interview

里山暮らし

装飾 装飾
「地域おこし協力隊」という</br>選択肢で、人生の目標へ

「地域おこし協力隊」という選択肢で、人生の目標へ

武田 真悠香(たけだ まゆか)さん

自然と「住みたいな」と思っていた 京都府出身で、千葉県内の大学に進学した武田さん。 一見、栃木県とはなんの縁もなさそうな武田さんが那須烏山市に移住することになったのは、大学在学中に始めた長期アルバイトがきっかけだった。 那須烏山市にある、龍門の滝。高さ約20m、幅約65mの大滝で、滝の上を走るJR烏山線の列車と四季折々の絶景の共演が楽しめる人気スポットだ。 龍門の滝のすぐそばにある「龍門ふるさと民芸館」に勤める知人から誘いがあり、当時大学生だった武田さんは、龍門ふるさと民芸館内にある「龍門カフェ」のアルバイトとして働き始めた。 繁忙期に1〜2週間程度、住み込みで働く長期アルバイト。 知人がいたとはいうものの、実際に那須烏山市を訪れたのは、このときが初めてだった。 初めての土地で住み込みバイトを始める武田さんには行動力を感じられずにはいられないが、 何より驚いたのは、2、3回のアルバイトののち、既に那須烏山市への移住を考え始めていたことだ。 「最初のアルバイトのときから、地域の方にとてもよくしていただいて、『すごくあたたかくて、いい地域だな』と思っていたんです。 そんななかで、2、3回目の長期アルバイトに来たときに『那須烏山市で地域おこし協力隊を募集しているから応募してみない?』と声を掛けていただいて、あっという間に移住を決めていました」 移住へと武田さんの背中を押した、地域の方のあたたかさに触れたエピソードがふたつある。 まずひとつめ。 年季の入った中古車で、千葉県から那須烏山市まで片道3時間半の道のりを通っていた武田さん。 トラブルが起きたのは、長期アルバイトの最終日のことだった。ガタが来たのか、車が動かなくなってしまったのだ。 すでに夜の18時。アルバイト先の方も帰宅していたため、観光協会の職員さんに電話をしたところ、「私から地元の電気屋さんに電話してみるよ」という心強い言葉が。 5分ほどで電気屋さんが駆けつけてくれて、無事直してもらうことができた。 「都会だったら、『自分でなんとかしなさい』とか『車屋さんにもっていきなさい』とか言われてもおかしくないじゃないですか。 そんななかで、見ず知らずの私のためにすぐに駆けつけて、親切に助けてくれて、あたたかいなぁと感じました」 ふたつめ。 千葉県で一人暮らしをして、さらにそこから那須烏山市で住み込みバイト。 心細い気持ちもあったが、アルバイト先の方の心配りに救われた。 「どこに泊まっているの?」「ご飯はちゃんと食べられているの?」やさしい言葉の数々に、安心できる「第三のふるさと」が栃木県にできたような気持ちだった。 アルバイトで訪れるまで、那須烏山市はまったく知らない土地だったが、心あたたまる地元の方との触れ合いにも背中を押され、「飛び込んでみるか!」そう心に決めていた。 夢を実現するため、地域おこし協力隊へ 元々、いろんな場所に出かけたり、新しいコミュニティに参加したりすることが好きだった武田さん。 新しい出会いを求めて、企業のセミナーやインターンシップにも積極的に参加してきた。 そんな経験や行動力が、今まさに発揮されている。 大学時代からWeb制作に興味を持ち始めたという武田さんには、将来、Web業界で独立したいという目標がある。 その目標への道筋として武田さんが選んだのが「地域おこし協力隊」だった。 地域おこし協力隊としてシティプロモーションに携わりながら、地域資源を活かしたWeb制作にも取り組める。 やりたいことに近づくため、地域おこし協力隊が最適な選択肢だったのだ。 目標が明確だったので、就職活動も行わなかった。 大学3年生にもなれば、皆が足並みを揃えて就職活動を始める。 何がやりたいのか、何のためにやるのか、それすらも分からないまま、なんとなく右にならえで始めてしまうこともあるだろう。 就職だけが選択肢じゃないんだよ、と武田さんの生き方が改めて教えてくれた。 独立という目標に向けて、武田さんの準備は着々と進んでいる。 まずは、Webデザイン。大学の専攻は経営学だったので、デザインは独学で身につけてきた。 インターンで、アプリ開発に携わっていた経験も活かされている。 今では、担当するシティプロモーション業務以外でも、チラシ制作の依頼などをいただくことがあるそうだ。 デザインだけで終わらせず、その先の見てくれる人のことを考えて、どういうお手伝いができるか、それを真剣に考えながら制作に励んでいる。 武田さんが制作したWebサイトの一例 烏山線 100th https://karasen-100th.studio.site メグロの聖地・那須烏山プロジェクト https://meguro-nasukarasuyama.com/ 地域おこし協力隊の業務は週4日。 昨年からはデジタルマーケティング企業で週2日働きながら、ITマーケティングの勉強も始めた。きっかけは、栃木県庁が開催していたセミナー。講師を務めていた社長にWeb制作に携わっているという話をしたら、「アルバイトとして働かないか」と声を掛けてもらった。 自然と人を引きつける、武田さんの愛嬌や行動力は、地域おこし協力隊として存分に発揮されている。 「できたらいいな」が、まちぐるみの活動へ 地域おこし協力隊としての活動は、シティプロモーションやWeb制作、SNS運用、チラシデザイン、地域イベント企画、関係人口創出にかかる企画まで多岐にわたる。 「移住定住シティプロモーション」というテーマで活動していた際、同世代の地域おこし協力隊メンバーと「那須烏山市に新しい動きを生み出したいね」という話になった。自分たちのやりたいことにチャレンジしながら、那須烏山市のためになるようなことを企画しよう、そう話が進んでいった。 その結果、企画・実施されたのが「真夏の地域留学」という2泊3日の学生インターンプログラムだ。 那須烏山市の魅力を体感してもらうには何ができるか、それぞれが真剣に考えてイベントを企画し、形にしていった。 「真夏の地域留学」のプログラム例 プログラムテーマ:ひ・み・つアートプロジェクト 首都圏の大学生が那須烏山市街地の飲食店を取材し、それぞれの店舗の魅力を紹介するポスター(ひ・み・つアート)を作成。 プログラムテーマ:メグロの聖地 那須烏山 かつて那須烏山市で製造され、かつて東京オリンピックの白バイにも使われた日本最古のバイクメーカー「メグロ」の魅力を伝えるワークショップを実施。 「真夏の地域留学」のほかにも、さまざまなイベントを実施している。 武田さんをはじめ、栃木県内の地域おこし協力隊によって設立された「協力隊NET」のメンバーが中心となって運営した、なかがわ水遊園でのマルシェには、想定を大きく上回る4,000人以上が来場し、大盛況のイベントとなった。 「地域のためになるような、マルシェができたらいいね」同じく県内の地域おこし協力隊と何気なく話していた一言が、来場者4,000人を超える大きなイベントの実現へとつながった。 地域おこし協力隊の活動を通して、地域の方と触れ合う機会も多い。 まちを歩いていると「武田さん、元気?」と声を掛けてもらったり、孫のように可愛がってもらったり。目上の方にお酒を誘っていただけることもある。 インタビューの取材時点で、着任からまだ1年10ヶ月。短期間で驚くほどの、まちへの溶け込みっぷりだった。 「私は、色々なイベントや場所に出て、人と交流することが好きなんです。 地域おこし協力隊として活動していると、夢をもっている方や地域のことが好きな方とご一緒することが多いので、すごく楽しいんですよね」 はにかみながら、キラキラとした目で話す武田さんが印象的だった。 謙虚さをもちながら、内なる情熱を秘めた人。愛嬌があって、周りを自然と取り込む人。 自ら、運や縁を引き込んでいる人なんだろうな、と直感的に理解した。 大好きなまちの魅力を、自分の手で広めたい 地域おこし協力隊になって、もうすぐ2年。すでに多くの経験を積んでいる。 「未熟なところも多いなかで、すごくあたたかく迎えていただき、いろんなことにチャレンジする機会をいただいています。 新卒で就職すると、まずはコツコツと事務的な仕事から始めている友人も多いです。 そんななかで、私は、既に大きなプロジェクトの企画や運営などに携わらせていただいているので、那須烏山市に来て、地域おこし協力隊になって、本当によかったなと思っています」 地域おこし協力隊の任期満了後の展望は…? 「ご縁をいただいた那須烏山市の土地と、つながりをもちながら暮らしていけたらと考えています。 旅行が好きなので、那須烏山市に拠点をもちながら、二拠点生活を送るのも魅力的ですね。将来的には『第二のふるさと』のような場所になればと思います。大切な仲間を連れて帰ってこられる場所にしていきたいです。」 まったく知らないところから、那須烏山市に来て2年と経たないなかで定住を決めるほど、惹きつけられるものは何なのか? 「京都市内に住んでいたこともあるので、都会の便利さも分かります。でも、那須烏山市にはそれとはまったく異なる、素朴なよさがあるんですよね。仕事終わりに見る家の前の田園風景など、ほっとする瞬間が一日に何度もあります。実家のある京都に帰ると、帰省しているはずなのに、なぜか『帰りたいな』と思っている自分がいるんです(笑)」 任期満了後は、那須烏山市に拠点を置きながら、Web制作を通じたプロモーションなど、地域のためになるような取り組みを、独立した自分の手でできるようになっていきたいと思っている。 独学や副業でのスキルアップや地域おこし協力隊としての実務……目標に向けての地盤づくりは着々と進行中だ。 「地域の方のお役に立ながらチャレンジできる機会がたくさんあるのが、地域おこし協力隊です。 就職とは異なる魅力があります。自分を試せる機会でもあるので、興味がある方は、ぜひチャレンジしてみていただきたいです。」 「那須烏山市には、画面だけでは伝わらない、足を運ばないと分からないよさがあります。 メグロの聖地だったり、難攻不落といわれた山城・烏山城の城址があったり、城下町のレトロな街並みが残っていたり……。 那須烏山市は、コアな人ならどっぷりはまるニッチな魅力のあるまちです。 興味をもっていただけたら、実際に生活している方の声を聞いたり、まちの風景を見たりしながら、那須烏山市のことを知ってほしいです。 私でよければご案内しますので、ぜひご連絡ください!」  

