石二鳥だと思い、ある劇団に体験入団して、岡山や福島の温泉施設を巡ったこともあるんです」 大学を卒業後は、埼玉県内を中心に温泉施設を運営する会社に就職。温泉施設で働きながら、運営や経営についても学んだ。そこで2年半働くなかで、「自分の目線で温泉施設を運営したい」「泉質のいい場所で施設を持ちたい」という思いが大きくなっていった。そんなとき、SNSで「男鹿の湯 オーナー募集」の記事を目にする。水品さんはすぐに連絡を取り、男鹿の湯へ向かった。 地元の人の温かさと、のどかな環境にひかれ中三依へ 2015年9月、初めて中三依を訪れた水品さんは、ひと目でここの雰囲気が気に入った。 「男鹿の湯から歩いて3分ほどにある無人駅をはじめ、チェーン店がなく個人商店がぽつぽつと続く様子など、のどかな町の雰囲気に一目ぼれしました。温泉の裏にある男鹿川(下写真)の水も本当にきれいで。ここは観光地ではないですが、古き良き里山の風景がそのまま残っている。きっと都会に暮らす人の中には、こうしたのどかな環境でゆったりと過ごしたいという人も多いのでは、と思ったんです」 こうして「男鹿の湯 オーナー募集」に応募した水品さんだったが、一番不安だったのは、ボイラーなどの機械がちゃんと動くのか、修理にどのくらいのお金がかかるのかということだった。それを業者に調べてもらうとしていたちょうどその頃、豪雨が発生し、風呂場と機械室が泥水に浸かってしまった。 「大変な状況の中、地元の方々が集まり、泥の撤去作業を手伝ってくださいました。みなさんの温かさ、この温泉を大切にしたいという思いに触れて、なんとしても復活させたいと思ったんです」 そこで水品さんは、クラウドファンディングを活用して資金を集め、機械や内装を修復。そんな開店準備を、家族や友人をはじめ、地元の人たちも手伝ってくれた。営業許可申請も無事にクリアし、2016年4月、ついに「男鹿の湯」を復活させた。 この地域ならではの魅力を生かした、新たなプランを 「男鹿の湯」には温泉施設のほかに、コテージやバーベキュー場、キャンプ場が併設されており、水品さんはすべての運営を手がけている。オープンした当初は、日帰り温泉の利用者が大半だったが、ホームページなどで、中三依の魅力を発信するうちに、週末にはコテージが予約で埋まるように。 「できれば、ゆっくりと3泊ぐらい滞在していただきながら、美しい男鹿川や里山を散歩したりと、のんびり過ごしていただけたらと思っています」 温泉の1階には「おじか食堂」があり、水品さんの中学高校の同級生で、運営をともに手がける豊島さんが打った「十割そば」などが味わえる。そばは、100%地粉を使用。添えられた温泉を煮詰めた温泉塩をつけて食べると、よりそばの味と香りが引き立つ。また、「おじか食堂」ではお酒も提供していて、地元の人が集まる憩いの場となっている。 「自治会や消防団など、地域の集まりがあるたびにここを使っていただいて。地元のみなさんにも受け入れてもらえているのが、本当にありがたいなと思っています。今後は、渓流釣りやキノコ狩りなど、この地域ならではの遊びを学んだり、周囲の魅力的なお店と連携したりして、中三依をより楽しんでもらえる新たなプランを提供していきたいです」 さらに、将来的には温泉で病気を癒やしたり、仕事のパフォーマンスを上げたりと、日常的に“温泉の力”を活用するライフスタイルを広めていくことが目標だ。 「日本には都市部から離れているために、あまり利用されていない、いい温泉がたくさんあるんです。そんな極上の温泉を、より多くの人に楽しんでもらいたい。そのために、温泉情報の発信も手がけていけたらと思っています」

