interview

県南エリア

装飾 装飾
ほっと、リセットできる場所に

ほっと、リセットできる場所に

関 恒介さん

〝自分勝手〟に生きることが大事なんだ   「みんな、人のために生きすぎなんじゃないかな」 店主の関さんは、コーヒーを淹れながら、そう話す。 「カウンターのこっちに立つようになって思うのは、まずは自分自身が楽しく、家族が幸せに暮らしていないと、お客さんを笑顔にできないということ。間違っているかもしれないけど、今は〝自分勝手〟に生きることが大事なんだと思っています」 例えば、小学4年生の娘さんに、「仕事が終わったら、すぐに帰ってきてね!」と言われたとしても、お店の片付けが終わったあと、30分好きな音楽を聴いてから帰宅する。そうやって少しだけ自分を大切にすることで、いつも穏やかに笑顔で過ごすことができる。 「このお店が、お客さんにとって、そんな息抜きの場所になっていたら嬉しいですね。Waffle Coffeeに寄ってから帰ったことで、家でもニコニコ過ごせたと言われるような場所に」 コーヒー屋で働く人たちが、みんないい顔をしていたんです 関さんは、千葉県柏市の出身。20代前半の2年間を、学生としてロサンゼルスで過ごした。音楽に熱中し、レコードを買いあさる日々。そして帰国後は、ミュージシャンとしてCDを出す傍ら、会社員としてのわらじも履き、仕事を続けてきた。そんな関さんが移住を考え始めたのは、2011年ころのことだ。きっかけは大きく二つある。 「そのころ、ワーゲンに乗って日本を一周したいと言っていた祖父や、アメリカを横断したいと話していた母などの身内が、立て続けに亡くなってしまって。やりたいことは後回しにせずに、今を大切に楽しく生きなくては、と強く思ったんです」 もう一つは、会社員の仕事で、壁にぶつかっていたことがある。 「僕は、自分で言うのもなんですが、会社員としては本当に仕事ができなくて。自分では頑張っているつもりでも、いつも年下の上司に怒られていました」 当時も、しょっちゅうアメリカを訪れていた関さんは、滞在中、よくコーヒーショップに立ち寄っていた。 「コーヒー屋で、働いている人たちの顔を見ると、チェーン店で働く人たちよりも、個人でお店をやっている人たちのほうが、みんないい顔をしていたんです。やらされているのではない。ニコニコ楽しそうに仕事をしている。そんな姿を目にして、自分も好きなこと、得意なことで勝負しようと決意しました」 コーヒーは、もともと好きで、自分で工夫しながら淹れていた。焼き菓子やケーキは、日本ではなかなかアメリカで食べた味に出会えず、ないなら自分でつくろうと家で焼いていた。器やアンティークも好きで集めていて、自宅はDIYで改装していた。 「そうやって、自分が情熱を注げるものを集めていったら、自然と今のコーヒーと焼き菓子のお店にたどり着きました」 NYのブルックリンのような、ポテンシャルを感じて お店を開く場所を探して足利市なども見て回ったが、佐野市を選んだ理由は、「適度に街で、適度に田舎で、交通の便もいい」ところ。奥さんの実家の群馬県館林市に隣接しているところ。「佐野の人は穏やかで、やさしい」ところなどが決め手に。 「うまく言えませんが、なんか好きだなぁって感じて。ここが、自分たちの暮らしにフィットしたんです」 さらに、佐野の街にポテンシャルを感じたのも、大きな理由だ。 「ポートランドやニューヨークのブルックリン、ロサンゼルスのダウンタウンなど、僕がアメリカにいたころには、今のように注目を集める街になるとは、想像もつかなかった。それが、物価や家賃が安いからと、アーティストやクリエイターたちが集まってきて、コーヒーショップや古着屋、レコード屋など、感度の高いお店がどんどん誕生していった。佐野にも、そんなポテンシャルを感じたんです」 このコンビニだった物件は、よく足を運んでいた「自家焙煎 福伝珈琲店」(Waffle Coffeeの2軒隣で、コーヒー豆は福伝珈琲店から仕入れている)の店主が紹介してくれた。それを、約1年かけてDIYでリノベーション。1900年代初頭の古き良きアメリカの空気に満たされた、Waffle Coffeeが誕生したのは、2016年4月のことだ。 佐野の居心地が良すぎて、家も買っちゃいました 「こないだ気づいたら、『きな粉のマフィン』をつくっていて。これはそろそろアメリカに行かなくちゃダメだなと思って(笑)」 そう話すように、関さんは今でも定期的にアメリカを訪れ、ベーカリーやコーヒーショップを巡り、実際に食べておいしいと感じた焼き菓子やケーキを、甘さやスパイスを少し抑えるなど、日本人の口に合うようにアレンジして提供している。素材は、娘さんにも安心して食べさせられるものを基準にセレクト。フルーツなどの盛り付けは、あえて綺麗に行わず、アメリカのラフな雰囲気を再現している。 「そうやってつくった焼き菓子を、おいしいと言ってもらえたとき、喜んでもらえたときが、何よりも嬉しいですね。また、お客さんから『福伝さんとうちと、今日はどっちに行こうかと迷えるのがありがたい』と言ってもらえたときも嬉しかった。そうやって訪れるお店の選択肢が、もっともっと佐野に増えていったらいいですね」 お店を訪れる若い人たちから、「自分もお店を開きたい」と相談をされることもある。 「そんなときは、『佐野は東京などの都市部に比べて家賃が安く、クリエイティブなことにも挑戦しやすいんだから、どんどんやるべきだよ!』って、もう何人もの背中を押しています」 さらに週末には、若い人たちがお店に来やすいよう、同世代の若いスタッフに、なるべくお店に立ってもらうようにしている。 「そうやって微力ながらも応援していくことで、若い人たちが新たなお店を立ち上げ、また次の世代の子たちの背中を押して……と、佐野に魅力的なお店が、どんどん増えていったら楽しいだろうなって」 実は、関さんは、佐野市内に1960年代に建てられたプール付きのもと別荘を格安で購入し、現在、自宅へとリノベーション中だ。 「これこそが、まさに佐野の住みやすさの証! この街が気に入らなければ、家は買わないですから(笑)」