創造力育む、</br>「余白ある」暮らし

創造力育む、「余白ある」暮らし

天谷 浩彰(あまや ひろあき)さん
渡部 幸恵(わたべ ゆきえ)さん

「ゆっくりできる」その本当の意味を理解した 移住前、職場の関係で、塩谷町が持続可能なまち「オーガニックビレッジ」を目指していくという話を聞き、約30名とともに塩谷町に足を運んだ。 訪れたのは冬。どうしてもいきいきとした印象は受けない。 「正直、第一印象としてはピンと来ませんでしたね」と浩彰さん。 同じく視察に来ていた元同僚で友人のともちゃんが塩谷町に移住したのは、視察からわずか2、3ヶ月後のことだった。ともちゃんが移住したことで、浩彰さんと幸恵さんのお二人は月に1回ほど塩谷町に遊びに行くようになり、まちへの印象も徐々に変わっていった。 人の数や時の流れ。体がついていけないほどに、塩谷町と首都圏ではまったく異なっていた。 「ゆっくりできるとは、こういうことか」塩谷町での滞在中、その意味を感覚的に味わった時、塩谷町への移住は着実に近づいていた。 そもそもお二人には「家族と動物たちがゆったりと豊かに暮らせる"楽園"をつくる」という構想があった。周りが木々に囲まれた野球場ひとつ分ほどの土地。畑や田んぼもあって、動物たちが自由に走り回れるような……。そんな舞台を求めていた。 長野県の安曇野市や伊那市、南箕輪村なども訪ねたが、まちの雰囲気、そして人のおもしろさに惹かれたのが塩谷町だった。 「都内の大学に在学中にバックパッカーとして旅をして、タイで働く予定だったんですが、コロナの影響で塩谷町にUターンしたけいちゃんという若者がいて。彼からまちづくりへの想いを聞いて、『こういうことを考えている若者が住む塩谷町はおもしろくなるな』そんな直感がありましたね」と浩彰さん。 まちづくりに取り組む若者との出会いもあり、塩谷町への移住を決めた。 懐に飛び込めば、あっという間に心が通う まちづくりについて熱く語ってくれたけいちゃん、「竹細工をやってみたいな」という幸恵さんの一言で竹を切り、竹細工を教えてくれた友人宅の大家さん。 「気持ちの通い方が早いっていうんですかね……。みんなあったかいし、人懐っこい。スピーディにコトが進むというか」 新しい土地、特に田舎での移住生活。人付き合いがうまくいくのかと心配する方も多いだろう。 「最初は不安もありましたよ。でも、自分たちがよそ者である以上、自分から距離を詰めていかないと、というのは思っていて。自分から声を掛けずに仲良くしてもらおうなんて、そんな美味しい話はないですからね。自分から行動して関係性を築いていく。あとは、『自分がやるべきことを、ちゃんとやる』。結構、見てくれているので」 浩彰さんは続ける。 「移住者として見られるし、自分から行動しないといけないし、移住するにあたって自分なりの軸がしっかりしていないと、苦労するかもしれないです。暮らしが全然違うので、当たり前ではありますよね」 浩彰さんの言葉は、田舎暮らしを検討している方にぜひ知ってほしい、リアルな声だ。 自ら行動を起こしたお二人は、友人に驚かれるほど、あっという間に地元の方とのつながりができたという。地元の方と、年代に関係なく、一緒にお酒を飲むこともある。“はじめまして”の時には、知り合いを通して、相手とつながるようにしているそうだ。 「人との直接的なコミュニケーションが、都会よりも頻度・重要度ともに高いのかもしれないですね」と幸恵さんが教えてくれた。 「栃木県の中でも、塩谷町の知名度は低いかもしれないですが、だからこそいいと思います。刺さる人にだけ刺さる、隠れた魅力に溢れるまちです」 口を揃えて言ったお二人の言葉がとても印象的だった。 手づくりの結婚式を自宅で 2023年5月、自宅で結婚式を挙げた。 「この集落に根を下して暮らしていこう」移住後に二人でそう再確認したことが決め手だった。 「集う」をコンセプトに、円を描くように形作られた畑に、大好きな家族や仲間が集う。近い未来に実現させたい「馬のいる暮らし」をちょっぴり先にお披露目するように、幸恵さんが馬に乗って登場する。手づくりの草冠を互いに授けあう……。 自分たちでアイデアを出しあいながら計画を立て、仲間の協力も得ながら、一つずつ準備を進めた。「馬のいる暮らし」を見せてくれたサラブレットのグランデくんは、地元牧場・UMAyaカントリーファームのゆうきさんとみおさんのご厚意もあり、馬運車で運ばれてきた。 結婚式をやると決めてからの50日間は、怒涛で濃密で豊かな時間だった。 結婚式の中で、お二人独自のアイディアのパートがあったそうだ。題して、祝婚の宴。 参列された方について、お二人との関係性を赤裸々に語り、紹介された方からも言葉をもらう。これを、参列者全員に対して行った。 笑いあり、涙あり。当初2時間の予定が4時間に延びるほど、想いに満ち溢れていた。あっという間に陽は傾き、あたたかい西日がみんなの笑顔を照らし出す。 18時を知らせる音楽がまちに鳴り響くと同時に、祝宴の宴も幕を閉じた。 結婚式に参列した浩彰さんのご両親は、祝婚の宴でのやり取りを見て聞いて、友人との関係性やあり方など、普段目にしない浩彰さんの姿に、見え方が180度変わったのだとか。 浩彰さんのご実家がある藤沢市から塩谷町に移住したことも、関係性が変わる一つのきっかけとなった。 「近くにいてほしい、という気持ちはあったでしょうが、今も隔週くらいで藤沢に帰っているので喜んでくれていますよ。幸恵と会えることも楽しみにしてくれています」と浩彰さん。 「浩彰のご両親には、実の両親と同じように言いたいことを言おうと決めていて。ぶつかったりできるのも生きているからこそだよねって感じられるようになった出来事もあり、どんどん関係性が濃くなっていると感じます」と幸恵さんも振り返った。 離れているからこそ分かることや見えるもの、伝えられることはあるのかもしれない。お二人の実体験がそう教えてくれた。 思いを形にできる場所で、チャレンジの連続 結婚式を自宅で。これはお二人のその後の考え方にも大きな影響を与えた。 すべてを自分たち、仲間内、友人たちとで準備したからこそ、「自分たちで、自宅で、何でもできる」という考え方を得られたのだという。 そんな経験を糧に、結婚式ができるなら、と自宅で“えんがわらいぶ”と題する初ライブを開催した。ライブ後、参加者全員との語らいの時間には、地元のカフェ“風だより”のケーキや、“稲と珈琲”のコーヒーが振舞われた。 お二人の行動力とそれによって紡がれてきたつながりが、ライブというひとつのカタチになったのだった。 それ以外にも、塩谷町に移住後、たくさんのチャレンジを重ねている。……というより「チャレンジしかしていない」んだとか。 たとえば、米づくり。都会であれば、何をどうやって始めればいいのか見当もつかない。 お二人が米づくりを始めたきっかけが、「近所の農家さんに挨拶した時に『うちの田んぼを2枚使っていいよ』と言われた」ことだというから驚きだ。都会では決してありえないシチュエーションである。 田んぼ2枚、二人ではとうてい作業しきれないからと友人に声をかけ、友人から友人へと広がり、イベントという形で稲刈りを行った。昔ながらの手植え、手刈り。曲げた腰の痛みをはるかに上回る、ワクワクとドキドキがあったに違いない。 自ら働きかけるお二人。ここでもつながりが広がっていく。 古民家の古材や廃材をいただき、移住後に飼い始めたヤギの“はなちゃん”の小屋も自作した。 「やればできる。それは移住前も頭では理解していましたが、塩谷町ではすべてが揃っていて、本当にチャレンジできる環境があるなと感じます。『あ、本当にできるんだな』と感じることがどんどんと出てきていますよ」と浩彰さん。 都会に行けば確かに何でもモノが揃っているが、ここには環境や素材、そして余白がたっぷりとある。 思いを形にできる、創造力を育んでくれる土地なのだ。 お二人のこれからと、塩谷町のこれから 移住前、浩彰さんは川崎市へ、幸恵さんは都内に通勤しており、帰宅は19時、20時頃になるというのが当たり前だった。今はリモートワークや畑仕事を中心に、自然のサイクルに合わせたリズムで生活を送る。 食卓には自分たちで種を蒔き、成長を見守ってきた、採れたての食材が並ぶ。スーパーで買うものよりも、味が濃く、野菜の個性を感じられる。ほうれん草が実は甘かったり、包丁で切ったきゅうりの断面から水分がにじみ出るのを目の当たりにしたり。さつまいもの収穫時期には、暖を取るストーブでつくったふかし芋が、朝食やリモートワーク中のおやつにもなった。 「日々のご飯が一番美味しい」 幸恵さんのその言葉には、毎日の暮らしへの満足感があふれていた。 2024年4月には、一日一組限定のプライベートキャンプ場もオープン予定だ。 お二人の自給農園“にゃす”で育った採れたて野菜を味わったり、ヤギのはなちゃんと触れ合ったり、焚火を囲んで語り合ったり……。 塩谷町で暮らすように泊まり、静けさと動物の息吹を味わえるキャンプ場だ。 「演出ではなく、私たちの暮らしのリアルを一緒に体験していただく、そんな場所です。『あっ、こんな暮らしもありだな』と、キャンプ場で過ごした時間によって人生の新しい選択肢が生まれたらうれしいです。」 お二人がこれから望むこととは―。 「私たちのように家族で土地を耕し、環境も生き方もデザインされる方が増えてほしいと思っています。その舞台として塩谷町を選んでいただけると一番うれしいですが、栃木県のほかの市町でも構いません。仕事も大切ですが、それ以上に家族が豊かであること、何気ない日常の幸せを感じられることの方が重要で大切なことだと考えています」 移住を機にお二人の生活は大きく変化したが、お二人の存在は周囲に、そして塩谷町にも影響を与えていそうだ。 お二人が移住した時期は、塩谷町がまちづくりに、より力を入れ始めたタイミングでもあった。移住・定住支援サイト「塩谷ぴーす」を開設し、近々移住コーディネーターも設置される予定である。 「まちも、自分たちも、まさに変化の中にいると感じます。変わり始めた今だからこそ、塩谷町はこの先5年、10年が一番おもしろい時期でしょうね」 お二人の楽園づくりは、着実に根を張りめぐらし、苗木から若木へとバージョンアップしているようだ。 創造力が沸き立つこの土地で、まちをも巻き込みながら、楽園づくりを進めていく。

