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目指すのは、地域に役立つレストラン

目指すのは、地域に役立つレストラン

照井康嗣さん

高根沢の野菜をふんだんに使った本格イタリアン 高根沢町にある「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」を訪れたのは、平日の午後1時半頃。それにもかわらず、店内は多くの人で賑わっていた。お客さんのお目当ては、栃木県産小麦「ゆめかおり」で打った自家製の生パスタランチ。高根沢産の新鮮な野菜が10種類以上味わえる、サラダビュッフェが付いているのも人気の秘密だ。 「高根沢では農業が盛んで、玉ねぎやカブ、ニンジンなど、馴染みのある野菜が抜群においしいんです」 そう話すのは、店主の照井康嗣さん。大学の頃から海外で働くことに憧れていた照井さんは、「イタリア研修旅行あり」という募集を目にし、地元・埼玉県熊谷市にあるイタリアンレストランで働き始めた。そこで5年間働きながら資金を貯め、語学を学び、2003年にイタリアへ。 国立のホテル学校で基礎を学んだ後、イタリア各地の郷土料理を学ぶために、まずは最高品質のワインの生産地として知られるピエモンテ地方へ。その後、アドリア海に面したマルケ地方で海の幸を生かした料理を、山岳地帯のアルト・アディジェ地方で山の料理を経験。星付きレストランを中心に、計5年間修業した。 帰国後は、南青山や六本木などのイタリアンレストランで8年間、シェフを務めてきた。そんな照井さが高根沢町への移住を決心したのは、どんな理由からだろう? 「実は、東京のレストランで働いていた頃から高根沢産の野菜を料理に使っていて、移住前からそのおいしさを実感していました。修業したイタリアの田舎町ような、豊かな食材が身近にある環境で店を持ちたいと考えていた私にとって、高根沢は最適な場所だったんです。また、実は下の子に障がいがあって、自然に囲まれた環境で子育てをしたいと思ったのも大きな理由の一つです。妻の育児の負担を考え、妻の実家がある高根沢を選びました」 野菜をつくる人と、食べる人をつなぐ場所に 2016年1月に高根沢町に移住した照井さんは、事業計画書をまとめたり、物件を探したりと、開店準備を急ピッチで進めた。そんななか高根沢町の職員と出会い、「創業支援事業計画」のことを知る。これは、町と商工会、農協、金融機関などが連携して創業を後押しする制度。照井さんは経営や財務などの講座を受講したほか融資の支援も受け、この制度の第一号として、2016年9月に「イタリア食堂 ヴェッキオ・トラム」をオープンした。 店名は、イタリアに渡り初めて働いたレストランの名前からいただいた(上は、店内に飾られたイタリア修業時代の写真)。「ヴェッキオ・トラム」とは、イタリア語で「古い路面電車」という意味。田園風景のなかを烏山線が走る、高根沢の環境にぴったりだと感じたという。また、「食堂」と名付けたのにも理由がある。 「東京では各レストランが、イタリア料理なかでも『この州の郷土料理』といった特色を出しながら競い合っています。食材も現地から仕入れることが多いので、高額になってしまう。その料理をそのまま高根沢で提供しても、単なる独りよがりで、受け入れられないと思ったんです。高根沢には、身近においしい野菜がたくさんある。それを生かした親しみやすいイタリア料理を届けたいと考え、あえて『食堂』と名付けました」 たとえば、サラダビュッフェ(上写真)では、高根沢産の野菜を、茹でる、蒸す、焼くなどシンプルな調理法で提供。店内では、高根沢の野菜とともに、パスタやオリーブオイル、塩などを販売するコーナー(下写真)を設けている。 「高根沢の野菜は素材が本当にいいので、あえて余計な手は加えないようにしています。塩とオリーブオイルで野菜そのもののおいしさを味わう、イタリアの食文化も楽しんでいただけたらと思っています。また、ここで食べておいしいと感じていただいた料理を、自宅でも気軽につくれるように食材も販売。このお店から地域の野菜の魅力を発信していくことで、高根沢の農家と人をつなぐ役割も果たしていけたらと考えています」 地域とともに成長していく店でありたい 高根沢に移住して何よりもよかったのは、食材をつくる農家と直接話ができることだ。 「高根沢には、農業に取り組む若い人たちが数多くいます。そんな彼らとともに、食材の魅力を生かした加工品を開発していきたい。味の追求はもちろん、パッケージもおしゃれに仕上げることで、一緒に高根沢ブランドを築いていけたらと思っています」 そんな6次産業化の成功モデルをつくり、農業のイメージアップを図っていくことで、農業をやってみたいという担い手が増えるのではないか。また、新たな産業や雇用を生み出すことで、地域の魅力が高まっていけばと、照井さんは考えている。その第一歩として、今年の春に、若手農家とともにイタリアを訪れ、向こうの農業や食文化などを体験する研修旅行を実施した。 「高根沢に来て一番変わったのは、『地域のために』という視点が生まれたこと。このお店は、いろんな方にサポートしていただいたおかげでオープンすることができました。だからこそ、このお店を通じて高根沢を元気にしていきたい。これからヴェッキオ・トラムが、地域とともに成長していくのが楽しみです」

