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日常にワクワクを!

日常にワクワクを!

王生雄貴さん

その瞬間にしか味わえない、生きたライブを その日、即興ライブを行うという「Cafeくりの実」(栃木県下野市)を訪ねると、王生さんは他のお客さんと同じようにカウンターに座って、野菜が鮮やかに盛られたカレーを食べているところだった。 「流しでライブをやるときは、事前にお店の雰囲気を感じておかないと、なかなかうまく演奏できないんです。臆病なので(笑)」 そう謙遜する王生さんだが、お客さんの様子を目にしたり、会話を耳にしたりすることで、その場所に合った、その瞬間だけの生きたライブになる。実際のゲリラライブを見させてもらい、そう強く実感した。 以前、「ベリーマッチとちぎ」でも紹介した布作家の倉林真知子さんが手掛けた衣装を身にまとい、バイオリンを奏でながら王生さんが登場すると、店内には笑顔があふれた。 「リクエストのある方はいらっしゃいますか? ぼくの頭のなかで曲が流れれば、そのまま弾くことができます!」と王生さんは、リクエストされた曲を即興で演奏。お客さんも楽しそうにバイオリンを奏でる王生さんにつられて、手拍子がどんどん大きくなっていく。 そしてライブを終えると、お客さんのなかには目に涙を浮かべる女性が。聞けば、リクエストした曲が、1年前に若くして亡くなられた息子さんをイメージした曲で、息子さんのことを思い出したとのこと。「今日、偶然訪れたカフェで素敵な演奏を聴くことができて、本当にうれしかったです」と、その女性は話してくれた。 2年にわたり全国を旅して栃木県へ 現在、王生さんは「Philharmony Wedding(フィルハーモニーウエディング)」というエンターテインメントな空間演出に特化した楽団を運営し、カフェやバー、式場、イベント会場など、あらゆる場所でライブを開催。バイオリンの演奏だけでなく、ジャグリングやタップダンス、バルーンなどのパフォーマーとコラボした演出も手掛け、栃木県を拠点に全国各地でワクワクを届けている。 そんな王生さんが姉とともにバイオリンを習い始めたのは3歳のころ。それからもさまざまな習い事に挑戦したが、高校卒業まで続いたのはバイオリンだけだった。歌うことも好きで、ポップシンガーを目指して19歳で上京後、縁あってレゲエの道へ。バイオリンを奏でながらボーカルも務めるという、独自のポジションを確立。有名ミュージシャンのレコーディングに参加したり、ライブで共演したりと活動の幅を広げていった。 「けれど、憧れていた人たちと一緒に演奏ができるようになると、『失敗したらどうしよう』『嫌われたらどうしよう』と余計なことばかり考えるようになって。純粋に音楽が楽しめなくなってしまったんです」 そこで、24歳で「日本一周流しの旅」へと出かけたのは、最初に述べたとおりだ。王生さんは全国を駆け足で回るのではなく、訪れた街に一定期間暮らすように滞在し、近隣のバーなどで流しのライブをして旅の資金を得て、またヒッチハイクで次の街へ移動するという日々を過ごしていた。 「各地を巡るなかで、全国に一生付き合える友達をつくることが目的でした。そういったつながりが、今後の人生や音楽活動の財産になると思ったんです」 こうして訪れた栃木で、王生さんは奥さんのめぐみさんと出会い、結婚を決意。「流しの旅」を、ここで終えたのだった。 豊かな暮らしと、音楽に没頭できる環境を栃木で実現 「とっておきの場所があるんです」 そう言って王生さんは、近所にある森に囲まれたツリーハウスのような場所へ案内してくれた。高台にあって田んぼが見渡せ、木々の間を抜ける風が心地いい。 「誰がつくったのかわからないのですが、時々おじゃまさせてもらって、ここでバイオリンを弾くと、とてもリラックスできるんです。全国を巡って、それぞれの街にはそれぞれの良さがあることを感じました。そのなかで、栃木ならではの良さといえば、こんなにも自然が豊かなのに、東京へも気軽に行けるところだと思うんです」 さまざまな刺激が得られる東京も魅力的だが、生活するのはゆったりとした田舎がいいと、以前から考えていた王生さんにとって、栃木県はうってつけの場所だった。 自宅に戻ると、めぐみさんが料理に取りかかっていた。この日は、夕方から友達家族を招いてバーベキューを開催。土間のある開放的なリビングにつながる庭で、大勢でバーベキューができるのも、ゆったりとした敷地が確保できる田舎だからこそ。肉と一緒に焼く野菜は、自分たちで育てたものだ。 この家は断熱性や気密性が高く、隣の家ともある程度離れているので、リビングでバイオリンやギターを演奏しても、近所まではほとんど聞こえないという。そのうえ、家の一角には、王生さん専用の「音楽室」も設けられている。 「どんなに大きな音を出しても、外には聞こえません。こうやって作曲や練習に没頭できる環境があるのは、本当にありがたいこと。東京などの都会では、なかなかこういった空間は、確保できないと思うんです」 路上ライブが日常的に行われる、文化を根付かせたい 全国を巡る旅を終えて、変わったこともあるが、変わらなかったこともある。 「それは、自分でいうのもなんですが、ポップな性格です。旅に出る前は、音楽好きの玄人が集う世界のなかで、ポップな自分の性格はコンプレックスでした。けれど、2年間の旅を経てもこのキャラクターは変わらなかった。ならば、それを生かせることを仕事にしようとたどり着いたのが、日常にワクワクを届ける『フィルハーモニーウエディング』の活動だったんです」 現在、王生さんは音楽活動に加えて、別の仕事にも就いている。めぐみさんと結婚して長男が誕生し、就職したばかりのころは、その仕事にやりがいを見いだせず、腐りかけたこともあった。 「ライブで、『日常にワクワクを』と言っているのに、自分がワクワクしていないな……と思って。もう一度、街角やカフェ、バーなどでバイオリンを即興で演奏する“弾き流し”を、県内をメインに毎週のように行っているんです」 そうやって弾き流しの活動を続けることで、ミュージシャンが路上で演奏することを、当たり前と感じてもらえるような文化を根付かせていきたい。多くの人の日常に音楽が調和し、ワクワクがあふれるような世の中にしていきたい。そう願いながら、王生さんは今日もどこかでバイオリンを奏でる。