持続可能な里山暮らしを目指して

持続可能な里山暮らしを目指して

後藤 芳枝(ごとう よしえ)さん

田舎での丁寧な暮らしに憧れて 群馬県出身の後藤さん。高校卒業を機に上京し、服飾専門学校へ。20代は東京での暮らしを満喫し、音楽活動や古本屋での仕事、キッチンカーでの弁当販売など、さまざまな仕事を経験した。 欲しいものや必要なものは全て買えば手に入るが、30代半ば頃から「東京での暮らしって、消費するだけだなぁ」と考えるようになったという。 「丁寧な暮らしを紹介する雑誌をよく読んでいて、ナチュラルな暮らしに憧れていました。東京での生活は、日々の生活音をとても気にしてしまい、そういったことを気にせずに暮らせるような田舎に移住したいな、と思うようになったんです」 田舎暮らし、移住。日々そんなワードを検索する中で、地域おこし協力隊のことを知った。 「でも、全国の活動事例を見ても目にするのは若い人たちが活躍する記事ばかり。若者しかなれないものだと思い込んでいたので、自分が協力隊になるなんて想像もしていませんでした」 実家がある北関東を候補に移住先を探していた際に、足利市での農業体験情報を見つけ、市に興味を持った。そこから行き着いたのが、市主催のコミュニティイベント『足カフェ』だ。 イベントへの参加をきっかけに、市職員や足利市地域おこし協力隊との繋がりができ、翌月には足利を訪れることになった。 「“田舎でこんな暮らしがしたい、という理想はあるけれど、その土地に必要なことで、生業にできることって何だろう?”と考えていて、足利市の職員の方に悩みを打ち明けたところ、“地域に必要とされていることを知るためにも、協力隊に応募してみたら?”と言われたんです。自分の歳で協力隊に応募できると思っていなかったので驚きましたが、それなら!と思いました」 足利市への訪問を機に、協力隊への応募を決意。それから3ヶ月後、後藤さんの足利暮らしがはじまった。 地域の“つなぎ役”として 協力隊のミッションは、“自らの足利暮らしを通じた移住・定住の促進に関する活動”とのことで、後藤さんは興味がある“農業・里山暮らし”に焦点をあてた取り組みをしたいと考えた。 「農業体験に力を入れて取り組んでいる名草地区を拠点に活動したい、と市役所に提案しました。市としても名草地区を盛り上げていきたいとのことで、割とスムーズに名草での活動をスタートすることができました」 とはいえ、農業の知識や経験は全くなかった後藤さん。 まずは自分の存在を知ってもらおうと、名草で地域活性をしている団体の方々に挨拶周りをし、皆さんの手伝いをすることからはじめた。 畑での農作業、草刈り、ハイキングコースの整備・・・さまざまな体験を通し、農作業に必要な準備や片付け、季節ごとの作業、農機具の使い方、農業における先人の知恵、暮らしのアイデアなど、里山での農ある暮らしを身につけていった。 「協力隊1年目は、各地域で活動している皆さんのお手伝いをしながら、里山での暮らしについて学ばせてもらいました。2年目には自分で畑を借りて、農業体験をやってみよう!と動き始めました」 借りた畑は『名草ちっとファーム』と名付けた。「畑をちっとんべー(“少しばかり”の意)やってます」という意味で、これが親しみがあってわかりやすい、と地元の人から好評を得た。 「自分で畑を借りて農作業を始めたことで、地域の方との関係性が良い意味で変わったなと感じました。それまでは手伝いだけで受け身だったのが、まだまだ同じ立場とまでは言えませんが、会話の内容も一段階上がったというか。人との繋がりも広がりましたし、やはり自分でやってみるって大切だなと実感しましたね」 少しずつ里山暮らしに手応えを感じていく中で、活動を形にしていこうと立ち上げたのが『名草craft』だ。 人と人を丁寧に繫ぐという思いと、自身も天然素材でものづくりをするような手仕事をしていきたい思いから、クラフトという言葉を選んだ。 「竹や麦などの素材を使って、かごやオーナメントを作っています。名草のような里山でも、かごを作れる人は少ないんですよ。そうした日本の昔ながらの手仕事を残していきたくて」 昔ながらの伝統でいえば、『名草生姜』も忘れてはいけない。 「協力隊3年目の時に、宇都宮大学の学生たちと地域課題を解決するための研究プロジェクトが始まりました。その中で、名草産の生姜に着目し、PRのためのワークショップや、商品開発、市内の飲食店の皆さんにも協力いただきレシピブックを作成しました」 協力隊の3年間を通じて後藤さんが感じた自身の役割は、“つなぎ役”になるということ。 「人と人を繋ぎ、ものづくりをしたり、誰かのやりたいことを形にしたり、困りごとを解決したり。つなぎ役がいることで実現することってたくさんある、ということを実感しています。その役割を担っていければと思っています」 里山で広がる人とのつながり 協力隊としてP Rに力を入れた『名草生姜』。後藤さん自身も名草生姜を守るべく、栽培をはじめた。 以前は名草地区でも複数の農家で生姜が作られていた。しかし、現在大規模に生姜を作っているのは、生姜農家の遠藤さんだけだという。 「生姜の栽培から、収穫、貯蔵、種作りまで、遠藤さんに教えてもらっています。わからないことがあれば、何でも丁寧に教えてくれるんですよ」 生姜に限らず、後藤さんは農業のイロハについて、遠藤さんをはじめ集落営農組合のおじいちゃん達にお世話になっている。 「米作りのこともアドバイスしてもらったり、農機具を貸してもらったり、とても助かっています。そのかわりに、農作業の後片付けや雑務などは私たち若い世代がやっているんですよ。持ちつ持たれつの関係ですね」 また、後藤さんがプライベートでも仲良くしているのが、同世代の奥村さんだ。 「とにかく話が合うんですよね。今欲しいものは・・・(二人が声を揃えて)耕運機!とかね。こんな暮らしがしたいとか、こういうことをやりたいとか、その感覚がとても近くて。話をしていて落ち着くんですよ」 ふらっと奥村さんの家を訪れては、お茶を飲んで何気ない会話を楽しんでいるという。 そんな奥村さんも、滋賀県から群馬県を経て、名草地区に魅せられてやってきた移住者仲間。養鶏を生業としており、「自分たちで作れるものは作る」という考えも後藤さんと通ずるところだ。 「狭い地域ではありますが、名草には魅力的な人が本当にたくさんいるんです。こうした人たちの存在が、私が名草にいる理由でもあります」 夢に描いていた暮らしができつつある 2022年3月に地域おこし協力隊の3年間の任期を終え、現在、後藤さんは足利市集落支援員として引き続き名草地区で活動している。 基本的には、協力隊時代に取り組んできたことを継続して行っているが、変化したところもある。 「協力隊の時は、自分のやりたいことで地域を盛り上げる活動をしていました。そのため、関わる人も既に地域で活動している人が多く、それ以外の方々と繋がるきっかけが少なかったと感じていました。集落支援員としては、もっと幅広く地域に貢献していきたいと思い、自分たちの活動を知ってもらうために新聞を作ったり、朝の太極拳をはじめました」 長年太極拳をやられている方がおり、朝のラジオ体操の感覚で太極拳の体験会をしてみたという。すると、これまで交流のなかったおばさま(お姉さま)世代がたくさん参加するようになり、また新たな人との繋がりができるようになった。 新たな人との繋がりは、新たな里山暮らしの知恵をもたらしてくれる。そうして、後藤さんは、ますます“名草の人”として地域に馴染んでいくのだ。 「そうして徐々にできることを増やしていって、いずれは自分の生業で地域に貢献しながら暮らしていけるようになりたいです」 「協力隊としては何もかも未知からのスタートでしたが、新しいことにチャレンジして周りに助けてもらいながら、色んな経験ができました。この歳になっても自分が成長できることってこんなにもあるんだ、と実感しています。時間はかかりましたが、今やっと30代の頃に描いていた理想の暮らしができつつあります。特別なスキルがなくたっていい。思い切って、ローカルでチャレンジしてくれる人が増えたらいいですね」

人との繋がりを感じながら自分の手で作っていく暮らし

人との繋がりを感じながら自分の手で作っていく暮らし

池田 絵美(いけだ えみ)さん

「移住=永住」と重く考えずに、まず自分のありたい姿に素直に向き合うこと 今回、益子の暮らしについて教えてくれたのは、ベーカリー「Natural Bakery日々舎(にちにちしゃ)」を営む池田さん。 自家製酵母と国産小麦をベースにした、毎日丁寧に焼かれるパンやベーグルは、地元民の食卓を支えているのはもちろん、県内外から訪れる常連も多く、閉店時間前に売り切れてしまうほどの人気ぶりだ。 東京から移住してお店を構えた池田さんだが、「ここで開業しよう」と最初から考えていたわけではないという。 「益子に住む前は、渋谷でオーガニックカフェの調理の仕事をしていました。“健康でナチュラルな料理を追求して行きたい”と思っているのに、忙しすぎて余裕のない、自分の暮らしに矛盾を感じていたんです。そんな時、プライベートで度々訪れたのが益子。自然が身近にあり、自分たちの手で丁寧に暮らしを作っている様子や、地に足がついた営みに惹かれていきました。」 スタッフ募集をしていたギャラリー&カフェ「starnet」の門をたたき、2006年に移り住むことを決意。数年で東京に戻るつもりで移住したものの、土地に馴染んでいくにつれ離れられなくなった池田さん。その後、結婚・出産を機に2年ほど育児に専念し、縁があって益子町観光協会に勤めることになった。 「観光協会のホームページの記事を書くために、ものづくりに打ち込む魅力的な人々に会い、たくさん刺激をもらいました。そこから、日々舎をオープンしたのは2014年。当時からお世話になっていた宿泊施設『益古時計』のオーナーが、施設の敷地内にある物件を紹介してくれました。そこにはパンが焼けるオーブンもあり“これは今なのかな”と。自分の構想では、開業はもう少し先だったのですけどね。」 「移住=永住」と重く考えずに、まず自分のありたい姿に素直に向き合うこと。 ひとつ前に進むことがその先の未来へ繋がる、という経験をした池田さんの話に、たくさんのことを教えてもらった。 移住者を温かく受け入れ、人と人とが繋がる土壌 池田さんが移住してわかったのは、益子特有の自由で開放的な気風があることだ。 「古くからの伝統や文化がある町ながら、陶芸を志す人を昔から受け入れてきた積み重ねがあるので、閉鎖的な雰囲気は全くなく、移り住む人の活動を見守る懐の深さがあります。その寛容さも益子の魅力のひとつかもしれません。」 そんな空気感に惹かれるように、今でも新たな人や店が集まって来る益子。 仕事や暮らしに焦点がいきがちだが、家族の形態が変化していったとき、子育て環境としてはどうだったのだろうか。 「私が育児をスタートした頃は『Nobody’s Perfectプログラム』という、子育て中の親を支援する取り組みがちょうど始まった年でした。育児の悩みを相談しあえる場ができ、初めてママ友という繋がりができました。友人の中には陶芸家も多く、彼女たちは時間を自由に使えることもあって、店仕事が忙しい時間帯には、子どもを一緒にみてもらうことも。かなり助けられましたね。」 人と人を繋げるネットワークはいくつもあり、安心な食をテーマにお母さんたちが始めた青空市もそのひとつ。毎月決まった日に、地場産の野菜や加工品、雑貨や古着などが並び、この地に暮らす人たちが交流できる場になっている。 「都会のように公園に行けば誰かいる、という環境ではないからこそ、母親同士が声を掛け合って集まっては、楽しんで子育てできる時間を自分たちで作ってきました。子どもと一緒に工作をしたり、自然食の情報交換をしたり……都会生活にはない近所付き合いが、益子暮らしの醍醐味。だからといって、作り手や開業する人だけのコミュニティというわけではありません。益子で暮らしながら、宇都宮など県内に会社通勤しているご家族も多くいます。」 地域に支えられながら店を営む人、週末の家族時間を楽しんでいる人、それぞれの形で育まれる益子の暮らし。 土地が織りなす家族の風景が、そこにはあった。 そんな益子の今を教えてくれた池田さんに提案していただいたのは、1人で訪れても家族でステイしても楽しめる2泊3日のプラン。 < ショートステイのすすめ1「中心地エリアを散策して、益子の文化に触れる」 益子に訪れたらまず、益子本通りから城内坂通りにかけてのメインストリートを散策。軒を連ねる益子焼のショップやギャラリーをのぞくだけでも、釉薬の表情、味のある造形、作り手の個性を知ることができるので、益子焼の魅力にどっぷりとハマれるはずだ。 「益子初の益子焼専門店民芸店ましこ、新しい作家に出会えるギャラリーショップもえぎ城内坂店、江戸時代創業の藍染店日下田藍染工房など、この土地の手仕事に触れられるスポットがたくさんあり、時間を忘れて楽しめると思います。あと、プランには入っていませんが、濱田庄司記念益子参考館もおすすめ。日本有数の焼き物の産地として栄えるに至った歴史を学んだり、古い建物を生かした展示品を見られるので、時間があればぜひ行ってもらいたいですね。」 益子は農業が盛んなエリアでもあるので、器と農業が交わる「食」にもぜひ目を向けたいところ。自然食が味わえるつづり食堂、地産産の野菜を使ったイタリアントラットリア トレ アーリ、益子焼に盛られた彩り美しい料理を味わえるYOUNOBI Cafe and Bistroなど、この土地ならではの“おいしい”がたくさんある。 ショートステイのすすめ2「田畑や原生林からなる里山の風景を肌で感じる」 今回のショートステイの宿泊先は、池田さんが営む日々舎と同じ敷地内にあるB&B形式の宿泊施設益古時計。池田さん自身が益子で家探しをした際にも利用しており、居心地の良さはお墨付き。 「町の中心部に位置するので、徒歩やレンタル自転車で動く場合にも便利。何も考えずに朝ごはん付きにしてもいいし、朝から自由に過ごしたければもちろん素泊まりでもいい。アレンジがしやすいのでショートステイに最適です。」 2日目の朝は、益古時計で朝食をとって出発。 「器を扱うお店は益子に数多くありますが、山の麓にあるショップ&ギャラリーもえぎ本店はぜひ訪れて欲しいところ。建築関係の仕事をされているオーナーさんが手がけるだけあって、樹々に囲まれた環境と建物のバランスが本当に素敵。展示している工芸品も見ごたえがあり、私も時間が空いた時にはふらっと訪れています。そして、せっかく益子に来たならぜひ陶芸体験も! 自分の手によるものづくりの楽しさを実感できると思いますよ。」 本通りから少し離れた場所にある小峰窯では、本格的なろくろ回しや、自由に器を作る手びねりの他、小さい子どもでもクレヨン感覚で描けるパステル絵付けなどが体験可能(要予約)。 その他、山の中にひっそりと佇むアジアごはんの店作坊 吃(ゾーファンチィ)でランチをとり、地元の人のパワースポットでもある国指定重要文化財綱神社を参詣。自然のエネルギーを感じながら、ここに住む未来に想いを馳せるのもよいかもしれない。 ショートステイのすすめ3「暮らす視点で、訪れてみる」 最終日は、より移住を視野に入れて、おさえておきたい3つのスポット巡り。 まずは、モーニングセットを目がけて、朝7時からオープンしているカフェMidnight Breakfastへ。益子産の卵を使ったアメリカンなスイーツが並ぶ可愛いドリンクスタンドは、地域おこし協力隊として活動していた店主が営む店。タイミングがよければ、移住や起業にまつわる話を聞けるかもしれない。 2つ目は、益子を離れる前に訪れたい道の駅ましこ。「私たちにとってはスーパーと同様、日々の食材の買い出しに欠かせません」と池田さんがいうように、新鮮な農産物や暮らしにまつわる工芸品を目がけた観光客ばかりか、地元の人も通う場所。施設内には移住サポートセンターもあるので、空き家バンクや仕事などハード面の情報もあわせてチェックして。 最後3つ目は、そのまま足をのばして隣接する真岡市へ。真岡市は、いちごの生産量日本一を誇る“いちごのまち”としても名高いエリア。益子とはまた異なる静かでのんびりとした空気を肌で感じながら、人気カフェ喫茶ロクガツでひと休みを。 ショートステイの旅を終える頃、ますます益子が好きになったり、もっと深く関わりたいという気持ちが芽生えたり…自分の中で意識の変化があったら、それは移住への第一歩になりそうだ。 益子のいちばんの魅力は、とにかく“人” 「長年住んでいても日々刺激をもらえる理由は、益子に住む“人”が面白いから。それを感じ取っていただくためにも、お店の人とコミュニケーションを取ってみると、一歩踏み込んだステイができるかもしれません。私自身も、店頭で接客しているときに“移住を考えているんです”と声をかけられることがあります。益子で働く人は、いい感じにおせっかいな部分があります。散策しながら地元の人にリサーチして、“暮らす”イメージを膨らませて帰ってもらえたらうれしいですね。」 小さくとも個が光り、自分の暮らしを自分たちで作っていく気風に満ちた町。短い滞在でも暮らしの香りを感じ取れるこの町へ、出かけてみるのはどうだろうか。 ※この記事は、NEXTWEEKENDと栃木県とのコラボレーションで制作しています。