つくることの楽しさを、子どもたちに

つくることの楽しさを、子どもたちに

倉林真知子さん

一つとして同じものがない、作品との出会いを楽しんでほしい 布作家・倉林真知子さんのアトリエに一歩足を進めると、たくさんの色が目に飛び込んでくる。赤や青、黄緑など、ポップな色使いが、倉林さんの作品の魅力。さらに、問屋街を巡り探し出したデッドストックの布や革、古いボタン、さまざまな手芸店で入手した毛糸や刺繍糸など、素材の多くは一点もの。それによってつくられる作品は、どれもが世界に一つだけものとなる。 「例えば、ニット帽にアクセントとしてつけるタグやボタンの組み合わせ、つける位置なども、あえて少しずつ変えています。最近では木製の棒をカットして、ボタンも手作りしているんですよ。既製品のボタンのように均一な仕上がりではありませんが、逆に雑な感じが“味”になるんです」 さらに、アトリエではオーダーも受け付けている。例えば、バッグのデザインはそのままに、使う布の種類を変えてほしい、ここにポケットをプラスしてほしい、このボタンをアクセントにつけてほしいなど、自分だけの作品をつくってもらえるのだ。 「私の代表的な作品のひとつ『ループアクセサリー』(写真下)は、好きな糸の色や形をうかがって、その場で制作してお渡しすることもできます。アトリエに並んでいる作品は、あくまでも一つの提案。それをベースに、お客さん自身の遊び心も加えて、その方らしい作品を一緒につくれたらと思っています」 自分が楽しめてさえいれば、場所は関係ない 現在は布作家として活動する倉林さんだが、実は子どもの頃は手芸が苦手だった。 「それよりも、日曜大工が得意な父親の影響もあり、クギやトンカチが好きで、中学の頃から自分で机をつくったりしていました。手芸は苦手でしたが、色と色を組み合わせるのが大好きで、自然と洋服のコーディネートに興味を持つようになったんです」 東京の専門学校を卒業後、地元の下野市に戻り一旦は医療事務の仕事に就いたが、「やっぱり自分の好きなことを仕事にしたい」と、アパレル店に転職。販売の仕事を担当するも、強く興味をひかれたのはショーウィンドウのディスプレイや、店内全体をプロデュースする仕事だった。 もっとディスプレイや空間のコーディネートについて学びたいと、23歳で再び上京。最初に門をたたいたのは、知人が働いていた建築事務所。その後、横浜の帽子店で小物のディスプレイや見せ方の経験を積み、下北沢のシルバーアクセサリー店では、目標だった店内全体のコーディネートや、百貨店の催事に出店する際の企画、ディスプレイを担当。忙しくも、充実した時間を過ごした。 写真家と絵描きの友人と3人で、「ANT」の活動を始めたのもこの頃。倉林さんは、写真を撮影する際の洋服のコーディネートなどを担当。さらに布小物も制作し、イベントなどで販売していた。その当時からつくり続けているのが「鈴のアクセサリー」(写真上)。この作品が、栃木へ戻るきっかけを生み出してくれた。 「たまたま、宇都宮のイベントに出店していたとき、鈴のネックレスを宇都宮にある雑貨店『ムジカリズモ』のオーナーが目にしてくれて、『うちで作品を販売させてほしい』というお話しをいただいたんです」 当時は、ものづくりが自分の仕事になるとは、夢にも思っていなかった。 「でも、ムジカリズモさんに声をかけていただいたとき、これまで商品のディスプレイを考え、イベントの展示を企画し、宣伝なども手がけてきた経験は、そのまま自分のブランドを立ち上げても生かせるのではないかと思ったんです。また、『どこにいても、自分が楽しめてさえいれば場所は関係ない』と思えたことも大きかったですね」 こうして倉林さんはANTとして本格的に活動するために、栃木に戻る決意をした。 前に進むためには、つくりたいものをつくること 2004年に、下野市の実家にUターンした倉林さんは、両親に「1年でなんとかする」と宣言。その言葉どおり、1年後にはものづくりの仕事だけで暮らしていけるようになった。 「当時は、朝起きてから夜寝るまで1日中、制作していました。でも、全然苦ではなくて。自分の好きなことを仕事にするために、全力をかけて頑張りたかったんです」 作品をつくるうえで大切にしているのは、とにかく自分が楽しむこと。 「制作が義務になってしまうと、きっと何も生まれなくなってしまう。だから、自分がつくりたいもの、身に付けたいものをつくることが根本にあります。もちろん、個展の前や毎年参加している益子の陶器市の直前には、制作に追われて楽しいアイデアが出てこなくなることもある。そうならないためにも、あえて『自由に制作する日』を設けるようにしているんです」 作品のインスピレーションはどこから? とたずねると、「最近は、絵本や写真集からが多いですね」という意外な答えが返ってきた。 「絵本のなかで配色が美しいページだったり、写真集で外国のカラフルな街並みだったりを見ると、その色使いを作品で表現したくなるんです。色の組み合わせが大好きなのは、子どもの頃から変わらないですね。作品をつくるうえで、これまでのディスプレイや空間のコーディネートなど、すべての経験が役立っています」 この場所だからこそ始まった、ものづくりイベント 結婚後は、宇都宮の街中にあるご主人の実家でしばらく暮らしていたが、子育てを考え、より自然が身近なさくら市へ。ご主人の親戚の生家で、10年ほど空き家になっていた古民家の味わいある雰囲気が気に入り、自宅兼アトリエに選んだ。ここへ移り住んでよかったのは、周囲に自然が多いのどかな環境でありながら、幼稚園や小中学校、塾をはじめ、スーパーや病院など、生活に必要なお店や施設が近くにそろっていること。移動に時間を取られることがないため、その分を作品づくりに充てることができる。 さらに嬉しいのは、やはり自然が身近にあることだ。 「私たち家族は外遊びが好きで、週末には公園にシートと編み物セットを持っていって、息子を遊ばせながら、私はシートのうえで編み物をしたり、本を読んだりしています。地域のみなさんは温かく、子どもを見守ってくださるので、安心して外で遊ばせることができます」 自宅の前には大きな庭があり、息子さんは泥んこになりながら、虫を捕まえたり、葉っぱを拾い集めたり、外遊びを満喫している。その姿を見て生まれたのが、「にわのひ」というイベントだ。「家に閉じこもってゲームなどをするのではなく、子どもたちに自然の中でものづくりを楽しんでほしい」との思いから、自宅の庭に信頼する作り手を招き、ワークショップを中心としたイベントを毎月開催。今ではさくら市の後援を受け、氏家駅前広場などで実施している。さらに、2015年からは毎年夏に、さくら市ミュージアム勝山公園で「もりのひ」というイベントも行っている。 「『もりのひ』では作家さんたちが出店するブースやゲート、看板なども、身近な素材である段ボールを使って、みんなで手作りしています。そのコンセプトは、『にわのひ』と変わりません。これからもANTの活動と並行して、子どもたちにものづくりの楽しさを届けていけたらと思っています」 (↑ 2016年11月に開催された「にわのひ」のDM写真。男の子は、いつも倉林さんのアトリエの庭や、「にわのひ」などのイベントに出店している、「WANI Coffee」の店主の息子さん)