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

鹿沼の人や自然、文化に魅了されて

武藤小百合さん

自分が惹かれた街で、暮らしを楽しみたい 武藤さんが鹿沼に移り住むきっかけとなったキーパーソンの一人が、新鹿沼駅前にあるレンタサイクルショップ「okurabike」の鷹羽(たかのは)さんだ(下写真左)。武藤さんは、okurabikeが主催するサイクリングツアーに何度か参加し、鹿沼の魅力に触れたことで移住を決意。さらに、移住後も鷹羽さんに街のことを教えてもらったり、プライベートでも相談に乗ってもらったりと、とてもお世話になっていて、武藤さんは“鹿沼のママ”として慕っている。 そんなokurabikeのサイクリングツアーで鹿沼を巡りまず感じた魅力が、身近に広がる自然だ。 「街中から自転車で少し走るだけで田畑や里山が広がり、きれいな川が流れる豊かな自然に出会えます。例えば、新鹿沼駅から自転車で10分ほどにある『出会いの森総合公園』は(下写真)、春には大芦川沿いの桜並木がとても美しく、5月下旬から6月上旬にはホタルも見られます。自然と人が共存しているところに、とても惹かれました」 もう一つ感じた鹿沼の魅力が、いきいきと暮らす街の人たち。サイクリングツアーで出会った、400年の歴史を持つ麻農家が営む「野州麻紙工房」の店主や、秋まつりに登場する彫刻屋台が展示されている「屋台のまち中央公園」の方をはじめ、カフェや飲食店を開業したり、新たなことに挑戦したりしている人たちも多く、個性豊かで面白い街だなと感じた。 「鹿沼はもともと人が行き交う宿場町だったこともあり、移り住む人に対してウェルカムな雰囲気があり、新しいことに挑戦する人をあたたかく応援してくれます。何よりも皆さんとても優しく、一人で移り住んでもなんとかやっていけそうだなと感じました」 さらに、長年受け継がれている街の文化にも強く惹かれた。サイクリングツアーでは、絢爛豪華な彫刻屋台が鹿沼の街を練り歩く、歴史あるお祭りを特等席で見学。街の人たちが一丸となって文化を継承している姿に心震えた。 武藤さんは、これまで客室乗務員として、いろいろな地域を訪れ、さまざまな街を目にしてきた。そこで感じたのは、「どこに行っても変わらない暮らしはできる」ということ。 「東京は確かに便利ですが、地方でも必要なものはそろうし、どこへ行ってもそれほど変わらない生活ができる。だとしたら、自分が惹かれた街で、惹かれた人たちと、したい暮らしをすることが大切なのではないか。そう思って、鹿沼へ移り住むことを具体的に考え始めたんです」 東京の郊外に引っ越すような感覚で 人と自然、文化に加えて、東京からのアクセスの良さも、鹿沼に惹かれたもう一つの理由だ。「新鹿沼駅」からは、特急で都心まで1時20分ほど。これまで、羽田や成田へ1時間半ほどかけて通勤していた武藤さんにとって、鹿沼は意外と近いと感じた。 「移住と言うと、山の中などへ一大決心をして移り住むイメージがありますが、私にとって鹿沼への移住はそれほど大袈裟なものでなくて、東京の郊外に引っ越すような感覚でした。鹿沼に限らず栃木県全体に言えることかもしれませんが、東京へのアクセスの良さが、移住を考える人にとって一つの魅力になっていると思います」 とはいえ、転職は大きな決心だった。締め切り数日前に見つけた市役所の採用試験に応募し、見事に合格したことで、鹿沼への移住は現実のものとして一気に動き出した。こうして2020年9月、武藤さんはこの街での新たな暮らしをスタートした。 鹿沼市役所の中でも、教育委員会事務局で働く武藤さんは、主に奨学金貸付業務と入札業務を担当している。 「部署の上司や同僚たちは、鹿沼歴が浅い私のことをとても優しくフォローしてくださいます。仕事のことはもちろん、鹿沼のことも、もっともっと詳しくなって、地域の役に立てる職員になりたいです」 日々の小さな喜びの積み重ねが、QOLを高める 鹿沼に移り住んでからは、市役所で働きながら、休日にはランニングやカフェ巡り、ボタニカルキャンドルづくり(下写真)を楽しんだり、日光や宇都宮まで車で出かけたり、ときには東京まで遊びに行ったりと、充実した毎日を過ごしている。 「私は移住とともに起業したり、新たにお店を始めたりしたわけではなく、平日は仕事をして休日に趣味などを楽しむという生活スタイルは、大きく変わっていません。それでも、日々の食事や通勤、ウォーキングなどの満足度が、ちょっとずつ上がり、全体として暮らしが豊かになったなと実感しています」 例えば、この街では、おいしい地元の食材が手軽に入手できる。自転車通勤の途中に美しい花が咲いていたり、虫がいたり、夜には星が見えたり、ときには雷が鳴ったり、四季の移り変わりを肌で感じながら生活できる。鹿沼には何かにチャレンジする人が身近に多く、自分も頑張ろうと刺激を受けられる。もちろん、家賃などが安いのもうれしいポイント。東京と同じ金額で、より広く新しい住まいに暮らすことができる。 こうした積み重ねが、いわゆるQOL(Quality of Life)の向上につながっている。 そして、移住して2年目の2022年に、武藤さんは結婚。ご主人も東京からこちらへ移り住んだ。 「主人はシステムエンジニアで、リモートワークが定着してきたことで、仕事を辞めることなく鹿沼に移住できました。彼はキャンプが趣味なので、これからはもっとアウトドアのアクティビティも満喫していきたい。2024年にはスノーピークが運営するキャンプフィールドが、鹿沼市にオープンするのもとても楽しみです!」 今後、数年間中止となっている「秋まつり」や、さまざまなイベントが開催されるようになったら、積極的に参加して、地域の人や移住者どうしのつながりをもっと広げていきたいと考える武藤さん。 「勇気を持って一歩を踏み出し、鹿沼でのコミュニティを築いていきたい。そして、これから鹿沼に移り住む人が、安心して移住できる環境をつくるなど、大好きなこの鹿沼に恩返しをしていきたいです」

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

大人も子どもも“やりたいこと”が広がる暮らし

冨永美和さん

Iターンで、小山市にマイホームを 山形生まれの山形育ち、就職も地元企業。同じく山形県出身のご主人と結婚したが、ご主人の勤め先が栃木県内の企業だったこともあり、結婚を機に山形を離れ、栃木県下野市へ。冨永さんが勤めていた会社は都内にもオフィスがあったため、そちらに転勤し、下野市から都内のオフィスへ通勤していた。 ご主人の転職に伴い、一度は茨城県古河市へ。その後、子どもが生まれたことで「家を建てたい」という想いが強くなった。 「山形に戻ることも考えましたが、今後のライフプランを考えた時に、関東にとどまることにしました。栃木県、茨城県、埼玉県で土地を探す中で、自分たちの理想にぴったりの場所を小山市に見つけ、念願のマイホームを建てることにしました。」 第二子出産とほぼ同じタイミングに家が完成し、家族4人での小山市暮らしがスタート。 「駅からそれほど離れていませんが、静かな土地で、周りには子どもの同級生も多いので、安心して子育てできます。日常生活に必要なものは15分圏内で全て揃うので、暮らしの利便性はとても良いですよ。」 また、一戸建てに住んで良かった、と今になって強く思うことがある。それは、子どもたちがとても元気なこと。 「息子たちの今のブームは“戦いごっこ”。喧嘩ではないのですが、何をしていてもすぐに戦いごっこが始まり、毎日大騒ぎです。アパートやマンションに住んでいたら、常にご近所さんのことを気にしていたでしょうね・・・(苦笑)」 子どもに色々なことを経験させてあげられる環境 住まいには庭もあるので、2021年春からは家庭菜園をはじめた。 「ナス、トマト、とうもろこし、ブロッコリーを植えました。子どもたちも野菜が育つ過程や収穫を楽しんでいます。ただ、とうもろこしだけは収穫直前に鳥に食べられてしまいました。植えれば採れるというものではないこと、どうすれば無事に収穫できるか、など、失敗から学べることもありました。」 そして今年の夏は初めてカブトムシを飼うという経験もした。 「子どもたちは昆虫が大好き。毎日餌やりなど世話をしていました。生き物なので、お別れもありますが、生き物を育てることの難しさや楽しさを学んでくれたと思います。」 そして、これからは「アウトドア」にも挑戦してみたいという。 少し前からご主人の趣味が登山やキャンプになり、休日はアウトドアを楽しんでいる。 「せっかく身近にこれだけの自然環境があるのだから、そろそろ子どもたちもアウトドアデビューさせたいと話しています。」 県内には小さなお子さん連れでも登りやすい低い山から、本格的に登山を楽しめる山まである。川遊びやキャンプなども各地で楽しめるので、アウトドア好きにとって行き先に困ることはない。 「毎日外を走りまわって、笑って過ごしていることだけで十分ですが、身近でいろんな経験ができるので、その都度成長を感じられます。」 親が選んだこの地で、子どもたちも楽しく過ごせていることもシンプルに嬉しいという。 遊びに行ける場所の選択肢が多い 子どもが小さい頃は、市内で開催されるマルシェや近所の公園に行くことが多かったが、成長に伴い遊ぶ場所も変化してきた。 ご主人もいる週末は、一日は近場で、一日は遠出するというのが最近の過ごし方。 「近場では、市内のショッピングモールや、近隣市町の公園に行きます。遊具が充実した公園は子どもたちのお気に入りで、毎回行き先を変えることで飽きずに楽しんでくれます。」 遠出の場合は、那須エリアにあるファミリー向けテーマパークや、茨城県、群馬県に足を伸ばすことも。高速を使えばどこへ行くにも1時間程度なので、行き先に困ることはないという。 「調べてみると、宇都宮市や佐野市の商業施設にも、キッズスペースが充実しているところがあるみたいで。子どもを遊びに行かせるだけでなく、大人も買い物を楽しみながら、子どもも楽しめるというのは良いですよね。」 情報通の冨永さん。普段の情報収集については、「イベントなどは、市内のお気に入りのお店のS N Sをフォローして、出店情報をチェックして把握しています。子どもの遊び場は、友人が調べたものを教えてくれるんです。」 友人というのも、小山市に移住して来られた移住者仲間。 冨永さんが移住してきた当初、市が主催している移住者交流会『welcome! Oyama beginner』に参加したことをきっかけに、地元のキーパーソンや移住者同士とつながることができた。その時に知り合ったママ友とは、普段から情報交換をしたり、子どもと一緒に遊びに行くこともあるという。 「小山市はイベントが多いですが、最近はイベントで地元の方と交流するより、家族と公園や遠出して過ごすことが多かったなと気づきました。気になるお店もどんどん増えていますし、原点回帰でまたイベントに参加したいですね。」 子育てしながら在宅でできる仕事を 2022年春まで、都内の会社に在籍していた冨永さん。 会社がテレワークを導入していた際は、子どもと触れ合う時間が十分確保でき、仕事と子育てのバランスが非常に理想的だったという。しかし春にコロナが落ち着いたタイミングでテレワークが終了。会社との話し合いも重ねたが、子どもの幼稚園入園のタイミングとも重なり、一度子育てを優先する決断をし、退職した。 「仕事はしたいと思っているので、情報収集はしています。私も驚きましたが、在宅で働くことを望む主婦向けの求人情報って、栃木には意外とたくさんあるんです。」 働き方の変化に伴い、求人情報も世の中のニーズに合わせたものに変化している。 「在宅のみの仕事であれば、通勤アクセスを気にせずに、仕事内容で選ぶことができます。これからは、より一層栃木での暮らしを満喫しながら、仕事も子育ても充実させていきたいですね。」