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

人を繋ぎ、みんなが笑顔になる街に

高橋 潔(たかはし きよし)さん

起業と農業、東京と矢板 栃木県内の高校を卒業後、大学は群馬県へ。社会人としてのスタートは、人材派遣会社の営業職だった。全国に拠点があり、東北や関東エリアを中心に経験を積んだ。20代後半で転職した会社では、人事や経営企画、秘書業務など経営層に近い部分に携わった。 「全国を拠点に、特に製造業への人材派遣をメインとしていたのですが、ここ十数年で多くの企業が工場の閉鎖や廃業するのを目の当たりにし、地方の危うさというか、将来への危機感を募らせていました。2011年の震災も経験し、何か地方を盛り上げることや地域に還元できることをしていきたい、と考えるようになったんです」 そして2014年、思い切って会社を辞め起業した。 「とにかく地方を盛り上げたい想いだけはあって、会社を作りました。以前、オンラインで全国会議をしたことがあり、この仕組みを使えば何かおもしろいことができるのでは?と考えたんです。今では当たり前のオンラインですが、10年以上も前だとまだそこまで一般的ではなかったですよね」 そうして立ち上げた事業のひとつが、オンライン配信サービスであった。当時はビジネスとしてはまだ競合も少なかったが、ニーズはあったため、順調に軌道に乗った。 「ただ、私自身はITまわりにそこまで強い訳ではなくて。社員に“配信はやらなくていいです”と言われるくらいでした(笑)そのため、配信の実務は当初から信頼できる社員に任せています」 会社を経営する一方、高橋さんがずっと気にかけていたのが、矢板市で叔父が経営するぶどう園だった。 「りんごの生産が有名な矢板市ですが、叔父は市内唯一のぶどう園を経営しています。ただ跡継ぎがおらず、今後どうするんだ、という話を以前からずっとしていました。先代の頃からワイン作りやワイナリーの夢もあり、叔父も自分も諦めたくない、という想いが強く、2015年の正月に話し合いをしました。起業して1年も経っていませんでしたが、自分が畑を手伝うことにしたんです」 こうして東京と矢板、オンライン配信サービスと農業という全く異なる分野での2拠点生活が始まった。 ぶどう園での手伝いから協力隊へ 2015年6月からぶどう畑で作業するようになった高橋さん。 日々の作業の中で、市役所の農業や広報の担当者と接点を持つ機会が増えた。当初は農業に関する話が多かったが、徐々に今後の矢板市について語り合うことも増え、「矢板市は、地域おこし協力隊の募集はしないのですか?」と尋ねたことがあった。 以前から全国の地域活動に目を向けていたため、地域おこし協力隊のことは知っていたという。ちょうど矢板市でも、募集に向けて動いているタイミングだった。 矢板で過ごす時間が増え、叔父のぶどう園だけでなく、周辺地域のこと、農業のこと、市の未来について考えることが多くなったという。 「自分が育った矢板を、どうにか盛り上げていきたい」という想いは、日々強くなっていった。 そんな中、矢板市での地域おこし協力隊募集が始まり、手をあげた高橋さん。 地域への想いや活動の実績が評価され、“中山間地域の活性化”をミッションに2017年4月から活動を始めることとなった。 「活動地域が泉地区という、ぶどう園とは異なる地域だったので、協力隊としては泉地区にコミットし、休みの日にぶどう園の作業、夜に自社の仕事をオンラインで、という生活スタイルでした。全く違う頭を使わなければならなかったので、切り替えは大変でしたね」 泉地区では、まず地域を周り、現状を知ることからスタート。矢板市の中でも過疎化が著しいこの地域では、住民たちも危機感を募らせていた。 そこで都内の大学生を呼び、地域課題に取り組むプログラムをコーディネートしたり、全国の地域課題に取り組む団体の方を講師に呼んで勉強会を開いたりと、様々な取り組みに着手。 2年目には、既に地域で活動している人たちのサポートに入り、一緒に事業の収益化を考えるなど、コンサルタントのような立場でまちづくりに取り組むようになった。 そんな中、矢板市で人口減少などの地域課題に取り組むための拠点(後の『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』)を作る構想が立ち上がる。協力隊卒業後は市内で団体を立ち上げ、矢板に人を呼び込むような仕組みを作りたいと考えていた高橋さんは、市からの依頼もあり、協力隊2年目の途中から拠点の構築に取り組むこととなった。 「泉地区の皆さんには、3年間携われず申し訳ない気持ちも大きかったですが、関わった期間の中での取り組みにはとても感謝してもらえて。今でも飲みに誘ってもらえる関係を築けています」 TAKIBIの立ち上げ 新たなミッションとなった『矢板ふるさと支援センター』の構築については、拠点の場所探し、運営の構想、スタッフの採用、その全てを担った。 「人々が自然と集まってくるような場所。その時々でカタチを変えるような空間。薪を集めて火を灯すことがスタートアップのイメージにもつながることから“TAKIBI(焚き火)”という名称になりました」 スタッフとして新たに3名の地域おこし協力隊を採用。市内の空き家を借り、採用した協力隊と共に地元の高校生なども巻き込みながら自分たちで改修作業を行なった。 そして2019年6月『矢板ふるさと支援センターTAKIBI』として、地域内外の人々が気軽に集えるシェアスペースがオープン。 「自分の力を出し切り、やっと形になった時は嬉しかったですね」 その後、移住相談窓口やテレワーカーの仕事場、地元学生の勉強の場、イベントスペースなど幅広く活用された『TAKIBI』だったが、2022年8月に矢板駅東口からほど近い場所へ移転。現在、高橋さん自身もより広くなった新生『TAKIBI』を利用している。 「商業施設などとも隣接しているので、多くの方の目に触れやすく利用しやすい環境だと思います。シェアスペースやシェアキッチンを多くの方に利用いただきたいですね」 『TAKIBI』のスタッフの皆さん、顔馴染みの利用者さんと 地域での商売を、うまく循環させたい 今も変わらず、矢板と東京の2拠点生活を続けている高橋さん。協力隊卒業のタイミングが2020年3月だったこともあり、卒業と同時に会社のオンライン配信サービスの仕事が急激に忙しくなってしまったが、それぞれで仕事がある時に行き来しているという。 「協力隊卒業を見越して、矢板でNPO法人を立ち上げたんです。コロナのタイミングと重なりほとんど活動できていなかったのですが、少しずつ準備を整えていて、2023年はやっと動き出せそうです」 市内の空き物件を借り、整備を進めている。 「この空間を整備して、地域住民のための情報発信拠点を作ります!」 地元の商店主たちと話をする中で、「何かをやるにもPR手段がない」との声を多く聞いた。 広報物では情報発信までのタイムラグが生じ、SNSでは一部の人にしか届かない。誰でも聴けるラジオを通じて、リアルタイムの情報を地域の人に届けるサービスを展開したいと考えている。 「配信ツールは、会社の機材があるので整っています。例えば、飲食店の店主にスタジオに来てもらって“今夜のテーブル席、まだ空いてます!”といった情報を発信してもらえたらと。事前に日にちを決めて、数万円の広告費を払ってもらうのではなくて、発信したいときに来てもらって、ワンコインでもいいから気持ちを収めてもらう。その方が、お互いに気持ちよくサービスを続けられると思うんです」 目指すところは、この仕組みがうまく循環し、店主たちにとって“商売しやすいまち”となることだ。そのためにも、できるだけ気軽に立ち寄れるよう、普段から誰でも自由に出入りできるフリースペースも設ける。偶然ではあるが、情報発信拠点は地域の方が立ち寄りやすい場所にあるという。 「『くじら亭』という焼鳥屋があるんですけど、地元のみんなのたまり場みたいな場所なんです。縁があり、お店のすぐ隣の物件を借りられることになって。大将とは20年来の付き合いで、常連さんたちとも顔馴染み。これから地元の皆さんとの縁をより大切にしていきたいですね」 矢板への想い 「当面は2拠点生活を続けることになりそうですが、いずれは矢板を軸にという思いはあります。その時に、もっと矢板を生活しやすいまちにしたいと思っていて。そのために今種撒きをしている感じですね」 まずは情報発信拠点を稼働し、多くの人に利用してもらえるようにする。地元で商売をしている人だけでなく、移住者やテレワーカーなど、さまざまな人が交流し情報交換できる場になれば、と考えているという。 またぶどう園についても、まだまだやりたいことはたくさんある。現在、ぶどうジュースは道の駅や直売所で取り扱いをしているが、ワイン作り、ひいてはワイナリーへの夢は膨らむ一方だ。 「ワインで儲けたい。という訳ではなく、矢板市産のワインを作ることで地域を盛り上げるツールにしたいんです。ワイナリーを作ることができたら、雇用を生むことだってできる。この地域に人を呼び、ここに暮らして一緒に矢板を盛り上げる人たちを増やしていきたいです」