おいしくて楽しい! この街の名物

おいしくて楽しい! この街の名物

染谷 典さん

新しい発想×昔ながらの製法で、いままでにないどら焼きを 暖簾をくぐると、雑誌の切り抜きが壁一面に飾られた店内に、どら焼きが種類ごとにトレーに収められ、ずらりと並んでいる。その光景は、まるでパン屋かカフェのよう。「バタどら」や「小豆と栗どら」をはじめとした定番から、「桜バター」や「よもぎきなこ」などの季節もの、さらに「マシュマロチョコ」や「モンブラン」といったニュータイプの商品まで、常に20~30種類のどら焼きがそろう。ポップに目をやると、「全身に塗りたい香りとコク!」(桜バター)や、「ポーチに入れたい程の好感!」(桜小豆)など、思わずクスっとしてしまうような、遊び心とパンチのきいた文字が躍っている。 「うちでは、どら焼きの皮のことを“バンズ”と呼んでいて、『バンズで挟めば、それはもうどら焼きだ』というルールを、勝手に決めているんです」 そう話す店主の染谷さんが、これまで手がけてきたどら焼きは120種類以上。コロッケやハンバーガー、お惣菜(!?)などの変わり種にも挑戦してきた。といっても、試作の方法はいたって真面目だ。染谷さんは、女性スタッフの意見も取り入れながら何度も試作を重ね、納得のいったものだけを店頭に並べている。また、県内はもちろん、東京の和菓子屋などへも、定期的に足を運ぶ。 「名店と言われるところは悔しいけどおいしくて、刺激を受けますね。何が違うんだろうって、店に帰ってきては材料を見直したり、作業工程を変えてみたり、けれど結局、うまくいかなくて元に戻したり……。そんなことばかり、ずっとやっています」 皮の生地には、「イワイノダイチ」という栃木県産の小麦粉や、大田原産の卵など、できるだけ地元のものを使用。防腐剤や保存料は使っていない。それを、熱伝導率の高い銅板で、一枚一枚、片面が焼けたら裏返してもう片面を焼くという、昔ながらの“銅板一文字の手焼き”を今も続けている。多いときには、一日500~600個分の皮を焼くこともあるという。 「最近は、機械を使って焼くフワフワな食感の皮が多いなかで、しっかりとした歯ごたえがあるのが、うちの特徴。これだけは変わらずに、守り続けています」 栃木へ戻るつもりは、まったくなかった 東京で生まれ育った染谷さんが、両親の地元である間々田へ引っ越したのは、中学3年生のこと。その後、高校3年間をこの地で過ごしたが、大学進学をきっかけに、また東京で一人暮らしを始めた。卒業後は、海運会社に3年半、アパレル会社に6年半勤め、アパレル時代には、海外での買い付けも経験した。「栃木へ戻るつもりは、まったくなかったですね」と振り返る。 そんな染谷さんが地元へ戻る決心をしたのは、三代目として和菓子屋を切り盛りしていた伯父さん(母親の姉の夫)が80歳になり、引退して店を閉めるのを決めたことがきっかけだった。 「母も、退職していた父も和菓子屋を手伝っていて、たまに電話で話すと、店を閉めることをとても残念そうに思っているのが伝わってきて。ちょうどそのころ、ぼくは独立して自分の店を開きたい、なかでも飲食関係がやりたいと考えていたこともあり、継ぐ決心をしたんです。また、当時はなんとなく地元に苦手意識があって、それを克服したいという気持ちも、少なからずありましたね」 老若男女、誰もが気楽に立ち寄れる店に Uターンしてからは、名物だった饅頭をはじめとした、和菓子づくりに没頭。失敗を繰り返しながら、約35種類の和菓子をつくり続けてきた。そのなかで、どら焼き専門店へと業態を変えたのは、どんな理由からだろう? 「当時、調査をしてみたら、お客さんの95%くらいが60歳以上の女性でした。僕は、その年齢層を下げて、若い人や男性も含め、老若男女が気楽に来られる店にしたかったんです」 そこで、和菓子屋を続けながら、まずは5年半前に茨城県の古河市に1号店を、その2年後には和菓子屋を辞めることを決意すると同時に、間々田に2号店を、さらに2年後に、小山駅のほどちかくに3号店をオープンした。 「数多くある和菓子のなかから、どら焼きに絞ることにも迷いはありませんでした。どら焼きは、子どもから年配の方まで誰もが好きで、和洋どちらの食材にも合い、表現の幅も広い。実は、定番商品の一つである『バタどら』は、和菓子屋だったころから人気商品の一つだったんです」 生産者や商店主のみんなと、一緒に盛り上がっていきたい 和菓子屋を継いだばかりのころは、ネーミングから使う素材まで、地元色を出そう、出そうとしていたという。けれど、それは表面的なものとなってしまっていたのか、最初は売り上げが伸びるが、リピートにはつながらなかった。そのため、あえて今は、地域らしさをそこまで意識はしていない。 「単純に、おいしいからまた食べたい! デザインが可愛いから、面白いから手土産に持っていこう! その繰り返しのなかで、『間々田といったらワダヤのどら焼きだよね』と名物になっていく。それが大事なんだと、失敗もしながら(笑)、気が付きました。どら焼きは、手を汚さずにワンハンドで食べられます。ファーストフード感覚で気軽に、おいしいどら焼きを楽しんでもらえたら、それが変わらない思いです」 現在でも、古河のカボチャやニンジンなど、地元の食材を使ったどら焼きをつくっているが、小山のハト麦など、少しずつ新たな特産品を使った商品にも挑戦していきたいと考えている。一方で、染谷さんは、音楽ライブやマルシェ、農家の収穫祭、雑貨屋の企画展など、仲間が主催するさまざまな地域のイベントにも出店。自身も「Mamamada FES」というロックフェスなどを運営している。 「地域の食材を積極的に使うのは、地元の農家さんと一緒に頑張っていきたいから、イベントに力を入れるのは、小山市はもちろん、県をまたいだ古河市や結城市で活動する魅力的な商店主たちと、みんなで一緒に盛り上がっていきたいから。それが結果的に、この地域全体を楽しくすることにつながっていったらいいなと考えています」