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

家づくりを通じて、豊かな「地縁」を紡ぎたい

髙山 毅さん

代々商売をしてきた壬生の地で、暮らしと営みを 左は米穀店だったころの法被、右は「壬生町史」。 「これを見てください」と髙山さんが開いてくれたのは、明治の頃、壬生の町内にあった商店の名が記録された「壬生町史」だ。そこには、鍛冶屋、薪炭商、桶屋、左官などがずらりと並ぶ中で、「銅鐡打物商」として髙山さんの曽祖父の名と屋号紋が記されている。当時の屋号紋は、「澤デザイン室」の上澤裕一さんによってリデザインされ、山十設計社のロゴ(下写真)として、今も受け継がれている。 現在、髙山さんのアトリエと住まいがあるこの場所は、壬生城址にほど近い中心市街地にあたり、髙山家では代々この地で商売を手がけてきた。 「曽祖父が金物商、祖父がお米屋、父が紙器と、生業はそれぞれ違うのですが、代々ここに暮らし、商売を営んできました。だから、私もこの地を受け継ぎ、ここで生活しながら仕事をするというのが、自然なこととして頭にあったんです」 髙山さんは一人っ子で、両親が年齢を重ねてから誕生した子どもだったため、親の介護をする時期もおのずと早いだろうと自覚していたことも、Uターンを選んだ理由の一つだった。 顔が見える関係を大切に、地域ならではのつながりを 山十設計社のホームページを開くと、次のようなメッセージが記されている。 「衣・食・住の縮図である“家”づくりを通じて、モノと人が循環する地域ならではの『地縁』を紡いでいきたい――」 こうした髙山さんの思いのルーツも、生まれ育った壬生町にある。 「例えば、昔は、先ほど見てもらった鍛冶屋や桶屋などの商店が並んでいて、近所のお店で買い物をしたり、馴染みの職人さんに仕事を頼んだりというのが、日常だったと思うんです。私は今でも、おいしいものを食べたいときは行きつけのお店で店主とおしゃべりしながら味わったり、車のメンテナンスは同じ整備士さんにずっとお願いしていたり、顔が見える関係を大切にしています。そんな地域の豊かな人のつながりを、家づくりを通じて再び育んでいけたらと考えているんです」 近くにあるイタリアン・レストランの「Fill kitchen」(フィルキッチン)にて。 その挑戦の一つが、この土地の風土や気候に適した、つくり手の顔が見える道具や素材を発信する「てびき」という取り組みだ。 髙山さんは、家は建物だけでは完成しないと考えている。丁寧な暮らしを楽しんでいきたいと思ったとき、家という器だけでなく、そこで使う道具や、ふだん食べるものなど、衣・食・住すべての要素が大切になってくる。 「かぬちあ」の中澤恒夫さんによるタオルハンガー。 だからこそ、様々なつくり手と山十設計社のプロダクト「てびき」では、那須塩原市の金工作家「かぬちあ」の中澤恒夫さんが手がける靴べらやタオルハンガー、フックをはじめ、益子町に2015年に創業した手仕事集団「星居社」がつくる今の暮らしに馴染む神棚などを、自社のホームページで発信。それだけでなく、佐野市で90年以上続く「日本プラスター」の漆喰などの素材も紹介している。 「ただ、これらはオンラインでは販売していなくて。家づくりなどを通じて、顔が見える関係になった方だけに提供しています。それは、やはり山十設計社で建てる家をきっかけに、豊かな『地縁』を広げていただきたいと考えているからです」 刺激を与え合う、異業種のつながりから生まれた「octopa」 「octopa」の4人。左から上澤さん、髙橋さん、髙山さん、荒井さん。 もう一つ、目指すベクトルが同じ異業種の人たちとのつながりを大切に始まった取り組みが、「octopa」(オクトパ)だ。宇都宮市で「古道具あらい」を営む荒井正則さんと、芳賀町で「mikumari」という名のカフェを開く髙橋尚邦さん、那須烏山市を拠点に活動するグラフィックデザイナー「澤デザイン室」の上澤裕一さん、そして髙山さんの4人がメンバー。古き良きものを、衣・食・住をテーマに今の暮らしに馴染むものとして再現し、“フルダクト”として提案している。 「例えば、アームライトやミシン椅子など、デザイン性に優れたアンティークをリプロダクトしたものだったり、昔ながらの保存食にヒントを得たソースや調味料の瓶詰めだったり、4人それぞれの得意分野を生かして、現代に合うものとしてつくり出しています」 また、octopaとして、これまでに日本最大級のアンティーク・マーケット「東京蚤の市」に出店するほか、黒磯の「1988 CAFE SHOZO」や益子町の「スターネット」などのカフェでも、食とクラフト、アンティークをテーマにしたイベントを開催してきた。現在では、古道具あらいに併設された建物で、「オクトパ食堂」をオープンし、瓶詰めのソースや調味料を生かした料理を提供している。 地域に根ざす喜びを実感する日々 一方、暮らしの面では、髙山さんは奥さんと二人のお子さん、そして父親の5人で、アトリエに併設された住まいで暮らしている。奥さんも建築士として勤めているため、髙山さんも掃除や洗濯などの家事を分担したり、子どもたちの宿題や、父親の様子を見たりと、1日のなかにこうした仕事以外のやるべきことも組み込みながら行っている。 「今年92歳の父は、だんだんと介護が必要になっていますが、やはり一緒に暮らしている安心感は大きいですね。ふだんの様子がわかるからこそ、どんな介護サービスが必要か、どこの業者に頼もうかなどを、しっかりと検討できます」 2016年に、実家の土地にアトリエと住まいを建築したとき、髙山さんはバリアフリーはもちろん、1階にある父親の部屋の近くにトイレや洗面、浴室などの水回りも配置した。これにより、自宅で父親を介助するときの負担を軽くすることができた。 「実は、この家に暮らし始めて6年ほどの間に、父が倒れて救急車を呼んだことが何度かありました。そのときも一緒に暮らしていたからこそ、倒れたことに気づくことができ、すぐに搬送することができました。その後の通院をサポートできたのも、同居しているからだと感じています」 また、髙山さんは、父親から受け継いだ寺の役員や自治会の班長のほか、子ども会の育成会長など、地域の活動にも積極的に参加している。 「父は直接口には出しませんが、そろそろ私に町内の仕事を任せても大丈夫だと思ってくれたのかなと。というのも、デイサービスのヘルパーさんには、『うちの息子は一級建築士の仕事も、地域のことも頑張っている』と話しているそうなんです。きっと、この家のことも喜んでくれているんじゃないかな」 地域のお祭りなどにも携わる髙山さんは、「子どもの頃、楽しかった夏祭りに、今度は親として子どもたちと参加するなど、地域に根ざすのもいいものだなあと実感しています」と微笑む。 空き家を再生し、現代版の地縁でつながった街をつくりたい 最後に、そんな生まれ育った壬生町で、髙山さんが今後手がけていきたいことについて話を伺った。 「実は、このアトリエの2階はオープンスペースになっていて、ここでいろんな人が得意なことを教え合う、“寺子屋”のようなワークショップを開催できたらと考えているんです」 「ひび学舎」と名付けたこの取り組みのコンセプトは、次のとおりだ。 「使い、壊れ、捨てる」は「使い続け、傷んだら、繕う」に。「買っていたもの」は「育て、つくるもの」に。「古びたもの」は「活かし生きるもの」に。子どもから大人、つくり手も、暮らしに近い事柄を一緒に体験し、暮らしに持ち帰る。そんなきっかけを生み出す場に。 「例えば、『古道具あらい』の荒井さんがアンティークの磨き方をレクチャーしてくれたり、設計を担当させてもらった栃木市の『珈琲音 atelier』のオーナーにコーヒーの淹れ方を教えてもらったり、そんな様々なワークショップが開催できる場所になればと思っています」 レクチャーを行う人は壬生町に限らず、いろいろな地域から招きたいという。 「壬生町は、宇都宮市や栃木市、鹿沼市、下野市などの大きな街に隣接し、どこへでも行きやすく、どこからも来やすい。そんな特性を生かして、例えば、栃木市のコーヒーショップと宇都宮からワークショップに参加した人をつなぐなど、ここを地域と地域、人と人をつなぐ“ハブ的”な場所にしていきたいんです」 様々な地域の人が集うようになれば、いずれ壬生に住んでみたい、壬生でお店を開いてみたいという人も現れるのではないか。現在、壬生の中心市街地では、多くの商店街と同じように、空き家や空き店舗が増えつつある。一朝一夕にはいかないが、そんな空き家を一つひとつ人が暮らし生業を営む場所に変え、明治期の商店一覧で見たような多彩な生業の人が暮らし仕事を頼み合う、現代版の「地縁」でつながった街にしていきたい。それが髙山さんの大きな夢だ。 「街並みとして線にならなくてもいい。点と点が徐々につながっていくような、そんな空き家を生かした新たな試みに、私も自分の生業である建築の分野で携わることができたら最高ですね!」