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

街の人とつながる“入り口”を、栃木市に

中村純さん・後藤洋平さん

地域づくりを、自分の仕事にするために 東京農業大学で林業を学んでいた中村純さんは、その頃から地元・栃木市で、地域づくりのボランティアなどに参加。地域や林業にかかわる仕事に就きたいと考えたが、なかなか生計を立てていく道が見つからず、都内の大手ハウスメーカーに就職した。 中村さん:「営業の仕事を通じて、民間ではこうやって泥臭く必至に取り組んでいるから、利益を生むことができるんだと実感しました。やりたかった地域の仕事も、ボランティアでは続けられない。好きなことを続けるためには、その道でお金を稼ぐことが重要だと学んだんです」 27歳でハウスメーカーを退職し、東日本大震災の被災地でボランティアとして活動。そこで知り合った人にすすめられて、鎌倉のゲストハウスで働き始めた。 中村さん:「そこで、ゲストハウスのオーナーはもちろん、ウェブデザイナーやカメラマンなど、やりたいことを仕事にして面白く生きている人たちと出会い、こんな生き方もあるんだと視野が広がりました。自分もやっぱり地域に携わりながら生きていきたいと、地元に戻る決意をしたんです」 栃木市にUターンしてから、中村さんはまちづくりのワークショップなどに参加。そこで出会った人たちに、空き家バンクなどの企画書を見てもらったことをきっかけに、ビルススタジオのことを教えてもらった。ホームページを見ると、ちょうど人材募集の告知が! すぐに応募し、2011年の冬から不動産担当として働くことになった。 地域のことを考えながら建築をつくる 高校3年の大学受験が近づいたとき、後藤洋平さんは進路について迷っていた。後藤さんの父親は設計事務所を運営。しかし父と同じ道に進むのがなんとなく嫌で、一度は違う分野の学部を受験した。 後藤さん:「けれど、後期試験までの間に、父の建築の本を読んだり、設計した家を見に行ったりして、『人が生活する場所をつくる』という設計の仕事の面白さに強くひかれました。無理をいって浪人させてもらい、翌年、新潟大学の建築学科に進学したんです」 大学では、県内の豪雪地帯にある街で、古くから雪よけの通路としてつくられてきた大きな軒のような「雁木(がんぎ)」を、設計・制作する活動にも携わってきた。 後藤さん:「雁木は地域にとってのアイデンティティなんです。軒を連ねる家の一軒でも雁木を壊してしまうと、通路が途切れてしまうだけでなく、まちの誇りが失われてしまう。地域住民や自治体と協働して雁木通りを再生するプロジェクトに参加し、地域のことを考えながら建築をつくることの面白さを体感したんです」 卒業後は、都内の大手ゼネコンに就職。当時から、いずれ地元で設計事務所を開きたいと考えていたため、休日などに栃木市に帰省し、地域づくりの活動にも携わっていた。 後藤さん:「そんな頃、すでにビルススタジオで働いていた中村から『設計スタッフを募集しているぞ!』って電話があって。後日、もみじ通りの店主の方たちが集う忘年会に参加させてもらいました。そこで『単に建物を設計するだけではなく、場のコンセプトから不動産も含めて総合的に場所をつくっていく』というビルススタジオの取り組みを知ったとき、自分のやりたかったことはこれだ!と思ったんです」 新たな場から、広がっていく化学反応 築年数が経った物件や大谷石の蔵、倉庫など、一般的な不動産会社では扱われにくい、「ひとクセあるが、他にはない魅力を持った物件」を街から掘り起し、そこで営まれるライフスタイルまでを含めて提案するのが、中村さんの仕事。 一方、後藤さんは、入居や購入する人が決まった段階から、その人の思いや建物・土地が持つ魅力を大切に、コンセプトづくりから図面作成、見積もり、現場監理、引き渡しまで、すべてに携わっている。 ときには、二人のそれぞれの視点から、建物を活用していくための事業プランを考え、オーナーや入居希望者に提案することもあるという。 中村さん:「例えば、宇都宮市内にある大谷石でできた倉庫群のオーナーさんから、『個人か借りるには建物が広すぎて、入居者が見つからず困っている』と相談を受けました。大谷石の壁や鉄骨のトラス梁は無骨なつくりで、とても魅力的に感じたので、複数の店舗が集まる場所にリノベーションすることを提案。現在では、美容室や飲食店などの個性的な5店舗が入居する『porus(ポーラス)』というエリアに生まれ変わりました」 また、「宇都宮のまちなかで、面白い暮らし方をしたい」と希望していた方に、眺望に優れた6階建てのビルの最上階を提案。併せて、1~5階はシェアハウスとして活用する事業プランを提示したことをきっかけに、宇都宮市内初のシェアハウス「KAMAGAWA LIVING」が誕生した。 中村さん:「シェアハウスの住人たちが、近隣のお店が開催しているイベントに参加したり、地域の人たちと一緒に雪かきをしたり、新たな場ができたことで化学反応が起こり、交流や活動が広がっていくは、やっぱり嬉しいですね」 後藤さん:「僕たちが見つけ出した物件や、リノベーションした空間に共感してくれる人たちが集まってきてくれることもあり、自然と交流や新たな活動が生まれやすいのだと思います」 街の人とつながる“入り口”を、栃木市に 中村さんと後藤さんは、もう一人の同級生である大波龍郷さんと「マチナカプロジェクト」を立ち上げ、栃木市の地域づくりにも携わっている。 後藤さん:「マチナカプロジェクトをきっかけに、栃木市の中心部に誕生したシェアスペース『ぽたり』のコンセプトづくりや内装デザインなどをサポートさせてもらいました。ここではさまざまなイベントやワークショップが開催され、新たな出会いや人のつながりが生まれつつあります」 さらに、現在マチナカプロジェクトでは、栃木市の中心部にある空き建物を改装し、カフェやゲストハウスなどが入居する場をつくろうと計画している。 後藤さん:「いちばんの目標は、この場所を栃木市で新しい何かを始めたい人たちが、街の人とつながる“入り口”にすること。『もみじ通り』のように、この場所をきっかけに新たなお店が次々と誕生していく拠点にしていきたいです」 中村さん:「もう一つの目標は、ここの運営を通じてマチナカプロジェクトとして利益を上げていくこと。それこそが継続的にまちづくりに携わり、地域の魅力を高めていくためには大切だと思うんです」

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

自分たちの手で、暮らす街を面白く!