地域に開かれた工房を目指して

地域に開かれた工房を目指して

大山 隆さん

生活の中にものづくりの現場がある風景を 「はじめて溶けた状態のガラスに触れたとき、衝撃を受けたんです。普段の涼やかな印象とは真逆で、熱くエネルギッシュで刻々と姿を変えていく。一気にその魅力の虜になりました」 それは大山隆さんが美大進学を目指し、予備校に通っていた頃のこと。それから20年近く経った今も感動は色あせることなく、ますますガラスの魅力にひきつけられている。 和菓子職人の家に育った大山さんは、小さな頃から絵を描いたりすることが好きだった。予備校に通っていた頃、講師の工芸家に陶芸や金工、ガラスなどの制作現場を案内してもらう。そのなかで“吹きガラス”に強くひかれ、富山ガラス造形研究所に進学した。 「当時、10代だった自分にとって、工芸家の先生との出会いも衝撃的でした。その方は、金属で野外に展示するような巨大な作品を制作している工芸家で、生活のすべてが制作や表現を中心に回っている。一つの素材を一生かけて探求していくような生き方に憧れを感じていたとき、出会ったのがガラスだったんです」 富山ガラス造形研究所で2年間、基礎となる技術を学び、静岡のガラス工房で4年間、さらに富山の工房で5年間働き経験を積んだ。どちらの工房も仕事の空いた時間で自分の作品を制作でき、「とても恵まれた環境だった」と振り返る。その後、大山さんは栃木県内で物件を探し、2011年に鹿沼市で「808 GLASS」を設立。「808」という屋号は、実家が営む和菓子屋の「山屋」から名付けた。 工房があるのは、観光地やガラスの産地でも、山のなかでもない、“街なか”だ。 「例えば、子どもたちが毎朝、工房をのぞきながら学校へと向かう。そんな生活の中にものづくりの現場がある風景を、制作の様子を感じてもらえるような環境をつくりたかったんです」 シンプルで使いやすく、美しい光をまとう作品を 取材当日、工房で制作の様子を見学させてもらった。まず驚いたのは、ガラスを溶かす窯や作業台などは、すべて大山さんの自作だということ。独立直前の2年間、富山の工房で窯のメンテナンスなどを担当していた経験が生かされている。 大山さんは、1200度にもなる窯から溶けたガラスを手際よく竿に巻き付け、空気を吹き込んでいく。さらにガラスを巻き付け、空気を吹き込むという工程を何度か繰り返し、目指す大きさになったら型吹きを行い、模様をつけていく。わずか15分ほどで、きれいに輝くガラスの器ができあがった。 この作品(下写真)は、当初からつくり続けている「flower」というシリーズ。制作で大切にしているのは、 “透明度”だ。 「ガラスを再利用するときに不純物が混ざっていると、色がついてしまうんです。だから、徹底的に取り除くようにしています」 もう一つ、大切にしているのは、“使い心地”。作品は一度形にしたうえで、自分たちで使いながら改良を重ねていく。 「吹きガラスは技術職の面が大きく、技術や素材に対する表現の探求は欠かせません。でも、そればかりを追い求めてしまうと、自己満足に陥ってしまう。だからこそ、実際に使っていただいている方の反応や声を取り入れながら、自分たちでも使って、妻からも厳しい意見をもらいながら(笑)、一つひとつ丁寧にものづくりをしています。目指すのは、長く生活の中で使えるもの。デザインはなるべくシンプルに、かつ技術の追求は続けながら、美しい光をまとう作品を届けたいと思っています」 ガラスと人、人と人が出会う場所に 工房の横には、大山さんの作品がそろうショップがあり、予約制で体験教室も開催。大山さんに教えてもらいながら、オリジナルデザインの作品をつくることができる。 鹿沼に移住してから、大山さんはこの地で長年続く「鹿沼秋祭り」に参加。すると、だんだんと地域の人たちも工房に立ち寄ってくれるようになった。「鹿沼で制作を行う魅力は?」とたずねると、次のように話してくれた。 「鹿沼には、普段からお世話になっている『アカリチョコレート』さん(下写真)をはじめ、個人が営むお店が多く、料理人や焙煎士、木工職人など、真摯にものづくりに打ち込む方がたくさんいます。ジャンルは違えど、その姿勢や思いなどから多くの刺激をいただいています」 工房に訪れる人たちの声から、新たな作品も生まれている。例えば、カラフルなグラスは、当初は5色のみを用意していたが、お客さんの声をとり入れるうちにどんどんと色数が増え、現在では24色のシリーズに。 「自分の作品に、お客さんの声という別の要素が加わり作品が進化していく。それはとても新鮮で、刺激になっています。街に開かれた工房を目指したことで、ここが『素材と人』、『人と人』が出会う場所になりつつあるのが嬉しいですね。これからも体験教室などに力を入れ、ガラスの魅力を発信していきたい」 これから独立を目指す、若手作家の受け皿に 大山さんには、これから力を入れていきたいことが二つある。一つは、制作過程でどうしても出てしまう廃棄されるガラスの再利用だ。 「美しいものをつくろうとする半面、廃棄しなければならないものが出てしまうという矛盾を、当初からなんとかしたいと考えていました。まだ実験段階なのですが、新たな設備をプラスし、魅力ある作品を生み出すことで、素材を循環させる仕組みをつくっていきたい」 もう一つ力を入れていきたいのは、ガラス作家を志す若手が働ける場をつくること。今年から一人、スタッフを入れる予定だ。 「自分がそうさせてもらったように、仕事が終わった後に自分の作品もつくれるような環境を届けていきたい。それによって、少しでもこの業界に貢献できたらと思っています」