日々を豊かにする器を

日々を豊かにする器を

茨木伸恵さん

長く愛される、普遍的な美しさを形にしたい 工房におじゃますると、ちょうど茨木さんが土をこね、作陶の準備をしているところだった。新しいものなのに、何十年と時を重ねたような味わい深い質感やフォルム、水色やグレーなどの美しい色合いが魅力の器たちは、一つずつ手びねりでつくられている。 「ロクロよりも、地道に手びねりで成形していくほうが、自分には合っているんです」 新潟県の出身で、文化服装学院で服飾デザインを学んでいた茨木さんが陶芸の道に進んだ理由にも、じっくりものづくりに向き合いたいという同じ思いを感じた。 「どんどんトレンドが移り変わっていく、ファッションデザインのサイクルの速さに違和感を感じて。もっと長く愛されるものづくりがしたいと思うようになったんです」 こうして文化服装学院を卒業後、1年かけて資金を貯め、岐阜県の多治見市陶磁器意匠研究所に入学。2年にわたり陶磁器のデザインを学んだ茨木さんは、多治見の焼き物メーカーに就職し、そこで働きながら自身の作品も製作する日々を過ごしていた。けれど、当たり前だが、最初から現在のような作品がつくれたわけではなかった。 「私は、古代ペルシアやギリシアなどの美術が好きで、展覧会に行くと感動して、わーって舞い上がってしまうほどなんです。その“根源的な美しさ”を、なんとか形にしたいと試行錯誤を重ねて、ようやく目指す色合いや質感が表現できるようになってきたのは、意匠研究所を卒業して5、6年が経ったころからです」 ヨーロッパから国内まで、各地で作品を発表 ちょうどそのころ、二つの大きな転機が訪れる。一つは、作品の販売について。2013年に、パリにある有名なセレクトショップ「Merci(メルシー)」のバイヤーが多治見を訪れたとき、茨木さんの作品が目にとまり、同店で扱ってもらえるように。それをきっかけに、デンマークやイギリスなど、ヨーロッパ各地で作品を発表し、スウェーデンで個展も開催。国内でも全国各地で個展を開くなど、活動の場が広がっていった。 さまざまなクラフトフェアにも出展していた茨木さんだが、ある年の「クラフトフェアまつもと」に参加したとき、事情があり開催時間に遅れてしまった。出展場所が、来た順番に埋まっていくなかで、最後まで空いていたのが木陰の小さなブース。そのとき、たまたま隣になったのが、山根さんだった。 「僕はギターが直射日光に当たらないように、あえて木陰を選んで出展していたんです」(山根さん) この偶然の出会いがきっかけとなり、二人は2015年に結婚。茨木さんは、山根さんの地元である佐野市に移り住むことに。これが二つ目の大きな転機だった。 自然も街も身近にそろうのが佐野の魅力 現在、茨木さんは、ご主人の山根さんと長男(5歳)、長女(3歳)の家族4人で、佐野市に暮らしている。佐野で生活して実感するいちばんの魅力は、冒頭にも書いた「ちょうどよさ」だ。 「佐野は、身近に自然が豊富にありながら、生活に必要なものは近くでなんでも手に入り、交通の便もいい。ちょうどいいバランスで、本当に住みやすいんです。『佐野市こどもの国』などの大きな公園から、唐沢山や美しい川まで、子どもたちと出かけられる場所もたくさんあって、子育てがしやすいところも魅力ですね」 この日は、関東平野を一望する唐沢山の山頂へ出かけた。唐沢山は、山根さんがよくランニングに訪れる場所。茨木さんは、唐沢山の近くの浅間山山頂から松明を持って山を降りる「浅間の火祭り」にも、参加したことがあるという。 一方で、東京へのアクセスの良さも、大きなポイントだ。高速バスで、約1時間30分で都心まで出られるので、美術館の展覧会に出かけたり、ギャラリーを巡ったりと、インプットなどを目的にフットワーク軽く訪れることができる。 「交通の便がいいので、友達もよく遊びにきてくれます」 人との出会いが、新たなチャレンジの刺激に 佐野に移り住んでから巡り合った“人”も、大切な財産になっている。例えば、今年80歳になる陶芸の先生は、足利市の山奥に薪窯をつくり、主にお茶の道具などを教室の生徒たちと10日間かけて焼き上げている。 「私は、作品の幅を広げたいと思い、ロクロを習いに通っています。先生は技術だけでなく知識もとても深く、茶道の道具のことや薪窯のことなど、たくさんのことを教わっています」 人との縁が刺激となり、ものづくりの本質的な部分に向き合い、新たなチャレンジをしていきたいと感じるように。ご主人の山根さんも、そんなプラスの影響を与えてくれる一人だ。 「彼のものづくりの姿勢は本当に真面目で、1本のギターをコツコツと3カ月ほどかけて、丁寧につくり上げるんです。私も、じっくりと製作に向き合い、日々を豊かにする器を、これからも目指していきたい」