長く手元に置きたくなるデザインを

長く手元に置きたくなるデザインを

惣田紗希さん

より長く、その人の生活のなかにあるものを どこか切なく透明で、でも、奥底に強い意志を持っている。惣田紗希さん自身が“女の子”と呼ぶそのイラストをはじめて目にしたとき、そんなふうに感じた。 「この女の子は、誰でもなくて。描き始めたのは、あるコンテンポラリーダンスの映像を見たことがきっかけでした。同じ格好の女性が建物のなかでひたすら踊るシーンを目にしたとき、『体のラインがキレイだな』って思って。人の体を描きたいという思いから、半袖半ズボンになって、鼻と口が省略されていって……。最初は仕事とは別に、自分の日常の記録というか、考えを整理するために描いていたんです」 都内のデザイン事務所で、実用書などのデザインを手がけていた惣田さんは、2009年に退職。ちょうどその頃、友人に頼まれて「cero」というバントのジャケットデザインを担当したことをきっかけに、音楽関連のデザインを数多く手がけるようになった。仕事でイラストを描くようになったのも、CDジャケットがきっかけ。 「描きためていた“女の子”のイラストを、『ザ・なつやすみバンド』のメンバーが、『無機質だけどポップな雰囲気もあっていいね』と気に入ってくれて。ジャケットに女の子のイラストを描かせてもらったところから、キャラクターとして広まっていって。書籍や雑誌でのイラストの仕事も増えていったんです」 それまで、グラフィックデザイナーとして活動してきた惣田さん。イラストの依頼が増えるにつれて、「本業として経験を積んできたわけではないのに、自分がイラストレーターと名乗っていいのか」という葛藤もあった。 「でも、デザインの先人を見ると、自分でイラストを描き、デザインも手がけている人はけっこう多くて。どちらからの視点も、自分の仕事には大切な要素が多いことに気づいてからは、イラストの仕事も楽しくなってきました。今では、写真家やイラストレーターなど、いろんな人の力を借りて誌面をつくり上げるデザイナーの仕事も好きだし、イラストレーターとして誰かの力になることも面白いなって感じています」 現在、仕事の割合はデザインとイラストで半々。そのどちらの仕事をするうえでも、大切にしていることがある。 「音楽も本もデータで買える時代に、せっかくモノとして届けられるのなら、より長くその人の生活のなかにあり続けられるものをつくりたい。だから、『ジャケットを部屋に飾っています』『ブックレットを繰り返し読んでいます』などと言ってもらえたときは、本当に嬉しいんです」 惣田さんは、イラストを仕事で手がけるようになってから、1日1枚を目標にイラストを描き、SNSにアップしてきた。それられのイラストが韓国の出版社の目にとまり、『Waving Lines』という作品集として出版されている。 足利だからこそ生まれた、新たな作品 足利で生まれ育った惣田さんは、産業デザイン科に通っていた高校の頃、先生に『STUDIO VOICE』や『relax』などの雑誌を見せてもらい、デザイナーの仕事に憧れを持った。そして、桑沢デザイン研究所を卒業後、前述の都内にあるデザイン事務所へ。 「そこでは、グラフィックデザインの基本をみっちり学ばせていただきました。けれど、担当した本が、どんなふうに求められて、どんなふうに届いているのか分からないことが不安になって。一度デザインの現場を離れて、もう一度本まわりのことを勉強しようと思ったんです。本がお客さんの手に届く現場を見てみたくて、本屋さんで働いたこともありました。そのうちに、だんだん音楽関係の仕事が増えていって、フリーランスとして活動するようになりました」 それまで東京を拠点としていた惣田さんが、足利にUターンしたのは2013年春のこと。それ以降も、都内から依頼される仕事を中心に手がけている。 「都内で打ち合わせがあっても、足利からは特急で1時間、普通で2時間で行くことができるので、不便さはあまり感じません。むしろ東京にいなくても、自分で立てたスケジュールに合わせてのんびりと、面白い仕事ができることを日々実感しています」 自然が身近にある環境も、仕事にいい影響を与えてくれている。 「足利に戻ってからは、四季の移り変わりをはっきり感じるようになりました。例えば、仕事の息抜きによく散歩する渡良瀬川の土手も、季節によって緑の色が全然違うんです。それを記録するように描いていたら、自然と植物のイラストが増えていって。女の子と植物を組み合わせたイラストが、新たなテイストとして加わったんです」 若手作家が、気軽に作品を発表できる場所を足利に 2016年秋には、足利の「西門 -SAIMON-」というスペースで個展を開催。足利に戻ってから描きためた女の子と植物のイラストを中心に展示。紙だけでなく、木や布などの新たな素材にも挑戦した。 「木の絵を木材にレーザーで彫刻してみたり、風に吹かれる女の子を描いたイラストを布に落とし込んで、実際に布がゆれることで風に吹かれる様子を強調したり、いろいろな試みを盛り込みました」 20日間近くにわたり開催された個展には、「cero」や「ザ・なつやすみバント」のファンをはじめ、地元の若い人たちも多く足を運んでくれた。 「そんな子たちに話を聞いてみると、『足利には遊んだり、買い物したりするところがないから、市外や東京まで出かけている』という声が多くて。ちょっともったいないなって思いました。足利には『mother tool』さん(下写真)や『うさぎや』さんをはじめ、自家焙煎の喫茶店など、個性があって魅力的なお店や店主の方がたくさんいます。そんな足利の魅力を、もっともっと若い人たちに伝えていけたら」 現在、惣田さんは、共に受験した桑沢デザイン研究所を一緒に卒業し、同じフリーランスのグラフィックデザイナーとして足利にかかわっていこうとしている友人とともに、個展を開いた「西門」の活用法を考えるプロジェクトにも参加している。 「足利には本格的な美術品を扱う画廊はあるのですが、若手の作家が作品を発表できるところは少なくて。『西門』が若手の作家が気軽に展示やイベントを開催でき、若い人たちが立ち寄れたり、地元を離れている人が帰ってくるきっかけになるような場所にできればと考えています」