目指すのは、地域に役立つレストラン

目指すのは、地域に役立つレストラン

照井康嗣さん

高根沢の野菜をふんだんに使った本格イタリアン 高根沢町にある「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」を訪れたのは、平日の午後1時半頃。それにもかわらず、店内は多くの人で賑わっていた。お客さんのお目当ては、栃木県産小麦「ゆめかおり」で打った自家製の生パスタランチ。高根沢産の新鮮な野菜が10種類以上味わえる、サラダビュッフェが付いているのも人気の秘密だ。 「高根沢では農業が盛んで、玉ねぎやカブ、ニンジンなど、馴染みのある野菜が抜群においしいんです」 そう話すのは、店主の照井康嗣さん。大学の頃から海外で働くことに憧れていた照井さんは、「イタリア研修旅行あり」という募集を目にし、地元・埼玉県熊谷市にあるイタリアンレストランで働き始めた。そこで5年間働きながら資金を貯め、語学を学び、2003年にイタリアへ。 国立のホテル学校で基礎を学んだ後、イタリア各地の郷土料理を学ぶために、まずは最高品質のワインの生産地として知られるピエモンテ地方へ。その後、アドリア海に面したマルケ地方で海の幸を生かした料理を、山岳地帯のアルト・アディジェ地方で山の料理を経験。星付きレストランを中心に、計5年間修業した。 帰国後は、南青山や六本木などのイタリアンレストランで8年間、シェフを務めてきた。そんな照井さが高根沢町への移住を決心したのは、どんな理由からだろう? 「実は、東京のレストランで働いていた頃から高根沢産の野菜を料理に使っていて、移住前からそのおいしさを実感していました。修業したイタリアの田舎町ような、豊かな食材が身近にある環境で店を持ちたいと考えていた私にとって、高根沢は最適な場所だったんです。また、実は下の子に障がいがあって、自然に囲まれた環境で子育てをしたいと思ったのも大きな理由の一つです。妻の育児の負担を考え、妻の実家がある高根沢を選びました」 野菜をつくる人と、食べる人をつなぐ場所に 2016年1月に高根沢町に移住した照井さんは、事業計画書をまとめたり、物件を探したりと、開店準備を急ピッチで進めた。そんななか高根沢町の職員と出会い、「創業支援事業計画」のことを知る。これは、町と商工会、農協、金融機関などが連携して創業を後押しする制度。照井さんは経営や財務などの講座を受講したほか融資の支援も受け、この制度の第一号として、2016年9月に「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」をオープンした。 店名は、イタリアに渡り初めて働いたレストランの名前からいただいた(上は、店内に飾られたイタリア修業時代の写真)。「ヴェッキオ・トラム」とは、イタリア語で「古い路面電車」という意味。田園風景のなかを烏山線が走る、高根沢の環境にぴったりだと感じたという。また、「食堂」と名付けたのにも理由がある。 「東京では各レストランが、イタリア料理なかでも『この州の郷土料理』といった特色を出しながら競い合っています。食材も現地から仕入れることが多いので、高額になってしまう。その料理をそのまま高根沢で提供しても、単なる独りよがりで、受け入れられないと思ったんです。高根沢には、身近においしい野菜がたくさんある。それを生かした親しみやすいイタリア料理を届けたいと考え、あえて『食堂』と名付けました」 たとえば、サラダビュッフェ(上写真)では、高根沢産の野菜を、茹でる、蒸す、焼くなどシンプルな調理法で提供。店内では、高根沢の野菜とともに、パスタやオリーブオイル、塩などを販売するコーナー(下写真)を設けている。 「高根沢の野菜は素材が本当にいいので、あえて余計な手は加えないようにしています。塩とオリーブオイルで野菜そのもののおいしさを味わう、イタリアの食文化も楽しんでいただけたらと思っています。また、ここで食べておいしいと感じていただいた料理を、自宅でも気軽につくれるように食材も販売。このお店から地域の野菜の魅力を発信していくことで、高根沢の農家と人をつなぐ役割も果たしていけたらと考えています」 地域とともに成長していく店でありたい 高根沢に移住して何よりもよかったのは、食材をつくる農家と直接話ができることだ。 「高根沢には、農業に取り組む若い人たちが数多くいます。そんな彼らとともに、食材の魅力を生かした加工品を開発していきたい。味の追求はもちろん、パッケージもおしゃれに仕上げることで、一緒に高根沢ブランドを築いていけたらと思っています」 そんな6次産業化の成功モデルをつくり、農業のイメージアップを図っていくことで、農業をやってみたいという担い手が増えるのではないか。また、新たな産業や雇用を生み出すことで、地域の魅力が高まっていけばと、照井さんは考えている。その第一歩として、今年の春に、若手農家とともにイタリアを訪れ、向こうの農業や食文化などを体験する研修旅行を実施した。 「高根沢に来て一番変わったのは、『地域のために』という視点が生まれたこと。このお店は、いろんな方にサポートしていただいたおかげでオープンすることができました。だからこそ、このお店を通じて高根沢を元気にしていきたい。これからヴェッキオ・トラムが、地域とともに成長していくのが楽しみです」