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

体当たり取材で感じた、まちなかの魅力を紙面に込めて。

多里(たり)まりなさん

実感したことを、自分の言葉で紡ぐことを大切に 中心市街地の活性化と、新聞社のさまざまな情報を発信する新たな拠点として、宇都宮まちなか支局が誕生したのは、2012年4月のこと。実は、1階にあるカフェ「NEWS CAFE」も、下野新聞社が運営。2階にはイベントスペースも設けられている。 京都府出身の多里さんは、最初の1年間は栃木支局で経験を積み、2年目からまちなか支局へ。ここでは、毎週日曜日に掲載される「みやもっと」面(2ページ)を、主に担当。紙面では、記者が自ら体験したことを、紹介することをコンセプトにしている。 例えば、本サイトでも紹介した宇都宮の「きものHAUS」が企画した、オリオン通りを約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」に、多里さんも花魁の一人として参加したり、ジャズの街としても知られる宇都宮で活動しているアマチュアのビッグバンドに、ピアノとして加わり演奏したり、1カ月で百人一首をすべて覚えて大会に出場してみたり、まさに体当たりで、街なかで起こる新たな取り組みに飛び込み、そこで実感したことを言葉にしている。 「通常の紙面とは逆に、『みやもっと』では、自分で体験したからこその感想や、そこから見えてきた街や人の姿、魅力を、自分自身の言葉で書くことを心がけています」 最初は顔には出さないけど、みんな歓迎してくれている 多里さんは、原稿を書くとき以外は、街へ出かける。移動は、徒歩が基本だ。 「暖かくなったら自転車にも乗りますが、街なかでは歩きが便利! 車のように駐車場を探さなくていいから、気になった場所へ身軽に立ち寄れるんです」 商店街を歩いていると、いろいろな人が声をかけてくれる。立ち止まって世間話をするなかで、意外な人から思わぬ情報を得られることもある。 「だからこそ〝枠〟をつくらず、できる限り幅広く、たくさんの人と会うように心がけています。もう一つ大切にしているのは、自分のことをオープンにすること。こちらから壁をつくらず、何でも話すようにしていると、相手も心を開いてくれる。これは、記者としての変わらぬ目標でもあります」 取材の途中に立ち寄った、「村山カバン店」の店主夫妻(上写真)も、家族のように接してくれる。コーヒーを出してくれたり、「おなか減ってない?」と、ときには一緒にお店のカウンターでお昼を食べさせてくれたりすることもある。 手作りパンを使ったサンドイッチ専門店「小時飯屋(こじはんや)」の店主も、いつも多里さんのことを気にかけてくれる(下写真:小時飯屋の店内の様子)。 「実は、就活で下野新聞社を受けるために、初めて宇都宮を訪れた帰りに、偶然立ち寄ったのが、小時飯屋さんだったんです。そのときお父さんが、『どこから来たの?就職活動? 栃木の人は表情には出さないけど、すごく温かいし、みんな外から人が来てくれるのをうれしく思っているから、大丈夫だよ!』と言ってくださって。もし受かったら、栃木に来よう!と前向きに思ったのを、今も覚えています」 世代間をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これからもっと このように地域と密接に関わる多里さんに、普段感じる「宇都宮の街なかの魅力」をうかがった。 「宇都宮は、東京や大阪ほど街の規模が大きくないぶん、初対面の人でも話してみると共通の知り合いがいたりして、コミュニティを築きやすいのが魅力だと思います。だからか、皆さん、職場や家庭以外にも、自分の趣味や好きなものに関する〝居場所〟を持っている人が多い。私も、よく近所のミュージックバーに行くのですが、2、3週間ほど間があいただけで、店主の方が『大丈夫?』と声をかけてくれる。そういう人の温かさに、日々支えられていますね」 もう一つ実感しているのは、幅広い年代の人たちが、地域をよくしようと活動していることだ。 「私も参加させてもらった『宮魁道中』をはじめ、若い人たちの新たな動きが、街なかで活発に生まれています。一方で、長年、商店街でお店を営んでいる上の世代の方たちも、地域の文化を受け継ぎながら、商店街を元気にしたいと考えている」 例えば、街の中心部にある二荒山神社の門前には、昭和30年代ころまで浅草のような仲見世があったという。 「初めてこのことを知った若い世代の人たちは、『復活させられたら、きっと面白いだろうな』とワクワクすると思うんです。そんな世代と世代をつなぐ〝橋渡し〟の役割を、これから果たしていきたい」 実は、春の人事異動により、3月から多里さんはまちなか支局を離れ、宇都宮総局へ異動することが決まった。けれど、まちなか支局で大切にしてきた、仕事や地域に対する思いに変わりはない。 「この2年の間に多くの人と接するなかで、実は日常のなかに〝いいもの〟がたくさんあることを気づかせてもらいました。これからも、外から来た人間だからこその視点で、何気ない宇都宮や栃木のいいものをたくさん再発見し、発信していきたいと思います」