暮らしと仕事のつながりが楽しい

暮らしと仕事のつながりが楽しい

早川友里恵さん

のびやかな街の雰囲気にひかれて 「就活を始めたばかりの頃は、東京で働きたい、栃木に戻りたいといった希望はまだ明確にはなくて、当時は就職氷河期だったので、興味のある企業を必死になって受けていました」 そう話す早川友里恵さんは、宇都宮市の出身。茨城県の筑波大学で学び、就職活動では東京や愛知などにある食品メーカーを中心に回った。「岩下食品」を受けたのは新生姜やらっきょうなどのファンで、普段からよく食べていたからだという。 だんだんと選考が進み、どの企業に就職するのか、これからどこで暮らしていきたいかを真剣に考えたとき、頭に浮かんできたのは栃木市の街並みだった。 「岩下食品の面接の日に早く着いてしまって、蔵が残る巴波川沿いなど、栃木の街を歩いて回ってみたんです。そしたら、街の雰囲気がすごくゆったりしていて、荒物屋さんや駄菓子屋さんなどのレトロで懐かしいお店もあれば、おしゃれな飲食店などの新しいお店も充実している。とても暮らしやすそうな街だなって感じました。逆に、面接でよく訪れていた東京は、立ち並ぶビルの圧迫感などに疲れてしまうことが多くて。私には、実家にも近く、のびのびとした雰囲気のこの街が合っていると思ったんです」 また、岩下食品では、高校で美術部に入っていた頃から独学で覚えた、イラストレーターやフォトショップの技術をいかせそうだったことも、大きな決め手に。こうして早川さんは2011年4月に栃木にUターン。岩下食品で働き始めた。 “しんしょうがくん”のブログをきっかけに、新プロジェクトへ 入社後、商品企画部に配属になった早川さんは、プレゼン資料や商品のポップ、チラシの制作などを担当。商品PRを目的としたイベントの企画・運営なども手がけてきた。3年目からは、ウェブサイトの更新も行うようになり、大幅なリニューアルも担当した。 「更新をタイムリーに、内容も自社で自由に作り替えられるように、というのが会社の方針で。主要なところだけを制作会社さんにお願いして、あとは“HTML”や“CSS”について勉強しながら、なんとか自分たちでリニューアルを行いました」 その後、ネット通販も担当。入社5年目の現在では、サイトの運営だけではなく、得意先に納品に出かけたり、集金を行ったり、注文を受けてから商品を届けるまでのあらゆる仕事に携わっている。 そんななか、入社2年目から若手の先輩社員たちと一緒に、自発的にスタートしたのが「ちょっとそこまで新生姜」というブログだ。 「ブログの主人公は、私がフェルトで手づくりした“しんしょうがくん”というキャラクター。この“しんしょうがくん”と一緒に、岩下の商品を使ったメニューを提供してくれている飲食店へ出かけたり、イベント出店の様子をレポートしたり、栃木の街並みを紹介したり、私たち自身も楽しみながら200件以上の記事をアップしてきました。すると、『なんか面白いことをやっている若手がいる』と社長の目にとまり、新たにオープンするミュージアムのプロジェクトに参加させてもらえることになったんです」 小さな会社だからこそ、多くのことに挑戦できる ミュージアムとは、2015年6月に栃木市内にオープンした「岩下の新生姜ミュージアム」のことだ。館内には、商品に関する展示だけではなく、新生姜を使った料理が味わえるカフェや新生姜の被り物をかぶって記念撮影できるコーナーや、岩下漬けの体験コーナーなど、遊び心あふれるコンテンツが充実している。 「私は主に『新生姜の部屋』を担当しました。ここは人間サイズになった新生姜が暮らす部屋をイメージして、細部まで新生姜にまつわるネタを散りばめています。新生姜と恋人になった気分で、さまざまな写真が撮影できるフォトスポットです!」 このほかにも、新生姜の被り物の企画や館内にあるジンジャー神社のおみくじ、絵馬のデザインなどを担当。クリスマスなどのイベント時には、飾りつけなどもすべて自分たちで行っている。 「ミュージアムに来てくれたお客さまに『あの展示がすごく面白かった!』『初めてこの商品を食べたけど、おいしかった!』などの声をいただくと、ますますやる気がわいてきます。岩下食品の魅力は、大きな会社ではないので、いろんな仕事に携われるところ。自発的に動くことで、さまざまなことに挑戦できます」 どんどん広がっていく、街の人たちとのつながり 毎朝、自転車で会社に向かう早川さん。通勤時間はわずか10分ほど、渋滞や満員電車に悩まされることはない。一方、住まいから栃木市の中心部へは、歩いて10分ほど。休日には散歩がてら、雑貨店や飲食店などに出かけることも多いという。 「栃木市には、おいしい飲食店が多くて、先輩たちとよく通っている市内のリゾット屋さんがミュージアムの料理を監修してくれたり、ファンだった洋菓子店が新生姜のマカロンを提供してくれたり、暮らしと仕事がつながっているところが楽しいですね。仲良くなったお店の方と一緒に、イベントやライブに出かけることもあるんです」 また、ここ数年で栃木市の街中には、シェアスペース「ぽたり」や古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」など、若い人たちが営むお店が次々と誕生している。早川さんも、ぽたりで開催されているライブやワークショップ、飲み会などに参加。ぽたりをきっかけに知り合った大工さんが開催する、木工教室のサポートも行っている。 「ここ1、2年で、地元の友達が本当にたくさん増えました。今、栃木市では、同世代の若い人たちが地域を盛り上げようとさまざまな活動をしていて、街に活気があふれています。私も、さらにつながりを広げていきたい。そして、ウェブなどの得意分野をいかして、地域の活動にも積極的に関わっていきたいです」 早川さんにとってこの栃木の街は、仕事に打ち込む場所であり、普段の暮らしを楽しむ場所。さらに今では、新たな出会いが広がっていく大好きな場所に。

ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

ぼくはこの吉田村が大嫌いだった

伊澤 敦彦さん

素材の持ち味を、最大限にいかしたジェラートを 「正直にいうと、ぼくはこの吉田村が大嫌いだったんです」 どこまでも続くのどかな田園風景や、夜空に広がる満点の星は美しく、子どものころから好きだった。けれど、最寄り駅まで自転車で30分以上かかる不便さや、近くに飲食店や商業施設などが何もない環境にたえられず、伊澤さんは高校を出てすぐに東京のデザイン学校へ。卒業後も都内でデザイナー・アートディレクターとして8年間、グラフィックやWebの制作に携わってきた。 そんな伊澤さんが地元に戻る決意をしたのは、いちご農園を営む父親が、近くにオープンする道の駅でジェラート店を開こうとしたことがきっかけだった。 「父の計画では、どこの田舎にでもあるようなお店になってしまいそうで。いちご農園がジェラート店をやるのであれば、『どこよりもおいしい、いちごのジェラート』を出さなければ意味がない。そのためには、自分がやるしかないと思ったんです」 それから伊澤さんは、都内の名だたるジェラート専門店を訪ねて回った。そのなかで、東京・阿佐ヶ谷にあるジェラートの有名店「Gelateria SINCERITA(ジェラテリアシンチェリータ)」の門をたたく。 「素材のよさを最大限に生かすという考え方に強くひかれました。ジェラートは、材料の配合バランスが命。素材のおいしさを引き出すためには、糖分や乳脂肪などの質や量を綿密に計算し、その素材に合った最適な配合にすることが大切です。『Gelateria SINCERITA』でジェラートづくりの本質を学べたことは、本当に幸せでした」 2011年3月「道の駅しもつけ」の開業とともに、ジェラート専門店「GELATERIA 伊澤いちご園」はオープン。ショーケースをいろどるのは、常時15種類から20種類ほど用意されるジェラートだ。その素材は、県内外問わずいいものを厳選して使用。たとえば、ブドウは栃木市大平町のブドウ園から、りんごは長野のりんご園からと、伊澤さんは生産者に直接会って仕入れることを大切にしている。 「いい素材には、それぞれの生産者の思いが詰まっています。ぼくはその思いを大切に受け継ぎながら、おいしさや素材感を高めたジェラートとして提供していきたい。ブドウよりもブドウらしい、りんごよりもりんごらしいジェラートをつくり、生産者をヒーローにすることが、いちごの生産者でもある自分の責任だと思うんです」 現在、伊澤さんは父親とともに、いちごの栽培にも携わっている。「伊澤いちご園」のいちごは、ハウスで完熟の一番おいしい状態に育てたうえで、出荷されるのが特徴。そのためには、徹底した温度管理とスケジュール管理が欠かせない。伊澤さんは、これまで父親の経験に頼ってきたその技術をすべて数値化。栽培の要点を、いち早くつかもうと努めている。一方、父親も、適度な酸味があり加工品に適した「女峰」という品種を新たに栽培するなど、伊澤さんの取り組みを応援している。 地元を快適な居場所に、自分たちの手で 2014年5月、伊澤さんは旧吉田村にイタリアンカフェ・バール「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」をオープンした。