農業で町を盛り上げる

農業で町を盛り上げる

柴 美幸(しば みゆき)さん

日常の風景に魅了されてこの地へ 小学生の頃から「カメラマンになりたい」と考えていたという柴さん。栃木県内の高校を卒業し、都内の写真専門学校へ。その後、カメラマンとして様々な分野で経験を積み、30歳で独立した。 「仕事は順調でしたが、帰って寝てまた仕事という日常。例えば“趣味は?”と聞かれても答えられなかったんです。それって幸せなのかな・・・と考えてしまって。写真を撮るのは好きなのに、なんか違うなって。そんな時、市貝町役場に勤める友人に誘われて初めて市貝町を訪れました。それが転機になったんです」 目にしたのは観光名所でもオシャレなお店でもなく、市貝町の日常の風景。しかし、ありのままの里山の景色こそが、柴さんの心をとらえた。 「当時の働き方や今後の生き方についてその友人に相談した際に、“移住して仕事も栃木でしたいなら、地域おこし協力隊という制度もあるよ”と教えてもらいました」 “自分が身を置きたい場所で、やりたいことができそう”と感じ、協力隊として栃木県へ戻ることを決意。2017年10月、市貝町の地域おこし協力隊としての活動がはじまった。 町のみんなに喜んでもらえることを 活動内容はフリーミッションだったので、自身の武器である写真を軸に、観光プロモーション、観光協会会員向けの特産品の撮影、町民向けの写真講座などに携わった。写真を通じて、町のことを良く知ることができ、町民の方と広く知り合えるきっかけにもなったという。 「ただ、これまでプロとして働いてきたので、無料でいくらでも撮るよ、といった安売りはしませんでした。それによって仕事量の調整もできましたし、卒業後も継続して仕事をいただけているので、正しい判断だったと思います」 プロとしてのマインドを持って活動していた柴さんだが、以前の働き方と大きく異なったのは“定時”という概念だった。 「仕事を終えて帰宅しても、夜なにもすることがなかったんです。ふと、町の子どもたちはどう過ごしているんだろう?と考えて。この町で何か楽しい思い出ができれば、きっと町が好きになるし、将来戻って来たくなるんじゃないかって思ったんです」 そこで思いついたのが、野外シアター。お盆休みやハロウィンの時期に、役場の前に広がる芝生広場に大きなスクリーンを張り、ファミリー向けの映画を上映した。 「人が来るのか不安でしたが、いざ上映時間になると、この町にこんなに子どもがいたの!?と驚くほど集まって。みんなの笑顔が今でも忘れられません」 悔しい思いを乗り越えて今がある 市貝町観光協会を拠点に活動することも多かった柴さん。その時、新たに着任した事務局長の存在がとても印象的だったという。 「次から次へと新しい試みをはじめられて、“この町が変わる”という予感をひしひしと感じました。私だけでなく、多くの町の人が期待しているのが、手にとるようにわかりました」 その試みのひとつが、市貝町の情報誌『イチカイタイムズ』の発行。柴さんも企画や撮影など全面的に取り組んでいた。 しかし、協力隊2年目の終わり頃、事務局長が退任することに。 「私がその役割を引き継いでいければ良かったのですが、その時はまだ力が及ばず・・・。せっかく町全体の機運が高まっていたのに、みんなが落胆してしまいました。その後『イチカイタイムズ』の発行も打ち切り。本当に悔しかったです」 任期中、ゲストハウス運営にも真剣に取り組んだが、断念した経験もある。 3年間という活動期間は、うまくいくことばかりではない。そんな時、柴さんは初心に戻り、カメラに没頭する。すると、また気持ちを持ち直し、次へのチャレンジに向かっていけるのだという。 「挫折も色々味わいましたが、活動を通して学んだのは、道は1つではないということ。選択肢はたくさんあるので、可能性があることには何でもトライしてみるといいと思います。違うと思ったらやめればいい。動けば、何かしら広がりはあるので、まずは動くことが大事ですね」 卒業後に広がった人とのつながりと農への道 市貝町は主要産業が農業であることから、農家さんとの交流も多かった。 「活動中に自分が直接農業に携わるという機会は少なかったですが、卒業後に農に携わるご縁をいただくことが増えました」 市貝町のグリーンツーリズム事業『サシバの里くらしずむ』の企画、道の駅の移動販売『ピックイート』の運営、隣接する益子町の農と食に関する広報物製作、農業生産や加工品生産に取り組む『YURURi』の活動など、協力隊の活動中につながったご縁や、やってみたかったことが卒業後に形となっており、その範囲は市貝町にとどまらず広がりをみせている。 「私の実家は栃木県真岡市でいちご農家をしています。出荷できないいちごの行き場を探っていた時に、農や食をテーマに別の町で協力隊として活動していた友人と『YURURi』というチームを結成し、いちごジャムを作りはじめました」 現在は益子町の畑を借りて、加工品の原材料となる農作物を作っている。 「夏場は畑の作業が多いのですが、そのとき必ず立ち寄るのが益子町にあるカフェ『midnight breakfast』です」 畑からほど近く、コーヒースタンドなので気軽に入りやすい。何より、店主の早瀬さんは元地域おこし協力隊員で、柴さんの幼なじみでもある。お互い一度は県外に出たが、時を経て再び益子町で交流を深めている。 お店ではできるだけ地元産の食材を使用していることもあり、農作物の話や畑の進捗など、作業の合間のお喋りを楽しむのが日課となっている。 そして市貝町で無農薬・無化学肥料で育てた野菜や果物でジャムやピクルスを作る『ぴーgarden』さんとも、協力隊卒業後に、より交流が深まったという。 「『YURURi』で加工品を作るにあたり、いろいろ相談に乗ってもらいました。そうするうちに仲良くなって、今では何か悩んだり、話を聞いてもらいたいときにふらっとお茶しに来てます」 ちょっとした息抜きの時間が、新たな活動のヒントになったり、新たな人とのつながりが生まれることも。柴さんにとって、とても大切な時間となっている。  

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

住む人が誇りに思えるような地域づくりを

國府谷 純輝(こうや じゅんき)さん

自分たちの住む地域に自信と誇りを 2022年6月。普段は静かな寺尾地区に続々と人が訪れた。目当ては「テラオ“ピクニック”マルシェ」。寺尾地区の象徴とも言える三峰山(象が寝そべった姿に見えるので通称「象山」とも呼ばれる)の麓、芝生が広がる寺尾ふれあい水辺の広場で、初めて開催されたマルシェだ。このイベントの仕掛け人こそが國府谷さんである。 寺尾をPRするためのマルシェはこれが2回目。1回目は2021年12月。栃木市の街の中心部にあるとちぎ山車会館前広場にて「テラオ“キッカケ”マルシェ」を開催した。寺尾地区を知ってもらうきっかけになれば、というコンセプトのマルシェ。寺尾地区で商売をしている方による飲食・物販での出店や、名物・出流そばの実演実食などを行った。 当初は、「寺尾のイベントに人が集まるのか・・・」と地元の皆さんは不安でいっぱいだったそうだが、蓋を開けてみたら大盛況。 「イベントを終えたその時点で、“次はいつ開催する?”と、皆さんから声をかけられました。地域の皆がひとつになってイベントを大成功に導き、自信にも繋がったと思います」 移住して約半年でのイベント開催。テラオ“キッカケ”マルシェは、國府谷さんが寺尾地区の人たちにしっかりと受け入れられるキッカケにもなったであろう。 「1回目のイベントは寺尾を知ってもらうためのもの。次回は寺尾に来てもらうイベントにしたいと考え、自分が寺尾で好きな場所でもあり、みんなに知って欲しい場所でもある寺尾ふれあい水辺の広場で開催しようと決めました」 しかし、寺尾地区を会場とするマルシェは初めて。街中から車で20分ほどかかる場所での開催に、「さすがに今回は人は来ないだろう・・・」という声も多く聞こえた。 迎えたマルシェ当日。開始前から集まってくる人の姿を見て、住民たちの不安は一気に吹き飛んだ。赤ちゃん連れのファミリーから、手押し車で訪れるおばあちゃんまで、普段はひと気のない広場が、多くの人で賑わい、訪れたお客さんたちからは、「こんなにいい場所があったなんて」と喜びの声で溢れた。 「イベントが大成功だったのはもちろんですが、何より嬉しかったのは、出店してくれた地元の方に“寺尾にとって歴史的な一日になりました”と言われたことです。1回目のイベントの時も感じたのですが、“どうせ人は来ない”というような、どこか引け目のような思いを持たれている方が多い印象でした。でも2度のイベントを通じて、自分たちの住む寺尾に誇りや自信を持ってくれたんじゃないかな、って思っています」 コロナを機に自分の進みたい道へ 大学生の頃から地域活動に興味があったという國府谷さん。地域に学生を派遣してインターンシップを行う学生団体に所属し、事務局長を務めた経験もある。卒業と同時に起業も考えたが、一度は社会人経験を積むため人材サービス会社の営業職へ。 「人と人とを繋ぐことに興味があったので、仕事は大変ではありましたが楽しかったです」 しかしコロナウイルスの感染拡大に伴い状況が一変。在宅ワークになり、人と会う仕事はリモートで完結。徐々に楽しいと思えることがなくなってしまった。 「何のために仕事をしているんだろう?と考えるようになってしまって。3年間働いて社会人としての仕事の仕方もわかってきたし、自分の好きなことをやる時期が来たんだな、と捉えました」 まちづくり会社、NPO、地域おこし協力隊などへの興味から、実際にそれらの仕事に就く人たちから話を聞いた。そんな中、地元・栃木県での地域おこし協力隊募集の中から、一番自分の希望に近い栃木市・寺尾地区での活動に興味を抱いた。 「活動するなら、生まれ育った農村部のような田舎がいいなと思っていました。自由に動きたいこともあったので、フリーミッションだった点も希望に合っていました」 実際に現地を訪れ、寺尾地区の公民館で働く市職員や、住民の方とも話をした。中でも強く印象に残っているのが、寺尾地区への移住者で有機での農業を営む「ぬい農園」の縫村さんとの出会いだ。 「栃木市を訪れた時にいろんな方とお話ができて、移住するイメージが一層膨らんだのですが、帰り際に縫村さんが寺尾への想いを熱く語ってくれて。ぜひ来てほしい、と力強く言ってくれたんです。その想いに、グッと引き寄せられましたね」 すぐに決意が固まった國府谷さんは、栃木市地域おこし協力隊へ応募。2021年6月より、寺尾地区を拠点に活動することになった。 何事もチャレンジしてから判断する 地域おこし協力隊として着任し、まず行なったのは地区内の挨拶まわり。自治会長、企業、個人事業者といった方々はほとんど挨拶に伺った。 「職場が寺尾地区の公民館勤務だったので、その点もよかったです。開放感のある明るい雰囲気の公民館には、自治会長や農家さんなど多くの方が来られるので、その都度、職員さんが紹介してくれました」 少しずつ寺尾地区での人脈を広げながら、一年目はさまざまな取り組みを行なった。 マルシェの企画・運営、寺尾地区の総合情報サイト「テラオノサイト」やお店を紹介している「テラオノマップ」の製作、名物・出流そばのP Rのための動画製作、農業体験用の畑づくり、大学生のインターンシップ受け入れ、若手事業者を集めたプレイヤーズミーティング、テレワークスポットの発掘や紹介、YouTubeラジオ番組など、多岐に渡る。 「現在は活動2年目ですが、実際にやってみて違うな、と思うものもあったので、そういったものは一度やめて、手応えのあったものだけ継続しています。何でもやってみないとわからないので、今後もいろんなチャレンジをしていきます」 次々と新しいことへ挑戦する國府谷さんだが、それは寺尾地区の皆さんの支えがあってこそだという。 「寺尾の人たちは、チャレンジに前向きな人が多いんです。同世代だけでなく、上の世代の方たちが応援や感謝をしてくれて、“どんどんやれ!”といつも後押ししてくれます。自分がこれだけ自由に動けるのは、皆さんのサポートがあってこそだといつも感謝しています」 また、得意なことをやっているというより、初めてのことにチャレンジすることが多いという。そのため、その分野に詳しい方たちに話を聞きに行ったり、修行させてもらうことで、自分にできることを少しずつ増やしている。 「移住を後押ししてくれた縫村さんには、移住者の先輩として教えてもらうことも多いですし、畑のお手伝いをさせてもらうことで農作物のことを教えてもらったりもしています。こういった方が近くにいるのも心強いですね」 新しいことにチャレンジする姿勢は、プライベートでも人とのつながりを広げている。 「隣接する小山市協力隊の横山さんが“クロスミントン”というスポーツで日本チャンピオンになった経験があって、何度か練習会に参加させてもらいました。初めてでも楽しめるスポーツなので、栃木市でも流行らせたいなと思い、参加者を募って栃木市でも練習会をスタートしました。また、栃木市役所にサッカーチームがあり、そのメンバーにも加わらせてもらっています。趣味であるスポーツをきっかけに、寺尾地区以外のコミュニティも広がっていますね」 意外なことに、実は人見知りだという國府谷さん。 「だからこそ、いろんなものを創り上げて、自分がやっていることをコミュニケーションツールにしています。何か形になるモノやコトがあれば、それをきっかけに話を広げられるので、そういった地域への入り方もあると思いますよ」 寺尾をより多くの人に知ってもらいたい これからの取り組みについて、大きく2つの軸で動いていきたいと語る。 「イベントを通じて、寺尾に住むことへの誇りを持つ人を増やしたり、外から来る人の視点により、地元の人が寺尾の魅力を再発見する気づきを与える機会を作っていきたいと思います。また、自分自身もずっと寺尾に居られるように、事業化を意識しながら今後の活動に取り組んでいきたいです」 前回のテラオ“ピクニック”マルシェからコーヒー屋として自身も出店したり、育てたハーブでハーブティーを作るといった取り組みも始動している。 またこうした國府谷さんの動きが話題となり、寺尾地区に隣接する周辺地区からも「うちの地域も盛り上げてくれないか」と声が掛かるようにもなってきたという。 「うまくいくことばかりではないですが、主体的にチャレンジする気持ちは常に持って行動することが大事だと思っています。次は2022年12月10日に開催するテラオ“キッカケ”マルシェVol.2に向けて動いています。寺尾地区の皆さんとひとつになって、寺尾の魅力を伝えられたらと思います」