長く手元に置きたくなるデザインを

長く手元に置きたくなるデザインを

惣田紗希さん

より長く、その人の生活のなかにあるものを どこか切なく透明で、でも、奥底に強い意志を持っている。惣田紗希さん自身が“女の子”と呼ぶそのイラストをはじめて目にしたとき、そんなふうに感じた。 「この女の子は、誰でもなくて。描き始めたのは、あるコンテンポラリーダンスの映像を見たことがきっかけでした。同じ格好の女性が建物のなかでひたすら踊るシーンを目にしたとき、『体のラインがキレイだな』って思って。人の体を描きたいという思いから、半袖半ズボンになって、鼻と口が省略されていって……。最初は仕事とは別に、自分の日常の記録というか、考えを整理するために描いていたんです」 都内のデザイン事務所で、実用書などのデザインを手がけていた惣田さんは、2009年に退職。ちょうどその頃、友人に頼まれて「cero」というバントのジャケットデザインを担当したことをきっかけに、音楽関連のデザインを数多く手がけるようになった。仕事でイラストを描くようになったのも、CDジャケットがきっかけ。 「描きためていた“女の子”のイラストを、『ザ・なつやすみバンド』のメンバーが、『無機質だけどポップな雰囲気もあっていいね』と気に入ってくれて。ジャケットに女の子のイラストを描かせてもらったところから、キャラクターとして広まっていって。書籍や雑誌でのイラストの仕事も増えていったんです」 それまで、グラフィックデザイナーとして活動してきた惣田さん。イラストの依頼が増えるにつれて、「本業として経験を積んできたわけではないのに、自分がイラストレーターと名乗っていいのか」という葛藤もあった。 「でも、デザインの先人を見ると、自分でイラストを描き、デザインも手がけている人はけっこう多くて。どちらからの視点も、自分の仕事には大切な要素が多いことに気づいてからは、イラストの仕事も楽しくなってきました。今では、写真家やイラストレーターなど、いろんな人の力を借りて誌面をつくり上げるデザイナーの仕事も好きだし、イラストレーターとして誰かの力になることも面白いなって感じています」 現在、仕事の割合はデザインとイラストで半々。そのどちらの仕事をするうえでも、大切にしていることがある。 「音楽も本もデータで買える時代に、せっかくモノとして届けられるのなら、より長くその人の生活のなかにあり続けられるものをつくりたい。だから、『ジャケットを部屋に飾っています』『ブックレットを繰り返し読んでいます』などと言ってもらえたときは、本当に嬉しいんです」 惣田さんは、イラストを仕事で手がけるようになってから、1日1枚を目標にイラストを描き、SNSにアップしてきた。それられのイラストが韓国の出版社の目にとまり、『Waving Lines』という作品集として出版されている。 足利だからこそ生まれた、新たな作品 足利で生まれ育った惣田さんは、産業デザイン科に通っていた高校の頃、先生に『STUDIO VOICE』や『relax』などの雑誌を見せてもらい、デザイナーの仕事に憧れを持った。