村瀬正尊さん

現場に飛び込むことを決意。地域の課題解決を目ざして 「“民間自立型のまちづくり”というと難しく聞こえるかもしれませんが、ようは、『自分たちの手で、自分たちが暮らす地域を面白くしていこう』ということです。これまで地域活性化の取り組みは行政からの補助金に頼りがちで、一過性の活動で終わってしまうケースが多々見られました。そうではなく、自分たちで利益を上げながら、継続してまちづくりに取り組んでいくことが大切だと思うんです」 そう話す村瀬正尊さんは、小山市出身。大学生のころ、埼玉県草加市役所の「みんなでまちづくり課」で2カ月間、インターンシップを経験したことをきっかけに、まちづくりに興味を持つようになった。同じころ、若い世代などの起業を支援する「NPO法人 ETIC.(エティック)」のイベントなどにも参加。ここで自ら起業するという選択肢もあることを知ったという。 大学を卒業後、都内のオフィス家具メーカーに営業として2年間勤務したのち、やはりまちづくりの仕事に携わりたいと「ジャパンエリアマネジメント(JAM)」に入社。エリアマネジメント広告事業の立ち上げなどに携わった。 「エリアマジメント広告事業は、まちづくりの担い手が景観向上のためのルールに基づき、公道上や民有地の屋外広告を企業に販売し、得られた収入をエリアマネジメントの財源に充てようという事業。その立ち上げのために、深夜バスに乗って大阪や福岡、松山など全国各地の商店街を訪ねて回りました」 また、全国で自立的なまちづくりを目ざす団体や大学の教授、企業の担当者などが集うシンポジウムも開催。そうやって各地のまちづくり団体と関係を築いていたとき、一つの大きな壁にぶつかった。 「東京にいながら各地の地域活性化をサポートする活動は、どうしても『広く浅く』なってしまうのが課題でした。全国のいろんな方と知り合うなかで見えてきた地域の問題や、地元の人たちが抱える悩みを解決していくためには、思い切って現場に飛び込むことが必要だと思ったんです」 こうして村瀬さんは2009年、栃木県へ帰郷した。 “ハブ”となる人物との出会いが、大きな転機に 高校から埼玉の学校に通っていた村瀬さんは、じつはこれまで地元に対して、あまり関心がなかったという。栃木に戻ったとき唯一ツテがあったのが、JAMの仕事を通じて知り合った宇都宮大学の陣内教授だった。 「陣内先生に『県内で自分と同じような考えを持って、まちづくりに取り組んでいる若い人をご存じないですか』とうかがったら、ある3人の方を紹介してくれたんです」 その3人とは、本サイトでも紹介した、鹿沼で「CAFE 饗茶庵」やゲストハウス「CICACU Cabin」を運営する風間さん、宇都宮市のもみじ通りを拠点に、空間プロデュースを手掛ける建築設計事務所「ビルススタジオ」の塩田さん、インターンシップなどを通じて若者の力をいかし地域の課題解決を目ざす「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」代表の岩井さんだった。 「自らの手で地域を盛り上げようと活動する3人の方と出会えたことで、『じつは栃木って、すごく面白い場所だったんだ』と実感しました。陣内先生も含む4人は、県内でさまざまな活動をする人たちをつなぐ“ハブ”の役割を果たしている方。みなさんに出会えたことで、県内での人脈が大きく広がっていきました」 自立型のまちづくりを目ざし、さまざまな活動を展開 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーを立ち上げた村瀬さんが、塩田さんや風間さんとともに最初に手がけたのが「ユニオンスタジオ」のプロジェクトだ。宇都宮の中心部、ユニオン通りの空き物件を「ユニオンスタジオ」として活用。ここを拠点に、ユニオン通り界隈に暮らす“人”にフォーカスすることで、地域のつながりや魅力を探るフリーペーパー「Stew(しちゅう)」の発行などを手がけてきた。 2012年には、JR宇都宮駅西口から徒歩10分ほどにある空き倉庫を活用した「SOCO」プロジェクトをスタート。2階・3階はコワーキングスペース「HOTTAN(ホッタン)」として、1階は「TEST KITCHEN STUDIO」として活用している。 「TEST KITCHEN STUDIOには厨房設備や什器などを準備しており、『県内で飲食店を開きたい』という方が、その前に飲食店経営を経験する場として、人とのつながりを広げる場として利用していただいています」 また最近では、新たに「Plus BICYCLE」という情報誌の発行も始めた。 「栃木県内や宇都宮市内で、魅力的なお店やスポットを巡ろうとしたとき、街の雰囲気を肌で感じられる自転車は最適なツールです。ライフスタイルのなかに自転車をプラスすることで、より多くの人に栃木の魅力を実感してもらえたらと考えています」 ローカルと全国、両方の視点をいかして 2009年にマチヅクリ・ラボラトリーをスタートした頃、村瀬さんは「エリア・イノベーション・アライアンス(AIA)」の立ち上げにも携わった。AIAでは東京を拠点に、全国各地でまちづくり事業を展開する団体や企業をサポートしながら、民間自立型のまちづくりのノウハウを集め、これから同様の事業を始めようとする人たちの支援を行っている。また、自治体の財政が厳しさを増していくなか、公共施設を持続的に活用・運営していけるよう、公務員を対象にしたeラーニングなどのプログラムも提供している。 現在、村瀬さんは宇都宮を拠点に活動しながら、週2日ほど東京のAIAに出社。このように“二地域”で活動することには、大きなメリットがあるという。 「栃木県というフィールドがあることは、まちづくりの仕事を続けていくうえで、とても重要。このフィールドで実践し、成功した事例や得られたノウハウを、全国のほかの地域にいかすことができます。逆に全国の最新事例を、県内のまちづくりのヒントとして活用することもできるんです」 さらに村瀬さんは続ける。 「最近ではSNSの普及によって、東京にいながらにして地元のローカルな情報や旬な動きをタイムラグなく知ることができます。これまでは東京だけに向いていた意識が、地方にも向けられるようになっている。これはとても大きな変化だと思うんです。地方に関心を持つ都市部の人たちともつながり、巻き込んでいくことで、より面白いまちづくりが実現できるのではないかと感じています」 今後は、県内に民間自立型のまちづくり会社を立ち上げるのが村瀬さんの目標。自ら収益を上げながら、持続的に地域活性化に取り組むモデルケースをつくり出すことで、県内各地にその輪を広げていきたいと願っている。