考えるより行動。動いていたら、やりたいことが見つかった

考えるより行動。動いていたら、やりたいことが見つかった

疋野 みふ(ひきのみふ)さん

転職を考えたときに知った“地域おこし協力隊”という働き方 前職は旅行会社勤務。5年間働き、これからのライフプランを考えたときに「どこか地方で、全く別の仕事を経験してみたい」と考えていた疋野さん。転職の相談をしていた先輩が「こんな働き方もあるみたいよ」と教えてくれたのが、地域おこし協力隊だった。 全国の市町村が、さまざまな活動内容で協力隊を募集していることを知り、「これだ!」と思ったそう。北は北海道、南は沖縄までさまざまな地域を調べた中で目に留まったのが栃木県日光市。 「旅行会社で働いていたので、もちろん日光市のことは知っていました。観光地に住んでみるのもおもしろそうだな、と思いましたし、最長5年間勤務できるという市独自の支援制度(※現在は廃止)は魅力的でした。また同じ関東圏なのでどこか安心感があったという点も決め手になりました。」 選考を受け、採用となった疋野さんは、2016年4月より日光市地域おこし協力隊として栗山地域で活動することとなった。 「栗山地域に初めて来たときの印象は、“思った以上に山の中だな”とは思いましたが、移住するなら街でも山でも、どっちでもいいと思っていたので、特に不安はなかったですね。」 まずは地域を知ることで、やるべきことを見つける 日光市の募集内容はフリーミッション。栗山地域の活性化のために、活動内容は自分で考えるというものだった。 「正直、来る前から“あれをやろう”“これがしたい”という明確なものはなかったんです。地域を見て、地域の人と話をする中で、何が求められているのか。それを見つけて、課題解決に取り組めたらいいなって。」 周りの人たちにも恵まれた。栗山地域で協力隊を採用したのは疋野さんで4期目。既に先輩たちの活躍があったので、地元の人たちも「新しく来た人だね〜」とすんなり受け入れてくれた。 また市役所の上司も「1年目は、まず地域のことをしっかり知ることが目標。くらいの気持ちで活動してみて。」と優しく見守ってくれた。 そのような環境だったからこそ、疋野さんも安心して、地域に入っていくことができたという。 そうした中で、力を入れて取り組んだのは女子旅ツアー。旅行会社での経験を活かし、栗山地域に人を呼ぶ企画を考えた。また、都内の大学生に来てもらい、地域を巡って名所や暮らす人たちを紹介する冊子『あがらっしぇ栗山』を製作。(※「あがらっしぇ」とは「あがっていきな、寄っていきな」というニュアンスの栗山地域の方言)いずれも好評を得て、成果を感じられたという。 しかし、活動を続けていく中で、徐々に課題も見えてきた。 「若い世代が仕事を求めて栗山地域を離れていく。どうすれば仕事を生み出せるかな、ということを考えるようになりました。」 未経験からの革製品づくり 地域に仕事をつくる。そんな想いでたどり着いたのが“鹿革”を使った革製品だ。シカの食用以外の用途として皮革を資源化し、活用する取り組みをしているグループ『日光MOMIJIKA』に出会ったことがきっかけであった。 「東京にいた時は、野生動物による鳥獣被害なんて全く知りませんでした。農作物や植物への被害を減らすために、増えすぎてしまった野生動物は捕らえないといけないんです。」 ただ、ひとりでこの問題に取り組んでも意味がない。仲間を見つけることからはじめた。 「“鹿革塾をやります”というチラシを作り、地区内の回覧板で受講者を募りました。講座に参加してくれたメンバーに加え、その後に出会った手芸が得意なメンバーが加わり、現在8名が在籍しています。」 それまで、革製品づくりは未経験だったという疋野さん。 「会社員時代は毎日帰宅が夜中になるのが日常だったのですが、協力隊になったら定時上がりで。帰宅しても時間が有り余っていたんです(笑)それでアクセサリーづくりをはじめてみたのですが、それが案外楽しくて趣味となり、革製品づくりへと繋がっていきました。」 現在、『Nikko deer』というブランド名で活動しており、アクセサリーやキーホルダーといった小物から、バッグやサンダルといったものまで製作している。 「デザインは各メンバーの発案で、みんなが“いいね!”と言ったものを、作り方を共有して製作しています。どんどん新作ができていくし、それぞれのアイディアも良いものになっていくので、日々進化を感じますね。」 コロナ禍で、集まって製作する機会は減ってしまったが、疋野さんが各家を周って打ち合わせをしたり、出来上がった作品を回収したりしながらコミュニケーションを深めている。 「作品はイベントを中心に販売しています。Webショップもありますが、実際に手に取って、背景にある鹿革の話も知ってもらいたいので、今後もイベントには力を入れていきたいですね。」 これからの夢と、伝えたいこと 2児の母でもある疋野さん。同じ栗山地域で活動していた先輩隊員の男性と結婚し、子育てと仕事を両立する働くママでもある。 「育児については、夫と役割分担をしながら何とかこなしています。近所の方にも、みんなに可愛がってもらっているので、ありがたいですね。」 そんな疋野さんも、2023年3月に協力隊を卒業する。 「卒業後は、引き続き鹿革製品の販売や製作体験に取り組んでいきます。新たに、店舗販売も考えていて、現在物件の交渉中です。また、それとは別にキッチンカーでの移動販売もやりたくて。将来的には、キッチンカーと店舗を併設して、ジビエをやりながら鹿革製品の販売ができたらいいなぁと考えたりもしています。」 卒業後に向けての夢がどんどん膨らんでいるという。 「協力隊になった当初は、“自分に合わなければ、3年で東京に戻ればいい”そんな気持ちでした。でもこんなにも地域の方に受け入れてもらえて、地域の方と一緒にやりたいことが見つかって、そしてまさか結婚して、子どもが生まれるなんて。協力隊になったことで、人生が大きく変わりました。だから最初から“こうあるべき”と気負わずに、“なんとかなる”くらいの精神で移住先に飛び込んでみてもいいんじゃないかな。ひとまず動いてみて、ダメならダメでまた別なことを考える。考えすぎると悩みが増えるだけなので、とにかく行動する。それが私からのアドバイスですね。」