そして、桑沢デザイン研究所を卒業後、前述の都内にあるデザイン事務所へ。 「そこでは、グラフィックデザインの基本をみっちり学ばせていただきました。けれど、担当した本が、どんなふうに求められて、どんなふうに届いているのか分からないことが不安になって。一度デザインの現場を離れて、もう一度本まわりのことを勉強しようと思ったんです。本がお客さんの手に届く現場を見てみたくて、本屋さんで働いたこともありました。そのうちに、だんだん音楽関係の仕事が増えていって、フリーランスとして活動するようになりました」 それまで東京を拠点としていた惣田さんが、足利にUターンしたのは2013年春のこと。それ以降も、都内から依頼される仕事を中心に手がけている。 「都内で打ち合わせがあっても、足利からは特急で1時間、普通で2時間で行くことができるので、不便さはあまり感じません。むしろ東京にいなくても、自分で立てたスケジュールに合わせてのんびりと、面白い仕事ができることを日々実感しています」 自然が身近にある環境も、仕事にいい影響を与えてくれている。 「足利に戻ってからは、四季の移り変わりをはっきり感じるようになりました。例えば、仕事の息抜きによく散歩する渡良瀬川の土手も、季節によって緑の色が全然違うんです。それを記録するように描いていたら、自然と植物のイラストが増えていって。女の子と植物を組み合わせたイラストが、新たなテイストとして加わったんです」 若手作家が、気軽に作品を発表できる場所を足利に 2016年秋には、足利の「西門 -SAIMON-」というスペースで個展を開催。足利に戻ってから描きためた女の子と植物のイラストを中心に展示。紙だけでなく、木や布などの新たな素材にも挑戦した。 「木の絵を木材にレーザーで彫刻してみたり、風に吹かれる女の子を描いたイラストを布に落とし込んで、実際に布がゆれることで風に吹かれる様子を強調したり、いろいろな試みを盛り込みました」 20日間近くにわたり開催された個展には、「cero」や「ザ・なつやすみバント」のファンをはじめ、地元の若い人たちも多く足を運んでくれた。 「そんな子たちに話を聞いてみると、『足利には遊んだり、買い物したりするところがないから、市外や東京まで出かけている』という声が多くて。ちょっともったいないなって思いました。足利には『mother tool』さん(下写真)や『うさぎや』さんをはじめ、自家焙煎の喫茶店など、個性があって魅力的なお店や店主の方がたくさんいます。そんな足利の魅力を、もっともっと若い人たちに伝えていけたら」 現在、惣田さんは、共に受験した桑沢デザイン研究所を一緒に卒業し、同じフリーランスのグラフィックデザイナーとして足利にかかわっていこうとしている友人とともに、個展を開いた「西門」の活用法を考えるプロジェクトにも参加している。 「足利には本格的な美術品を扱う画廊はあるのですが、若手の作家が作品を発表できるところは少なくて。『西門』が若手の作家が気軽に展示やイベントを開催でき、若い人たちが立ち寄れたり、地元を離れている人が帰ってくるきっかけになるような場所にできればと考えています」