“農”と“食”を通じて、地域を元気に

“農”と“食”を通じて、地域を元気に

小鮒拓丸さん・千文さん

農業を生業にしたい。二人の思いが一つに 「こっちが10分加熱した“ゆずジュース”で、こっちが加熱していないものです。加熱時間や素材の配合などを少しずつ変えて、どのパターンが一番おいしいか、料理に合うかなど、来年度の商品化を目ざして試作を繰り返しているんです」 そう話す小鮒千文さんは東京で生まれ、3歳のころ父親の地元である福島県郡山市へ。“食”に関心を持ったのは、25歳のときに大きな病気をしたことがきっかけだった。 千文さん:「食べることは、生きることに直結している。食べ方や心のあり方が、健康であるためにはとても重要だと痛感しました。病気を機に『食を通じてみんなの元気を応援したい』と思い、食の勉強を始めたんです。マクロビオティックのスクールに通ったり、北京中医薬大学日本校で薬膳について学んだり、食について知れば知るほど、その根本である“農業”への関心が高まっていきました」 同じく郡山で生まれ育った拓丸さんは、人材派遣会社やアパレルのお店で働きながらも、だんだんと子どもの頃から好きだった動植物にかかわる仕事がしたいと考えるようになった。「農業を生業にしたい」と二人の思いが一致し、準備を始めたちょうどその頃、東日本大震災が発生した。 拓丸さん:「周囲で野菜の出荷停止が続く状況のなかで、農業を一から勉強し、就農するのは難しいのではないかと感じました。いろいろ調べた結果、千葉県の長生村にある会員制農園『FARM CAMPUS』を見つけ、社長さんの好意によって、住み込みで働きながら農業を学ばせていただけることになったんです」 千文さん:「震災後、郡山の保育園でも外遊びが制限されて、息子が保育園から脱走してしまったことがあったんです。息子をもう少しのびのびした環境で育てたいと思ったのも、移住を決めた理由でした」 仲間に支えられて農と食を学んだ、外房での日々 千葉県のFARM CAMPUSで、拓丸さんは農場長として働きながら、近隣の自然栽培を手がける農家にも通い、農業を学んでいった。 一方、千文さんは農園内にある古民家で「のうそんカフェnora(ノーラ)」を開店。郷土食をテーマに、地元の野菜やお米、魚などをいかした、この土地でしか食べられない料理を提供してきた。また、4年半過ごしたうちの最後の1年は、英語保育を手がける保育園で、離乳食から大人の食事まで毎日30人分の料理を手がけてきた。 千文さん:「農園の社長さんや移住者の仲間たちなど、たくさんの人の支えがあったからこそ、私たちは農業や食、カフェの運営などを学ばせてもらうことができました。独立にあたって、外房を離れるのはとても名残惜しかったのですが、これからは自分たちの足で歩んでいかなければいけないと思い、那珂川町での就農を決意したんです」 千葉から郡山へ帰省する途中、よく通っていた那珂川町。ここで暮らすことを選んだのは、里山や川の美しさにひかれたからだ。また、郡山の実家に近いことも大きな決め手になった。 里山の旬の恵みをおすそわけ 「あっ、ここにも顔を出していますよ!」 取材に訪れたのは、春の足音が聞こえ始めた頃。家の前に広がるフキ畑には、たくさんのフキノトウが顔を出していた。拓丸さんは地域の資源を活用しながら、10反(約3000坪)の畑で少量多品目栽培に取り組んでいる。春夏秋冬の旬な野菜をセットにし、直接東京や県内のお客さんに発送。地域の飲食店にも野菜を卸している。 拓丸さん:「これからは自分たちの野菜だけではなく、里山のタケノコやフキノトウ、地元のおばあちゃんがつくった梅干しや、製麺所が手がけた天日干しのそばなど、この地域に息づくいいものも一緒に届けていきたいですね。僕たちは里山でしかできない仕事を、都会に暮らす人はそこでしかできない仕事をして、お互いに足りないものを補い合って生活していく。そんな循環する関係を築いていくことは、この地域の産業や里山を守ることにもつながると思うんです」 食を通じて、地域の元気を応援したい 千文さんは地域おこし協力隊としてこれまでの食の経験をいかし、産前産後のお母さんを対象にした町のプログラムで、那珂川町の食材を使ったマクロビオティックランチなどを提供している。この取り組みが始まったのは、食を通じて何か役に立てることはないかと考えた千文さんが、自ら町の健康福祉課を訪ねたことがきっかけだった。「食事によって産前産後のお母さんの健康をサポートしていく」という考え方に担当者も共感してくれて、来年度からは毎月1回など定期的にランチを提供していく予定だ。 ゆずを活用した商品開発の取り組みも、自ら町の六次産業化部会に参加したことがきっかけでスタートした。 千文さん:「かつて那珂川町では新たな産業を生み出そうと、ゆずの木を植えたことがあったそうです。けれど、今では高齢化が進んで、活用されないまま放置されていました。このゆずをいかして、新たな商品をつくり出すのが目標です」 千文さんは、ゆずジュースやゆず紅茶、化粧水や入浴剤など、さまざまな製品を試作。来年度中の商品化を目ざしている。 “農”と“食”を通じて、地域に恩返しを 最後に、二人のこれからの夢についてうかがった。 千文さん:「いつになるかは分かりませんが、“食堂のおばちゃん”になるのが私の夢。那珂川町の豊かな食材をいかした料理を提供するような、いろんな世代の人が集う場所をつくれたらいいなって思っています」 拓丸さん:「いつか農園でも、新たな雇用を生み出していきたい。僕たちが外房で成長させてもらったように、那珂川町で農業を学んでみたい、移住したいという人を、一人でも多く応援できたらと考えています。もし那珂川町で農業をやってみたいという方がいたら、ホームページからなど、いつでもご連絡ください!」 二人は常に自分たちにできることは何かと考え、目の前にあることに一生懸命に打ち込んでいる。“農”と“食”という自分たちが学んできたことを、一つ一つ地域に還元していく。それこそが、子どもたちに少しでもいい地域を、世の中を残すことにつながると信じて。