ほっと、リセットできる場所に

ほっと、リセットできる場所に

関 恒介さん

〝自分勝手〟に生きることが大事なんだ   「みんな、人のために生きすぎなんじゃないかな」 店主の関さんは、コーヒーを淹れながら、そう話す。 「カウンターのこっちに立つようになって思うのは、まずは自分自身が楽しく、家族が幸せに暮らしていないと、お客さんを笑顔にできないということ。間違っているかもしれないけど、今は〝自分勝手〟に生きることが大事なんだと思っています」 例えば、小学4年生の娘さんに、「仕事が終わったら、すぐに帰ってきてね!」と言われたとしても、お店の片付けが終わったあと、30分好きな音楽を聴いてから帰宅する。そうやって少しだけ自分を大切にすることで、いつも穏やかに笑顔で過ごすことができる。 「このお店が、お客さんにとって、そんな息抜きの場所になっていたら嬉しいですね。Waffle Coffeeに寄ってから帰ったことで、家でもニコニコ過ごせたと言われるような場所に」 コーヒー屋で働く人たちが、みんないい顔をしていたんです 関さんは、千葉県柏市の出身。20代前半の2年間を、学生としてロサンゼルスで過ごした。音楽に熱中し、レコードを買いあさる日々。そして帰国後は、ミュージシャンとしてCDを出す傍ら、会社員としてのわらじも履き、仕事を続けてきた。そんな関さんが移住を考え始めたのは、2011年ころのことだ。きっかけは大きく二つある。 「そのころ、ワーゲンに乗って日本を一周したいと言っていた祖父や、アメリカを横断したいと話していた母などの身内が、立て続けに亡くなってしまって。やりたいことは後回しにせずに、今を大切に楽しく生きなくては、と強く思ったんです」 もう一つは、会社員の仕事で、壁にぶつかっていたことがある。 「僕は、自分で言うのもなんですが、会社員としては本当に仕事ができなくて。自分では頑張っているつもりでも、いつも年下の上司に怒られていました」 当時も、しょっちゅうアメリカを訪れていた関さんは、滞在中、よくコーヒーショップに立ち寄っていた。 「コーヒー屋で、働いている人たちの顔を見ると、チェーン店で働く人たちよりも、個人でお店をやっている人たちのほうが、みんないい顔をしていたんです。やらされているのではない。ニコニコ楽しそうに仕事をしている。そんな姿を目にして、自分も好きなこと、得意なことで勝負しようと決意しました」 コーヒーは、もともと好きで、自分で工夫しながら淹れていた。焼き菓子やケーキは、日本ではなかなかアメリカで食べた味に出会えず、ないなら自分でつくろうと家で焼いていた。器やアンティークも好きで集めていて、自宅はDIYで改装していた。 「そうやって、自分が情熱を注げるものを集めていったら、自然と今のコーヒーと焼き菓子のお店にたどり着きました」 NYのブルックリンのような、ポテンシャルを感じて お店を開く場所を探して足利市なども見て回ったが、佐野市を選んだ理由は、「適度に街で、適度に田舎で、交通の便もいい」ところ。奥さんの実家の群馬県館林市に隣接しているところ。「佐野の人は穏やかで、やさしい」ところなどが決め手に。 「うまく言えませんが、なんか好きだなぁって感じて。ここが、自分たちの暮らしにフィットしたんです」 さらに、佐野の街にポテンシャルを感じたのも、大きな理由だ。 「ポートランドやニューヨークのブルックリン、ロサンゼルスのダウンタウンなど、僕がアメリカにいたころには、今のように注目を集める街になるとは、想像もつかなかった。それが、物価や家賃が安いからと、アーティストやクリエイターたちが集まってきて、コーヒーショップや古着屋、レコード屋など、感度の高いお店がどんどん誕生していった。佐野にも、そんなポテンシャルを感じたんです」 このコンビニだった物件は、よく足を運んでいた「自家焙煎 福伝珈琲店」(Waffle Coffeeの2軒隣で、コーヒー豆は福伝珈琲店から仕入れている)の店主が紹介してくれた。それを、約1年かけてDIYでリノベーション。1900年代初頭の古き良きアメリカの空気に満たされた、Waffle Coffeeが誕生したのは、2016年4月のことだ。 佐野の居心地が良すぎて、家も買っちゃいました 「こないだ気づいたら、『きな粉のマフィン』をつくっていて。これはそろそろアメリカに行かなくちゃダメだなと思って(笑)」 そう話すように、関さんは今でも定期的にアメリカを訪れ、ベーカリーやコーヒーショップを巡り、実際に食べておいしいと感じた焼き菓子やケーキを、甘さやスパイスを少し抑えるなど、日本人の口に合うようにアレンジして提供している。素材は、娘さんにも安心して食べさせられるものを基準にセレクト。フルーツなどの盛り付けは、あえて綺麗に行わず、アメリカのラフな雰囲気を再現している。 「そうやってつくった焼き菓子を、おいしいと言ってもらえたとき、喜んでもらえたときが、何よりも嬉しいですね。また、お客さんから『福伝さんとうちと、今日はどっちに行こうかと迷えるのがありがたい』と言ってもらえたときも嬉しかった。そうやって訪れるお店の選択肢が、もっともっと佐野に増えていったらいいですね」 お店を訪れる若い人たちから、「自分もお店を開きたい」と相談をされることもある。 「そんなときは、『佐野は東京などの都市部に比べて家賃が安く、クリエイティブなことにも挑戦しやすいんだから、どんどんやるべきだよ!』って、もう何人もの背中を押しています」 さらに週末には、若い人たちがお店に来やすいよう、同世代の若いスタッフに、なるべくお店に立ってもらうようにしている。 「そうやって微力ながらも応援していくことで、若い人たちが新たなお店を立ち上げ、また次の世代の子たちの背中を押して……と、佐野に魅力的なお店が、どんどん増えていったら楽しいだろうなって」 実は、関さんは、佐野市内に1960年代に建てられたプール付きのもと別荘を格安で購入し、現在、自宅へとリノベーション中だ。 「これこそが、まさに佐野の住みやすさの証! この街が気に入らなければ、家は買わないですから(笑)」