そのきっかけは、高校の後輩であり、ジェラート店を手伝っていた伊藤美琴さんや父親と、飲みながら「伊澤いちご園」の将来について語り合ったことだった。 「ジェラートは、どうしても冬場に売上が下がってしまう。だから、ジェラート店にカフェを併設したい」と漠然と考えていた伊澤さんに対し、都内のフレンチやイタリアンなどのレストランで経験を積んできた伊藤さんは「イタリアの農村にあるような、地域に根ざしたレストランができたら素敵だよね」と語った。すると「使われていない、あの農協の建物がいいのでは!」と父親。翌日、みんなでその建物を見にいくことに。 「築50年ほど経った無骨な鉄骨の事務所や、大谷石でつくられた石蔵を見たとき、お店のイメージが一気に膨らんできました。『吉田村に飲食店がないなら、自分たちでやるしかない』と考えていたこともあり、イタリアンカフェ・バールを開く決意をしたんです」 大谷石の石蔵を、たくさんの人が集う場所に 2015年10月4日、「L'ape Ronza(ラーペロンツァ)」の前の敷地には、栃木や茨城にあるカフェの有名店をはじめ、古道具店や花屋、農家などが集まった。「吉田村まつり」の会場は、各ブースから漂うおいしそうな香りや、アイリッシュバンドが奏でるメロディ、そして多くの笑顔で満たされていた。 地元の旧吉田村にイタリアンカフェをオープンし、マルシェも成功させた伊澤さんに「この街が、だんだん好きになってきたのでは?」とたずねると、返ってきたのは「まだまだですね」という言葉だった。 「まだ、このイタリアンカフェが一軒、オープンしたにすぎません。これからは、カフェの向かいに建つ大きな石蔵を改装し、パン屋や花屋など、いろんなお店が出店できる場所にするのが目標です。ぼくはこの吉田村を、住む人が誇れる街にしていきたい。わざわざ友だちを呼びたくなるような、子どもたちがずっと住み続けたくなるような、何よりもここに暮らす自分たちが快適に過ごせる街に」 何もないからこそ、可能性はあふれている 中学や高校のころ「何もない」と感じていた地元には、じつはたくさんの魅力や可能性があることを、いま伊澤さんは実感している。 「豊かな田畑、おいしい野菜、あたたかな人々。何もないからこそ残る、のどかな田舎の風景は、首都圏の人たちの目にきっと新鮮に映るはずです。栃木県内には、吉田村のような地域が数多くある。UIターンした人たちが新たな視点で地域の魅力を掘り起し、培ってきた能力をいかして、これまでにない仕事を生み出せる可能性はあふれています」 伊澤さんが「吉田村まつり」を始めたのは、豊かな田舎の風景が残るこの地域の魅力を、県内外にアピールするのも狙いの一つだという。 「ぼく一人でできることは限られている。だから、活気あふれる吉田村の“青写真”を鮮明に描くこと、常にそれを発信し、多くの人を巻き込むことが大切。それこそが自分の役割だと思うんです。“青写真”には、たくさんの人に色をつけてほしい。いろんな個性が集まったほうが、きっと魅力的な地域が実現できるから」 いま旧吉田村では、伊澤さんの思いに共感した設計士やデザイナーが参加し、石蔵を人が集う場に再生する「吉田村プロジェクト」が動き始めている。東京から地元に戻って5年。伊澤さんの思い描く“青写真”が現実になる日は、きっともうすぐそこだ。