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

誰かが一歩を踏み出すきっかけになる場を

辻井 まゆ子さん

鹿沼の魅力的な人たちにひかれ、4日で移住を決意 「時間があるなら、ぜひ鹿沼へ行ってみたら!」 そうすすめてくれたのは、日光にあるゲストハウス「巣み家」のオーナー夫妻だった。旅行で日光を訪れていた辻井さんは、その言葉をきっかけに鹿沼へ立ち寄ることに。ちょうどその日は、ネコヤド商店街というマルシェの開催日。鹿沼にお店を構える若いオーナーや作り手たちが出店し、街は多くのお客さんで賑わっていた。 「じつは、初めて足を運ぶまで、鹿沼のことはまったく知りませんでした。鹿沼は観光地などではない、いわば普通の街。けれど、魅力的な人がたくさんいることに驚いたんです」 魅力的な人とは、マルシェに出店していた若い人たちだけではない。この日、辻井さんは、鹿沼で16年続く「CAFE 饗茶庵」のオーナー・風間教司さんと知り合い、街を案内してもらった。すると「どこから来たんだい?」と、街の人たちが気さくに声をかけてくれた。 「この街で商売を続けている方や、地元の祭りに登場する彫刻屋台(山車)を手がける職人さんなど、長年鹿沼に住んでいる人のなかにも魅力的な人がたくさんいて。風間さんをはじめ若い人たちと一緒に、街を盛り上げようとしている様子が伝わってきました。そんな温かい人のつながりや、何か楽しいことが起こりそうな街の雰囲気に強くひかれたんです」 その後、京都に戻った辻井さんは、仕事で奈良に来ていた風間さんと再会。「鹿沼に移り住みたい」という決意を伝えた。なんと、初めて鹿沼を訪れてから4日後のことだった。 誰かが一歩を踏み出す、きっかけになる場所を 神戸の大学を卒業後、辻井さんは2年ほど京都・大阪にあるカフェやパン屋で働いてきた。けれど、「将来こうなりたい」という明確な目標はなかったという。それが、鹿沼を訪れたことで「ゲストハウスを開く」という目標が見えてきた。 「初めて鹿沼を訪れた日、楽しかったこともあり、あっという間に夕方に。鹿沼に泊まろうとしたのですが、宿泊施設がほとんどなくて、そのとき『ゲストハウスがあったらいいのに』『ゲストハウスを開いて、自分がひかれた鹿沼の人たちのことを多くの人に紹介したい』と思ったんです」 また、日光の『巣み家』に宿泊したことも、大きなきっかけとなった。 「私は、『巣み家』のオーナー夫妻に鹿沼のことを教えてもらったから、ここへ来ることができた。そんな、誰かが一歩を踏み出すきっかけになるような、ゲストハウスをつくりたいなって思ったんです」 オープン前から広がった、つながりの輪 2013年5月から2カ月間、「巣み家」で修業をした辻井さんは、鹿沼市観光物産協会の臨時職員を経て、風間さんのもとで働き始めた。その間も1年にわたり物件を探し続け、ようやく旅館だったこの物件と出会った。 「大家さんは、江戸時代から続いていた旅館をやむなく閉めた経験から、『ここで宿をやるのは、なかなか難しいよ』と首を縦にふってくれませんでした。それでも諦めきれずに何度もお願いにいくと、『そこまで決意が固いなら』と大家さんが了承してくれて、1年越しで貸していただけることになったんです」 2015年3月、作業が始まった建物には、多くの人たちの賑やかな声があふれていた。この日、現地では鹿沼に事務所を構える一級建築士の渡辺貴明さんに協力してもらいながら、平面図をつくるワークショップが開催された。 辻井さんは準備段階から多くの人に参加してもらおうと、風間さんとともに「日光例幣使街道・鹿沼宿旅館再生プロジェクト」を立ち上げ、掃除や壁紙はがし、ペンキ塗りなど、さまざまなワークショップを開催。街の人たちや鹿沼を出て首都圏で働いている人など、たくさんの人たちが協力してくれた。 「いつもお世話になっている鹿沼のおじちゃんやおばちゃんが差し入れを持ってきてくれたり、『巣み家』をはじめ、県内や秩父のゲストハウスの方が応援に来てくれたり、人の輪がどんどん広がっていくのが本当に嬉しかった。消防法の申請などの高いハードルも、なんとしても乗り越えなければと思ったんです」 目標は、鹿沼のファンを増やすこと 開店準備が佳境に差しかかったころ、ゲストハウスの名を「CICACU(シカク)」と決めた。“CI”は“Civic”で鹿沼の人たちを、“CA”は“Cabin”でゲストハウスに泊まる旅行者を、“CU”は“Culture”(文化)や“Curation”(共有・編集)を意味している。 「私はCICACUを、単なる宿泊施設ではなく、地元の人や旅行者が集まれる場所にしていきたい。いろいろ人たちが集い交流するなかで、鹿沼の伝統や文化が受け継がれつつ、新たな文化が生まれ発信されていくような場所に」 そこで、CICACUの2階にある大広間をレンタルペースとして開放。オープン前から、すでにヨガ教室や料理教室、音楽ライブなどが開催されている。 「これからも珈琲ドリップ教室や映画上映会など、さまざまなコンテンツを増やしていく予定です。ときには鹿沼の人が先生になったり、旅行者が主催者になったり、学びやイベントを通じて多くの人が集い、つながる拠点にできたらと思っています」 さらに、鹿沼で自転車の卸を手がける大倉ホンダ販売に協力してもらい、CICACUのオープンに合わせて「レンタサイクル」も始める予定だ。 「ぜひ自転車に乗って、鹿沼の郊外へも出かけてほしい。郊外には豊かな自然や田園風景が広がり、農業を頑張っている若い方や田舎暮らしを楽しんでいる移住者がいます。一方で、鹿沼の街中にも魅力的な方がたくさんいる。CICACUに2泊、3泊しながら、ゆっくり両方の魅力に触れてもらえたらと考えています」 さらに、辻井さんは続ける。 「鹿沼のいちばんの魅力は、街の人たちの温かさ。新しい何かを始めようとする人を、たくさんの人が応援してくれます。CICACUに宿泊したり、教室に参加したり、街の人とふれ合ったりするなかで、鹿沼に移り住んでみたい、ここで新しいお店や仕事を始めたいという人が増えていったら、何よりも嬉しい!」 春の足音が近づくころ、鹿沼の街にCICACUはオープンする。鹿沼に旅へ出かけたときはもちろん、カフェを訪れたとき、「ネコヤド商店街」に遊びにきたときなどに、ぜひ気軽に立ち寄ってみてほしい。新たな出会いや発見に満ちた、その場所に。