つくることの楽しさを、子どもたちに

つくることの楽しさを、子どもたちに

倉林真知子さん

一つとして同じものがない、作品との出会いを楽しんでほしい 布作家・倉林真知子さんのアトリエに一歩足を進めると、たくさんの色が目に飛び込んでくる。赤や青、黄緑など、ポップな色使いが、倉林さんの作品の魅力。さらに、問屋街を巡り探し出したデッドストックの布や革、古いボタン、さまざまな手芸店で入手した毛糸や刺繍糸など、素材の多くは一点もの。それによってつくられる作品は、どれもが世界に一つだけものとなる。 「例えば、ニット帽にアクセントとしてつけるタグやボタンの組み合わせ、つける位置なども、あえて少しずつ変えています。最近では木製の棒をカットして、ボタンも手作りしているんですよ。既製品のボタンのように均一な仕上がりではありませんが、逆に雑な感じが“味”になるんです」 さらに、アトリエではオーダーも受け付けている。例えば、バッグのデザインはそのままに、使う布の種類を変えてほしい、ここにポケットをプラスしてほしい、このボタンをアクセントにつけてほしいなど、自分だけの作品をつくってもらえるのだ。 「私の代表的な作品のひとつ『ループアクセサリー』(写真下)は、好きな糸の色や形をうかがって、その場で制作してお渡しすることもできます。アトリエに並んでいる作品は、あくまでも一つの提案。それをベースに、お客さん自身の遊び心も加えて、その方らしい作品を一緒につくれたらと思っています」 自分が楽しめてさえいれば、場所は関係ない 現在は布作家として活動する倉林さんだが、実は子どもの頃は手芸が苦手だった。 「それよりも、日曜大工が得意な父親の影響もあり、クギやトンカチが好きで、中学の頃から自分で机をつくったりしていました。手芸は苦手でしたが、色と色を組み合わせるのが大好きで、自然と洋服のコーディネートに興味を持つようになったんです」 東京の専門学校を卒業後、地元の下野市に戻り一旦は医療事務の仕事に就いたが、「やっぱり自分の好きなことを仕事にしたい」と、アパレル店に転職。販売の仕事を担当するも、強く興味をひかれたのはショーウィンドウのディスプレイや、店内全体をプロデュースする仕事だった。 もっとディスプレイや空間のコーディネートについて学びたいと、23歳で再び上京。最初に門をたたいたのは、知人が働いていた建築事務所。その後、横浜の帽子店で小物のディスプレイや見せ方の経験を積み、下北沢のシルバーアクセサリー店では、目標だった店内全体のコーディネートや、百貨店の催事に出店する際の企画、ディスプレイを担当。忙しくも、充実した時間を過ごした。 写真家と絵描きの友人と3人で、「ANT」の活動を始めたのもこの頃。倉林さんは、写真を撮影する際の洋服のコーディネートなどを担当。さらに布小物も制作し、イベントなどで販売していた。その当時からつくり続けているのが「鈴のアクセサリー」(写真上)。この作品が、栃木へ戻るきっかけを生み出してくれた。 「たまたま、宇都宮のイベントに出店していたとき、鈴のネックレスを宇都宮にある雑貨店『ムジカリズモ』のオーナーが目にしてくれて、『うちで作品を販売させてほしい』というお話しをいただいたんです」 当時は、ものづくりが自分の仕事になるとは、夢にも思っていなかった。 「でも、ムジカリズモさんに声をかけていただいたとき、これまで商品のディスプレイを考え、イベントの展示を企画し、宣伝なども手がけてきた経験は、そのまま自分のブランドを立ち上げても生かせるのではないかと思ったんです。また、『どこにいても、自分が楽しめてさえいれば場所は関係ない』と思えたことも大きかったですね」 こうして倉林さんはANTとして本格的に活動するために、栃木に戻る決意をした。 