誰もが地域を面白くすることができる

誰もが地域を面白くすることができる

田中 潔さん

400年にわたり受け継がれた、米づくりを守るために 田中さんが写真に興味を持ったのは、姉の結婚式を撮影したことがきっかけだった。そのとき撮った一枚の写真を、姉夫婦をはじめ多くの人がほめてくれた。大学受験に失敗し将来について悩んでいた田中さんにとって、周囲の言葉はひとすじの希望の光となった。 「その写真は、本当にたまたま撮れた一枚でした。けれど、一瞬で勝負が決まる写真の魅力に、強くひかれたのを鮮明に覚えています。当時は農業を継ぐのが本当にイヤで、カメラマンになろうと家出同然で実家を飛び出したんです」 20歳で上京した田中さんは、写真スタジオに勤めたあと、アシスタントとして経験を積み独立。十数年間、カメラマンとして第一線でキャリアを重ねてきた。「実家に戻るつもりは、まったくなかった」という田中さんだが、いつも実家から送ってもらい食べていたお米が、じつは他人がつくっているものだと知ったとき、その心境に大きな変化が。 「父は、年齢を重ねるうちに手が回らなくなり、米づくりを業者に委託していたんです。そのことを聞いたとき、400年続く米農家が他人のつくったお米を食べていることに危機感を感じました。自分が米づくりを守らなければと、実家に戻る決意をしたんです」 こうして2010年に地元に戻った田中さんは、栃木県内の農家のもとで有機栽培の基礎を学んだ。同時に、父親からも新波の土地に合った栽培方法など、多くのことを教わったという。 「昔、新波地区では洪水が多く、一面が水につかったこともあったそうです。それでも先祖がこの地を離れなかったのは、土地が豊かだったからにほかなりません。田中家には代々受け継がれてきた栽培の知恵や、粛々と続けられてきた自然を敬う風習などが息づいている。ぼくはこうした“土地の魅力”をもう一度掘り起し、大切に受け継いでいきたい。それこそが、自分の役割だと思うんです」 農業を魅力的かつ、稼げる仕事にしていきたい! 川が運んだ肥沃な土地に恵まれ、古くから「おいしい」と評判だった新波のお米。田中さんはこの地で、春には地元から出る“米ぬか”と“酒粕”でつくった有機質肥料を、秋には“米ぬか”や“もみ殻”を田んぼにまき、農薬や化学肥料を一切使うことなくコシヒカリを栽培している。また、肥料のもちをよくするために栃木県特産の“大谷石”の粉末を入れるなど、「土地ならではの味」を引き出すことを追及。こうして大切に育てたお米を、「NIPPA米(ニッパマイ)」という新たなブランドとして販売している。 「ぼくにとって、米づくりも写真の仕事も同じ“ものづくり”。その姿勢が変わることはありません。大切なのは『自分がいいと思うもの、おいしいと思えるお米をつくること』。写真表現で培った感性を生かしながら、自分だからこそできる新たな米づくりを、この新波から発信していきたいと考えています」 「NIPPA米」のファンは県内だけでなく首都圏にも多く、田中さんは直接「NIPPA米」を発送している。栃木市や宇都宮市にあるカフェや雑貨店、古道具店などでも「NIPPA米」を販売。益子の陶器市などのイベントにも積極的に出店し、「NIPPA米」でつくったおにぎりなどをお客さんに届けている。 また、毎年、田植えと稲刈りの時期に開催している体験イベントには、県内外から多くの家族が参加。「自分で植えたもの、かかわったものを食べるのは本当に豊かなこと。暮らしや食生活を見つめ直す、きっかけにしてもらえたら」と田中さんは願う。 「お客さんから直接『おいしかった』、『子どもがNIPPA米ばかり食べています』などの声をいただいたとき、この道に進んで本当によかったと実感します。ぼくは、農業を魅力的で稼げる仕事にしていきたい。カフェや雑貨店でお米を販売したり、イベントに積極的に参加したりと新たなチャレンジを続け、自分自身がその先駆けになることで、新波で農業をやってみたい、住んでみたいという人が増えていったら最高ですね!」 地域を面白くできる可能性が、誰にでも 現在、田中さんは、栃木市の中心部にある古道具と雑貨の店「MORO craft(モロクラフト)」の店主や、シェアスペース「ぽたり」のオーナーなど、同世代、若い世代の人たちと一緒に「ニュートチギ」という団体を設立。合併により広くなった栃木市全域で、つくる人・商う人・使う人のつながりを育みながら、新たな価値観で地域を見つめ直し、暮らしの楽しみや魅力を発信していきたいと考えている。 「地元に戻って感じたのは、つくり手やショップオーナーなど、身近なところにたくさん魅力的な人がいるということ。栃木市内ではまさに今、つくる人や商う人の連携が生まれ、新たなチャレンジが始まったばかりです。だからこそ、やる気と思いさえあれば、誰もが地域を面白くすることができる。そんな可能性にあふれているところが、このエリアの大きな魅力ですね」 昨年、田中さんは初めて酒米の栽培に挑戦。地域の酒蔵とコラボして「新波」という酒をつくり、地元の神社に奉納することを目ざしている。また、自分の田んぼの土とワラを焼いた釉薬を使い「めし椀」をつくるなど、今後は県内の作家と連携しながら「お米にまつわるさまざまなもの」をつくっていきたいという。 新波の地で田中さんが起こす新たな波は、きっとこれからも多くの人を巻き込み、さらに大きく広がっていくに違いない。