“まちづくり”を画期的な研修制度でサポート  ~那須烏山市で地域おこし協力隊第1期生を募集中!~

“まちづくり”を画期的な研修制度でサポート  ~那須烏山市で地域おこし協力隊第1期生を募集中!~

那須烏山市役所 まちづくり課/NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク

“遊び場”を一緒に作りたい! 「正直に言えば、街のなかに遊び場が欲しいなあって思ったんですよね。行政の一員としては、問題発言かもしれませんけど!?」 そうユーモアを交えて話すのは、那須烏山市まちづくり課の佐藤篤さん。市としては初めての試みとなる地域おこし協力隊募集の“いいだしっぺ”だ。街なかで、働く場所・住む場所・遊ぶ場所の3つを完結できないかと思ったのが、そもそもの提案のきっかけだった。 佐藤さん 「新たに場づくりを始めようにも、地元にいる同世代の仲間はすでに仕事や家庭を持っているので、一念発起して事業を興せる人は、なかなか見つかりません。でも、全国各地を見渡してみると、創造力に満ちあふれた人たちが地域に移り住み、新しいことに精力的に挑戦しています。那須烏山にも、そんな人たちに来てほしい!と思ったんです。」 本格的な研修制度で持続可能な活動を 今回の募集では、市の地域資源の発掘・開発・販売支援や、空き家の活用、駅前の活性化などに取り組み、任期終了後も、地域で就労・起業する意欲のある人材が求められている。副業や、2,3人でのグループ応募も可能。そして、なんと言っても任期終了後の生業作りのための研修が受けられるのが、最大の特徴だ。全国の過去の事例から、最長3年間の任命期間だけでなく、4年目を見越した出口戦略の必要性を感じ、導入を決めたという。 佐藤さん 「他の地域の協力隊員から『3年後も、ここにいられるかどうかは正直分からない』という声を聞く機会があり、残りたい気持ちはあっても、生業を作るための長期的な展望やノウハウを隊員本人が見出せないことが、協力隊の抱える課題だと気づかされました。そこで、人材育成のためのスキームを作ろうと動き始めたんです。」 まちづくり課と一体となって研修制度を担うのは、宇都宮を拠点とする「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」。若い人たちの力で地域を活性化させることを目的に、企業・大学・行政をはじめとする幅広い組織・個人と連携し、イベントやセミナー、トークセッションを開催。インターンシップや新規事業立ち上げの資金調達などを通して、起業を目指す若者を支援している。 「NPO法人 とちぎユースサポーターズネットワーク」の古河大輔さんは、研修・人脈・相談の3つの柱で、隊員を支えたいという。「社会人経験と、起業して事業を継続する能力は別物ですし、都会と那須烏山では、できることが違います。その間に立って、ローカルで事業を展開するために必要な知識や技術、ネットワークを提供したいですね。」 開かれた環境で人と人を繋げる ―今回、市役所が民間団体に協力を要請した経緯は? 佐藤さん 「隊員の皆さんが1年、2年と活動を続けていくなかで、必ず市役所のメンバーには相談できないことが出てくるはずです。そんな時に受け皿になってくる第三者がいれば、風通しが良くなり、僕たちにはない視点で問題を解決できると思います。」 古河さん 「同時に、面白い事業を始めても、外の人たちと繋がらなければ、最終的には続かないですよね。芽が出るタイミングで地域外にも発信し、盛り上げることができれば、可能性は爆発的に広がります。そういった意味でも、『ユース』の幅広い人脈が役立つのではないかと期待しています。」 隊員の着任前に、想定される「失敗」や「障害」に対処。まちづくりを街のなかだけで完結させず、開かれたネットワークで進めていく環境が整備されている。 那須烏山市ならではの魅力と可能性 近年、那須烏山市では、空き家情報を収集・公開・利用促進する「ハウスブックプロジェクト」や地元農産物の生産・加工・販売を行う「烏合の手」、那須烏山市のコミュニケーションデザインチーム「glabo(グラボ)」、観光ツアーを主催する「クロスアクション」など、20代から40代が中心となった起業活動や市民団体の立ち上げが活発化している。 宇都宮市から那須烏山市に移り住んだ「とちぎユースサポーターズネットワーク」のプログラムコーディネーター、渡邊貴也さん(写真:左)は、那須烏山市の魅力をこう語る。 渡邊さん 「宇都宮市は人口51万人の都市なので、異業種交流会で市内の団体を網羅的に集めることは、ほぼ不可能ですが、人口3万人弱の那須烏山市では、住民同士の距離がとても近い。行動を起こせば響く環境なので、まちづくりには最適な場所だと思います。今、何かしらの団体に所属しつつ、点として動いていた市民同士がどんどん繋がっています。」 古河さん 「アイデアを持って行動している若手が、これだけ揃っていることには驚かされますね。とにかく面白い3年間になると思いますよ。こんな人になりたいという理想像や、実現させたいことの具体的なイメージを持っている方に、是非来てもらいたいです。」 佐藤さん 「夕暮れどきに家の外に折りたたみ椅子を出してビールを飲んでいると、必ず近所の人たちが集まってくるんです。そんな田舎ならではの時間を楽しみつつ、それぞれの力を持ち寄って、3人にしかできない“まちづくり”を実現させてもらえたらと思っています。」 地域内外の多彩な人とのコラボレーションを通して、どのような化学反応が生まれるのか。三者三様の経験や夢に、大きな期待が寄せられている。 *地域おこし協力隊募集要項を確認する