前に進むためには、つくりたいものをつくること 2004年に、下野市の実家にUターンした倉林さんは、両親に「1年でなんとかする」と宣言。その言葉どおり、1年後にはものづくりの仕事だけで暮らしていけるようになった。 「当時は、朝起きてから夜寝るまで1日中、制作していました。でも、全然苦ではなくて。自分の好きなことを仕事にするために、全力をかけて頑張りたかったんです」 作品をつくるうえで大切にしているのは、とにかく自分が楽しむこと。 「制作が義務になってしまうと、きっと何も生まれなくなってしまう。だから、自分がつくりたいもの、身に付けたいものをつくることが根本にあります。もちろん、個展の前や毎年参加している益子の陶器市の直前には、制作に追われて楽しいアイデアが出てこなくなることもある。そうならないためにも、あえて『自由に制作する日』を設けるようにしているんです」 作品のインスピレーションはどこから? とたずねると、「最近は、絵本や写真集からが多いですね」という意外な答えが返ってきた。 「絵本のなかで配色が美しいページだったり、写真集で外国のカラフルな街並みだったりを見ると、その色使いを作品で表現したくなるんです。色の組み合わせが大好きなのは、子どもの頃から変わらないですね。作品をつくるうえで、これまでのディスプレイや空間のコーディネートなど、すべての経験が役立っています」 この場所だからこそ始まった、ものづくりイベント 結婚後は、宇都宮の街中にあるご主人の実家でしばらく暮らしていたが、子育てを考え、より自然が身近なさくら市へ。ご主人の親戚の生家で、10年ほど空き家になっていた古民家の味わいある雰囲気が気に入り、自宅兼アトリエに選んだ。ここへ移り住んでよかったのは、周囲に自然が多いのどかな環境でありながら、幼稚園や小中学校、塾をはじめ、スーパーや病院など、生活に必要なお店や施設が近くにそろっていること。移動に時間を取られることがないため、その分を作品づくりに充てることができる。 さらに嬉しいのは、やはり自然が身近にあることだ。 「私たち家族は外遊びが好きで、週末には公園にシートと編み物セットを持っていって、息子を遊ばせながら、私はシートのうえで編み物をしたり、本を読んだりしています。地域のみなさんは温かく、子どもを見守ってくださるので、安心して外で遊ばせることができます」 自宅の前には大きな庭があり、息子さんは泥んこになりながら、虫を捕まえたり、葉っぱを拾い集めたり、外遊びを満喫している。その姿を見て生まれたのが、「にわのひ」というイベントだ。「家に閉じこもってゲームなどをするのではなく、子どもたちに自然の中でものづくりを楽しんでほしい」との思いから、自宅の庭に信頼する作り手を招き、ワークショップを中心としたイベントを毎月開催。今ではさくら市の後援を受け、氏家駅前広場などで実施している。さらに、2015年からは毎年夏に、さくら市ミュージアム勝山公園で「もりのひ」というイベントも行っている。 「『もりのひ』では作家さんたちが出店するブースやゲート、看板なども、身近な素材である段ボールを使って、みんなで手作りしています。そのコンセプトは、『にわのひ』と変わりません。これからもANTの活動と並行して、子どもたちにものづくりの楽しさを届けていけたらと思っています」 (↑ 2016年11月に開催された「にわのひ」のDM写真。男の子は、いつも倉林さんのアトリエの庭や、「にわのひ」などのイベントに出店している、「WANI Coffee」の店主の息子さん)

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