小さな幸せが日常の中に

小さな幸せが日常の中に

春山良子さん

農業研修や移住体験施設を活用して候補地探し 「どこかに移住しようか……」 そう切り出したのは充さん。2021年1月、東京に2回目の緊急事態宣言が出されたときのことだ。当時のことを、良子さんはこう振り返る。 「私たちは二人とも東京出身なのですが、私は小さいころから田舎暮らしに興味があって。夫もキャンプなどのアウトドアが趣味で、だんだん自然豊かなところで暮らしたいと考え始めたようです。これまでは東京を離れる理由がなかったのですが、コロナ禍でお店を思うように開けられないのを機に夫婦で話し合い、東京で居酒屋を経営しながら、もう一つの拠点を地方に持とうと動き出したのです」 最初に参加したのは、「農家のおしごとナビ」というサイトで見つけた、県北エリアで行われた国主催の農業研修。4泊5日の研修中に出会った農園のオーナーやスタッフのみなさんは裏表がなく、とてもやさしく接してくれた。県北エリアでは多くの移住者を受け入れているからか、オープンな人が多いところにも惹かれた。 「ただ、雪が降ったときの車の運転が、ちょっと心配でした。そんなとき、研修で知り合ったある年配の方が、『大田原市だったら、雪はそれほど降らないよ』と教えてくれて、移住先の候補に加えたんです」 次に利用したのは、東京・有楽町の「ふるさと回帰支援センター」内にある「とちぎ暮らし・しごと支援センター」だ。そこで、主に県北エリアを候補として考えていると伝えたところ、それぞれの担当窓口を紹介してくれた。なかでも、最初に連絡がついた大田原市に、まずは見学に訪れることに。 このとき滞在したのは、市の南部にある「ゆーゆーキャビン」というログハウスの移住体験施設。ここを拠点に移住コーディネーターに案内してもらいながら、農家や移住者のもとを訪ねて話を聞いたり、空き物件を見学したりして回った。そのなかで訪れた、裏にきれいな川が流れる小さな一軒家がとても素敵で、「こんなところに住んでみたい」と感じたという。その帰りに、近くの小学校に立ち寄ると、校長先生が「どうぞ見学していってください」と案内してくれた。 「児童数40人ぐらいの学校だったのですが、板張りの校舎は明るくきれいで、一人一台パソコンが支給されていました。校長先生は、『うちには不登校の子も発達障害の子もいますが、みんなで支え合いながらやっています』と話されていて、ここならうちの子たちもやっていけそうだと思ったんです」 さらに、2カ月のお試し移住を経て大田原に 4泊5日の滞在を終えて、東京に戻った良子さんは充さんと相談し、大田原市への移住を具体的に考え始めた。見学の際に気に入った小さな一軒家は築年数が古かったこともあり、近くで別の物件を探し、現在のこの一軒家(下写真)と巡り合った。 「ただ、賃貸ではなく売買物件だったので躊躇していたところ、大家さんが『試しに2カ月住んでみて、それで決めてくれたらいいよ』とおっしゃってくれて。2021年7月に私(良子さん)と子どもたち二人で、とりあえず引っ越してきたんです」 この2カ月間が、地域を知るために大いに役立った。 「近所のみんなさんはフレンドリーで、地域のことを教えてくれたり、虫取りが大好きな息子に捕ってきたクワガタをくれたり、本当に親切にしてくれました。そのうえ、家の周りの山々は緑が濃くとてもきれいで、夜には満天の星空が眺められるんです。夫は東京の居酒屋を経営しながらだったので、滞在は1週間ほどでしたが、もう早い段階で『ここに決めよう』と話していました(笑)」 近所の皆さんは地域のことや野菜づくりのことなど、親切に教えてくれる。 子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなる! こうして新たな暮らしのスタートを切った春山さん家族。良子さんと子どもたち二人は大田原に移り住み、充さんは東京で居酒屋を経営しながら、月に10日間ほど大田原に滞在するという二拠点生活を続けている。 大田原に移り住んで一番うれしい変化は、子どもたちが学校に楽しく通うようになったことだ。 「二人とも、見学に訪れたときに校長先生とお会いした小学校に通っているのですが、学校に楽しく通えるようになりました。学校の行事にもちゃんと参加しているので、いろんな思い出ができて良かったなと思っています。何よりもすごく明るくなりましたね!子どもたちが楽しそうだと、こっちも明るくなります」 先生たちの顔が見えることもポイントで、安心して子どもを預けられるという。 「児童数が多すぎるというのもあると思いますが、東京にいた頃は担任の先生以外はほとんど顔も知らない方ばかりでした。それがこっちでは校長先生まで出てきてくれますからね。学校全体でちゃんと子どもを受け入れてくれていると感じます」 良子さん自身も、移住後すぐに家の前にある畑で野菜づくりを始め、最近は中古の耕運機も手に入れた。 「ジャガイモや玉ねぎ、ニンニク、スナップエンドウなど、いっぱい収穫できました。とれたての野菜は本当においしく、東京のスーパーに並んでいる野菜との違いに驚いています。子どもたちも、喜んで食べていますよ」 さらに、良子さんは近所にあるガソリンスタンドで、1日4時間ほどだがアルバイトもしている。 畑で野菜が多く収穫できたときは、自分で袋詰めをして、ガソリンスタンド内の商店で販売している。 「おばあちゃん、おじいちゃんをはじめ、地域の人が買い物に来てくれて、良く世間話をしています。バイトを始めたことで、地域について詳しくなりました」 一方、ご主人の充さんの楽しみは、庭に張ったテントで過ごすこと。ハンモックでくつろいだり、家族みんなでカレーを食べたり、「キャンプ場に行く必要がなくなった」と喜んでいるそうだ。 ハーブの栽培や道の駅での販売にもチャレンジしたい 春山さん家族は、大田原市西部の、周囲に山々が広がる地区に暮らしている。 「大田原市の中心部も見ましたが、街中では東京の暮らしと大きく変わらないのではないかと思い、あえて自然が豊かな地区を選びました。私たちはお店を始めるためでも、おしゃれな田舎ライフを楽しむためでもなく、家族で生活をするために移住先を探していました。それには自然が豊かで、地域の人もあたたかい今の場所が、ぴったりだと感じたんです」 他の移住者のように、「移住先でお店を開いた」、「新たな事業を始めた」というような“大きな変化”はないが、子どもたちが外を元気に走り回っていたり、充さんは庭でキャンプができてうれしそうだったり、毎日食べる野菜がおいしかったり、そんな“小さな幸せ”をたくさん感じるようになった。 それだけではない。東京ではどこへ出かけても人が多く、スーパーなどで騒ぐ子どもたちをつい怒ってしまうことや、些細なことでイライラすることがあったが、そんな小さなストレスも移住してからはなくなった。物理的な広さやゆとりがあると、気持ちにも余裕が生まれるのではないかと話す春山さん。 「子どもをやたらと怒らなくなった」 これも移住して良かったと感じることの一つだという。 「当面は、東京で居酒屋の経営を続けながら、徐々に大田原での生活も築いていきたい。これからは畑でハーブを育てたり、市内の道の駅で野菜を販売したりと、新たなことにもチャレンジしていきたいです」

日常にワクワクを!

日常にワクワクを!

王生雄貴さん

その瞬間にしか味わえない、生きたライブを その日、即興ライブを行うという「Cafeくりの実」(栃木県下野市)を訪ねると、王生さんは他のお客さんと同じようにカウンターに座って、野菜が鮮やかに盛られたカレーを食べているところだった。 「流しでライブをやるときは、事前にお店の雰囲気を感じておかないと、なかなかうまく演奏できないんです。臆病なので(笑)」 そう謙遜する王生さんだが、お客さんの様子を目にしたり、会話を耳にしたりすることで、その場所に合った、その瞬間だけの生きたライブになる。実際のゲリラライブを見させてもらい、そう強く実感した。 以前、「ベリーマッチとちぎ」でも紹介した布作家の倉林真知子さんが手掛けた衣装を身にまとい、バイオリンを奏でながら王生さんが登場すると、店内には笑顔があふれた。 「リクエストのある方はいらっしゃいますか? ぼくの頭のなかで曲が流れれば、そのまま弾くことができます!」と王生さんは、リクエストされた曲を即興で演奏。お客さんも楽しそうにバイオリンを奏でる王生さんにつられて、手拍子がどんどん大きくなっていく。 そしてライブを終えると、お客さんのなかには目に涙を浮かべる女性が。聞けば、リクエストした曲が、1年前に若くして亡くなられた息子さんをイメージした曲で、息子さんのことを思い出したとのこと。「今日、偶然訪れたカフェで素敵な演奏を聴くことができて、本当にうれしかったです」と、その女性は話してくれた。 2年にわたり全国を旅して栃木県へ 現在、王生さんは「Philharmony Wedding(フィルハーモニーウエディング)」というエンターテインメントな空間演出に特化した楽団を運営し、カフェやバー、式場、イベント会場など、あらゆる場所でライブを開催。バイオリンの演奏だけでなく、ジャグリングやタップダンス、バルーンなどのパフォーマーとコラボした演出も手掛け、栃木県を拠点に全国各地でワクワクを届けている。 そんな王生さんが姉とともにバイオリンを習い始めたのは3歳のころ。それからもさまざまな習い事に挑戦したが、高校卒業まで続いたのはバイオリンだけだった。歌うことも好きで、ポップシンガーを目指して19歳で上京後、縁あってレゲエの道へ。バイオリンを奏でながらボーカルも務めるという、独自のポジションを確立。有名ミュージシャンのレコーディングに参加したり、ライブで共演したりと活動の幅を広げていった。 「けれど、憧れていた人たちと一緒に演奏ができるようになると、『失敗したらどうしよう』『嫌われたらどうしよう』と余計なことばかり考えるようになって。純粋に音楽が楽しめなくなってしまったんです」 そこで、24歳で「日本一周流しの旅」へと出かけたのは、最初に述べたとおりだ。王生さんは全国を駆け足で回るのではなく、訪れた街に一定期間暮らすように滞在し、近隣のバーなどで流しのライブをして旅の資金を得て、またヒッチハイクで次の街へ移動するという日々を過ごしていた。 「各地を巡るなかで、全国に一生付き合える友達をつくることが目的でした。そういったつながりが、今後の人生や音楽活動の財産になると思ったんです」 こうして訪れた栃木で、王生さんは奥さんのめぐみさんと出会い、結婚を決意。「流しの旅」を、ここで終えたのだった。 豊かな暮らしと、音楽に没頭できる環境を栃木で実現 「とっておきの場所があるんです」 そう言って王生さんは、近所にある森に囲まれたツリーハウスのような場所へ案内してくれた。高台にあって田んぼが見渡せ、木々の間を抜ける風が心地いい。 「誰がつくったのかわからないのですが、時々おじゃまさせてもらって、ここでバイオリンを弾くと、とてもリラックスできるんです。全国を巡って、それぞれの街にはそれぞれの良さがあることを感じました。そのなかで、栃木ならではの良さといえば、こんなにも自然が豊かなのに、東京へも気軽に行けるところだと思うんです」 さまざまな刺激が得られる東京も魅力的だが、生活するのはゆったりとした田舎がいいと、以前から考えていた王生さんにとって、栃木県はうってつけの場所だった。 自宅に戻ると、めぐみさんが料理に取りかかっていた。この日は、夕方から友達家族を招いてバーベキューを開催。土間のある開放的なリビングにつながる庭で、大勢でバーベキューができるのも、ゆったりとした敷地が確保できる田舎だからこそ。肉と一緒に焼く野菜は、自分たちで育てたものだ。 この家は断熱性や気密性が高く、隣の家ともある程度離れているので、リビングでバイオリンやギターを演奏しても、近所まではほとんど聞こえないという。そのうえ、家の一角には、王生さん専用の「音楽室」も設けられている。 「どんなに大きな音を出しても、外には聞こえません。こうやって作曲や練習に没頭できる環境があるのは、本当にありがたいこと。東京などの都会では、なかなかこういった空間は、確保できないと思うんです」 路上ライブが日常的に行われる、文化を根付かせたい 全国を巡る旅を終えて、変わったこともあるが、変わらなかったこともある。 「それは、自分でいうのもなんですが、ポップな性格です。旅に出る前は、音楽好きの玄人が集う世界のなかで、ポップな自分の性格はコンプレックスでした。けれど、2年間の旅を経てもこのキャラクターは変わらなかった。ならば、それを生かせることを仕事にしようとたどり着いたのが、日常にワクワクを届ける『フィルハーモニーウエディング』の活動だったんです」 現在、王生さんは音楽活動に加えて、別の仕事にも就いている。めぐみさんと結婚して長男が誕生し、就職したばかりのころは、その仕事にやりがいを見いだせず、腐りかけたこともあった。 「ライブで、『日常にワクワクを』と言っているのに、自分がワクワクしていないな……と思って。もう一度、街角やカフェ、バーなどでバイオリンを即興で演奏する“弾き流し”を、県内をメインに毎週のように行っているんです」 そうやって弾き流しの活動を続けることで、ミュージシャンが路上で演奏することを、当たり前と感じてもらえるような文化を根付かせていきたい。多くの人の日常に音楽が調和し、ワクワクがあふれるような世の中にしていきたい。そう願いながら、王生さんは今日もどこかでバイオリンを奏でる。