建築と医療の課題を暮らしの活力へ ~那須烏山市で育まれる新たなコミュニティ~

建築と医療の課題を暮らしの活力へ ~那須烏山市で育まれる新たなコミュニティ~

齊藤貴広さん・横山孝子さん

建築家プロ集団「ハウスブックプロジェクト」による空き家プロジェクト 「活動を始めたきっかけは、近代化遺産に指定されていた『烏山』駅が建て替えられたことでした。こんなに簡単に街の遺産が失われてしまうのかと、建物に関わる人間の役割について、真剣に考え始めたんです。色んな本を読んでいるうちに、人口減少と空き家の増加によって、市町村が消滅しかねない将来に危機感を覚え、那須烏山市の空き家問題に関わりたいと思うようになりました。」 那須烏山市出身の齊藤貴広さんは、宇都宮市などの設計事務所で働いた後、2008年に母の建築事務所「建築工房ヒロエ」を手伝う形で、故郷へUターン。5年後の2013年に、一般社団法人 栃木県建築士会烏山支部に所属する建築士の仲間と共に、空き家情報の集積・公開・利用促進を通して、まちづくりを推進する「ハウスブックプロジェクト」を設立した。 「実態調査をしたところ、多くの物件が見つかりましたが、代々受け継いだ場所を貸すことに抵抗を感じる方が、少なくありません。空き家の持つ可能性について丁寧にお話して、不安を取り除くことが大切ですね。」 飲み会の席で生まれたアイデアを形に 齊藤さんは、「ハウスブックプロジェクト」以外にも、様々な活動に精力的に取り組んでいる。2014年には、地元出身の同級生4人で、農産物の生産・加工・販売を行う「烏合の手」を結成。「みんなでお酒を飲んでいる時、造園業を営んでいるメンバーが、自家栽培している野菜をみんなに配ってくれたんです。ちょうどその場に、ジュース加工の仕事をしている仲間も居合わせて、那須烏山のお土産を作ろうと話が盛り上がり、実現に向けて動き始めました。」 早速、メンバーの土地で野菜づくりに着手し、果肉感たっぷりの完全無農薬トマトジュース「赤烏」を完成させた。次にJA那須南の協力を得て、栃木県産ブランド梨「にっこり」を使用した梨ジュース「梨烏」も手がけ、直売は勿論、地元のステーキハウスや物産店、那須塩原のカフェと販路を拡大している。 「ジュースは絞りたても美味しいですが、寝かせておくと熟成され、より濃厚な味が楽しめます。“七色の烏”を羽ばたかせることを目標に始めたので、今後は烏山のミカンやリンゴなども製品化したいです。」 コミュニティをデザインする「まちづくり」 「ハウスブックプロジェクト」も「烏合の手」も「まだまだこれから」と話す齊藤さんだが、プロジェクトを通して思わぬ出会いに恵まれた。その一人が、町内で床屋を経営している高橋誠一さん。環境や持続可能性をテーマに世界各地で開催されている、エコでソーシャルな飲み会「green drinks」を那須烏山で始め、「運営の手が足りないので若い力を貸してほしい」と齊藤さんに相談を持ちかけたという。 こうして2014年に生まれたのが、那須烏山市のコミュニティデザインチーム「glabo(グラボ)」。月1回行っている「green drinks」では、近隣の町から多彩なゲストを招き、年齢・経歴・業種・地域を超えたネットワークを育んでいる。「まちづくりに関わりたいとはずっと思っていましたが、動き出してみたら、同じような意識を持つ人たちがいることに気付かされました。」 建築士の仕事を軸に、新たな分野にも軽やかに飛び込んでいく齊藤さん。まちづくりは、まず楽しむことからと話す。「お酒を飲みながら、ざっくばらんに話し合うだけでもいいと思うんですよ。僕自身、『glabo』の集まりで梨農家さんと知り合ったことが、JAさんとのコラボ作『梨烏』に繋がりました。誰もが気軽に参加できて、楽しみながら輪を広げられる、そんな場になればいいですね。那須烏山はコンパクトな町で、動きが取りやすいので、その分、可能性も大きい気がしています。」 移住先で見つけた課題が人生の転機に 那須烏山市の地域医療に危機感を抱き、自らのキャリアを活かした事業をスタートさせた女性がいる。在宅医療に取り組む看護師、横山孝子さんだ。群馬県出身の横山さんが那須烏山市に移り住んだのは、1997年。知人を頼りに移住したのが最初だ。那須烏山の豊かな自然環境が一目で気に入ったという。地元の人たちの紹介で、勤務先の病院や住居、子どもの学校まで、とんとん拍子に決まったそうだ。 「那須烏山に引っ越してまだ間もない頃、息子が一人で下校していると、コロッケ屋さんのご夫婦が声を掛けてくれて、コロッケをお土産に持たせてくれたんですよ。最初から、余所者を歓迎してくれる温かい町だなあという印象で、スムーズに溶け込めました。」 転機が訪れたのは、救急外来を担当し始めた時。救急外来で90歳近いお年寄りが救急車で運ばれ、病院で亡くなる姿を目の当たりにするなかで、在宅医療の必要性を切実に感じるようになった。 「群馬の実家では、曽祖父母も、祖父母も皆、家で家族に看取られました。高齢の患者さんたちの願いが叶って、やっと自宅に帰れたと思ったら、救急車で運ばれて病院で亡くなる現状をなんとか変えたい、看護師として自分にできることはないかと考えるようになりました。」 その後、在宅医療の勉強会や講演会に積極的に参加。全国各地で、介護保険制度では対応しきれない生活支援を行う訪問ボランティアナースの会「キャンナス」と出会い、その活動と精神に「これが私の求めていたものだ」と深い感銘を受けた。 ネットワークで育てる在宅医療 一念発起した横山さんは、「在宅医療はコミュニティ全体で考えていくものなので、まずは地域を知ることから」と、お祭りの実行委員会や消防団の一員に。 「当初は、法人って何?定款って何?という、まさに手探りの状態でしたが、想いだけで動き始めたことに共感してくださった地元の人たちや議員さん、新聞記者さん、商工会の方々が、立ち上げ前から応援してくれて、空き家物件も紹介してもらえました。」 こうして2012年に、那須烏山市初の訪問看護「訪問看護ステーションあい」が誕生。5人のスタッフで始まった事業所は、現在、10人の多彩な経験値を持ったスタッフで運営されている。2015年には、念願の「キャンナス烏山」を設立し、訪問介護の有償ボランティアサービスを開始。医療保険や介護保険の範囲内でサービスを提供する「訪問看護ステーションあい」を補完する形で、外出時の付き添い、旅行介助、留守番など、保険の対象外となる支援の依頼にも柔軟に応じている。「今後も住民の方々や、行政・病院と協力しつつ、既存のシステムでは対応しきれないニーズに応えたい」という横山さん。 実はもう1つ、空き家を活用して実現したい夢があるという。「自宅での看取りは、家庭の事情や病状によっては難しい場合が多々あります。そういう人たちのために、必要な環境を整え、自宅にいるように最期を迎えられる『お看取りの家』を作れたらと思っています。訪問看護は看護士の心の集大成。地域の方々に、諦めなくていいと、希望を持ってもらえたら嬉しいですね。」 グループ応募もOK!那須烏山市地域おこし協力隊 今回初めて地域おこし協力隊を募集する那須烏山市。市民活動が活発な那須烏山市で、地元の方と一緒に街を元気にしませんか?募集は7月15日まで! *地域おこし協力隊募集要項を確認する

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