人と人、技術と技術をつないでいきたい

人と人、技術と技術をつないでいきたい

中村 実穂さん・俊也さん

人や技術をつなぐ。新たな関係から生まれるものを 見る角度や動きによって表情を変える木枠や、まるで星座のようにつながる糸とスチール、円を描きながらやわらかに連なる真鍮など、さまざまな形や素材、技術を組み合わせて、美しいモビールをつくり上げるのは、栃木県足利市にある「mother tool」。さらにステーショナリーや暮らしの道具など、全国各地の工場やデザイナーたちと連携しながら、数多くのオリジナルプロダクトを手がけている。 代表の中村実穂さんは、足利市の隣町、群馬県邑楽町(おうらまち)の出身。都内の短大を卒業し、インテリア・家具デザインの専門学校に進んだあと、両親が営んでいた組み立て工場を継ぐために地元へ戻ってきた。 実穂さん:「じつは親戚中に説得されて、しぶしぶ工場を継ぐ決心をしたんです。当時、主に手がけていたのはパチンコ台を組み立てる仕事。深夜までかかって何千台と組み立てる日もあれば、ぽっかりと数日空くこともある。納期が厳しく仕事に波があるうえ、依頼先からは『代わりの工場はいくらでもある』といわれることもあったりして、この仕事を続けていく意味が、なかなか見いだせなかったんです」 そんな状況のなか、実穂さんと俊也さんの心の中では「自らの手でものづくりをしたい」という思いが膨らんでいった。実穂さんはとにかく一歩を踏み出そうと、専門学校時代の先生である家具デザイナーの村澤一晃さんのもとへ相談に。そのとき村澤さんがかけた「組み立ては、パーツとパーツをつなぐのが仕事。その“つなぐこと”を意識してものづくりに取り組んでいったらいいのでは」という言葉によって、これからやるべきことが見えてきたという。それから実穂さんは、足利をはじめ、岐阜や徳島、福井、東京などの工場を見学したり、気になるデザイナーに会いに行ったり、全国各地を巡った。 実穂さん:「いろいろな方にお会いするなかで、それぞれの工場、デザイナーさんが得意とする分野や技術が分かってきました。その良さをより引き出す形で、人と人、技術と技術をつないでいきたい。それこそが、組み立て屋である私たちの役目だと思ったんです」 モビールは“組み立て屋”の腕の見せどころ 2006年2月にmother toolを設立し、最初に手がけたのが「木とアルミ」のシリーズだ。足利では戦前の飛行機から現在の自動車部品まで、アルミなどの金属加工が盛ん。その技術を代表するのが、ロクロのように回転する板状のアルミに、ヘラを押し当てながら形をつくる“ヘラ絞り”という職人技だ。 実穂さん:「熟練の職人さんが手仕事で生み出すパーツの誤差はほんのわずか。丁寧につくられた強固なアルミに、木目や色味など樹種のよさを引き出すことに長けた徳島の『テーブル工房 kiki』さんの木のパーツを組み合わせることで、やさしさもあわせ持ったステーショナリーをつくることができました」 その後、2011年にモビールづくりを始めたのは、村澤さんの「モビールをつくってみない?」という、何気ない一言がきっかけだった。モビールが大好きだったという実穂さんは「ぜひつくってみたい!」と、モビールをはじめプロダクトデザインを手がけるユニット「DRILL DESGIN」に相談。すると、「せっかくならオリジナルのモビールブランドを立ち上げよう」とDRILL DESGINが快くディレクションを担当してくれた。こうしてモビールブランド「tempo」が誕生。5人のデザイナーによる9種類のモビールに、いまではmother toolのオリジナルをくわえ10種類を展開。海外でも取り扱われるほど注目を集めている。 工場では俊也さんが、デザイナーが手がけた図面や模型をもとに試作を行い、どのスタッフが組み立てても均一なモビールになるよう、工程ごとのマニュアルや、パーツ・工具の作業位置を示す器具づくりなどを行っている。 「モビールは、各パーツをテグスなどでつないで組み立てていきます。そのとき、パーツとパーツの距離や角度が少しずれるだけで、せっかく職人さんがいいパーツをつくってくれても、表情や雰囲気が台無しになってしまう。モビールづくりは、まさに“組み立て屋”の腕の見せどころなんです」 さらに、実穂さんが続ける。 実穂さん:「モビールには金属や木、樹脂、ガラスなどさまざまな素材が使われます。そのため、いつか一緒にものづくりができたらと思っていた多くの工場と、新たに仕事ができるようになりました。モビールの展開を始めたことで、よりmother toolらしいものづくりができるようになったと感じています」 足利の地で育まれた技術や人を活かして 足利学校のほど近く、石畳の通りに面した建物に、2009年mother toolのお店がオープンした。「ものをつくるだけではなく、使う人に直接届けたい」「つくり手の思いや背景を伝えることで、つくる人と使う人をつなぐ役割も果たしていきたい」との思いから、店内にはmother toolの道具だけではなく、つながりのあるデザイナーや工場のプロダクトも数多く並べられている。さらに2014年には、工場も足利市内に移転。その理由は、足利にはさまざまな技術を持った工場が集まっているからだという。 俊也さん:「足利では金属加工だけでなく、古くから繊維業も盛ん。フットワークの軽い小規模な工場が多く、ありがたいことに、私たちと一緒に楽しみながらものづくりに取り組んでくださる工場も増えています。何か相談ごとがあれば、すぐに会いに行ける距離。雑談のなかから新たなアイデアが生まれることもあるんです」 実穂さん:「歴史ある建物が点在している足利の石畳エリアは、散歩をしていてとても気持ちがいい。のびやかな雰囲気が気に入っています。屋台をはじめ、おいしいコーヒー屋さんや個性あふれる飲食店など、個人が営む小さなお店が多いのも魅力ですね」 そんな足利の魅力を多くの人に知ってもらいたいと、実穂さんは地域づくりの団体「いしだたみの会」のメンバーとして、石畳エリアの魅力を伝える冊子「TALIRU」の制作にも携わっている。 「今後は足利に息づく技術をさらに掘り起し、新たなプロダクトとしてその魅力を発信していきたい」と考える二人。 地域で育まれた技術や人の強みを活かし、ほかの産地の素材や技術と組み合わせることで、新しい価値をつくり出す。mother toolのプロダクトは、東京などの大都市でなくとも面白いものづくりができること、地域に根ざしているからこそ生み出せるものがあることを気づかせてくれる。

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