ふらっと、深い出会いを

ふらっと、深い出会いを

豊田彩乃さん

実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい 商店街に面した大きな窓が白み始めると、シャッターの開く音や、住民どうしが交わす挨拶の声などが聞こえてくる。ここは栃木県那須塩原市の黒磯駅前商店街。地域の人はもちろん、観光の人も行き交う、街の息づかいを身近に感じる場所に、2018年6月、「街音matinee(マチネ)」という名のゲストハウスが誕生した。 もし、街音に泊まったら、朝はいつもより少し早起きをして、7時からやっているという近所の和菓子屋さんやパン屋さんに出かけてみよう。近くには「1986 CAFE SHOZO」をはじめ人気のお店も点在している。少し足を伸ばして温泉につかったり、山登りを楽しんだり、自然に触れるのもいい。ただただ何もせず、街音の畳の上でゴロゴロと本を読む、という1日も贅沢かもしれない。 「まるで実家で過ごすように、ゆったりとくつろいでほしい」。それがオーナーの豊田さんの思いだ。 一方で、現在、豊田さんは那須塩原市の移住定住コーディネーターも務めており、「農業に挑戦したい」「お店を開きたい」などといった、移住を検討する希望者のニーズを聞きながら、一緒に街を巡ったり、人や物件を紹介したり、移住関係の補助金の申請などの手続きをサポートしたりといった仕事も手がけている。街音が、那須塩原を訪れ、この街について知るための〝起点〟になればという思いも持っている。 日本一周と世界各国の旅を経て知った、ローカルの魅力 豊田さんは埼玉県の草加市出身で、東京の大学に通っていた4年生のころ、留学のために1年間休学。資金を貯めようとアルバイトをすることにしたが、幸運にも、がん患者がタスキをつなぎながら日本を一周するというチャリティーイベントの運営スタッフに選ばれ、約半年かけて47都道府県を巡るという貴重な経験をした。 「このとき、日本には美味しいものや美しいもの、やさしい人など、知られていない魅力が山ほどあることを肌で実感しました。海外に留学する際も、いろんな地域を見てみたいと思い、アジアから中東、ヨーロッパ、アメリカまで、各国を巡ることにしたんです」 そんな旅の途中、イスラエルのパレスチナ自治区で滞在したのが、「イブラヒムピースハウス(通称:イブラヒム爺さんの家)」という名の宿だ。 「ゲストハウスの周囲の道路は舗装もされておらず、ちょっと危なっかしい雰囲気なのですが、そこにイブラヒムお爺さんの家があって、お爺さんがいることで、ツーリストたちがいっぱい来るし、地域の人や子どもたちも安心してそこを訪れる。そんな交流の起点となる場所って、素晴らしいなと感じたんです」 こうした世界各地や日本中を巡った経験から、地域に入り込んで、人と人の距離が近い関係の中で、いろいろなことを学びたいと考えるようになった豊田さん。そこで興味を持ったのが、地域おこし協力隊だ。「協力隊であれば、卒論を書きながらもすぐに地域に入っていろんな経験を積むことができるのでは」と考え、新潟や山形など、各地の自治体の情報を集めるなかで、選んだのが那須塩原市だった。 「那須塩原は、生活の場であると同時に、観光地でもあって、いろんな人の暮らしが交わる面白い場所だと感じました。また、現在、駅前で建設が進められている『まちなか交流センター』や『駅前図書館』の計画なども、当時から住民の皆さんが積極的にかかわって進められており、ますます地域が面白くなりそうだと実感したんです」 人と人が出会う、起点となる場所をつくりたい こうして那須塩原市の地域おこし協力隊の第一号として採用された豊田さんは、商工観光課の配属となり、3年間、国内外から観光客を呼び込むための様々な活動に取り組んだ。なかでも、企画を担当した観光ツアーのアイデアは、トラベルブロガーが日本の知られざる地域の魅力を探り紹介していくという「We Love Japan Tour2015」のHidden Beauty大賞で、準優勝にも輝いた。 また、黒磯駅前で年2回開催されているキャンドルナイトをはじめ、地域の活動にも積極的に参加。自分自身でも、地元農家とコラボしたさつまいもの収穫体験イベントや、ワイン用ぶどうの収穫体験、篠竹のかごづくり体験など、さまざまなイベントを企画している。 「今では、街じゅうに知り合いが増えました。多くの人と積極的にかかわるなかで、新しい発見があることを、身をもって体感し、そんな人と人が出会う、きっかけとなる場所をつくりたいという思いがますます強くなりました」 その場所が、まさに「街音 matinee」だ。黒磯駅前商店街でキャンドルナイトを主催する、黒磯駅前活性化委員会会長の瀧澤さん(上写真。一緒にバンドを組んで、キャンドルナイトで演奏している)の紹介で、もと紳士服店だったこの物件と出会ったのが2016年。 以来、豊田さんは準備段階からいろいろな人に関わってほしいと、2017年10月には栃木県による「はじまりのローカルコンパスツアー」を受け入れ、建物が持つ味わい深い良さはなるべく生かしながら、東京などの都市部から訪れた参加者と一緒に、壁塗りなどの改装を行った(下写真の布団ボックスも、いろいろな人に手伝ってもらいながらDIYで製作したものだ)。そのツアーをきっかけに、参加者と豊田さんは意気投合。同年代の建築士志望のメンバーや、篠工芸作家などと、夢を持つものどうしがお互いに応援しあう「あやとり」というグループも結成している。 「街音に泊まって、那須塩原の街をゆっくり巡ってもらえたらもちろん嬉しいですが、そうでなくても、いろんなイベントにちょっと顔を出していただくだけでもいい。そうやってさまざまな人が関わり、つながっていくなかで、この場所、この街がだんだんと色々な人にとっての〝大切な第二の拠点〟に育っていったら嬉しいですね」 そう話す豊田さん自身も、この街音を通じてたくさんの人と巡り合い、つながることで、どんどん那須塩原の街が好きになっている。

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

就職と同時に鹿沼へ。決め手は人の温かさ

小出拓也さん

「この街は面白そう!」。それが鹿沼の第一印象 2016年2月、小出さんは初めて鹿沼を訪れた。きっかけは、就職活動。大学で都市計画を専攻していた小出さんは住宅業界に興味を持ち、東京の就職セミナーで、鹿沼の住宅会社「カクニシビルダー」の担当者と出会う。 「そのときは、栃木の企業に就職するとは思ってもみませんでした。でも、これまで選択肢になかったことだからこそ、新たな気づきがあるかもしれない。説明会だけでも受けてみようと、後日、鹿沼へ行ってみることにしたんです」 こうして説明会に参加した後、小出さんは駅まで鹿沼の街を歩きながら帰った。そのとき直感的に、「この街は面白そうだな」と感じたという。まず惹かれたのは、立派な石蔵が残る街並みや、身近に広がる豊かな自然、温泉だった。中学の頃から、よく電車に乗って一人旅に出かけていた小出さんにとって、自然や温泉は東京から遠く離れたところにあるものというイメージがあった。 「でも、鹿沼に住めば、朝、出社前に山や川へ出かけたり、帰りに温泉に立ち寄ったりできる。ここでの暮らしもアリかもしれないなと、東京へ帰る電車の中で思ったんです」 その後の面談や最終面接などで、代表や人事担当者が親身に対応してくれたことが決め手となり、小出さんはカクニシビルダーへの就職を決意。2016年5月に無事に内定が出て、鹿沼への移住が決まった。 鹿沼や全国に新たな人脈が広がった、移住前の10カ月間 「内定をもらってから実際に鹿沼へ引っ越し、働き始めるまでの約10カ月間がとても重要で、とても充実した時間でした」 そう振り返る小出さんは、この時期に毎月1、2回は鹿沼を訪れ、お祭りなどの街のイベントや、鹿沼の街を愛する人たちが地元ネタやサブカルチャーをテーマにした授業を行う「カヌマ大学」などに積極的に参加。これにより、一気に鹿沼での人脈が広がっていった。 「すでに街にたくさんの知人や友人ができた状態で引っ越せたので、みなさんに支えていただきながら、鹿沼での暮らしを始めることができました。いま思えば、就職してからでは忙しく、なかなか新たな人脈をつくる時間やエネルギーを持てなかったかもしれません」(上写真:常陸屋呉服店 四代目の冨山 亮さんも、小出さんの鹿沼での暮らしや活動を応援してくれている) 同時にこの10カ月の間に、小出さんはアルバイトでお金を貯めては、京都の綾部市や宮津市、長野の諏訪市など、全国の中でもUIターンが盛んな地域へと足を運んだ。 「全国各地の魅力的な方々とつながることができたうえ、いわゆる〝半農半X〟のライフスタイルなど、鹿沼で始まる暮らしに生かせるような、新たなヒントをたくさん得ることができました」 それだけではない。小出さんは、地元の東京・日暮里の祭りなどにも神輿の担ぎ手として参加。ここでも人脈が広がり、もともと好きだった地元がさらに自慢したい場所に。地元を離れると決意したことが、自分が生まれ育った地域の魅力を再発見することにもつながった。 家族のように接してくれる人が、街のいたるところに 移住前に鹿沼を訪れた際によく泊まっていたのが、本サイトでも紹介したゲストハウス「CICACU(シカク)」。その女将・辻井まゆ子さん(上写真)も、鹿沼の街や人に惹かれて京都から移住した一人だ。 「2017年3月に大学を卒業して、鹿沼で空き家を借りて暮らし始めてからは、辻井さんが『ごはんあるで!』と、CICACUに皆さんが集まって夜ごはんを食べているときなどに、よく誘ってくれました」 そうやって、「うちにご飯食べにおいで」と誘ってくれるのは、辻井さんだけではなかった。 「今回、この取材のお話をいただいてから、『鹿沼の良さってなんだろう?』ってずっと考えていたのですが、一番自慢したいことは、やっぱり〝街の人の温かさ〟。鹿沼に移り住んでから、お兄さんみたいな人、お姉さんみたいな人、両親みたいな人、祖父母のような人など、家族のように接してくださる方々とのつながりが、たくさん広がりました」 そんな鹿沼の人たちが集まる〝街の居間〟のような場所がCICACUだと、小出さんは言う。毎晩のようにCICACUに遊びに来ていた小出さんは、「ここに住めたら楽しいだろうな」と考え、2カ月ほど前からCICACUの1室に長期滞在という形で宿泊している。 「女将の辻井さんの人柄もあると思いますが、CICACUの共同スペースである居間やダイニング(上写真)には旅行者や街の人が集い、自然と交流が生まれています。移住前は、地域で活動していくためのヒントを得るためにいろいろな場所へ出向いていたのですが、いまはCICACUにいることで、いろいろな人がここへ来て、さまざまな刺激を与えてくれます。多くのことを吸収すべき20代の期間をCICACUで過ごせるのは、とてもありがたいことだなと感じています」 木工のまち、職人のまち鹿沼ならではの新たな仕事を 鹿沼で多くの人とつながり、仕事を通じて現代の家づくりを学ぶなかで(上写真:カクニシビルダーでの仕事風景)、今後この街で挑戦したいことが見えてきた。その一つが、家を解体する際に廃棄されてしまう建材や建具、家具などの有効活用だ。 「古くから木工のまち、職人のまちとして発展してきた鹿沼には、優秀な職人さんが手がけた素晴らしい建具や家具が家の中に残されています。それを捨ててしまうのは、もったいない。新たな価値を付けて欲しい人のもとへと手渡す、そんな役割を担っていけたらと考えています」 さらに、全国各地で取り組みが始まっている新たな林業のやり方についても勉強し、鹿沼で実践していきたい。休日には、鹿沼を案内するツアーも手がけたい。そうやってゆくゆくは何足ものわらじを履きながら、生計を立てていくことが小出さんの目標だ。 「鹿沼をはじめ栃木県では、東京とつながりながら、ここでしかできないことにチャレンジできます。東京で生まれ育ち、鹿沼に移り住んだ自分だからこそできることを一つひとつ実現していくことが、結果的に鹿沼の街の魅力を高めることにつながっていったら嬉しいですね」

SUPPORT移住支援を知る

最大100万円+αの移住支援金をはじめ、さまざまな支援制度・補助金をご用意しています。
スムーズにとちぎ暮らしをスタートできるよう、また、移住後に後悔しないよう、
最新の情報をこまめにチェックするようにしましょう!

CONTACT移住について相談する

ちょっと話を聞いてみたいだけの人も、
本格的に移住を相談したい人も、どんな相談でもOKです!
お気軽にご相談ください!