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

小出拓也さん

「この街は面白そう!」。それが鹿沼の第一印象 2016年2月、小出さんは初めて鹿沼を訪れた。きっかけは、就職活動。大学で都市計画を専攻していた小出さんは住宅業界に興味を持ち、東京の就職セミナーで、鹿沼の住宅会社「カクニシビルダー」の担当者と出会う。 「そのときは、栃木の企業に就職するとは思ってもみませんでした。でも、これまで選択肢になかったことだからこそ、新たな気づきがあるかもしれない。説明会だけでも受けてみようと、後日、鹿沼へ行ってみることにしたんです」 こうして説明会に参加した後、小出さんは駅まで鹿沼の街を歩きながら帰った。そのとき直感的に、「この街は面白そうだな」と感じたという。まず惹かれたのは、立派な石蔵が残る街並みや、身近に広がる豊かな自然、温泉だった。中学の頃から、よく電車に乗って一人旅に出かけていた小出さんにとって、自然や温泉は東京から遠く離れたところにあるものというイメージがあった。 「でも、鹿沼に住めば、朝、出社前に山や川へ出かけたり、帰りに温泉に立ち寄ったりできる。ここでの暮らしもアリかもしれないなと、東京へ帰る電車の中で思ったんです」 その後の面談や最終面接などで、代表や人事担当者が親身に対応してくれたことが決め手となり、小出さんはカクニシビルダーへの就職を決意。2016年5月に無事に内定が出て、鹿沼への移住が決まった。 鹿沼や全国に新たな人脈が広がった、移住前の10カ月間 「内定をもらってから実際に鹿沼へ引っ越し、働き始めるまでの約10カ月間がとても重要で、とても充実した時間でした」 そう振り返る小出さんは、この時期に毎月1、2回は鹿沼を訪れ、お祭りなどの街のイベントや、鹿沼の街を愛する人たちが地元ネタやサブカルチャーをテーマにした授業を行う「カヌマ大学」などに積極的に参加。これにより、一気に鹿沼での人脈が広がっていった。 「すでに街にたくさんの知人や友人ができた状態で引っ越せたので、みなさんに支えていただきながら、鹿沼での暮らしを始めることができました。いま思えば、就職してからでは忙しく、なかなか新たな人脈をつくる時間やエネルギーを持てなかったかもしれません」(上写真:常陸屋呉服店 四代目の冨山 亮さんも、小出さんの鹿沼での暮らしや活動を応援してくれている) 同時にこの10カ月の間に、小出さんはアルバイトでお金を貯めては、京都の綾部市や宮津市、長野の諏訪市など、全国の中でもUIターンが盛んな地域へと足を運んだ。 「全国各地の魅力的な方々とつながることができたうえ、いわゆる〝半農半X〟のライフスタイルなど、鹿沼で始まる暮らしに生かせるような、新たなヒントをたくさん得ることができました」 それだけではない。小出さんは、地元の東京・日暮里の祭りなどにも神輿の担ぎ手として参加。ここでも人脈が広がり、もともと好きだった地元がさらに自慢したい場所に。地元を離れると決意したことが、自分が生まれ育った地域の魅力を再発見することにもつながった。 家族のように接してくれる人が、街のいたるところに 移住前に鹿沼を訪れた際によく泊まっていたのが、本サイトでも紹介したゲストハウス「CICACU(シカク)」。その女将・辻井まゆ子さん(上写真)も、鹿沼の街や人に惹かれて京都から移住した一人だ。 「2017年3月に大学を卒業して、鹿沼で空き家を借りて暮らし始めてからは、辻井さんが『ごはんあるで!』と、CICACUに皆さんが集まって夜ごはんを食べているときなどに、よく誘ってくれました」 そうやって、「うちにご飯食べにおいで」と誘ってくれるのは、辻井さんだけではなかった。 「今回、この取材のお話をいただいてから、『鹿沼の良さってなんだろう?』ってずっと考えていたのですが、一番自慢したいことは、やっぱり〝街の人の温かさ〟。鹿沼に移り住んでから、お兄さんみたいな人、お姉さんみたいな人、両親みたいな人、祖父母のような人など、家族のように接してくださる方々とのつながりが、たくさん広がりました」 そんな鹿沼の人たちが集まる〝街の居間〟のような場所がCICACUだと、小出さんは言う。毎晩のようにCICACUに遊びに来ていた小出さんは、「ここに住めたら楽しいだろうな」と考え、2カ月ほど前からCICACUの1室に長期滞在という形で宿泊している。 「女将の辻井さんの人柄もあると思いますが、CICACUの共同スペースである居間やダイニング(上写真)には旅行者や街の人が集い、自然と交流が生まれています。移住前は、地域で活動していくためのヒントを得るためにいろいろな場所へ出向いていたのですが、いまはCICACUにいることで、いろいろな人がここへ来て、さまざまな刺激を与えてくれます。多くのことを吸収すべき20代の期間をCICACUで過ごせるのは、とてもありがたいことだなと感じています」 木工のまち、職人のまち鹿沼ならではの新たな仕事を 鹿沼で多くの人とつながり、仕事を通じて現代の家づくりを学ぶなかで(上写真:カクニシビルダーでの仕事風景)、今後この街で挑戦したいことが見えてきた。その一つが、家を解体する際に廃棄されてしまう建材や建具、家具などの有効活用だ。 「古くから木工のまち、職人のまちとして発展してきた鹿沼には、優秀な職人さんが手がけた素晴らしい建具や家具が家の中に残されています。それを捨ててしまうのは、もったいない。新たな価値を付けて欲しい人のもとへと手渡す、そんな役割を担っていけたらと考えています」 さらに、全国各地で取り組みが始まっている新たな林業のやり方についても勉強し、鹿沼で実践していきたい。休日には、鹿沼を案内するツアーも手がけたい。そうやってゆくゆくは何足ものわらじを履きながら、生計を立てていくことが小出さんの目標だ。 「鹿沼をはじめ栃木県では、東京とつながりながら、ここでしかできないことにチャレンジできます。東京で生まれ育ち、鹿沼に移り住んだ自分だからこそできることを一つひとつ実現していくことが、結果的に鹿沼の街の魅力を高めることにつながっていったら嬉しいですね」

ここ宇都宮を“着物のまち”に

ここ宇都宮を“着物のまち”に

荻原貴則さん

着物を楽しむ、すそ野を広げていきたい 階段をあがり長い廊下を進むと、大正・昭和初期の家具に彩られた空間が広がる。そこにずらりと並ぶのは、1000点以上に及ぶ着物や帯など。その豊富さだけでなく、すべてが正絹(絹100%)で、価格は5400円以下というところにも驚かされる。 「我ながら、安いなと思いますね(笑)。『着物に興味はあるけど、なかなか敷居が高くて』という方が、楽しむための第一歩にしてほしい。また、せっかく楽しんでいただけるのなら、本物を手に取ってほしいと思い、平成の初めころまでにつくられた絹の着物を厳選して揃えるようにしています」 そう話すのは、「きものHAUS」の店主の荻原さん。宇都宮で60年以上続く呉服屋の長男として生まれ、大学進学を機に東京へ。卒業後、一旦はアパレル会社の営業として働くが、数年経験を積んだのち着物の道に進んだ。 修業に入ったのは、銀座や伊豆に店を構える中古着物買い取り・販売店。北は青森から南は四国まで、全国各地の個人宅へ着物の買い取りに回るとともに、月に1度はデパートなどで催事も開催するという、なかなかハードな3年半を過ごした。 「最終的には、新宿タカシマヤで開催した催事の仕入れから値付け、販売までを、すべて任せてもらいました。着物を見る目や知識などはもちろん、経営者としての視点も叩き込んでいただき、本当に感謝しています」 こうして修業を終えた荻原さんだが、そのまま実家の呉服屋には入らず、自らお店を開くことを選んだ。 「着物離れが進むなかで、新たな挑戦をしていかなければ、呉服屋自体が成り立たなくなってしまう。その一方で、若い女性のなかにも『着物にあこがれている』『着付けを習ってみたい』といった潜在的なニーズは確実にあると思うんです。まずは、そのすそ野を広げることが重要だと考えています」 花魁姿の女性約70人が、オリオン通りを練り歩く 独立の場所として、荻原さんが選んだのは、地元・宇都宮だ。 「着物の大規模なセリ市場が開かれる東京に比較的近く、都内に比べて家賃が安い。さらに、リサイクル着物の競合店がほとんどなかったことも、宇都宮を選んだ理由です」 最初の店は、「haus 1952」という古民家を改装したシェアハウスの一室で開店したが、2年ほどで手狭になり、2018年2月、現在の場所に移転オープンした。 「というのも、当初、市内の着付け教室や着物のリメイク教室などをすべて調べて、とにかく営業に回りました。ありがたいことに、それをきっかけにお客様が口コミで広がり、3年以上経った今でも、毎月のように来てくださるリピーターの方が多くいます」 荻原さんは、着物を楽しむ機会を日常的に増やしていきたいと、これまでに参加者全員が着物をまとい、和太鼓の演奏と日本酒を堪能するイベントなどを定期的に開催してきた。 さらに、2018年12月8日(土)には、宇都宮市の中心部にあるアーケード街のオリオン通りを、約70人の花魁(おいらん)姿の女性が練り歩く「宮魁道中(みやらんどうちゅう)」というイベントを企画。着付けや衣装は、ニューヨークや京都などでも花魁道中を行った実績を持つ「時代衣裳おかむら」が担当。加えて、和小物や飲食、ライブイベントなど、さまざまなブースやステージが用意されている。 「宇都宮には、なにか新しいことに挑戦しようと動き出すと、その気持ちを受け取って協力してくれる人、一緒に楽しんでくれる人が多いと感じています。東京ほど街が大きくないぶん、人と人との距離感が近く、つながりやすいところが魅力。今回のイベントでも、さまざまな方が協力してくれました」 今後は、「宮魁道中」を毎年恒例のイベントに育て上げ、宇都宮を“着物のまち”にしていきたいと考えている。 「何よりも自分たちが楽しむこと。それが結果的に、宇都宮の街を元気にすることにつながっていけば、これほどうれしいことはないですね」 本物の職人技や日本の文化も、大切に伝えていきたい きものHAUSのロゴにもなっている模様(上写真)は、実は伝統的な着物の柄で“破れ格子”と呼ばれ、荻原さんがもっとも好きな柄の一つ。規則的な格子を崩したこの柄には、「秩序を破る」といった意味がある。 「江戸時代であれば、この柄の着物をまとっているだけで打ち首になったと言われています。いわゆる、“傾奇者”が覚悟をもって身に着けた柄です。このように着物の柄には一つひとつ意味があり、それを身にまとうことで自分を律したり、心意気を表現したりする。そういった着物ならではの伝統的ないい部分も伝えていきたい」 実家の呉服屋では、京都で280年続く帯の老舗「誉田屋源兵衛」の展示会を毎年開催するなど、伝統的な職人技を受け継ぐ、上質な商品を中心に扱っている。ゆくゆくは荻原さんも、そういった一流の商品を紹介する店を営むのが目標だ。 「実は中学生のころ、105歳まで帯をつくり続けられた名匠、山口安次郎さんが手がけた帯を目にしたとき、モヤモヤしていた気持ちが晴れ渡ったような気がしたんです。当時は、山口安次郎さんがどのような方かは分からなかったのですが、その素晴らしさに、とにかく感動したのを覚えています。今思えば、それが着物の世界に進んだ原点。現在は着物人口を増やすことに力を入れつつ、将来的には職人の本物の技や日本の文化を伝えることに、少しでも役立てたらうれしいです」

点と点がつながって、大きな輪に

点と点がつながって、大きな輪に

渡辺直美さん

1年かけて商品化した「日光彫の御朱印帳」 開け放たれたその窓からは、借景の美しい緑が眺められる。ここは、日光東照宮の門前。表参道からは1本離れているが、それでも国内外から訪れた多くの旅行者が、お店の前を行き交う。 「すみません。“神橋”は、こっちですか?」 そう旅行者に聞かれて、「TEN to MARU」の店主・渡辺さんは丁寧に道を案内する。 「いつも扉をオープンにしているから、みなさん気軽に立ち寄ってくれて。よく道も尋ねられます。それをきっかけに、会話が弾むことも。そんな何気ない触れ合いが楽しいですね。このお店が、街の案内所のようになっているのがうれしい!」 店内に所狭しと並ぶ商品のなかでも、人気は御朱印帳。伝統工芸である〝日光彫〟の老舗「村上豊八商店」とコラボして、女性職人と約1年かけて一緒に商品化したのが「日光彫の御朱印帳」だ。表紙には、「榀(シナ)」の木の合板などを使い、そこに日光ならではの〝眠り猫〟や〝神橋〟などの図柄をあしらっている。 「日光彫は、ヒッカキ刀という独特の刃物を使い、細く繊細な線から力強い線まで自在に表現できるのが魅力です。従来の日光彫では、おぼんや手鏡、花瓶など、家のなかで楽しむものが中心でしたが、御朱印帳ならいつも一緒に持ち歩くことができる。もっと身近に日光彫を楽しんでほしいという思いを込めて、『一緒に旅する日光彫』と名付けて発信しています」 その隣に置かれているのは、御朱印帳ケース。御朱印帳は、寺院と神社を分けて使っている人も多く、「2冊を一緒に持ち運べるケースがあったら」という渡辺さんのアイデアをもとに、宇都宮で帆布を使ったバッグや小物を手がける「1note(ワンノート)」と一緒に形にしていった。好きなカラーを選んで、オーダーすることができる。 さらに、本サイトでも紹介させてもらった「mother tool」のモビールや「秋元珈琲焙煎所」のコーヒー豆のほか、日光で続く「小野糀」の塩糀や味噌、同じく日光の「だいもん苺園」のジャム、「李舎(すももしゃ)」のどうぶつ組み木など、日光や栃木県でつくられた品々が並べられている。といっても、扱う商品を〝県内のもの〟と限定しているわけではない。 「ここから広がっていった人との出会いやつながりを大切に、多くの人に紹介したいと感じたモノを全国からセレクトするようにしています」 その言葉どおり、棚には鹿児島県の「ONE KILN(ワンキルン)」のドリッパーやシーリングランプ、お皿なども並んでいる。 人と出会い、つながっていくのが楽しい! 実は、渡辺さんは鹿児島県の出身で、2006年に結婚を機に、ご主人の地元である栃木県に移り住んだ。最初の3年ほどは宇都宮で、その後、日光に暮らしてもうすぐ10年になる。転機となったのは、日光にある木工房「Ki-raku」が、2013年にオープンしたギャラリーを手伝い始めたことだった。 「やっぱり人と出会って、つながっていくのが楽しくて。実は、宇都宮では東武百貨店の婦人服売り場で働いていて、鹿児島でも販売の仕事をしていたんです。今思えば、もともと好きだったんですよね、接客の仕事が」 だんだんと「自分のお店を開きたい」という思いが強くなり、実際に物件を探し始めたのが2015年初めのこと。もちろん不動産屋も訪れたが、もっと地域の生の情報が知りたいと、渡辺さんは日光にある飲食店や居酒屋などに足を運んだ。そのなかで知り合ったのが、日光で食事処「山楽」を営む、古田秀夫さん(上写真)。古田さんは、「二社一寺だけではない日光の魅力をゆっくり体感してほしい」と、自転車によるアウトドア体験型ツアーやレンタサイクルショップ「Fulltime」も運営している。 「古田さんが、『ここでやりなよ!』と言ってくれたが、この場所。もともとレンタサイクル『Fulltime』の店舗で、いまも自転車の貸し出しをしています。ちなみに、古田さんのお店『山楽』さんは斜め向かいなんです」 古田さん:「最初は、お店の前にずらりと自転車が並んでいたんですが、だんだん奥に追いやられてしまって(笑)。でも、それでいいんです。これまでになかった新しいジャンルのお店を渡辺さんがここでやってくれて、商店街全体が元気になっていくことが大切だから」 「TEN to MARU」がオープンしたのは、2015年9月のこと。店内の改装は、「Ki-raku」が手がけてくれた。 大切なのは、勇気を持って一歩を踏み出すこと 自分のお店を開いたことで、人とのつながりはさらに広がっていった。東京から日光を訪れ、たまたまお店に立ち寄ってくれた建築ライターの紹介で、運営に参加するようになったのが「ペチャクチャナイト」だ。これは、2003年に東京でスタートしたトークと交流のイベントで、20枚のスライドそれぞれに20秒ずつコメントしていくというコンパクトなプレゼンスタイルが特徴。現在、1020都市以上で開催されており、渡辺さんは「ペチャクチャナイト日光」の実行委員長を務めている。 「TEN to MARUで知り合った魅力的な方に登壇してもらったり、ペチャクチャナイトでつながった方にお店でイベントを開催してもらったり、『日光には魅力的な活動をしている人が、こんなにもたくさんいるんだ』と改めて実感しています。同時に、ペチャクチャナイトでは、外からも面白いアイデアを持った人たちが、日光を訪れてくれます。それが刺激となって、例えば、他の地域の人と日光の人がコラボした新たな商品が誕生したりと、さまざまな化学反応も生まれています」 これまでに日光では、ペチャクチャナイトを3回開催。今後は、毎回よりテーマを絞って開催していけたらと考えている。一方、お店については、これまでと変わることなく、人との出会いやつながりを大切にしていきたいという。 「日光へは、日本中、世界中からたくさんの人が訪れてくれます。そのなかから、『面白そうだから、日光に住んでみたい!』と、移住してくれる人が増えていったらうれしいですね。私もそんな相談を受けたときに、人を紹介したり、情報を提供したりと少しでも〝架け橋〟になれるよう、これからもネットワークを広げていきたいです」 鹿児島から知り合いのほとんどいない栃木へ移り住み、「お店を開くために自ら一歩を踏み出したことで、どんどんと人とのつながりが広がっていった」と振り返る渡辺さんは、次は誰かが一歩を踏み出す応援ができたらと考えている。 「私がお店に挑戦できたのも、それを理解し、応援してくれた主人や3人の子どもたちのおかげです。だから、これまでと変わらず、普段の暮らしも大切にしていきたいです」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

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